http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/658.html
Tweet |
北沢俊美元防衛相が語る「小沢一郎という政治家の限界知った」悔いなき40年(産経新聞):天下国家を動かすには器が小さすぎる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160730-00000505-san-pol&pos=2
先の参院選(長野選挙区)に出馬せず引退を決断した民進党の北沢俊美元防衛相(78)=党県連代表=は25日、参院議員の任期を迎え、名実ともに約40年にわたった議員生活に幕を降ろした。静かにバッジを置いた同党重鎮が、激動の政治家人生を振り返り、いまの心境を語った。(長野支局長 高木桂一)
40年間の政治家人生、とても充実していた。野に下り、政治と国のありようを深く洞察できた。民主党で政権交代を成し遂げ、国の礎である防衛相も経験させてもらった。政治家として大きな達成感がある。多くの県民に支えてもらい、幸せだった。悔いはない。
■「教育県」再興に情熱
《県会議員5期目の途中で国政に転じ、参院議員を4期務めた》
県議だった父親が志半ばで急逝したことを受け、県議を目指した。しかし当時は政治家として何をするかというより、同志の皆さんの無念を晴らしたいという思いが強かった。志を立てるということに欠けていたかもしれない。地方政治では「情」の部分が大きいからね。父親は無所属だったが、私は地域に貢献する最良の手段として自民党でやりたかった。そんな思いで同党公認で県議選に出た。
県議時代に「教育県」と言われる長野県が全国の生徒の学力調査で沖縄県に次いで最下位から2番目になった。衝撃だった。自民党県議団の政調会長として教育県の再興に情熱をかけ、なし得た。誰もが一枚看板を否定されると抵抗し、県教育委員会や県も学力低下の事実を認めようとしない。そんな厚い壁をぶち破ったことは政治家らしい仕事だったと自負している。
《参院議員となってまもなく自民党を離党し、政治改革に取り組んだ》
羽田孜さん、小沢一郎さんらと一緒に経世会(竹下派)を割って出るときは何の迷いもなかったが、自民党離党が現実の問題になったときには私自身迷った。
しかし散々議論していくなかで、政権交代可能な二大政党の形をつくれば、自民党の金権政治から脱却できるとの思いに至った。戦後から続く一党支配体制が果たして民主主義政治なのかという疑問もあった。腹を決めた以上、貫徹するのが私の信条。自民党に帰ろうとは一切思わなかった。
羽田さんとの出会いは、私が県議選出馬に向けて国会の中を挨拶回りしていたとき。羽田さんも父親の跡を継いで衆院選に出るということで、それならと一緒に回った。政治家を志した時期は同じだった。
羽田さんの第一印象は非常に親しみのある人だった。じっくり付き合っていくうちに、とてつもなく懐が深い人だと確信した。県選出の自民党国会議員の中でも異色だった。以後、尊敬以外の何ものもない。
《「非自民」連立の細川護煕政権と羽田政権は1年と持たず、自民党に再び政権を明け渡した》
細川政権の発足当時、本格的な政権交代ではないという懐疑心があった。その後、下野して野党がバラバラになった経緯をずっと見ていて、真の政権交代を実現させるのはなかなか厳しいと痛感した。
小沢一郎という政治家の限界も知った。細川さんを引き継いだ羽田首相は64日間で退陣したが、小沢さんは天下国家を動かすには器が小さすぎると感じた。羽田さんは衆院を解散したかったが、小沢さんが力づくで止めた。内閣総辞職より総選挙を選択していたら政権を維持できる余地はあった。羽田さんの大きな包容力があだになったな。
羽田さんに「小沢さんとの縁を絶ち切る勇気が必要だ。独自の道を歩きましょう」と進言したら「そうだよな」と。だが羽田さんは腹の中で小沢さんを許していた。一枚も二枚も上だった。政界には永遠の友もいないが、永遠の敵もいない。その頃から国家、国民のために割り切って政治をやることに徹した。
■利用された民主党政権
《後に政権交代を果たした民主党政権も3年余りで瓦解した》
民主党は、消費増税で財政再建をしたい財務省に上手に使われた。青臭い原則論を振りかざす民主党はだましやすかったのだろう。役人嫌いの菅直人さんでさえ首相になって消費増税に言及して参院選で大敗した。後継の野田佳彦さんも財務省に上手に使われた。民主党政権が倒れたのは官僚と対立したからではなく、財務省に利用されたからだ。それで参院選に負け、衆院選にも負けた。
