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フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄 
http://www.asyura2.com/16/kokusai16/msg/495.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 26 日 16:22:55: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

1959年のキューバ革命を率い、引退後も国内外に強い影響力を保持していたフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日夜、死去した。90歳だった。


フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161126-00000040-jij-int
時事通信 11/26(土) 14:29配信

 【サンパウロ時事】1959年のキューバ革命を率い、政界引退後も国内外に影響力を保持していたフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日、死去した。

 90歳だった。死因は不明。

 実弟のラウル・カストロ議長が国営メディアを通じ、「キューバ革命の最高司令官が今夜(25日夜)午後10時29分、死去した」と発表した。遺体はフィデル氏が生前に示した意向に従い、火葬される。26日に葬儀委員会が開かれ、詳細が公表される見通し。

 53年にモンカダ兵営を襲撃して失敗したが、アルゼンチン人革命家チェ・ゲバラらとゲリラ闘争を続け、59年にバティスタ独裁政権を打倒。キューバ革命を成功させた。

 61年に米国と断交。ソ連に接近して社会主義路線を進め、62年にはソ連がキューバに核ミサイルを持ち込むキューバ危機を招いた。 


革命家として生き、半世紀以上にわたりキューバを導いたカストロ氏


 

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コメント
 
1. 2016年11月26日 17:20:54 : NUacOGXL1Q : IdlVQ_ViyYk[13]
キューバ フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去
11月26日 14時33分 NHK

キューバの国営テレビは、1950年代にキューバ革命を起こし、反米の社会主義政権を半世紀にわたって率いたフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日、亡くなったと伝えました。90歳でした。

キューバのラウル・カストロ国家評議会議長は国営テレビで国民に対し、「キューバ革命の最高司令官が今夜、午後10時29分に死去した」と述べ、兄のフィデル・カストロ前議長が亡くなったことを明らかにしました。

カストロ前議長は1959年にキューバ革命を起こして親米政権を倒し、以後、最高指導者として反米の社会主義政権を率いてきました。

米ソ冷戦の中、当時のソビエトと関係を深め、1962年にはソビエト製のミサイルのキューバへの配備をめぐって、米ソの核戦争への緊張が一気に高まった、いわゆる「キューバ危機」が起きました。

カストロ前議長は2006年に体調を崩し、2008年には議長を退任して実の弟のラウル・カストロ氏に政権を移譲しましたが、その後も一定の影響力を保ってきました。

キューバは去年7月に、半世紀以上にわたって敵対してきたアメリカと国交を回復し、カストロ前議長は国交回復に向けた交渉を始めたラウル・カストロ議長の判断は適切だとして支持する考えを明らかにしていました。

また、1995年と2003年には日本を訪問しているほか、ことし9月には日本の総理大臣として初めてキューバを訪問した安倍総理大臣と会談し、北朝鮮の核開発問題などについて意見を交わしました。

強いカリスマ性で国の求心力となってきたカストロ前議長の死が、キューバや国際社会にどのような影響を及ぼすのかが注目されます。

国営テレビの発表は

キューバのラウル・カストロ国家評議会議長は国営テレビで、「きょう、11月25日午後10時29分に、キューバ革命の最高司令官、フィデル・カストロが亡くなりました」と述べて、カストロ前国家評議会議長が死去したことを明らかにしました。そのうえで、「本人の希望により火葬される。あすの10月26日の朝に、キューバ革命の創始者に対して行われる葬儀の詳細を発表します」と述べました。
そして、最後にキューバ革命のスローガンである「常に勝利を目指して」と述べて、前議長の死を悼みました。

カストロ氏のこれまでカストロ氏のこれまで

強いカリスマ性で人々を引きつけたカストロ氏は、当時のキューバの親米政権、バチスタ政権の打倒を目指して、1953年に革命運動に身を投じました。その後、左翼活動家のチェ・ゲバラ氏とともにゲリラ活動を展開して、1959年に「キューバ革命」に成功しました。

首都ハバナへ凱旋(がいせん)した際には、国民から熱狂的な歓迎を受けました。この時、カストロ氏は「われわれはアメリカの目と鼻の先で社会主義革命を達成した。われわれはみずからの銃でこの社会主義革命を守るのだ」と述べました。

革命後は中南米初の社会主義国として、外資系企業の国有化などを進めました。米ソ冷戦のさなかには、当時のソビエトと急速に関係を深め、「軍事的な備えが必要なため基地の強化に踏み切った」などとして、キューバ国内にソビエトの核ミサイル基地を建設することを容認しました。

これに対してアメリカは海上封鎖などで対抗し、「キューバ危機」が起きました。世界は一時、核戦争の瀬戸際にまで追い込まれましたが、ソビエトがミサイルを撤去したことで危機は回避されました。

