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シンポジウム「戦争と学生 - 経済徴兵制をぶっ潰せ! -」の様子
貧乏人やバカは死ぬ日本…奨学金を返せず自衛隊入隊→戦地派遣が現実的に…
http://biz-journal.jp/2016/06/post_15350.html
2016.06.03 文=林克明/ジャーナリスト Business Journal
日本の若者が戦地で死ぬ可能性が高まってきた。2015年9月19日に強行採決された安全保障関連法は、実は国会が混乱して正式に採決していないともいわれているが、16年3月29日に施行され、日本が攻撃されなくても政府の判断で自衛隊を海外に派遣して軍事行動ができることになった。
なかでも、学生時代に借りた奨学金の返済に苦しみ生活が成り立たたない人が自衛隊に入り、紛争地に派遣されるという流れが現実のものとなり始めている。
アメリカでは、軍に入隊すれば、大学に行くために借りた奨学金(学生ローン)を軍が肩代わりする制度があるため、貧困層の若者が大学卒業後に入隊する例が多く、そのような若者たちがアフガニスタンやイラクなどの戦地に派遣されてきた。
労働者福祉中央協議会のアンケートによると、日本では34歳以下の約53%の人々が奨学金を利用した経験があり、その借入額は平均312万9000円で、返還期間は平均14.1年だ。14年度は、3カ月以上返済を滞納してブラックリストに入れられたケースが1万7000件以上もある。
貧乏人→奨学金→返済不能→自衛隊入隊→戦地派遣という道筋を示すかのような発言が14年5月26日、文部科学省の有識者会議「学生への経済的支援の在り方に関する検討会」であった。
「返済の延滞者が無職なのか、低収入なのか、あるいは病気なのかという情報をまず教えていただきたい。(略)放っておいてもなかなかいい就職はできないと思うのです。(略)防衛省などに頼んで、1年か2年かインターンシップをやってもらえば、就職というのはかなり良くなる。防衛省は、考えてもいいと言っています」
これは当時経済同友会副代表幹事・専務理事だった前原金一氏の発言で、まさに経済格差を利用して貧困層の若者に自衛隊入隊を志願させ、隊員を長期的に確保する「経済的徴兵制」ではないのか。
4月30日、首都圏非常勤講師組合主催のシンポジウム「戦争と学生 - 経済徴兵制をぶっ潰せ! -」が早稲田大学で開催され、深刻な事態があらためて浮かび上がった。そのなかから5回にわたって内容を紹介しよう。
まず第1回は、京都精華大学専任講師の白井聡氏(政治学・社会思想)による「バカは死ぬ」。念のためだが、「死ね」ではなく「死ぬ」である。白井氏は『永続敗戦論』(太田出版)の著者として知られ、昨年来の安保法制に反対する言論を展開して注目される論客だ。以下に、白井氏の講演内容をまとめる。
京都精華大学専任講師の白井聡氏
■政府が主張する「平和主義」は詭弁
反安保法制のうねりは、多くの人がリアルに戦争の危機を感じるから起こっているのだと思う。「中国脅威論を政府は煽っているが、これだけ経済交流が深まり、中国と戦争をできるはずがないから騒ぐ必要はない」と主張する人もいる。
しかし残念ながら、それは希望的観測にすぎない。このような教訓がある。英国会議員だったノーマン・エンジェルという人物が、「諸国間で人・モノ・金の交流が非常に活発になると戦争などできなくなる」との理論を主張したが、歴史の現実によって手ひどく反撃された。第一次世界大戦という本当に恐ろしい戦争が現実に起きてしまったのだ。経済原則とは別のロジックで戦争は起き得ることを、十分に認識しておく必要がある。
では、その危うさは、どのように立ち上がってきているのか。2つ整理しておきたい。
ひとつには、「積極的平和主義」という言葉のあやしさがある。1941年12月、日本は対米開戦に踏み切ったが、開戦の詔勅で「東亜の安定を確保」すると説明している。「平和をもたらすための戦争」と主張し、「東亜永遠の平和を確立」するのが開戦の目的だとされていた。
敗戦した45年8月の玉音放送でも「太平を開」く、つまり「平和にする」と述べている。46年11月に新憲法が公布された際にも平和主義をうたっている。つまり、41年も45年も46年も、日本は平和主義だったと主張しているのだ。
国家の語る平和主義というのは、しょせんこの程度だということを肝に銘じなければならない。
では、安倍晋三首相の言う「積極的平和主義」とは何か。自国の安全を保つための平和主義には、積極的方法と消極的方法の2つがあることになる。
消極的というのは、できるだけ戦争にかかわらず自国の安全を図ることだ。一方、積極的平和主義は、具体的に敵を名指しして、なんらかの方法で敵の無力化を図る、あるいは攻撃を通じて自国の安全を図ることといえる。
日本は、戦後70年間、おおむね消極的平和主義を貫いてきた。反対に積極的平和主義の典型例はアメリカだ。要するに安倍政権は、今後はアメリカ流の軍事力の用い方に自衛隊を合わせていこうと考えているのだ。そして、アメリカは第二次世界大戦後も断続的に戦争を行ってきているため、不安が蔓延するのは当然といえる。
つまり、積極的平和主義というスローガンを掲げることは、安全保障政策の根源を従来と真逆にすると宣言しているに等しい。
■安倍政権は戦争への道を開いている
もうひとつの視点として、世界的に経済成長が行き詰まっていることが挙げられる。10年前からこの傾向は続き、何をどうがんばっても経済成長できない。そこで、社会を大量に破壊して焼け野原状態にしてしまえば、ゼロからの出発になり経済成長を取り戻せるという考え方がある。
