http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/175.html
Tweet |
小沢一郎衆院議員「オヤジ(田中角栄)は天才に決まっている」〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160407-00000007-sasahi-pol
週刊朝日 2016年4月15日号
衆院議員 小沢一郎 おざわ・いちろう/慶応大学卒。69年に衆院議員初当選。旧田中派に所属し、自治大臣、自民党幹事長、民主党代表などの要職を歴任し、現在は「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表(撮影/写真部・松永卓也)
今、田中角栄下首相を描いた角栄本が急増している。今年1月になってからも、石原慎太郎『天才』、栗原直樹『田中角栄の青春』、石田伸也『角言』が出た。旧田中派に所属した、小沢一郎衆院議員が振り返る。
* * *
オヤジのことはいい思い出だった。全ては走馬灯のごとく。年を取るとなおさらだね。僕は27歳のとき、初当選し、田中角栄、オヤジの門をたたいた。学んだことは数知れない。おっかなかったさ。こっちは1年生議員だし、何の経験もないし。オヤジは当時、自民党の大幹事長だもの。僕はオヤジの早世した長男と同い年でね。だから、オヤジは僕を息子みたいにかわいがってくれた。あの当時、オヤジに反目した「青嵐会」は口先だけは批判をしていたけれども、面と向かってオヤジに言える議員は一人もいなかった。そりゃそうだよ、中川(一郎)さんであれ、渡辺みっちゃん(美智雄)であれ、(石原)慎太郎さんであれ、誰も言えない。オヤジの世話になっていたんだから、本当は文句は言えないわネ。
政治というのは、やっぱりカネがかかる。そういう点で、オヤジのところにはカネが集まったし、人の面倒もみた。集まったカネをため込んで使わない人もいるけれども、田中のオヤジはそういう意味では気前よく使ったね。
今の時代に田中角栄ブームが起きたのは、オヤジが「決断と実行」をキャッチフレーズにした政治家だったからだと思う。オヤジはいつも部下たちに、「思いっきり仕事をしてくれ。責任はすべて私が背負う」と言っていた。今、政界でも社会全体でも、なかなか決断する人がいないのは、「決断」は責任を伴うから責任を負いたくない人間ばっかりだからだろう。慎太郎氏の書いた『天才』という本が売れてるらしいけど、オヤジの身近にいたわけじゃないから、本当のオヤジのことは知らないと思う。ただ、『天才』というのは当たっているネ。オヤジは天才に決まってる。高等小学校卒の学歴で、総理大臣になり、今太閤といわれたんだもの。凡人でなし得ることではなかった。でも、エジソンは「天才は1%のひらめきと99%の努力」と言ったでしょう。オヤジは努力の人でもあった。
僕はオヤジの事務所には用がなくても、しょっちゅう立ち寄り、入りびたっていた。オヤジに会えるかもしれないと思ったからだ。
事務所ではオヤジとよく将棋や碁をやったもんだ。でも、オヤジはへぼ将棋で、すぐ「待った」をかけるし、将棋はぜんぜん「決断と実行」の人じゃなかった(笑)。世間ではオヤジは豪放磊落(らいらく)ということになっているだろ。しかし、オヤジは豪快な言動の裏で、気づかいの細やかな人だった。年寄りにも、僕にも、子分にも丁寧に気をつかって、並大抵の気配りではない。リーダーというのは繊細な心の持ち主でないとやれないということを教えられた。オヤジと最後に会ったのは1985年で、竹下登さん(元首相)を会長に据えた、田中派の勉強会「創政会」を旗揚げして少ししてからだった。僕と梶山静六さんと羽田孜さんの3人がオヤジに目白邸に呼ばれてね。当時、僕たちはオヤジをつぶそうと思って「創政会」を作ったわけじゃない。田中先生が親分で文句はないけど、誰か派閥を継ぐ者を作らないと、このままでは派閥が持たないという心境だった。その後にオヤジに呼ばれて、みんなでオヤジと夜、酒を飲み、オヤジの誤解も解けたようだった。だけど、「創政会」の旗揚げから20日後、オヤジは脳梗塞で倒れてしまった。それからは一度も会えなかった。4年間、国会にも登院せず、姿を見せなくなった。亡くなるまでに目白邸で会えたのは、中国の江沢民氏くらいだろう。そういうところは中国人は偉い。日本人なんか、すぐ恩を忘れちゃう。あの時代はなんだかんだ言ったって、バイタリティーとドラマがあった。今はもう全然、田舎芝居にもならんね、今の政界なんか。