カストロ氏は反米姿勢を強め、その後、社会主義革命を中南米やアフリカに広げる政策を進めていきます。

一方で、最大の貿易相手国だったソビエトの崩壊後は経済危機に陥り、国民は苦しい生活を強いられました。

80歳を超えたカストロ氏は、2008年に国家評議会議長を退任して、実の弟のラウル・カストロ氏に政権を譲りました。

そして2011年には、政府や党の公職をすべて退き、政界の第一線から身をひいていました。また、1995年と2003年には日本を訪問しているほか、ことし9月には日本の総理大臣として初めてキューバを訪問した安倍総理大臣と会談し、北朝鮮の核開発問題などについて意見を交わしたばかりでした。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161126/k10010785261000.html


2. 2016年11月26日 17:39:56 : ZQaUpuhUK2 : cc0dtlqGZdo[169]
アメリカの搾取を排除した英雄カストロ氏。 「キューバの土地はキューバ人に」という革命スローガン。 「現に空と海から襲撃をかけている米国ではなく,いまだ一度も攻撃をかけたことのないソ連を非難するという欺瞞が成り立っている」と国連で演説。
http://d.hatena.ne.jp/esu-kei/20080217/p1
キューバへの軍事侵略を計画しただけでなく、フィデル・カストロの暗殺を何度も試みた米支配層。CIAがカストロの命を狙ったのは合計638回。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201603220000/
英雄の死を悼み、安らかなるご永眠を心よりお祈り申し上げます。

3. 2016年11月26日 20:39:46 : ZQaUpuhUK2 : cc0dtlqGZdo[170]
●キューバのオバマ…歴史の捏造
ワシントンが、貧窮化した人口1100万人の島国に対し、残酷な禁輸を課し続けているのが事実だ。多くの人々が思い出すことさえできない理由とされるものにもかかわらず、これはまさに経済戦争に他ならない。本当の理由は単にこういうことでから、禁輸の公式な正当化は、当然の如く忘れられがちになる。ワシントンの裏庭と見なしている国で、あらゆる類の政治反対派を粉砕する、勝てば官軍だ。アメリカはグアンタナモ湾の軍事基地-拷問センターというキューバ領占領も続ける。 1959年、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラと、フィデルの弟ラウルが、キューバ革命を率いた際 彼らはキューバをアメリカが支援する独裁者から解放するのに成功した。アメリカが支援する実に多くの独裁者政権同様、キューバは、貧困と大衆への残虐さの代名詞だった。キューバ革命はこの運命に逆らい、社会発展のモデル、飢餓と病気を廃絶し、無料教育と無料医療をしっかり守る国となった。現在、50年以上の悪質な経済封鎖にもかかわらず、キューバ人の平均余命は、大半のアメリカ国民より長い。島国が 1961年に、ピッグス湾侵略で、アメリカによって攻撃された後初めて、社会主義キューバはソ連を奉じるようになった。この侵略未遂は、中央情報局(CIA)にとってきまり悪い失態だった。それでも、南の隣国に対するアメリカによる戦争行為だった。以後、何十年にもわたり、何十回ものフィデル・カストロ大統領暗殺未遂、テロ行為や破壊活動、1976年のキューバ民間航空機爆破、農作物や家畜の大規模汚染などを含むアメリカがキューバに対して無数の戦争行為が行われることとなった。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-8a48.html
▼カストロは死に、マイアミは生きる:米国でフィデル・カストロ氏の死を祝う(動画)
https://jp.sputniknews.com/life/201611263054497/
…マイアミはCIA「反カストロ派」の拠点。キューバはスペインの植民地だった関係で、国民の大半はもともとカトリックのキリスト教徒だったけど、アメリカの搾取を排除して1961年の社会主義革命によって打ち立てられたカストロ政権は、宗教を迷信と断定する無神論をとり、キリスト教会や熱心な信者たちを弾圧したので、多くのキリスト教信者がマイアミに亡命。そうしてマイアミに亡命した中にはカストロ議長の姉妹もいましたが、彼女たちはCIA工作員になっています。
▼カトリック教会との仲直りにみるカストロの世界戦略
キューバはスペインの植民地だった関係で、国民の大半はもともとカトリックのキリスト教徒である。だが1961年の社会主義革命によって打ち立てられたカストロ政権は、宗教を迷信と断定する無神論をとり、キリスト教会や熱心な信者たちを弾圧していった。聖職者や信者の多くは海を渡り、対岸の米国マイアミ市に亡命した。こうした経緯から、マイアミに陣取った反カストロ派の亡命キューバ人たちは「信心深いキリスト教徒が、悪魔のマルクス主義者と戦っている」という宣伝文句で、キリスト教徒が多い米国内や欧州で共感をかちとろうと努めたのだった。
冷戦後、欧米と仲直り目指しキリスト教を容認したカストロ
https://tanakanews.com/g4cuba1.htm
▼敵側に寝返った妹に売られた哀れなカストロ
フィデル・カストロの妹は1960年代にCIAからスパイするように要請されそれを認めた。ジョアニータ・カストロ(その人は現在マイアミに住んでいる)は、彼女が3年の間米国のために機密情報を集めたと述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/lamerfontene/60510246.html

4. 2016年11月26日 20:42:21 : KdtnGDoz0c : cnsPt8PVaME[1]
残念です。
キューバは、人類の希望です。

5. 2016年11月26日 21:06:13 : YjLq0Xsg52 : Cp3xB_zA4Nw[125]
キューバは、これからアメリカの餌食になるのかい?
カストロは徳川家康のように賢く後継者に色々言ってるんならいいけど。

