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「弱者の異議申し立て」は世界的潮流、日本の選挙もその中にある
http://diamond.jp/articles/-/93551
2016年6月23日 山田厚史の「世界かわら版 ダイヤモンド・オンライン
「舛添祭り」から我々は何を学んだのか。知事と思えないセコさ、政権与党の無責任、水に落ちた犬なら叩ける人たち…。
政治家やメディアを嘲笑しても、何も変わらない。ここに描かれたのは、日本の自画像である。
有権者は客席から芝居を見ている。関心は次の都知事選に誰が出てくるか。代表を送り出そうという「当事者」ではなく、品定めする「傍観者」の態度だ。
眼を海外に向ければ、政治は激動期に入った。米国ではトランプやサンダースが現れ「権威者の統治」への反乱が起きている。欧州は植民地支配の古傷が疼き、統合が揺らぐ。アジアでは、香港の若者が民主化に立ち上がり、台湾も学生が決起し政治に躍り出た。韓国では若者が政治のイニシアティブを握り、リベラルなソウル市長を支える。
若者が前面に立つ「異議申し立て」が世界の潮流になっている。日本だけが無縁ではありえないだろう。時差や現れ方に違いがあっても、躍動は伝播する。政治後進国ニッポンの有権者も、無残な政治を眼前に見せられ、黙っているだろうか。
傍観者を当事者に変えるのも政治だ。都知事選挙も参議院選挙も世界史の中にある。
■怒れる若者たちが政治を変える
多数が無関心でも先端部分は時代を映す
日本で変化を実感させる現場が二つある。沖縄と国会前だ。
19日、米兵による女性殺人事件に抗議する県民大会が那覇で開かれた。主催者発表で6万5000人。オール沖縄を目指す集会だが自民党・公明党は参加しなかった。大会は「海兵隊撤去」を掲げた。
沖縄と香港・台湾には共通点がある。香港で行政長官の選任に抵抗した雨傘運動の若者は人権を抑圧する中国を許せなかった。台湾で国会を占拠したヒマワリ運動の学生たちもまた、人権が尊重されない大陸に呑みこまれることを拒否した。
沖縄には米軍という「抑圧者」が目の前にいる。日米地位協定という治外法権で沖縄住民の人権は軽い。基地への経済的依存が薄れるにつれ、抑圧からの解放を求める声が高まった。保守政治の中核にいた翁長雄志氏が知事となって「反基地」で合流したのも大きなうねりの産物である。
本土政府は民心を読み誤った。普天間基地の「辺野古移設」である。この問題に事実上の決着がついた。政府部内で辺野古移設は「不可能」と判断された。遠からず表面化するだろう(今回の本題ではないので、改めて書く)。
日常の暮らしに抑圧を意識する沖縄の人々は辛抱強く、諦めない。そして辺野古移転を虚構に追いやり、次の標的を「海兵隊撤去」に据えた。
もう一つの現場である国会前には「安倍政治を許さない」人たちが集まっている。現政権を「抑圧者」と見る人たちだ。労組や職場単位の動員ではなく、自発的に集まった人たち。思いを綴った手作りのビラを配る人、ラップの語りで叫ぶ人、ひたすら太鼓をたたく人。それぞれが勝手に、自分の表現方法で「反安倍」を発信している。
自発的な集会の始まりは原発に反対し阿佐ヶ谷に集まった若者たちのデモだった。福島事故への反省もないまま再稼働へと動く政府に「原発いらない」の一点で、有象無象の衆が集まり、商店街でデモをした。
国会前で怒りの渦が最高潮に達したのが昨年夏の「戦争法案反対闘争」。政治的無関心と言われてきた大学生からSEALDsが生まれた。現状では国会前に集まる学生は、ほんの一握りでしかない。大学のキャンパスでもSEALDsの学生を探すのは難しい。「就活に影響する」「政治には興味がない」「よくわからない」とかかわりを避ける学生が大多数。声を上げる学生はいつの時代も少数派だが、先端部分に時代が映し出される。SEALDsは香港の雨傘や台湾のヒマワリと国際的な連携を模索している。国境を越えてアジアの学生運動が繋がる。
■貧しい若者は一番の弱者
努力を超える理不尽に人は変わる
声を上げる学生の背後に「現代の貧困」が見える。卒業と同時に数百万円の借金を抱える学資ローン、過酷な労働条件のブラックバイト、就職先には社員を使い捨てる企業が待っている。大学への進学は増えているが親の支援には限界がある。アジアに共通した課題だ。
大学の偏差値と家庭の所得は符合するといわれ、底辺校になるほど困窮する学生が多い。アルバイトに忙殺されて勉強できない。風俗やキャバクラでバイトする女子学生も珍しくなくなった。当たり前の光景になった劣悪な状況に理不尽さを覚えた時、社会に目が向くという。
保育園落ちた。お受験。就活。リストラ。親の介護。下流老人。人生の節目を襲う厄介ごとは、「不甲斐ない自分」を責める方向に向けがちだが、「弱い」人ほど、自分を責めるという。自分に力がない、カネがない、だから自分が悪い――。過剰な自己責任がヒトを追い詰める。そんな社会でいいのだろうか。
問題は個人だけにあるのではない。制度の不備や分配の歪みに気づいた時、人の行動は変わる。
世界は、成長と自己責任の経済を修正する局面にある。安倍首相さえ「成長と分配の好循環を」と言い出した。企業が儲かることが成長につながる、世界で一番企業が仕事をしやすい国を目指す、と繰り返してきた首相も、成長だけでなく「分配」を口にするようになった。
