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皇居で行われた即位20年を祝う祭典でちょうちんを掲げられる天皇皇后両陛下(2009年11月12日撮影)〔AFPBB News〕
天皇誕生日の戦犯訴追・処刑と日本国憲法 戦争の全責任は私にあると言った陛下に考えを変えたマッカーサー
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47761
2016.9.2 伊東 乾 JBpress
日本国憲法が「押しつけ憲法」といった議論は、時折マスメディアで触れられることがあります。しかし、それがどういう経緯で「押しつけられ」たか、かつての周知の事実も最近はあまりメディアの表層には記されていない気がします。
1946年2月、終戦からようやく半年というタイミングでGHQ総司令官のダグラス・マッカーサーは現在の憲法の原案に相当するメモを作りました。
■天皇の命と引き換え
これに基づいて占領軍のコートニー・ホイットニー准将が日本政府に原案を示した際、本案をのまなければ「天皇の安全を保証できない」という留保がついたという経緯が伝えられます。
実際にどのような発言があったのかには諸説あるようですが、戦勝国のうちソ連やオーストラリア、中華民国は天皇の戦争責任を強く追及し、その一部に昭和天皇の死刑、天皇制廃止の主張があったのは間違いありません。
結果的にGHQ〜マッカーサーの判断で天皇制は保持され、昭和天皇が極東軍事裁判の被告人席に立たせられることはありませんでした。
逆に言えば、この憲法がなければ、1945−46年で、日本の天皇制は終わっていた可能性がある、シリアスな皇室関係者の中には明確にこの認識がありました。
しばしば指摘されるのは旧ロシア帝国、そして旧ドイツ帝国のケースとの参照です。
ロシアでは1917年7月17日、ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライU世(1868-1917)一家が虐殺されたあと、10月25日いわゆる「10月革命」ボリシェヴィキ武力蜂起からロシア内戦が広がり、最終的に1922年のソビエト政権樹立に至った経緯がありました。
またこれに続く1918年11月、第1次世界大戦末期の混乱と国民、兵士の不満からキール軍港の反乱が発生、ドイツの11月革命が雪崩を起こし、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世(1859-1941)はオランダに亡命、ドイツを追放され、翌1919年ロシアに続く共産主義革命が企図されます(スパルタクス団蜂起)。
しかし、反革命のドイツ義勇軍によって鎮圧、指導者のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは虐殺されます。
この「反革命ドイツ義勇軍」が後にドイツ国家社会主義労働者党NSDSPの突撃隊SAや、さらに分かれて親衛隊SSにつながり、ナチスのホロコースト政策などに直結していった経緯がありました。
民衆暴動による旧支配者の虐殺/処刑/あるいは政治体制の変更による国外追放などの素地は、左傾(当時はソ連の盛期で赤色革命の現実的な可能性が危惧されていました)も右傾(軍部暴走の日本を降伏させた直後だったわけですから)も高いリスクがあった。
占領軍が日本を高い治安状態に置いたままコントロールするにあたって、質を変えた天皇制を温存し、敗戦後の内外秩序回復にあたって天皇自身に「象徴的行動」をとらせる方策を取った背景には、こうした経緯があったと思われます。
実際、日本軍が敗退した後の中国では、マッカーサー草案の提出された1946年からソ連に後援された人民解放軍が勢力を得て、国共内戦が再発、朝鮮半島でも米ソ対立を背景に1948年8月15日に韓国が建国、9月9日に北朝鮮が作られ、1949年10月1日に中華人民共和国の設立を宣言、1950年朝鮮戦争突入以降の混乱はここに記すまでもないでしょう。
ちなみに全くの余談ですが、私は中学1〜2年次、キール軍港の反乱やスパルタクス団蜂起〜ナチス政権奪取に至る近代ドイツ史に熱中した時期があり(1年がかりで社会科のリポートを書いたのですが)、18歳以降ドイツとの行き来も30余年になりますが「カール・リープクネヒト」という固有名詞を自分の原稿に記すのは今日が初めてです。
ベルリンのウンタ―・デン・リンデン大通りはそのまま東側に進むと「カール・リープクネヒト通り」と名を変え、今でもしばしば通る馴染みの固有名詞でもある。うまく言えないですが13歳の思春期から尾を引いているものは自分の内側に深く根を下ろしているものだと実感しながら本稿を書いています。
■1946年11月3日