6. 2016年11月27日 12:54:13 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7223]
2016年11月27日(日)
キューバ前国家評議会議長のフィデル・カストロ氏死去
フィデル・カストロ氏の死去にあたって
2016年11月26日日本共産党幹部会委員長 志位和夫

 キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長の死去の報に接し、深い悲しみを抱いています。ご遺族とキューバ政府・国民のみなさんに、心からの哀悼の意を表します。

 カストロ前議長は、バティスタ独裁政権を打倒したキューバ革命を成功に導き、米国による不当な経済封鎖に抗して、医療や教育を重視したキューバの新しい国づくりに大きな貢献をしてきました。また、国連憲章にもとづく平和秩序と民主的な国際経済秩序を求める非同盟運動の発展のために、大きな足跡を残してきました。

 2010年、地域の33のすべての国が参加して中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)が設立され、かつて「米国の裏庭」とされてきたこの地域は、米国から自立した平和の地域共同体へと大きく変わりました。この歴史的変化をかちとるうえで、独立と民族自決権を断固として掲げつづけたキューバが、かけがえのない役割を発揮したことは、疑いのないことです。

 カストロ前議長が刻んだ歴史的足跡を想起しつつ、キューバの国づくりが成功をおさめることを心から願うものです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-27/2016112701_07_1.html


7. 2016年11月27日 19:58:48 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7216]
2016年11月26日
フィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長の逝去に当たって(談話)

社会民主党幹事長 又市征治

1.本日、キューバ革命を指導し、独自の社会主義を実現してきたフィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長が逝去した。米国の政権転覆工作や軍事的圧力、経済封鎖を受けながらも、数々の危機を乗り越え、キューバの着実な発展を導いてきた卓越した指導者に対し、最大限の賛辞と心からの哀悼の意を表したい。

2.キューバの国技である野球に情熱を傾けてきたカストロ氏は、親日家としても知られている。2003年には、広島の平和記念公園で献花し、原爆資料館を訪れ、帰国後、「何百千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために」と世界に向けて広島を訪問するよう呼びかけ、原爆を投下したアメリカを批判するなど、核廃絶にも力を注いで来られた。

3.キューバそのものは、アメリカの箱庭と言われるように、アメリカからの経済封鎖で大変な困難な中で国づくりを進めてきた。そうした中、人々の健康と文化を重視した医療制度の改革に努め、乳児死亡率は南北アメリカで最良、平均寿命は先進国並み、ファミリードクターの完備、高度先端医療技術の開発、医療技術による他国支援など、世界で最高水準と言われる医療制度を実現した。社会主義キューバの医療や教育は無料であり、日本としても学ぶべきことは多い。

4.カストロ氏は、第三世界の独立、独裁体制克服闘争、アンゴラ独立への貢献、その後の反アパルトヘイト運動になどにも希望を与え、ベネズエラ、ブラジル、ボリビアなど南アメリカの左派勢力にも大きな影響を及ぼした。困難な状況はこれからも続くが、反新自由主義、反グローバリズムの自主勢力の躍進を期待したい。

5.キューバと社会民主党とは、旧日本社会党時代から、長年にわたり友好関係を続けてきた。旧社会党は、キューバ革命後、アメリカの経済封鎖圧力が高まる時代、初の海外訪問先として日本を訪れたチェ・ゲバラ氏とも親交を結び、また宇都宮徳馬氏らと協力し、国交維持、貿易継続の方針を堅持させた。特に、医薬品、医療機器の輸出は、重要な役割を果たした。これらの努力が、現在のキューバとの友好関係の礎であることを忘れてはならない。

6.1995年12月、カストロ氏が初来日されたが、「日本で必ず会うべき人だと口々に紹介されたので、まず最初にやってきました」と、土井たか子衆議院議長(当時)を訪ねられた。「本物のカストロさんですか? 背広姿ではわかりません」という土井さんに、「あなたに会うためにベトナムで新調しました」と応じられたというエピソードが伝わっている。その後、社民党は、訪日キューバ青年国会議員団等との交流を続ける一方で、人権問題等についても忌憚なく意見交換を続けてきた。

7.私自身もCUBAPON(日本キューバ連帯委員会)の一員として、経済封鎖下のキューバへの医療器具支援や交流活動に取り組んできた。私が2010年に訪問した当時は、すでに前議長は引退されていたが、2年連続で巨大なハリケーンに襲われて、多くの建物が破壊されるという厳しい状況にあった。

8.キューバ東部のヒバラには、1961年にテロで倒れた浅沼稲次郎社会党委員長追悼のために浅沼委員長の名前を冠した紡績工場があり、また多くの日本人入植者が農業を営んでいる等、キューバは親日的な国民性を持っている。親日家のカストロ前議長の目指されていた、日本・キューバの友好・連帯の深化と今後のキューバの発展を祈念する。

以上

http://www5.sdp.or.jp/comment/2016/11/26/3686/


8. 2016年11月28日 11:39:34 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7204]
2016年11月28日(月)
きょうの潮流