共産圏が瓦解したのは1990年代のソ連崩壊だった。米国の一極支配が始まり、世界は丸ごと市場経済になった。だが資本の暴走は金融危機を招き、格差を世界にまき散らす。むき出しの利益追求の支えとなった新自由主義への批判が各地で湧き上がり、資本主義は修正を迫られている。競争・効率から分配へのシフトである。
■分配を託せる人を選んできたか
政治が必要な人ほど政治に関心は薄い
成長や金儲けは、企業が放っておいても熱心に取り組む。問題は、そのカネを誰がどう使うか。放置すれば力の強い者や金持ちは自分の懐に仕舞い込む。だから税金で徴収し、政府が配分する。分配政策こそ政治の仕事で、社会の安定に欠かせない。
徴収・分配には公正な政府が必要だ。公金を託せる信用のある組織が求められ、ズルしたりセコい人はトップとしてふさわしくない。だから選挙で決める。
人格だけでは不十分だ。徴収と分配にどのような考えを持っているか。つまり、何にどう分けようとしているのか。バックにどんな人や勢力がついているかまで見定めて判断したい。
有権者はそうした目で政治家を選んできただろうか。
金持ちは、財産や地位を守ることに関心が高く、政治の動向には敏感だ。貧しい人は、自分が情けないからこうなった、と自らを責め、親も悪かったからしょうがない、などと考えたりする。自己肯定感の不足が社会への関心を削ぎ、投票意欲も湧かない。人口では圧倒的に貧しい人が多いのに、弱者に優しい政策が行われない理由の一つは、政治の助力を必要としている人たちが政治に関心が薄い、ということではないか。
安倍首相の経済観は、経済ピラミッドの頂点にいる大企業や金持ちの懐を温めれば、いずれ恩恵が下々に滴り落ちる、という発想である。「トリクルダウンの経済」と呼ばれる。経済産業省の役人が高度成長のころから掲げてきた政策でもある。だが産業が国際化し経済活動に国境がなくなった今、国家の枠内でトリクルダウンは起こりにくくなった。
企業は儲けを海外に投資する。国内に落ちない。給料は上がらず消費は振るず、元気のない市場には投資できない。カネは外国に流出する。幻想でしかないトリクルダウンに首相がこだわるのは、経団連を中心とする産業界が政治に影響力を持っているからだ。
対抗する政策は、底辺の生活者の暮らしを温め消費を膨らますことで国内市場を活発にする「下からの循環」という考えだ。
経済の対立軸は、強者に優しいトリクルダウンか、消費者を応援するマネー循環かである。
■分配政策の核心は「誰に寄り添うか」
グローバル経済下ではますます重要に
東京都の財政規模は12兆円を超え、スウェーデンの国家財政に匹敵する。9兆円を超える都内総生産は韓国のGDPを超える。中堅国家に匹敵する経済活動を抱える都知事がどのような経済政策を採るか、責任は重い。
消費税は国政の課題だが、中小・零細企業の支援や低所得者対策は都の重要な施策である。
分配政策の核心は「誰に寄り添う行政か」である。経済合理主義を狭い範囲で考えれば、効率のいい産業や個人に資金を託したほうが、生産性は高まり成長に寄与する。結果として生ずる格差は自己責任。生き残りたいなら自らの効率を高めるしかない。競争が効率を高め社会全体の富を拡大する、という経済思想がある。
一面の真実ではあるが、競争に敗れた人たちを自己責任として放置すれば社会は荒む。貧困は世代を超えて連鎖する。学校での落ちこぼれや不登校で公教育制度は壊れ、うつ、自殺、病気、犯罪など社会の劣化は、強者が勝ち残る経済システムと無縁ではない。
法人税を引き下げ、所得税の累進課税を緩め、消費税を増税できないから社会保障にカネを出せないという政策は、セーフティネットを弱め社会の分断と格差を招くだろう。グローバル化した経済では、社会が劣化したら資本は見切りをつけ、よりましな地域に拠点を移す。大型店が売り場を畳んで新天地に逃げるのと似て、悲惨なのは取り残された地域だ。
■首都の知事選は政治決戦の主舞台
政党政治の超越が日本を変える
さて東京都知事選だが、首都の知事選挙は政治決戦の主舞台である。政党で選ぶ議院内閣制の国政選挙と違い、大統領選に似た政治イベントだ。米国では予備選挙を含め一年かけて候補者を吟味する。論戦の中で人柄や政策が丸出しになる。政治リーダーを選ぶにはそれだけの手間が必要ということだろう。
都知事選は短期決戦、必要な資質の第一は知名度、政党が担ぎ出し、有権者はイメージで選び、政策は白紙委任。有権者はまるで見物人だ。
有権者が傍観者ではなく、当事者になるにはどうすればいいのか。
ヒントは参議院選挙で、新しい芽の中にあるように思う。国会前集会から生まれた非政党の勢力。学者などが中心となって決起した「国民の怒りの声」や「市民連合」である。
政党政治に距離を置きながら、止むに已まれぬ思いから政治活動を始めた第三勢力である。こうした市民活動家が接着剤になって、送り出したい代表を担ぎ出す。
奪い合いの競争と経済効率を追い求める新自由主義とは、一線を画す絆と分かち合いの経済が21世紀の主流になる予感がする。
NGOやボランティアなど社会活動に取り組む団体や個人を政治の場に引き寄せるファシリテーターが日本の政治を変えるのではないか。
「舛添祭り」で辟易した政治への違和感がバネになれば、と思う。
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