天皇の話は >>1 の後に来るのさ: 原爆を投下される迄 日本が頑張った理由
第二次世界大戦中、昭和天皇は、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。 天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。 http://alternativereport1.seesaa.net/ アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。
ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。 ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。 ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。 この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。 この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。 そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。 無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである: 「あるルート」 = ヘンリー・ステイムソン → ジョセフ・グルー → ヨハンセングループ( 吉田茂, 牧野伸顕, 樺山愛輔, 白洲次郎,岡田啓介, 米内光政) → 貞明皇太后 → 昭和天皇 第二次大戦末期、米国そしてロスアラモス研究所は、日本が米国に降伏の準備を行っているのを知りながら広島・長崎に原爆を投下した。
ロスアラモスの目的は、原爆兵器の効果を広島・長崎で「人体実験」する事にあった。 米国は日本に対し戦争で勝つ事は十分に知った上で、人体実験のために広島・長崎に原爆を投下した。 何故ならロスアラモスもFEMAも、新型兵器の効果とそれが「どの位抵抗心を失わせ支配を容易にするか」の実験、研究を元々専門にした機関、つまり「心理戦争局」だったからだ。 http://satehate.exblog.jp/9318506/ プリンシプルのない男・白洲次郎の物語
前項の中で、私はグルーのもう一つの顔について触れた。その中でグルー[外部リンク]が太平洋戦争前から駐日大使を勤めた約十年間に、吉田茂、樺山愛輔らの間に、尋常ならざる交流を結んでいたことを書いた。この二人のルートで、グルーは御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受け取り、アメリカ国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書『滞日十年』に書かれている。 このグループは"ヨハンセン・グループ"といわれていたこともすでに書いた。 ここでは一人の男を中心に、プリンシプルのない男たちの物語について書こうと思う。日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。 白洲次郎という男がいた。その男の書いた随筆や座談記録などが一冊にまとめられて、世に出た。その本の題名は『プリンシプルのない日本』(二〇〇六年)という。 白洲次郎の経歴が載っている。 一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。 ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。 ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。 青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。 当時白洲が最も信頼していた先輩が「吉田というガンバリスト」であった。吉田が昭和十一年にロンドンの大使館に赴任する前から岳父との縁で白洲は「吉田のおじさん」と呼んで親しかったが、「大人の付合い」が始まったのはロンドン時代からだった。セール商会[外部リンク]、日本水産の仕事で英国に渡った際の彼の常宿は日本大使館となった。
『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。 一九三七年(昭和一二年)三五歳三月、日本食糧工業(同月、共同漁業に吸収合併され、後に日本水産株式会社)の取締役(後に取締役外地部部長)に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く」とある。
前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。 白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。 柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。 「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」 これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲[外部リンク]の日時を知っていたのか。 もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか……。 柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。 この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。 徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある。 一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。 徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。 クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。 「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」 「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。 引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。 FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。 白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。 白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。 父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。 白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。 私は前著『日本のいちばん醜い日[外部リンク]』でヨハンセン・グループについて詳述した。 その中で、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記−−天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。 彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報がその真実性は私には判りませんが−−入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐しいものでないと信じられておりました。 後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。 http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=9332877 昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体
アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。グルーはトルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物である。 原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であった。 それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。 白洲次郎はスティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男である。 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じ手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。 白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。 Wikipedia にはこうある。 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。 白州がお目付役となって随行したにすぎまい。 日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下はセットになっている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事とした。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない。 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。 http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html ・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511 ・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521
・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。 天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。 そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。 間違いなく、原爆投下と交換条件である。 アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522 ・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。 ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528 http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html 「原爆の秘密 [国外篇] 殺人兵器と狂気の錬金術」 鬼塚英明著 成甲書房 を読みました。 この本の著者鬼塚氏は、「どうしてアメリカは日本に原爆をおとしたのであろうか」と考えて資料を読みあさっているうちに、私たち日本人はだまされてきたのだと確信するようになりました。広島・長崎の悲劇を繰り返さないため、日本人は現実を直視しなければならないと、鬼塚氏は訴えています。 日本がすでに終戦工作をしていたにもかかわらず、原爆投下は決まったこととして、進められ、ウラン、プルトニウムの両方を落とすために、終戦が引き延ばされたと著者は見ています。また、イギリス留学中に実家が破産してウォーバーグ財団の援助を受け、岳父が貞明皇太后と密接な関わりを持っていた白州次郎を介して、皇室と皇太后の周囲にいたヨハンセングループと言われる吉田茂らに情報が渡っていたと思われます。鬼塚氏は、アメリカが天皇制の存続を条件に、ポツダム宣言を「無視する」とのことばを天皇に言わせたと見ています。少なくとも天皇は事前に知っていたのです。 鬼塚氏は、ルーズヴェルトは原爆を落とす前に日本に警告するべきと主張したので、殺されたのではないかと推理しています。次の大統領に成ったトルーマンも繰り人形に過ぎず、実際に指揮をとっていたのはスティムソン陸軍長官でした。スティムソンはエール大学でスカルアンドボーンズという組織(ジョージ・ブッシュや大統領候補だったケリーも入会していた)の会員で、ロスチャイルドのザ・オーダー(国際金融寡頭勢力)の中枢にはいっていた人物とのことです。 マンハッタン計画の資料によれば、そのスティムソンが討議すべき問題として挙げているのは、「現在における」ではなく、「将来に置ける」兵器や国際競争です。ウォール街の利益のため、ザ・オーダーのために戦争を長引かせたのだという著者の主張が納得できる気がします。 つまり、湯水のように税を投入したマンハッタン計画の効果を国民に見せるため、スペクタクルが必要だった。実際投下すると非難の声が上がり始めたので、犠牲者を減らすために必要だったと宣伝し始めた。もちろん投入された資金は原爆カルテルの懐に入り、それ以降も原爆産業として成立していったわけです。また、ソ連に見せつける効果もありました。 日本に2発以上の原爆を落とす計画がうまく行くためには、天皇がポツダム宣言をその前に受諾しては困るので、国内にも協力する勢力があったはず、ということで、「原爆の秘密 国内篇」に続きます。 http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200808180000/ 鬼塚英昭著「原爆の秘密 国内篇」(成甲書房)を読みました。
・広島の原爆で、爆心地近くに集められていた徹底抗戦派の軍人たちは全滅したのに、第2総軍司令部は山腹にあり、ほとんど死者を出していない。 ・東京ローズがアメリカ軍向け宣伝放送で、第509航空群(原爆投下のために作られた航空群団)を名指しで挙げ、Rの記号がついているからすぐわかる、日本軍にやられないうちにおかえりなさい、と言っている。 ・謀略機関で働いていた人たちは、戦後戦犯として裁かれるのを免れた上に、権力と富を手にしている。 ・原爆投下数日前に爆心地近くに学童・生徒が集められていた。 ・アメリカ兵捕虜は原爆投下時、長崎にいなかったので、犠牲者がいない。しかし投下後、アメリカのジャーナリストが取材にはいったときには存在した。どこから出てきたのか? 以上のことは何を表しているのでしょうか?
鬼塚氏は、天皇、日本の陸軍参謀本部とアメリカが終戦工作のために通じていたと考えます。 第509航空群団の飛行機にRのマークがついたのは、東京ローズの放送直前のこと、そんなことを知っているとは、そうとしか思えない。国策通信社である同盟通信社と陸軍参謀本部が作った原稿を東京ローズに読ませたのだろう、ということです。同盟通信社と吉田茂たち貞明皇太后周辺にいたヨハンセングループは深い関係にあった。同盟通信社の幹部だった松本重治、長谷川才次は、戦後ロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸っているし、陸軍参謀本部の有末精三陸軍中将は「有末機関」をつくり、米軍に協力した。 参謀部は原爆投下を前もって知っていたので、助ける人と原爆死させる人を選別した、また、あらゆる人が犠牲になることでスペクタクルを盛り上げるべく、生徒たちが動員されたのだろうと、推測しています。 考え過ぎかもしれない、と思う部分もありますが、世界の世論の非難をかわすために、放射能は存在しないことにされ、被爆者が見殺しにされたこと、高松宮が総裁だった日本赤十字が治療薬を断ってしまったことなどに対する著者の怒りには、共感せずにいられません。 ペンタゴンがABCC(原爆病等調査委員会/アメリカの調査団と厚生省の国立予防研究所が協力してできた)に対し、データ収集のため、治療をしてはならないという内部通達を出していたこと、18000人がなお追跡調査対象になっていることが、2002年に、公表されたこと、ご存知でした? http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200809160001/ 昭和20年8月15日には、実は広島にあった陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部は、8月6日の原爆で既に壊滅していた。だからクーデターは起こせない状況にあった。天皇一派は、陸軍による戦争継続を求めるクーデターを一番警戒していた。そのために終戦決定に当たっては、陸軍の叛乱が絶対に起きないように手を打っておかねばならなかった。 広島にあった陸軍の第二総軍司令部が原爆で壊滅したのは、偶然ではなかったのだ。
天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。 昭和天皇は20年6月にスティムソン側から、原爆投下の場所と日時を決めるよう要請を受けた。そして広島に、8月6日午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ。その仲介をしたのがヨハンセングループであった。 つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6670188e626bc9a6e9269a37b1c57f5e _________________________________________________________
|