 過去は砂糖のようには甘くなかった―。革命前のキューバは総輸出の8割以上が砂糖でした。サトウキビの栽培に適した土地は米国の会社や個人が所有。資本も生産も「北の巨人」に支配されていました▽その頃、キューバの労働者たちに「死の季節」と呼ばれた期間がありました。年に3〜5カ月ほどの砂糖の仕事があるとき以外は失業。土地もなく、自分の家や財産もない。国や国民の運命を握られている状態でした▽「彼の演説には、アメリカによる植民地的支配が全体的に崩れるかもしれぬという、論理性がある」。まだ世界が“キューバ危機”の余波に揺れていた1964年の夏、革命記念日の当地でフィデル・カストロ氏の演説を聞いた堀田善衛は『キューバ紀行』にそう記しました▽革命後も長く米国の経済封鎖と軍事的な脅威にさらされるなか、カリブ海の小さな島国は独立を勝ち取った勇気と誇り、持ち前の明るさで国づくりを前に進めてきました▽農地改革や雇用の創出、教育や医療の無料化。世界中に医師や教師を派遣する人道外交も。非同盟運動にも最初から参加し、「米国の裏庭」とされてきた中南米地域の自立と平和に大きく貢献してきました▽困難さのなかで舵(かじ)を取り、慕われてきたカストロ氏の死に、いまキューバは悲しみの静寂に包まれています。国の主権を取り戻し、国民とともに歩んできた90年の生涯。国づくりはなお模索中ですが、先人たちが示した気概と情熱があるかぎり。この国の明るい前途を願って。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-28/2016112801_06_0.html


9. 2016年11月29日 09:43:31 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7170]
2016年11月29日(火)
キューバのカストロ前議長死去
志位委員長が大使館を弔問

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-29/2016112901_07_1.jpg
(写真)カストロ前議長の遺影を前に記帳する志位和夫委員長。奥はエリザベス・ミランダ参事官=28日、東京都港区のキューバ大使館

 日本共産党の志位和夫委員長は28日、25日に死去したキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長に対する弔問のため、都内の同国大使館を訪れ、記帳しました。

 志位氏はカストロ前議長の遺影の前に置かれた記帳簿に「独立と自決の旗を高く掲げたキューバ革命のリーダーに心からの敬意を表します」と記し、署名しました。

 志位氏は、応対したエリザベス・ミランダ参事官に重ねて弔意を表明するとともに、ラウル・カストロ国家評議会議長あての弔意を伝えるメッセージを手渡しました。

 志位氏はまた、29日にキューバの首都ハバナで行われる追悼集会に日本共産党として緒方靖夫副委員長と菅原啓国際委員会委員を派遣することを伝えました。

 ミランダ参事官は委員長の弔問ならびに追悼集会への代表派遣に深い感謝を表明しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-29/2016112901_07_1.html


10. 2016年12月01日 13:37:38 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7130]
2016年12月1日(木)
カストロ前議長を追悼
緒方氏参加 キューバ数十万人集会

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-01/2016120101_03_1.jpg
(写真)ラウル議長(左)に弔意を伝える緒方副委員長(右)=11月29日、ハバナ革命広場の壇上席横にて

 ⁅ハバナ=菅原啓⁆キューバの首都ハバナの革命広場で11月29日、フィデル・カストロ前国家評議会議長の追悼集会が数十万の市民が参加して行われました。

 五大陸から約30人の首脳を含め多数の政府・政党代表団が出席。日本共産党からは緒方靖夫副委員長と菅原啓国際委員会委員が参加しました。

 中南米、アフリカ、欧州、アジアの各国首脳は追悼演説で、カストロ前議長に率いられたキューバ革命とその後の発展、非同盟運動や中南米諸国の団結のために尽力した業績を高く評価しました。

 会場からは「私がフィデルだ」「フィデルはここにいる」との唱和が繰り返し起こり、故人の遺志を継ぐ決意が示されました。

 ラウル・カストロ国家評議会議長は、フィデルの生涯は反植民地主義、反帝国主義に貫かれていたと語り、今後、革命事業をさらに前進させる決意を表明しました。

 日本からは古屋圭司衆院議員(日本・キューバ友好議員連盟会長)も出席しました。
ラウル議長に弔意

 壇上席に案内された緒方副委員長は集会後、会場でラウル・カストロ国家評議会議長と会い、志位和夫委員長からの弔意を伝えました。その中で「悲しみをともにしながら、深い哀悼と連帯を表明します」と述べました。ラウル議長は胸に手をあてて「ありがとう」とこたえました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-01/2016120101_03_1.html


11. 2016年12月02日 11:55:08 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7105]
2016年12月2日(金)
カストロ前議長の追悼集会 ハバナ
緒方氏、各国代表と懇談

 ⁅ハバナ=菅原啓⁆キューバのハバナ滞在中の日本共産党の緒方靖夫副委員長、菅原啓国際委員会委員は、11月29日に催されたフィデル・カストロ前国家評議会議長の追悼集会に参加した各国の政府・政党の代表と会場や宿舎であいさつし、言葉を交わしました。

