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日本人戦没者だけでなく、現地の犠牲者をまつる「無名戦士の墓」を慰霊訪問された両陛下。フィリピン側戦没者の慰霊は、両陛下の希望で実現したという。(写真は、両陛下の訪問を伝えるフィリピン主要紙「フィリピン・スター」のHP)
【両陛下の慰霊訪問】で直視すべき、フィリピンの許しと日本の道義的責任
http://biz-journal.jp/2016/02/post_13598.html
2016.02.03 江川紹子の「事件ウオッチ」
今上天皇陛下は、私たち戦後生まれの国民にとって、良い歴史の先生でもあるように思う。日頃忘れがちな、あるいは知らない事柄について、陛下の言動を通して知ったり考えたりする経験をした人も多いのではないか。筆者もその一人である。
■日本軍の加害の実態
戦後70年の昨年は、とりわけそういう機会が多かった。たとえば、新年のご感想では「満州事変に始まるこの戦争の歴史」について学ぶ重要性を説かれ、米国などとの太平洋戦争だけでなく、中国での戦いから学び直す必要性を示された。4月のパラオ・ペリリュー島ご訪問は、太平洋戦争末期の激戦について、多くの国民が学ぶ機会となった。また、年末の誕生日記者会見では、戦時中に多くの民間船が徴用され、たくさんの船員が犠牲になったことを、「本当に痛ましく思います」と声を震わせて語られた。さらに、パラオ周辺の海に無数の不発弾が今も沈んでいることに触れ、「先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」と話された。
そして、今回のフィリピンへの旅である。このご訪問は、同国での戦時中の日本の加害と犠牲を思い起こさせる(あるいは知らしめる)だけでなく、BC級戦犯として死刑や終身刑の判決を受けた元日本兵らに特赦を与えたキリノ元大統領の遺徳に光を当てることで、「許し」や道義的な責任など、多くのことを考えさせるものとなった。
太平洋戦争当初、日本はフィリピンの米軍を駆逐し、この国を占領した。独立とは名ばかりで、差別的な対応や日本文化を強要する占領政策への反発もあり、現地の人々の抗日運動が起きた。その後、アメリカ軍の反撃と日本軍の抵抗により、激しい戦闘となった。多くの日本兵が山地に追い詰められ、餓死したり、病気で命を落とした。フィリピンにおける日本人戦没者の8割は餓死だったといわれている。多くの地元の人たちも犠牲になった。犠牲者数は、日本人51万8000人に対し、フィリピン人は111万人にも上った。
フィリピン人犠牲者は、戦闘に巻き込まれて亡くなった人のほか、住民の中に抗日ゲリラが紛れていると疑心暗鬼になっていた日本軍に虐殺された人も少なくない。食糧を配るなどと欺かれ、集められた人たちが爆弾で一挙に殺害されたり、神父や修道女などのキリスト教聖職者も犠牲になった。さらに、日本軍による略奪、町村の破壊、女性への陵辱も横行したという。
戦時中、上院議員だったエルピディオ・キリノも、戦争末期のマニラの戦いの中、妻子4人を失った。戦闘で自宅の一部が破壊されたため、妻と長男、長女、次女、三女が、近所にある妻の母宅に避難しようとした途上、日本兵に狙撃されたのだった。妻と長女が即死。妻に抱かれた2歳の三女は地面に投げ出され、しばらく泣いていたが、近づいてきた日本兵の銃剣で刺殺された。この時、キリノ本人は、次男と共に自宅から食糧や貴重品を運び出すための作業をしていた。翌日、激しい銃撃戦の中を、なんとか義母宅にたどりついて惨劇を知らされたキリノは、3人の遺体を収容しようと試みたが、砲撃や銃撃が続いており、三女の血まみれの遺体を回収するのがやっと。その小さな遺体を、キリノは木製トランクに収め、義母宅の庭に仮埋葬した。妻と長女の遺体は、数日間路上に放置された。さらに、次男も避難の途中にはぐれ、やはり日本兵に射殺された。このほか、戦火から逃れる過程で、義母、義妹、甥など5人の親族を失った(永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』より)。
終戦後、フィリピンの人たちの反日感情はすさまじかった。米軍によって移送される日本兵に対して、「ドロボー、バカヤロー」の言葉と共に石が投げつけられた。フィリピンでBC級戦犯を裁く裁判は、最初の1年半は米軍当局によって行われ、その後米国から独立したフィリピンに移管された。この時、マニュエル・ロハス大統領をはじめ、裁判の責任者たちは、「我々に暴虐を加えた者に対しても、公平かつ道理に即した裁判を行い、事実を記録して後世に伝える」と宣言。実際、反日感情が渦巻く中でも、フィリピン人弁護士は懸命の弁護を行った。
それでも、起訴された151人の約半数にあたる79人が死刑の判決を受けた(一方、13人に無罪が言い渡されている)。同国での峻厳な処罰感情が伺える。
同国の法律で、死刑は大統領の確認を経なければ執行できない。ロハスの後任となったキリノ大統領の承認で、17人が処刑された。だが、執行はそれ以上行われなかった。BC級戦犯の裁判は7カ国で行われ、984人に死刑が言い渡され、920人が実際に執行されていた。執行率は9割を超す。国民の強い反日感情を考えると、フィリピン政府は死刑執行にはかなり抑制的だったといえる。