オヤジの最大の政治的功績は、「日本列島改造論」だったと思う。自民党の古き良き時代、そして日本にとっては右肩上がりの高度成長の時代の考え方だったわけだ。オヤジは日本の高度成長期を牽引した政治家の一人。いい時代だった。もう一つの功績は日中国交正常化。あれもオヤジでなきゃできなかった。
オヤジが逮捕されたロッキード事件というのは世にも不思議な事件なんだよ。刑事裁判なのに、ロッキード社の役員に罪に問われることはないという「免責特権」を与えて、供述させたわけだ。こんなことができるんなら、時の権力に目をつけられた人はみんな罪人にされちゃう。いわば、日本の司法の自殺行為だった。ロッキード事件がなければ、オヤジはもっと長生きしただろう。しかし、あくまであの時代が必要とした政治家、それが田中角栄という存在だったのだ。(構成 本誌・上田耕司)
◇
空前のブームで蘇る「田中角栄」伝説〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160407-00000006-sasahi-pol
週刊朝日 2016年4月15日号より抜粋
全盛期の田中角栄氏 (c)朝日新聞社
本屋さんに行くと、「田中角栄」を書いた本がずらりと並んでいる。もう二十三回忌もすぎたいまごろになって、元首相に何が起きたのか。朝日新聞政治部で「番記者」を務めた早野透氏が自身の体験とともに、当時を知る人物たちに角栄の魅力を聞いた。
* * *
忘れられないのは、北海道出身、早稲田大学で左翼運動に投じ、東京タイムズ記者から角栄に見込まれて秘書に転じた情熱家、早坂茂三のことである。
ロッキード事件以後、「目白の闇将軍」として政界の裏に君臨する角栄の秘密の場面に、早坂さんは私を折々立ち会わせてくれた。角栄病後、『政治家 田中角栄』『オヤジとわたし』などの硬軟両様、膨大緻密な著作は、金権角栄への世間の非難に抗して、今日の角栄再評価につなげた。
角栄とかかわった人たちの思い出本、それから、褒めるにせよ叩くにせよ角栄に惹かれたライターたちの評論が次々出て、「角栄レジェンド」は世紀を超えて引き継がれていく。
いったい、田中角栄はなぜ人々の心を捉えるのか。政界の知性派、かつて自民党を離党して細川護煕「非自民」政権を支えた田中秀征さんに聞いてみた。
「私が何度も落選を繰り返してやっと当選したとき角栄さんはそれを知っていて、きみが秀征かと声をかけてくれたんですよ。角栄さんが脳梗塞で倒れて東京逓信病院に入ったときは花を持ってお見舞いの記帳をした」そうだが、私の苦労をわかってくれたのは角栄さんが「創業者」だったからだよ、と解説する。
そうだなあ、敗戦で日本が焼け野原になった中で、角栄さんは土建屋として必死に働いて財をなして国会に出た。角栄さんは道路建設とか水資源開発など自ら33本の議員立法をなしとげた。いまどき一人で、自分の発想で、こんなに法律をつくるパワー議員はどこにいるか。まさしくこれは「戦後」という時代の「創業」だった。「戦後革命」といってもいい。
そして戦後70年、秀征さんは、いまや2世3世の議員が多数、「創業」の情熱も活力も乏しい、と指摘する。こんな政治でいいのかという国民の不安が田中角栄が思い出される理由だろうというのである。東日本大震災の復興ままならず、福島原発の爆発の処理もいまだし、いわば「第二の戦後」かもしれない現在、角栄が生きていたらと思う人もいるだろう。
もうひとつ言っておきたい。角栄をつくったのは、角栄の旧新潟3区の民衆である。角栄の選挙組織「越山会」には実は元社会党員、元共産党員が多くまじっていた。戦前、地主に抗して小作争議が多発したこの地域、戦後の農地解放で自分の土地になると、道をつくり水路を整備し、米増産に励んだ。国や県から予算を分捕ってきて農民を助けたのは角栄である。かくて、かつての反体制の闘士たちが続々と「越山会」に鞍替えした。
まだ若いころの私は、そんな角栄の下部構造を知りたくて、朝日新聞新潟支局に転勤し、「越山会」のルポを書いた。「越山会」は民衆の「草のとりで」だった。ルポの核心は、私の著書『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』にも盛り込んでいる。
かくて田中角栄ブーム。いったいなぜ、と自民党の谷垣禎一幹事長に聞いてみた。
「先の展望をたてにくい世の中だからね。一億総活躍をめざしても、若い人は不安だろう。みんな、角栄さんに『坂の上の雲』を見ているんじゃないか」
田中角栄。青空に浮かぶ一片の白い雲。(構成 本誌・上田耕司)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK204掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。