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新党名は「民進党」(C)日刊ゲンダイ
本物のリベラル新党でなければ政権交代はできない 永田町の裏を読む 高野孟
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/177375
2016年3月17日 日刊ゲンダイ
新党名は「民進党」に決まり、「民主党」の20年の歴史が幕を閉じた。1996年の旧民主党結成に参画して、その結党宣言草案の執筆までした私としては、感慨もまたひとしおである。
この時は、政党同士の合流ではなく、社民党やさきがけや日本新党をいったん離党した政治家個人が、新党の理念・政策に賛同して再結集するという手続きを重視し、そのためマスコミには「排除の論理」とか呼ばれて酷評されたが、創業者の鳩山由紀夫はそこは頑として譲らなかった。それだけ、この党をつくって何をしたいのかがハッキリしていたということである。
何をしたかったかというと、94年12月に小沢一郎の新生党をはじめ公明党の一部、民社党、日本新党などが合流して新保守主義を標榜する「新進党」が誕生し、マスコミは「保守2大政党制の時代」などとはやし立てたのだが、そんな2大政党制なんてあるわけないじゃないかというのが我々の立場で、その構図をブチ壊して「保守対リベラル」の構図に置き換えることで本当の意味の政権交代を実現することを目指した。
95〜96年当時の新進党はなかなかの勢いがあって、新党参加者の中には「ここで我々が新党をつくっても第3党になるのが精いっぱいではないか」と不安を語る者もいたが、中心幹部も私も「そんなことはない。リベラル新党が打って出れば、新進党は必ずバラバラに崩れる」と主張した。実際その通りになって、石破茂はじめ保守派の多くは自民党に戻り、羽田孜は太陽党、細川護煕はフロムファイブ、旧民社党は新党友愛を経て98年に民主党に合流し、そのため新進党は97年、わずか3年の命で解散に追い込まれた。残された小沢は「自由党」をつくったが行き詰まり、結局は03年に民主党に流れ込んだ。
こうして野党第1党になった民主党は、09年に政権交代に成功。「保守対リベラル」構図で政権を取りにいくという当初の基本設計は正しかったことが証明されたのだが、問題は、98年と03年の2度の合流を通じて肝心のリベラル理念そのものが薄まり、最後はどこかへ行方不明になってしまったことである。枠組みはよかったのだが、理念・政策の中身がついていかなかったことが、民主党政権の失敗の最大原因である。
さて、民進党はどうなるかというと、次に再び本物のリベラル新党が立ち現れた時に、昔の新進党と同様、たちまちバラバラに分解するように私にはみえる。
高野孟ジャーナリスト
1944年生まれ。「インサイダー」編集長、「ザ・ジャーナル」主幹。02年より早稲田大学客員教授。主な著書に「ジャーナリスティックな地図」(池上彰らと共著)、「沖縄に海兵隊は要らない!」、「いま、なぜ東アジア共同体なのか」(孫崎享らと共著」など。メルマガ「高野孟のザ・ジャーナル」を配信中。
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