 ギリシャのチプラス首相とは、緒方氏が「私の同僚がギリシャを訪問し、あなたの政府の閣僚と懇談しました。貴国をはじめ欧州の革新の動きを興味深く注目しています」と述べた後、日本共産党について紹介しました。同首相は「私は東にある国、日本に大きな関心を持っています」と応じるなど話が弾みました。

 南米ウルグアイのムヒカ前大統領は、最近の「日本訪問は素晴らしいものでした」と述べ、緒方氏と握手しました。

 ブラジルのルラ元大統領とは、同氏が創設した同国労働党の大会に2度にわたって参加した思い出などを述べ、懇談しました。

 ベネズエラの故チャベス前大統領の家族ともあいさつを交わしました。

 政党では、チリ共産党のテイリエル議長、ブラジル共産党のサントス議長、ポルトガル共産党のヌネス政治局員などとも懇談しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-02/2016120202_03_0.html


12. 2016年12月02日 17:41:04 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7098]
2016年12月2日(金)
心に深く刻まれた32年前の会談
キューバ・カストロ前議長への追想
不破 哲三

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-02/2016120205_01_0.jpg
(写真)会談で語り合うカストロ氏(右)と不破氏=1984年11月、ハバナ

 11月29日、カストロ前議長の弔問にキューバ大使館を訪れ、記帳簿に「諸民族の自決権を語り合った三十二年前の会談、いまも深く心に刻んでいます。日本共産党 不破哲三」と記しました。

 「三十二年前の会談」とは、1984年11月、キューバ訪問の最後の日に、カストロ前議長(当時はキューバ政府首相)と語り合った会談のことです。(当時、私は党委員長でした)

 11月20日午後7時30分に始まったこの会談は、夜遅く10時45分まで3時間以上にもわたりました。思えば、これが、カストロ前議長と日本共産党との最初にして最後の会談となったのでした。

 キューバは、1959年1月、カストロを指導者とする革命勢力が対米従属のバチスタ反動政権を打倒して、民族の独立と自決の旗を高らかに掲げた革命政権を樹立し、その旗を守り抜くことに成功したラテンアメリカの最初の国家でした。60年代には、さらに進んで社会主義をめざす旗を掲げるようになり、1970年代には、革命勢力が人民社会党(共産党のキューバでの党名)とも合同してキューバ共産党を結成、1975年には第1回党大会を開催しました。

 私たちは、キューバ革命を最初から支持してきました。私自身について言えば、1970年の大阪万博の時、妻とともにキューバ館を訪れ、関係者と話し合ったのが、キューバとの最初の交流になりました。

 キューバ共産党が成立して以後、ただちに党間の友好関係を結び、1976年にはマチャド政治局員を団長とする代表団を招いて、私が日本側の団長となって東京で両党会談を開き、その後も機会をとらえて会談や意見交換をかさねて友好関係を発展させてきました。

 1984年のキューバ訪問は、こうして築いてきた友好関係を新たな段階へ進める意味をもつものでしたが、私自身としては、それにとどまらず、キューバの国際活動にかかわるいくつかの疑問点をこの訪問を通じて解決したい、という強い思いをもっていました。その疑問点とは、すべて、広い意味で、キューバ革命が一貫して掲げてきた諸民族の独立と自決にかかわる問題でした。
「ラテンアメリカの革命は一つ」を行動の原理とするのか

 一つは、ラテンアメリカの革命に対するキューバの態度の問題です。キューバをはじめ、ラテンアメリカの革命運動のあいだで、「ラテンアメリカの革命は一つ」という考えがかなり広くあることは、私たちも知っていました。実際、キューバ革命の立役者の一人で、カストロの片腕と言われたゲバラは、1956年、グランマ号でキューバに上陸した革命部隊の一人ですが、アルゼンチン人で、いわば意気に感じてキューバ革命に参加した人物でした。こういう国際的な相互援助は、ラテンアメリカの革命運動では常識的なことになっていたようです。

 しかし、キューバで革命に成功し、独立国家を成立させた後では、問題の性格はまったく違ってきます。キューバの革命政権に属する人間が、他国の革命運動に参加する、ましてやその地の運動を指導しようと試みることは、それは他国の内政にたいするキューバ国家の干渉行為であって、これを革命家同士の相互交流として正当化したり合理化したりすることは、許されません。

 この立場から、1966年にキューバを去ったゲバラが、1967年、南米のボリビアで武装闘争の準備中に政府軍の攻撃を受けて死亡したことは、私にとっては衝撃的な事件でした。これは、国際的な革命人であるゲバラの個人的な行動なのか、それともキューバの政府や党の路線を背景に持った行動なのか。ここにキューバでどうしてもただしたい一つの問題がありました。
アフリカへのキューバ軍派遣、アフガニスタン問題

