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社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭
【第158回】 2016年6月14日 竹井善昭 [ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表]
もしサンデル教授が「これからの舛添問題の話」をしたら?
舛添氏が都知事の仕事を全うするためには、いったいどうしたらいいのか? Photo:Natsuki Sakai/Aflo
「第三者の厳しい目で収支を精査」したはずの報告会で「不適切ではあるが、違法性はない」と、マスコミと全国民にわざわざケンカを売るような「結論」を報告して、ますます大炎上中の舛添都知事。
また、報告会に同席した弁護士も、質問した記者に対して「あなたは事実認定というものをご存じない!」と、これまたマスコミにわざわざケンカを売るような物言いをする。
どうしてこの人たちは国民の怒りを買うような言動をわざわざするのだろうと、テレビを見ていて不思議に思う。試合に勝つ気がないのか、試合のルールが全く分かってないのか。舛添氏もそうだが、たぶんこの佐々木善三氏という弁護士も、自分が誰と戦っているのか、勝つべき相手は誰なのかがまったく理解できていないのではないだろうか。
佐々木弁護士は、前都知事・猪瀬直樹氏の徳洲会からの金銭授受問題で略式起訴をゲットし、衆議院議員・小渕優子氏の政治資金収支報告書問題では不起訴処分、違法薬物の密輸容疑で逮捕されたトヨタの女性役員については起訴猶予を勝ち取るなど、辣腕の弁護士というイメージもあるが、これらの事件はいずれも法律村での話。刑事事件では、無罪や起訴猶予や不起訴や執行猶予を取れれば、それは弁護士としても勝利となるが、今回の舛添問題においては、勝負の場はそこにはない。裁判とは試合のルール、勝ち負けの意味が違うのだ。佐々木弁護士はそのあたりのことがどうも理解できてないようだ。
問われているのは
「違法性」ではなく「適格性」
今回、舛添氏が国民から問われていることの本質は、「違法性」があったかなかったかということではない。政治家として都知事としての「適格性」の問題だ。たとえ違法性がなかったとしても、不適切であればそれは知事として不適格だと国民は言っている。それがいま起きている舛添問題の本質だが、そこが理解できていれば「不適切だが違法性はない」などという、誰が聞いても「なんじゃ、そりゃ!?」と思うしかない結論は出さないだろうし、記者会見でも、法律村の論理で押し通せばマスコミも黙らせられる、と言わんばかりの発言にはならなかっただろう。もっともその法律村の論理に対しても、佐々木弁護士と同じくヤメ検である住田裕子弁護士は、舌鋒鋭く批判している。
以下、「デイリースポーツオンライン」より引用
「ざっくり言いまして、ご本人の言い分を聞いてそれを裏付けもしないまま法律的にまとめあげた。しかも自分たちの元検事としての権威をお付けになっただけ。事実調査が極めて不十分。甘い」
また、佐々木弁護士と同じく、元東京地検特捜部副部長という経歴を持つ若狭勝衆議院議員も、自身のブログで、若き検事時代には「事実がはっきりしていないのに評価を下してはいけない」と厳しく指導されたと述べ、佐々木弁護士らの報告に対しては、下記のように指摘している。
以下、「若狭勝氏ブログ」より引用
私の経験から言えば、今回の調査報告も、発表するまでに、本来であれば、少なくとも2ヵ月ないし3ヵ月程度の期間を要すると思われますが、実際には、わずか2週間程度しかかけられてないようです。こんな短期間では、どう考えても2人の弁護士では、時間不足だったことは否めません。
にもかかわらず佐々木弁護士は、調査報道が本業であるジャーナリストに対して、「あなたは事実認定というものをご存じない!」と言い放ち、自分こそ調査のプロだと大見得を切ったわけだが、後輩である元検事たちから次々と「事実調査が甘い」と指摘され、そのことがさらに舛添氏に対する批判を増大させる結果となっている。
弁護士というのはその名のとおり、「依頼主を弁護して守ること」が仕事のはずだが、その意味では、佐々木弁護士の今回の仕事は大失敗だったと言えるだろう。ともあれ、舛添氏といい、佐々木弁護士といい、なぜにこの人たちはこうも人の怒りを煽るような言動をとるのだろうと不思議に思うが、まあ人間は自分と似た価値観を持つ人間を好むものなので、世間を敵に回すような言動が得意な人は、同じような人を弁護士として選んだのかもしれない。