昭和20年8月15日の敗戦直後、必ずしも憲法問題は占領軍第1の課題とは見なされてはいなかった。それが浮上するのは、米ソ対立などの国際パワーバランスの動きや、戦争責任の追及が始まる過程の中でのことであったと思われます。
日本を占領した連合軍最高司令官マッカーサーは9月27日、昭和天皇と会見します。マッカーサーは天皇が命乞いに来るものと思っており、米国大使館の入り口では副官2人が出迎えただけだったとも伝えられます。
この会見で天皇は、このたびの戦争の全責任は自分が負う、と明言、マッカーサーにショックを与えました。
各国の歴史を見ても、このような敗戦国王をマッカーサーは知らなかった。私たちは日本史を振り返るとき、こうした敗軍の将を多々知るわけで、この潔さは「日本的」な特質と言ってよいかもしれません。
「自分はどうなっても構わない。戦争の全責任は自分(ひとり)が負う」
予想を超えた昭和天皇の言葉に、マッカーサーは完全に態度を一変させ、その後の占領政策や極東軍事裁判の進行に決定的な変化が生じます。
ソ連やオーストラリア、中国以前にまず米国本国が戦争収拾の当然の策として天皇の処刑を念頭に置いていたわけですが、マッカーサーは先頭に立って天皇の助命に奔走することになります。
さて、ここから先は十分な資料もなく、あるいは公開もされておらず、想像でものを書きますが、65歳の老将マッカーサーを訪ねた44歳の昭和天皇は、その前夜など、あるいは米国大使館から戻った後、11歳の息子に何を語ったか、語らなかったか。
すべては歴史の霧の中かもしれませんが、自らの死を覚悟し、また長く続いた天皇制を自分の代で終えなければならない覚悟をもって、何かを、本来は自分の後を継いで皇位に就くべき多感な年齢の明仁皇太子に伝えた可能性はあるでしょう。
人間は年齢を経るごとに1年の感じ方が短くなっていくと言います。逆に言えば子供の頃の1年は大変に長く充実した体験を与えるでしょう。
1945年8月15日、満11歳だった皇太子は現人神の子から敗戦国元首の息子という境遇に置かれ、上に記した「覚悟のマッカーサー会見」の時期を過ごし、12歳になったばかりの少年として「憲法論議」を耳にし、13歳になる直前の1946年11月3日、現在の日本国憲法が公布、13歳の初夏にあたる1947年5月3日施行を迎えました。
誰も「象徴天皇」なるものが何なのか、知りません。占領軍だって分かっていてそういう言葉を使ったわけではない。「それは突然、天から降ってきたみたいなものだった」とは、まさにこの時期、GHQと交渉して新憲法下での刑事訴訟法を執筆していた團藤重光教授の表現です。
■陽明学の原典を胸に
ただ、これによって、日本は国を永らえることが出来、二度とあの愚かしい軍部の暴走を繰り返すことはなくなるだろう、そういう強い願いと決意をもって、譲るところは譲り、守るべきところは胆力をもって占領軍側担当者を説得し、当時30代前半だった團藤重光東京大学助教授は単身、第一生命ビルなどGHQ施設に日参して、戦後の新しい法秩序と文化国家の再建に取り組まれました。
このとき團藤先生が心の支えにしていたのは大鹽中斎「洗心洞箚記」佐藤一斎「言志四録」などの「陽明学」原典であったことは必ずしも広く知られず、また重視もされていないように思います。
大鹽「洗心洞箚記」は吉田松陰が高く評価し、松下村塾生たちが座右の書としたもの、また佐藤「言志四録」は西郷隆盛の愛読書で、つまるところ明治維新を指導した当時の若い志士たちが手本としたテキストです。
維新の年、年長の西郷でも39歳、若い山形有朋は29歳、伊藤博文はいまだ26歳、そういう青年たちが、決意をもって維新を断行したのだ、32歳の自分も、今ここで日本を立て直す力にならなければ・・・。
正味そのように考えて、團藤助教授はGHQ交渉を「陽明学」で乗り切ることを決意しました。
今、上に記した「洗心洞箚記」の大鹽中斎は大阪町奉行所の与力でもあった陽明学者で、知行合一の現実に実践、天保飢饉で餓死者があふれる中、食料や財貨を囲い込む既得権益側に業を煮やしてついに武力蜂起した「大塩平八郎の乱」の大塩その人にほかなりません。
吉田松陰や門下の久坂玄瑞、高杉晋作は、幕府が禁書とした大塩の「洗心洞箚記」を心の支えに、陽明学が是とする「革命」として維新を断行、若い命を散らしていきました。
また佐藤「言志四録」を愛読した西郷は、維新後「征韓論」に敗れて下野、最終的に西南戦争で48年の生涯を自刃で閉じますが、念頭にあったのは天命を抱いて「革命」を断行することにあるという一念であった・・・。
成否はともかく、團藤先生はそのようにお考えになってGHQ交渉に臨まれた。