 もう一つの問題は、アフリカにかかわる問題です。アフリカでの植民地体制の崩壊の結果、そこには多くの独立国家が生まれました。いくつかの国では、国家形成の過程が平和的には進まず、激しい内戦が始まりました。そして、1975年、アンゴラやモザンビークに起こった内戦に、政府軍援助の立場で、キューバが軍隊を送ったことは、国際的にもかなり大きな問題となっていました。それぞれの国での事態の経過に、私たちは特別の情報を持っているわけではありませんでしたが、海を越えて軍隊を送っている真意を聞きたい、ここにも私たちの懸念の一つがありました。 

 最後の問題は、ソ連のアフガニスタン侵略に対する態度の問題です。私たちが、この暴挙を覇権主義的侵略行為として糾弾したことは、ここで説明するまでもありませんが、キューバ政府は、ソ連のこの行為にたいして“支持”の態度をとったのです。民族の独立と自決を高く掲げて革命に勝利したキューバが、なぜこの侵略行為を支持したのか、この真意はどこにあるのか、これが第三の問題でした。

 しかし、これらの疑問点についての答えは、最高指導者にただす以外に道はありません。こういう状況でしたから、私は、1984年11月にキューバ、メキシコ、ニカラグアという中米3カ国への訪問を決めたとき、キューバで、カストロ首相と率直な意見を交わす機会をぜひ得たいという期待を、強く持ったのでした。
到着早々、カストロ首相との会談が約束されたが…

 最初の訪問国であるメキシコでの任務を終えて、キューバの首都ハバナの空港に到着したのは11月16日午後でした。出迎えてくれたのは、モンタネ国際部長(准政治局員・書記局員)が率いる一行でした。私は初対面でしたが、キューバ・ゼネラル・モーターズ人事部長という財界の要職に在りながら革命運動に身を投じ、カストロの最初の革命行動――1953年のモンカダ兵営攻撃に参加したという独特の経歴を持つ人物であることは、よく知っていました。そのモンタネ国際部長が、宿舎までの車の中で、「公式会談の代表者はマチャド同志だが、今回の訪問中に、カストロ同志との会談を必ず約束する」と、こちらの気持ちを見通したような話をくりかえすのです。おかげで、訪問の前途にはたいへん楽観的な気分になることができました。
カストロ首相の“日本びいき”。革命直後のゲバラ訪日

 しかし、この期待はなかなか果たされませんでした。キューバ共産党との会談は、17日にはモンタネ国際部長と、19日には旧知のマチャド政治局員と、それぞれ数時間にわたる会談をして、両党関係や内外の諸問題について充実した意見交換をおこないました。

 しかし、カストロ首相との会談の日程は、なかなか決まりません。モンタネ国際部長からは「必ず設定しますから」との連絡が毎日のようにあるのですが、首相の日程はたいへん多忙なようで、国際部が設定に苦労している様子がうかがわれました。

 その間、会談の合間にハバナ市内での視察をおこない、18日には空路、キューバ革命の発端の地である南部のサンチアゴデクーバに飛び、当時の銃弾のあとが壁に生なましく残るモンカダ兵営や、キューバ革命の国父とされるホセ・マルチ(1853〜95年)の廟(びょう)を訪ねることもしました。

 ハバナとサンチアゴデクーバという二つの都市を訪ねて感じたことは、アメリカによる経済封鎖など苦しい経済条件のなかでも、キューバの市民が独特の陽気さを失わず、明るく生活していること、くわえて、日本に特別の親しさを感じている様子でした。

 ハバナで、カストロたちが上陸を決行したグランマ号の記念館を見たのですが、その建物の建設は日本の企業に発注したのだとの説明でした。また子どもたちの多面的な才能を開発する目的でつくられた「ピオネール宮殿」を視察して、さまざまなクラブ活動に取り組む子どもの様子を見ますと、テレビをはじめそこで使われている電気器具類は全部日本の製品でした。市内を走る車を見ても、ほとんどが日本の車です。カストロが“日本びいき”なのだ、との説明も聞きました。

 それで思い出したことがありました。革命が成功して半年後の1959年7月、ゲバラが、カストロの親善使節団長として日本を訪問していたのです。中米の小さな国から軍服を着た使節が来たというので、日本の政財界は扱いに困り、ともかく商工会議所が世話役になって、東京と大阪で歓迎のレセプションを開いたとのこと。商談はあまり成功しなかったようですが、ゲバラは10日余りの滞在中に、日本の状態を徹底的に研究して、帰国後、膨大な報告書をカストロに提出したそうです。ゲバラの伝記で読んだ話ですが、現地で耳にしたカストロの“日本びいき”なるものも、案外、そのあたりに由来するのかもしれません。

 私たちの日程は、21日朝、次の訪問地ニカラグアに出発する予定でした。しかし、その前日の午後になっても、カストロ首相と会談の連絡はなく、夕刻に設定されたのは、国家評議会副議長のロドリゲス政治局員との会談でした。モンタネ氏の努力も実を結ばなかったかと思いながら、会談に臨んだものでした。

 ところが、会談が始まって30分ほどたったころ、届けられたメモを読んだロドリゲス副議長が、満面の笑みを浮かべて、「カストロ首相との会談が決まりました。私たちの会談はこれでやめましょう」というのです。意外な事態の急転でした。