「法律の範囲を超えたところ」に
存在する公益
「不適切ではあるが、違法性はない」という結論に納得している国民はいないが、この「不適切」という言葉にこそ、今回の舛添問題の本質がある。仮に舛添氏に違法性がなかったとしても、不適切であるという点で、「都知事不適格」で辞任すべきなのである。なぜか。それは、知事や総理大臣といった行政のトップのあるべき姿が、違法性のありなしと関係がないからだ。
もちろん、違法な行為はそれだけで論外だが、違法でなければ何をしても良いというものではない。そしてこれは、単なる庶民感情の話でもない。そもそも行政というものは「公益」が仕事なのだから、その行政の長である都知事にも、公益の視点と姿勢が求められる。そして、公益というものは、「法律の範囲を超えたところ」に存在しているものなのだ。
「法律に違反していなければ、何をやってもいいのか?」ということに関しては、かつて日本でも大ブームを巻き起こしたハーバード大学のマイケル・サンデル教授も提起していた問題だ。サンデル教授は、その著書『それをお金で買いますか 市場主義の限界』において、「違法性がないからといって、何でもかんでも売ったり買ったりしていいのか?」と問うている。例えば、アフリカのある国では、金さえ払えば絶滅危惧種であるクロサイを撃ち殺す権利を買うことができるという。これはその国においては合法だが、それは正しいことなのか、という問題提起だ。
今回の舛添氏の問題もまさに正義の話、つまり何が正しいことなのか、という話である。仮に(佐々木弁護士らが報告したように)政治資金で家族と温泉旅行に行くことに違法性がないとしても、それは政治家として正しいことなのか、という議論だ。問われていることは、政治家として正しいかどうかの話であり、それは都知事になる前のことかどうかは関係ない。
行政の長に法律を超えた正しさを求めることも、単なる庶民感情ではない。世界的なトレンドである「社会的責任」の話である。近年、企業に対しても、社会的責任を求める流れはますます強まっているが、この「企業の社会的責任」、つまりCSRとは、そもそも「法律の範囲を超えたところで、社会的責任を果たそう」という精神のものだ。したがって、違法性がなくても不適切であれば、CSR的にはNGである。
例えば、日本のメーカーが途上国の工場に部品や製品を発注したとして、その工場が児童労働を行っていたとする。この場合、日本のメーカーを罰する法律は日本にはない。つまり合法だ。しかし、それは企業として正しいことなのか。いまのCSR的な考え方ではもちろん正しくない。
また日本では、「コンプライアンス」をCSRの範疇で考えている企業もまだまだ多いようだが、CSRとコンプライアンスは全くの別物だ。コンプライアンスは法律を守っていることが要件だが、CSRとは「企業が自発的に、正しい行いをやること」なので、その意味でも「違法性がないが不適切」なことは不適格なのだ。今回の舛添問題を企業に例えて言えば、コンプライアンス的にはOKだが、CSRとしてはNGではないのか、という問題である。
都知事の問題にCSRは関係ないと思う人もいるかもしれないが、そうではない。そもそもCSRとは、行政の力だけでは解決できない社会問題を企業の力で解決しよう、というところから出発したものだ。したがって、CSRの遂行には企業と行政の連携が重要になる。そもそもの成り立ちからして、行政はCSRと深く結びついているのだ。
だから近年、行政は世界的にCSRとの関係性を深めている。その一例が、行政による「CSR調達」で、これはCSRをちゃんとやっていない企業には、行政の事業への入札ができなくするという制度だ。ヨーロッパでは欧州員会がはっきりとこの方向性を打ち出しているし、日本でも地方行政の間でこの動きが広まっている。
東京都の場合、CSR調達も含め、CSRに対する取り組みに目立った動きがないようだが、世界に誇る一流の都市をめざすなら、東京都はもっとCSRというものに対して深く関わっていくべきだ。そうでなければ、東京という都市が世界からリスペクトされない。
見えてこない、舛添氏がめざす
「世界一」の中身
舛添氏は記者会見で、「東京を世界一にするために都知事になった。お許しをいただき、もう一度仕事をするチャンスをいただきたい」と発言しているが、社会的責任というものを理解していない人物が、どうやって東京を世界一にするつもりなのだろう。舛添氏が言う「世界一」の中身が何なのかは分からないが、一般的に「世界一」と言う場合、そこには「世界中からリスペクトされる」という意味合いが含まれるはずだ。CSR的視点だけでなく、例えばハリウッドスターやロックスターや富裕層といった世界のセレブが、「どのようにして自分たちの社会的責任を果たすべきか」ということに意識が向いている時代である。