自民党がさんざん国の借金を増やしたのに、こっちが責任を背負って大勝負に出ることはなかった。歯を食いしばって政権を維持しなければいけなかったのに、本当に残念だった。
民主党は、政権運営の「覚悟」ができる前に政権をとってしまった。少し早かった。政権を見限っていた外務省をはじめとする官僚たちにサボタージュ(怠業)をされても気付いていなかった。
《防衛相を約2年間務め、沖縄県の米軍普天間飛行場の辺野古移設問題などにあたった》
辺野古問題は半年引き延ばして結論を出すというときに、首相執務室で関係5閣僚による最後の協議をやった。だが鳩山由紀夫さんが結論が出ないうちに総理日程を理由に席を立とうとした。私は机を叩いて怒った。そしてことなきを得て、辺野古移設案をまとめた。
次に本腰を入れたのは「防衛計画の大綱」(防衛大綱)策定だった。それまでの基盤的防衛構想に代わって南西方面に重点配置し動的防衛力を入れた。同盟国の米国も大いに共鳴した。民主党が自民党から政権を引き継いで防衛大綱を作った意義は、日本の政治勢力の80%以上が関わった画期的なものだ。極めて安定した政治勢力が同意した大綱で、米側にも今後の日本の防衛に大きなプラスになるとしっかり伝えた。
私は、部隊視察に最大限時間を割いた。自衛隊の自己完結に対する責任感や組織の強靱さ、隊員が上司の命令にどんなことがあっても順守して一生懸命やっている姿を見て、隊員がだんだんかわいくなっていった。隊員に愛情をもって接しなければ自衛隊が能力を発揮できないと思った。
《東日本大震災で防衛省・自衛隊は過去に例のない事態に次々直面し、その指揮をとった》
「自衛隊10万人態勢」で初動対応が非常に円滑にできた。2万人近い人命を救助できた。阪神大震災のときの反省もあった。米軍との連携も大変レベルが高かった。普段の共同訓練の賜(たまもの)だった。安保改定から半世紀の間に強固になった同盟関係の証しだ。隊員が黙々と訓練してきた成果を発揮できた。自衛隊は「国民の最後の砦(とりで)」だからこそ国民に好感を持たれた。
一方で、陸上自衛隊のヘリによる東京電力福島第1原発への放水は、隊員を犠牲にする可能性が高かったため、大変かつ、つらい決断だった。米国から犠牲的オペレーションが必要だという話があらゆるルートから入ってきていた。国難に際して実行できるのは自衛隊しかない。敢然としてやらなければならなかった。
■良き後継者を発掘
《政治家としてのバトンは元TBSキャスターの杉尾秀哉氏に託した》
私は歌人・与謝野鉄幹の『人を恋する歌』が好きで、高校時代からよく唄っていた。詞に「六分の侠(きょう)氣(き)四分の熱 恋の命をたづぬれば 名を惜むかな男ゆえ 友のなさけをたづぬれば 義のあるところ火をも踏む」とある。40年間、そういう心意気みたいなところは貫けたかな。
自分で自分をほめたいのは、良き後継者を発掘し、一つに減った選挙区の議席を守り抜いたこと。ひそかに自負しているのは、後継を世襲にしなかったこと。世襲は究極の利権だよ。
信州という大自然のなかで生まれ育って国政の舞台で働き、またこの大自然のもとに帰ってきた。とても爽やかな気持ちだ。高野辰之さんが作詞した童謡『ふるさと』に「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」とあるが、今はまさにその心境だね。
故郷があるから自分がある。折々に母や父を思い、故郷を思うことが、政治活動を続けていくうえで非常に大切だった。杉尾さんにもそういう気持ちでやってもらいたい。
■きたざわ・としみ 昭和13年、長野市生まれ。早大法学部卒、50年に自民党公認で県議選初当選。連続5期当選後、平成4年の参院選長野選挙区で初当選。羽田孜元首相とともに「政治改革」を掲げて自民党を離党し新生党、新進党、民主党結成に参加。民主党政権の初代防衛相を務めた。参院4期で引退を決断した。座右の銘は「梵我一如」。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK210掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。