かつて朝日新聞社が発行していた月刊誌「論座」(2007年1月号)において、フリーライターの赤木智弘氏が「『丸山眞男』をひっぱたきたい--31歳フリーター。希望は、戦争」と述べ、センセーションを巻き起こした。
格差社会の底辺に固定化され、一方的にイジメられる非正規社員・フリーターという立場から赤木氏は「国民全員が苦しみ続ける平等」として戦争をとらえ、「希望は戦争だ」と述べた。
赤木氏は、東京帝国大学出身の政治学者、丸山眞男が二等兵として召集され、小学校しか出ていない一等兵に執拗にイジメ抜かれたことを引用し、「そんなことができるのは社会が流動化する戦争しかない。一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して丸山眞男の横っ面をひっぱたける立場に立てるかもしれないという、まさに希望の光なのだ」と書いた。
しかし、書き手の赤木氏にとって「希望は戦争」という表現はレトリック(修辞技法)にすぎない。「希望は戦争」というのは、「これしかない」という状況になっていることの表れなのだ。
経済において実効力のある政策は、ある種の戦争経済化だ。中東、ヨーロッパ情勢もきな臭くなっており、世界が大きな戦争に向かっているようにもみえる。安倍政権は、それに乗り遅れるなとばかりに武器輸出三原則を緩和するだけでなく、防衛産業を基幹産業にする方向性まで出している。経済政策としては、ある意味理にかなったことをやっている。
したがって、戦争の可能性を現実的に考えなければならない状況になっている。それに対して私たちはどう立ち向かっていくのか。
■社会に無関心な若者たち
誰が借金を背負わされて、戦場に連れて行かれるのか。「それは、あなた方の問題ですよ」と問題提起しても、残念ながら学生たちは現実問題として理解できない。新安保法制の反対運動でも、SEALDsをはじめ若い人たちがたくさん行動を起こしていると報道されたが、実際に国会前などに集まるのは中高年のほうが圧倒的に多い。
このように危機感を持って行動しなくなってしまった最大の要因は、消費する主体としてのみ育成されてきたことではないか。
若者をはじめ多くの日本国民には、「消費者」としての感覚でしか物事をとらえられないという精神回路が根づいてしまっている。広告会社や巨大資本が、極めて意図的な戦略として、「一生モノ」の高級品を買うことに熱中する人間をつくり上げようと策を練っているときに、市民的成熟など進み得ない。
たとえば、大学の授業でブラック企業の話をする。現実に「こういうことが起きている」と説明して学生に感想を書かせると、一番多いのは「ブラック企業に入らないようにしたい」という内容だ。
まるで、レストランや洋服店を選ぶのと同じ感覚だ。「この店はおいしくなさそうだから、向こうのレストランに行こう」「気に入る服がないから、隣の店に行こう」など、買い物はそれでいい。
だが、就職はそうではない。もちろん、ブラック企業に入らないに超したことはないが、最初はいい会社と思っていたのに、気づけばブラックな環境で働いていたということも実際にある。
また、自分の消費行動がブラック企業を助長させていることもある。ある店の食事が安くておいしいと頻繁に利用しているが、実はその店はとんでもないブラック企業だったといったことはいくらでもあり得る。そのような何気ない消費行動が、ブラック企業を栄えさせてしまうのだ。
たとえば、牛丼チェーンのすき家が、08年ごろから低賃金での長時間労働、トイレ休憩も取れないほどの過酷な労働環境といった内情が漏れて社会問題化した。安くておいしい牛丼と、カウンターの裏側の過酷な世界を結びつけて考えられるか否かが消費者にとって重要なことなのだ。
今の若者は、こういう社会構造の問題に一切目が向かない。とりあえず、自分がそういうものとかかわりたくないと思ったら、それを一切シャットアウトできるかのような感覚が蔓延している。これは本当に恐ろしいことで、「幼稚化」といってもいい。
だが、かかわりたくなくても、生きていれば否応なく巻き込まれるのだ。
■バカは死ぬ
このような状況で戦争に向かっていくと、何が起こるだろうか。そう考えると非常に嫌な恐ろしい真理に突き当たる。それは、「バカは死ぬ」ということだ。「バカは死ね」「バカは死ぬべき」と主張しているのではない。事実として、バカは死ぬのだ。
トルストイの歴史小説『戦争と平和』には、16〜17歳の少年と青年の間にあるペーチャという人物が登場する。ナポレオン率いるフランス軍が攻めてきて、彼は非常な愛国心に燃える。いち早く戦場に行きたい、勇敢に戦ってナポレオンを追い返したいと考え、家族も応援する。そして彼は戦場に行き、まっさきに馬に乗って突撃してあっけなく死ぬ。
そのときのペーチャの描き方が、残酷であると同時にトルストイのすごさが浮き立つ。真実を書くとはこういうことなのだ。トルストイ自身も軍人だったので、戦場をよく知っていたのだ。
バカはあっという間に死ぬということを彼はよく知っていた。まだ若いペーチャの死は痛ましい。しかし、読者がペーチャに感情移入できないような描き方をしている。バカは死ぬという残酷な真実を、トルストイは我々の目の前に突きつけているのだ。その事実は動かせない。
しかし、そのときに「隣人はバカだから死んでいい」などと私たちは思ってはならない。
日々のコミュニケーションを通じて、死なずに済む人たちの輪をどのようにつなげていけるのか。平和運動・反戦運動にはこれが求められているということを問題提起したい。
(文=林克明/ジャーナリスト)
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