そうした空気感のなかで、社会的責任というものを全く理解していないように思える舛添氏が、どうやって東京を世界のセレブからリスペクトされるような「世界一の都市」にしようとしているのか、これまでの言動からは全く見えてこない。
ちなみに舛添氏は、「本当に都民のために全力を挙げて、『東京に住んでいてよかったな』と、そういう東京にしたいと思っております」とも記者会見で述べている。「都民」の定義はいろいろだが、舛添氏が東京都知事である根拠は、有権者から選挙で選ばれたということなので、ここでは「都民」=「東京在住の有権者」と定義しておく。となると、その文脈で考えれば、舛添氏はなぜ、都民から強い要望のある保育所よりも、(選挙権がないという意味では、都民ではない)韓国人学校の増設を優先したのか。本当に「都民のため」に仕事をしたいと考えているかどうかは、疑問である。
念のために言っておくが、僕は、在日外国人を無視していいと言いたいわけではない。ただ、都知事が「都民のため」と言うときは、まず東京在住の有権者の意向や要望を優先すべきだろう。でなければ、有権者はなんのために舛添氏を都知事に選んだのか。そこをきちんと考えていないから、今回のような問題も起きる。記者会見で舛添都知事は、「待機児童とか高齢者の問題も、厚生労働大臣の経験を生かして、ある意味で国より一歩先んじてやってきたつもりでおります」と述べているが、この一件からもその言葉が真実ではないことは明白だ。
結局、今回の舛添問題の本質は、「違法性はないかもしれないが、政治家としては不適切」だということ。社会的責任の文脈から言えば、「不適切」であることは「不適格」なのだ。国民から不適格と判断されれば、「辞めろ!」コールが巻き起こるのは当然のことだ。
ちなみに、「舛添問題は都知事の問題なので、他府県の人間がとやかく言うべきはない」という発言もあるようだが、そうではない。いうまでもなく東京は日本の首都であり、都知事は首都の長である。だから他府県の人間にとっても都知事の問題は他人事ではないし、関係ないわけではない。他府県の人間が舛添氏に対して怒っているのは、首都の長として不適格だと言っているわけで、決して「他府県の人間は関係ない。黙ってろ」とは言えないのである。
しかし、舛添氏が今回の件で本当に真摯に反省していて、「どうか、もう一度チャンスをいただければ、本当に頑張りたい。それがいまの私の偽らざる気持ちです」という言葉が本当なのだとしたらここはひとつ、舛添氏が「正しいことを行うチャンス」を都民としても与えるべきだと思う。たとえ罪を犯した人間でも、反省と更生のチャンスを与えるのが近代国家としての筋道。であれば、不適切だが違法性のない(かもしれない)舛添氏に対しては、なおさらチャンスを与えるべきだろう。
ではこの場合、舛添氏が取りうる「正しいこと」とは何か。それは、「腹を斬る」ことだ。昔から日本では、不祥事を起こした時の責任の取り方とは、腹を斬ることだと相場は決まっている。つまり、辞任だ。都議会から不信任案を突きつけられて退陣するというような無様な道ではなく、潔く自分で腹を斬ることを選ぶ。そう、辞任こそが、舛添氏に与えられる唯一の「正しいことを行うチャンス」なのだ。
舛添氏は「都知事の仕事を全うできなければ、死んでも死に切れない」と言うが、都知事の仕事を全うするためには「正しいことを行う」ことが必要だし、それはこの場合、辞任しかないだろう。そのうえで、「都知事としてやり残した仕事がある。どうしても都知事をやりたい」と言うのであれば、都知事選に再出馬すればいい。マスコミを通して「続投させてくれ」と言っている暇があれば、とにかく辞任して再出馬し、都民に直接「続投したい」と訴えるべきだ。それが政治家としての「正しい行い」だと思う。
http://diamond.jp/articles/-/92970
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- マイナス金利、利払い圧縮分を「新財源」に 政府内で脚光 軽毛 2016/6/14 14:21:26
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