■「許し難きを許した」キリノ大統領
日本で助命運動が起こり、キリノ大統領には嘆願書も届いた。だが、家族があれほど無残に殺害されたキリノ大統領である。日本人戦犯に対しては、許しがたい思いを抱いていただろう。それでもキリノ大統領は、その後、身柄拘束中の105人について、2度とフィリピンに戻ってこないことを条件に、有期・終身刑囚は釈放、死刑囚は無期囚に減刑のうえ日本での服役を認める恩赦を行った。
その理由を、キリノ大統領は声明の中でこう語っている。
「私は、自分の子孫や国民に、我々の友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために、この措置を講じたのである。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ。私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなしえたことを幸せに思う」
憎しみの連鎖を自分が断ち切り、次の世代にもたらさないという決意であった。その背景には、キリスト教の「許し」の教えもあった。
キリノ大統領は、さらに退任間際の1953年12月、日本で服役中だった元死刑囚を釈放する特赦を行った。冷戦が進む中、国の将来を見据えた政治家としての判断であっただろう。それでも、依然として国内の日本への反感が強い中、自身が妻子を日本軍に殺された彼だからこそなしえた、まさに「許し難きを許す」決断だった。
日本は、これに最大限の感謝をしつつ、戦犯とされた同胞の帰国や赦免を喜んだ。時の吉田茂首相は、キリノ大統領宛に次のような謝電を送った。
「閣下の崇高なキリスト教精神に基づく措置について、日本の全国民は永遠に記憶に留めることでありましょう」
しかし、今の日本国民のどれほどが、この史実を「記憶に留め」ているだろうか。「永遠」どころか、この恩赦の措置から60余年で「記憶」はかなり風化したと言わざるをえない。
それは、戦争を知らない世代に史実が伝えられていないからだ。中学や高校の歴史の教科書を見ても、フィリピンで日本軍が行った行為やマニラでの戦いについて具体的に書かれておらず、ましてやキリノ大統領による「許し」についての記述は皆無だ。
「許し難きを許す」対応に対し、日本は「永遠に記憶に留める」と応えた以上、あったことを記憶し、次の世代にもしっかりと伝えていくという道義的責任を背負っているのではないか。
■記憶を引き継ぐ努力を
今回の訪問に関連して、陛下は次のようなお言葉を述べられた。
「先の大戦においては、日米間の熾烈(しれつ)な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました。このことは私ども日本人が深い痛恨の心とともに、長く忘れてはならないことであり」(昨年6月宮中晩餐会でのお言葉)
「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」(フィリピン訪問を前に、皇族や安倍首相らによる見送り行事でのお言葉)
「この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」(フィリピンの歓迎晩餐会でのお言葉)
忘れない。常に心に置く――日本国の象徴である陛下のこの誓いは、私たちが果たすべき道義的責任を端的に言い表しているように思う。
日本大使公邸で開かれたレセプションにキリノ大統領の孫2人が招かれ、天皇陛下は「日本の人たちは大統領に感謝しています」と伝えた。この行為によって、多くの日本の人々がキリノ大統領の遺徳をあらためて学び直すこととなった。筆者もまた、これをしっかり記憶に留め、次に伝える努力をしたい。
戦後の補償交渉でフィリピン側は当初、日本側に80億ドルの賠償を求めた。交渉は難航したが、最終的に5億5000万ドル(約1902億円)でまとまった。犠牲者一人当たりで計算すると、わずか1万7000円ほどである。むろん、すでに完済している。
法的責任については、日本はすでに果たしたといえる。賠償を支払えば、法的責任からは解放される。だが、道義的責任にそのような終わりはあるのだろうか。
大きな声で糾弾され続ければ、いやでも過去の事実を思い起こす。しかし、さまざまな思いを飲み込んで許しを与え、あえて責任追及をしてこない相手については、私たちが主体的に記憶を引き継いでいく努力をしなければ、記憶は風化してしまう。道義的責任とは、そのような努力を長く続けていく責任なのだと思う。
天皇陛下のフィリピン訪問の報を見ながら、筆者は日本人の一人として重い宿題を負ったような気がした。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)
<参考>
『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社)
『「BC級裁判」を読む』半藤一利、秦郁彦、保阪正康、井上亮(日経ビジネス人文庫)
『日本人戦犯帰国60周年』まにら新聞web
●江川紹子(えがわ・しょうこ)
東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。
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