 代表団は急いで夕食をとり、会談場所である国家評議会の議長執務室に向かいました。
カストロ首相との会談。日本問題で矢継ぎ早の質問

 会談が始まったのは、午後7時30分でした。

 長椅子にカストロ首相と私がならんで座り、その両側にそれぞれ通訳がつきました。

 今度の弔問のさいに、大使館のミランダ参事官にその時の写真を数枚、手渡しました。ミランダ氏は、カストロ前議長の若々しい姿に目をみはり、「本国に必ず送ります」と約束してくれました。若々しいはずです。カストロ首相が58歳、不破が54歳、お互い50歳代の会談でしたから。

 会談が始まり、あいさつが終わると、カストロ首相の口からまず出たのは、「国家元首である自分が、日本共産党の招待で日本を訪問する可能性があるだろうか」との質問でした。私は、それは可能であるとして、その席で招待の意志を伝え、「わが党の招待は何時(いつ)でも有効で、カストロ同志が計画を具体化したらそれに対応できる」と答えました。

 そのやり取りのあと、カストロ首相の口から飛び出したのは、日本の諸事情についての矢継ぎ早の質問です。農業はどんな具合か、議会や政府など政治制度の仕組みと現状はどうなっているか、日本経済の現状と問題点はどうか、などなど、日本問題に関するカストロ首相の並々ならぬ関心とその深さを、鮮明にあらわしたものでした。

 私がそれに答えたあと、話は世界情勢、とくにキューバや、最近革命勢力が政権を得たニカラグアの問題をはじめ、ラテンアメリカの情勢の問題に移りました。

 そのなかで、カストロ首相が、ニカラグアに対するアメリカの侵略の危険がさし迫った最大の脅威であることを強調したのにこたえて、私は、明日キューバを出発してニカラグアを訪問する予定であること、われわれも、いまニカラグアとの連帯を国際世論にすることが重要だと考えていること、そのためには、いかなる国の人民も自国の運命を自分で決める権利をもっているという民族自決権の擁護を、世界の世論にしてゆく活動が重要だ、と話しました。カストロ首相は、深くうなずきながら「正しいと思う」と語りました。
“各国の革命運動の自決権の尊重は「キューバの方針」”

 そういう議論の中で、私は、自決権という角度から、疑問点となっていた三つの質問を提起しました。

 第一は、ラテンアメリカの問題です。私は、「ラテンアメリカの革命は一つ」という考えが、一部にせよこの大陸の革命運動のなかにあったことを話しながら、「あなた方は、ラテンアメリカ各国の革命運動の自決権を認めているのかどうか」と質問しました。

 カストロ首相の答えは明確なものでした。

 「われわれは各国の革命運動の自決権を尊重する。干渉的なやり方はキューバの方針ではない」。

 ゲバラの1966〜67年の行動の背景については、現在でもいろいろな説が流れています。しかし、カストロ首相のこの言明は、ゲバラ主義的な行動が、「キューバの方針」ではないことを、最高指導者自身による明確な宣言として示したもので、たいへん重要な意義をもつものでした。

 第二は、アフリカ諸国への軍事援助の問題です。アンゴラなどに「どんな立場で軍隊を送っているのか」という私の質問に対して、カストロ首相は答えました。

 「第三世界はいろいろ援助を要請してくる。アンゴラなどに軍隊を送ったのは特別の要請を受けたからで、例外的なものだ。その場合にも、われわれは内政には絶対に干渉しない。小さな国への援助では、とりわけ不干渉の立場が重大だ。

 われわれが援助として送りたいのは、軍隊ではなく、教師、医師、技師などだ。現在、キューバは2000人の医師を25カ国に、大部分無償で派遣している」。

 これも、納得のゆく説明でした。私は、キューバが、この社会が必要とする以上の多数の医師や教師を養成しており、人口当たりの医師の数では日本を上回っていることをよく知っていました。医師や教師は、キューバでは「インターナショナリスト(国際主義者)」と呼ばれています。これは、この人たちが、要請があればいつでも外国に支援に出かける用意のある人たちであることを示す言葉でした。
“十字架”の言葉。キューバの苦悩がそこに表現されていた

 私がカストロ首相にただした最後の質問は、より深刻な意味を持つ問題―アフガニスタンの問題です。

 「あなた方は、アフガニスタンに対するソ連の軍事侵略を、どういう立場から支持しているのか」。

 私のこの質問にたいして、カストロ首相は、先の二つの質問の場合とは違って、実に深刻な表情を顔に浮かべながら答えました。

 「ソ連に要求されたからではない。これは、社会主義国として、われわれが担うべき“十字架”なのだ」。

 苦悩の表情で語られた“十字架”とは、なにを意味するのか。私は、あえてその意味をただすことはしませんでしたが、自分が正しいことをしていると確信している時に出る言葉では絶対にありません。そこに不正義があることを自覚しているからこそ、出た言葉でした。その言葉を通じて、カストロ首相の苦悩とともに、率直に私たちの質問に向き合おうとする誠実さがおのずから伝わってきました。

