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プーチン大統領(c)www.kremlin.ru/Wikimedia Commons
プーチンの闇に消えた死屍累々
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161216-00515723-shincho-int
デイリー新潮 12/16(金) 7:00配信
ロシアであっと驚くことがあれば、つい口をついて出てくる「おそロシア」。ソチ五輪の際には日本人取材クルーの何人かが、現地で野犬に噛まれて大騒ぎになったとか……そんな話がゴロゴロ転がるかの地において、「おそロシア」と笑っていられないのは、やはり最強大統領ウラジーミル・プーチンの周辺での出来事だ。
例えばよく知られたところで言えば、放射性物質で殺害された元KGB職員で、ジャーナリストのリトビネンコ氏の話だ。1998年、FSB(かつてのKGB)の工作員として、さる財界人の「暗殺指令」を受けたものの、それを拒否。以来、彼自身が脅迫を受けるようになってしまい、幾度となく収監された。後にイギリスに亡命してロシア内部の告発を世界に発信し始めたところ……2006年11月、何者かが彼の紅茶に猛毒の放射性物質「ポロニウム」を混入。リトビネンコ氏は死亡した。で、一番最初に彼が「暗殺指令」を受けた時のFSB長官が今のプーチン大統領。もちろん(? )のこと暗殺対象となった財界人は2013年に謎の自殺を遂げており、さらに言えばイギリス当局がリトビネンコ殺害容疑で告発した元KGB工作員は07年に国会議員になっている……もはや「おそロシア」と笑うに笑えない、“未解決事件”ではあるが、もちろんこの手の話はプーチンのまわりには尽きない。
その中でも、若き日のプーチンを徹底的に追い詰めた「ある事件」は、日本ではあまり知られた話ではない。
元KGBの工作員で、現在大統領のプーチンは、そのキャリアの隙間に元サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長、副市長という経歴を持つ。恩師の大学教授が同市の市長になるにあたってなされた人事であり、プーチンが政界に入るきっかけとなった。1991年のことである。まだソビエトが崩壊したばかりの混乱期で、ロシア都市部は慢性的な物資不足に悩まされていた。そこでプーチンに課せられたミッションが天然資源と引き換えに諸外国から食糧を調達することであった。『プーチンの世界――「皇帝」になった工作員』(新潮社)では、このあたりのことを次のように記している。
《レニングラード市議会の食糧供給委員会の女性議長マリーナ・サーリエ(中略)は肉とジャガイモをレニングラードに輸入する契約の交渉をするため、1991年5月にベルリンを訪れた。しかし、交渉は(市議会ではなく)市当局の代表者であるウラジーミル・プーチンとレニングラードの商社〈コンチネント〉間ですでに完了していた。その後、彼女が荷物を追跡すると、ドイツからの品物はレニングラードではなくモスクワに送られていた。》
プーチンが真に求める「この先の世界」を理解した時、私たちは戦慄する『プーチンの世界―「皇帝」になった工作員』!フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ[著]、濱野大道、千葉敏生[訳]、畔蒜泰助[監修]
どうにもキナ臭い動きをしたプーチンだが、もちろんこれは一側面にすぎない。以降、ここに登場したサーリエ女史はプーチンを徹底的にマークし調べ上げたのだが、そこで出てきたのはプーチン周辺で繰り返されていた謎の取引であり、その複雑さは到底ここに書き出しきれるものではないが、結果として同書はこう結論付けている。
《つまりプーチンが作り出そうとしたのは、資産は豊富だが市場インフラに乏しいロシア経済から利益を生み出すチャンスそのものだった。》
調査を進めたサーリエ女史はプーチンを汚職で告発するのだが、ここで潰れていたら、もちろん今のプーチンはいない。“工作員”たるプーチンは策謀に加えあらゆる人脈を駆使して“スキャンダル”を無きものにしてしまったのだ。ちなみにこの時、法的バックボーンを担った弁護士というのがドミートリー・メドヴェージェフ。のちのロシアの首相、大統領である。そしてプーチンをギリギリまで追い詰めたサーリエ女史は――、
《一線を退き、プスコフ地方の田舎町で隠居生活を送った。2011〜12年、議会および(プーチン)大統領選挙に対するデモが起きると、サーリエは活動を再開し、サンクトペテルブルクの反政府グループの主要メンバーになった。しかし12年3月、彼女は突然の心臓発作で死亡。享年77だった。》
なお、このプーチンの「食糧スキャンダル」事件は今のプーチンの戦略を知る上で、詳しく知っておいてもらいたい事件だ。このサンクトペテルブルクで確立したいくつかの“手法”は、やがて時のエリツィン政権の知るところとなり、大抜擢。1996年にモスクワに赴任してからわずか3年、1999年12月エリツィンはプーチンを大統領代行に指名。今に至るのである。
デイリー新潮編集部
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