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フィリピン担当の第14軍の司令官だった田中静壱は生長の家の信者、彼の副官は創価学会顧問に
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2016.07.26 11:52:03 櫻井ジャーナル
安倍晋三政権を支えている「日本会議」は1997年5月、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合されて誕生した。そのうち「日本を守る会」は1973年6月に神社本庁と生長の家などが伊勢神宮で開いた懇談会を母体にして創設されている。現在、「日本会議」の事務局的な役割を果たしているという「日本青年協議会」の多くのメンバーは「生長の家」の創始者である谷口雅春を信奉している人びとだという。
世間に流れている経歴を見ると、この谷口は1893年11月に兵庫県神戸市で誕生、早稲田大学文学部を中退して大本教の専従活動家になっている。大本教は1921年と35年に不敬罪で弾圧を受けているが、谷口は22年に教団から脱退、30年3月に「生長の家」誌を自費出版、その発行日が立教記念日だとされている。神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教、心理学、哲学などを融合させたという「生長の家」の誕生だ。
谷口が所属していた大本教は出口なおが開祖で、娘婿の出口王仁三郎が教団を発展させた。第1次弾圧の公判中に出獄して中国東北部へわたった王仁三郎は張作霖の保護下、大本ラマ教を創始、1924年から中国で紅卍字会と手を組んだようだ。紅卍字会は1922年に設立された宗教団体で、儒教、仏教、道教、キリスト教、イスラムの5教は一元であると主張している。この主張が谷口に影響を与えた可能性もあるだろう。
「生長の家」が設立された13年後、ひとりの軍人が信者になったと言われている。第14軍司令官だった田中静壱だ。第14軍はフィリピン方面を担当、1944年7月に第14方面軍に改編された。
第2次世界大戦でドイツがヨーロッパ各国の中央銀行などから金塊を盗み、戦後、それがアメリカの支配層へ流れたことが知られている。いわゆる「ナチ・ゴールド」だ。
日本軍は1937年から中国で財宝の略奪を組織的に始めたが、中国はヨーロッパと違って財宝は個人が管理、そこで官庁や銀行だけでなく、富裕な家に押し入って金や宝石などを盗んだという。
その盗んだ財宝は一旦、フィリピンに集められ、金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたが、その途中に戦局の悪化でフィリピンから運び出すことが困難になり、相当部分が山の中に隠されることになったという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)
隠匿工作を実行したのは第14軍/第14方面軍で、司令官は1942年8月から43年5月までが田中静壱、43年5月から44年9月までが黒田重徳、そして最後が山下奉文だ。フィリピンに隠された財宝は「山下兵団の宝物」と呼ばれることがあるが、山下が赴任してきたときは工作の終盤。実際は田中や黒田の時代で、指揮していたのは秩父宮雍仁、その補佐役は竹田宮恒徳だったとされている。(前掲書)
「真相」誌1953円11月号によると、略奪したダイヤモンドの大半を1943年3月にふたりの将校が日本へ持ち帰ったという。そのひとりが田中静壱の副官になる塚本清(通称、塚本素山)少佐だ。「生長の家」の信者だった田中は1945年8月24日に自殺、塚本は敗戦後に「実業家」として名をなし、1961年には創価学会の顧問に就任している。
戦後、もうひとりの将校が持ち帰ったダイヤモンドは千葉銀行へ運ばれる。同行の頭取は古荘四郎彦。この人物の兄、古荘幹郎は陸軍大将で、陸軍次官を務めたこともある。このダイヤモンドは1945年3月にどこかへ運び出された。その行き先は不明だが、熱海に本部を置いていた某教団だとする説がある。
兜町の古老らに聞くと、その後、千葉銀行は情報や相場の関係者が出入りするようになり、児玉誉士夫の側近と言われる吉田彦太郎など怪しげな人物の巣窟のような存在になっていたという。
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