 後日のことですが、日本を訪問したキューバ共産党の幹部が、この間の事情を説明してくれました。アフガニスタン問題が起こった時、キューバは非同盟諸国会議の議長で、その加盟国であるアフガニスタンがソ連からあのような軍事攻撃を受けたことで、キューバはたいへん困難な立場にたたされたのでした。軍事侵略の不正義を自覚しながら、「社会主義国の連帯」という“十字架”を捨てることができない、その苦悩があの言葉を生み出したのでしょう。

 会談は、最後に、両党関係の今後を話し合って終わりましたが、会談の結びの言葉のなかで、カストロ首相が、日本共産党が「原則を守る党」であることへの評価をくりかえし、「あなた方の党の役割は、あなた方の国でも、地域でも、世界でも非常に重要だ。あなた方の原則的な役割を守り続けること、そのために大きな役割を果たすことが大事だ」と力説したことは、自決権の問題で真剣な対話を重ねたあとだけに、いっそう強く心に残るものでした。

 エレベーターの前まで送ってきたカストロ首相と最後の挨拶を交わし、エレベーターの中で時計を見ると、午後10時45分、会談は実に3時間をこえていました。
◇ ◇ ◇

 この会談の7年後、ソ連・東欧の崩壊は、キューバをめぐる国際環境を激変させ、主要な貿易相手国を一挙に失ったキューバは、経済面でおそらく建国後最も困難な時期を迎えました。しかし、その困難を国民の団結で見事に切り抜け、21世紀には、キューバが先駆的に掲げた独立と民族自決の旗が、ラテンアメリカの全域に広がるという、新しい時代が開かれました。2010年には、この地域の33のすべての国が参加して、「中南米カリブ海諸国共同体」(CELAC)が設立されました。これは、多年にわたって「米国の裏庭」と呼ばれてきたラテンアメリカの屈辱の歴史に終止符が打たれ、ラテンアメリカが自立した躍動的な地域に変わったことを、世界に高らかに宣言したものでした。

 こういう巨大な変化が進行するなかで、32年前のカストロ首相との会談を思い起こし、また、1950年代から半世紀にわたってキューバ革命の先頭に立ってきたカストロ前議長の闘いの歴史をふりかえるとき、世界史に残したその足跡の大きさを、あらためて思わざるを得ません。

 その思いを込めて、この追想をカストロ前議長への追悼の文章とするものです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-02/2016120205_01_0.html


13. 2016年12月07日 17:06:56 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-7009]
2016年12月4日(日)
バラゲール・キューバ共産党国際部長と緒方副委員長が会談

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-04/2016120402_02_1.jpg
(写真)キューバ共産党のバラゲール書記局員・国際部長(右から2人目)と会談する緒方副委員長(その左)=2日、ハバナ市内の同党本部

 [ハバナ=菅原啓]日本共産党の緒方靖夫副委員長は2日、首都ハバナ市内のキューバ共産党本部でホセ・ラモン・バラゲール同党書記局員・国際部長と会談しました。

 バラゲール氏は、フィデル・カストロ前国家評議会議長の追悼集会(11月29日)への日本共産党代表団の参加に「心から感謝します」と述べ、礼状を手渡しました。

 緒方氏は、志位和夫委員長の弔文を手渡し、革命的情熱と事業の継続の決意があふれていたと集会の感想を語りました。

 バラゲール氏は、この機会にと前置きして、大きく変化する世界政治・経済の動向とキューバの立場について説明しました。

 緒方氏は、1月の日本共産党第27回大会で提起される内外情勢と党の任務について述べました。

 とくに核兵器廃絶の課題について触れると、バラゲール氏はキューバの核兵器廃絶の立場は不変、一貫していると強調し、強い連帯を表明しました。

 両氏は、トランプ氏が勝利した米大統領選の結果や中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)など地域統合の歴史的意義と展望について意見交換しました。

 会談には日本共産党の菅原啓国際委員会委員、キューバ共産党のヘルマン・フェラサ国際部アジア太平洋局長が同席しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-04/2016120402_02_1.html


14. 2016年12月09日 18:29:48 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-6971]
2016年12月9日(金)
ペレイラ・キューバ新大使と志位委員長が懇談

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-09/2016120902_02_1.jpg
(写真)懇談する志位和夫委員長(左)とキューバのペレイラ駐日大使=8日、党本部

 日本共産党の志位和夫委員長は8日、着任のあいさつのため党本部を訪問したカルロス・ミゲル・ぺレイラ駐日キューバ大使と懇談しました。

 ぺレイラ大使は冒頭、フィデル・カストロ前国家評議会議長の逝去にあたっての志位委員長の大使館への弔問、日本共産党代表のハバナでの追悼集会への参加に感謝を表明しました。

 志位氏は、カストロ前議長死去について改めて弔意を表明しました。

 志位氏はこの機会に1月に行われる党大会で重視している核兵器廃絶の課題と中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)について説明しました。

 両氏は、今日の日本とキューバの関係について意見を交換し、両国及び両党の関係をさらに発展させることを話し合いました。

 懇談には、日本共産党の緒方靖夫副委員長、菅原啓国際委員会委員、キューバ大使館のエリザベス・バルデスミランダ参事官が同席しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-09/2016120902_02_1.html


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