世間ではフランス革命とか辛亥革命、ロシア革命といった言葉が流布しているけれど、東洋での革命、命を革(あらた)めるという概念は王陽明〔1472−1529〕にも見るようにもっと深いし、東洋なりのあり方がある。実際、松陰も高杉も西郷も幕末の志士たちはそのように信念をもって維新をなした。
今、占領軍がやって来て、新しい日本の制度を作ろうというとき、この交渉もまた、軍事や武力によるのではない、しかし新しい法秩序を作り出す、1つの「革命」にほかならない・・・。
■ほぼ1人で書き上げた刑事訴訟法体系
30代初めらしい若さも含め、名実ともにこの確信をもって團藤助教授が「厳密司法」と呼ばれる戦後日本の刑事訴訟体系を、ほぼ1人で日英語で書き上げた経緯は、もっと知られてよいと思いますし、少なくとも法の素人である私はこれを伝えるように直接申し使っているので、ことあるごとに強調するようにしています。
團藤先生が苦労の末に新しい刑事訴訟法を完成、GHQもこれを受け入れて成立するのは1948年7月10日のことでした。
まさにこの間並行して、1946年5月3日から48年11月12日まで、連合国が準備した一審制の法廷で第2次世界大戦の戦争責任者を裁いたのが極東軍事裁判にほかなりません。
日付けを見てお気づきになる方があるでしょう。この1年後、つまり極東軍事裁判開廷からまる365日経った5月3日、日本国憲法が施行されている。
実は起訴状の提出は1946年4月29日、昭和天皇の誕生日に行われています。
ここで天皇は極東軍事裁判に起訴されることなく、45歳以降の新しい人生を、国際的なパワーバランスの中で新たに託された・・・。この日の昭和天皇の心境は、いかばかりのものだったでしょう?
開廷1年後の5月3日に日本国憲法が施行、一報で法廷が戦争責任を処断するとともに、新しい秩序を建設するというGHQの明確な方針のもと「象徴天皇制」は戦争放棄や基本的人権尊重などの大原則と共に戦後に新しい日本の大黒柱の位置に据えられた。
そして1948年11月4日から12日まで、まる9日をかけて極東軍事裁判の判決が言い渡されます。
この日付けを見ても明らかでしょう。まる2年前の11月3日日本国憲法が公布された、その2年目の報道が広く国民に行き渡った直後から、まるまる1週間以上をかけて、一つひとつの判決が、法廷内という以上に日本国全体に報道周知されていった。
そういう占領軍のメディア・プロパガンダの政治の上に、これらのことが成り立っているわけです。
9日かかって言い渡された判決では、起訴された28人のうち死去した永田修身と松岡洋右の2人と、精神障害を認められ訴追から外された大川周明を除く25人の刑が確定、東條英樹以下7人の被告に死刑判決が下されました。
■天皇誕生日と東京裁判
そして結審後51日目に当たる1948年12月23日に日付けが変わった直後から、巣鴨プリズン、現在の池袋サンシャイン・シティでA級戦犯の絞首刑が執行されます。刑場のあったエリアはビル建設が避けられ、現在は東池袋中央公園となって平和慰霊碑が立てられています。
この1948年12月23日、15歳の誕生日を迎えたのが少年、明仁皇太子にほかなりません。昭和21年、父天皇の誕生日に訴追を始め、昭和23年皇太子誕生日、現在の天皇誕生日の晨朝、A級戦犯の処刑が執行、同日の新聞朝刊にこれらが共に報じられ、敗戦国民であった日本人全体に知らしめられたわけです。
このときの、15歳の明仁少年の心中は、いったいどのようなものであったのでしょう?
その同じ人が68年を経て82歳の8月8日、自ら筆を執り、自らカメラに向かって全国民に再び語りかけたのが、先日の天皇放送にほかなりません。
心ある方には、ここまで読み進めて下さったところで、もう一度上のリンクで天皇放送の一言一句を読み直していただければと思います。
実際、誕生日のみならず、明仁天皇の中でこの問題が終わるということは一切なかったと思われますし、今後もないでしょう。ご自身がお書きの「重病などによりその機能を果たし得なくなった場合」などがない限り・・・。
しかし、それは、人間の加齢と老化という現実の前に、いつか必ずやって来ることでもある。それをどのように考え、また歴史をどう捉え、未来をいかに築いていけばよいか・・・。
この問いに、皇太子時代は東宮職参与として、また即位後は宮内庁参与として国のもといである法治の観点から、縦横のアドバイスを送り、相談に乗り続けて来られたのが「陽明学」に立脚する無血革命として戦後の新秩序確立に身体を張られた團藤重光教授であったわけです。
「私の天皇実践」をどのように考えていけばよいか・・・という皇太子・天皇の本質的な問い、ないし悩みに、團藤教授はどのように答えていかれたか。
そこに前回触れた「目的的行為論」の本質が深く関連してきます。続稿で考えたいと思います。
(つづく)
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