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難民支援でも国内は反発、メルケルに迫る正念場
熊谷徹のヨーロッパ通信
地方選は敗戦に次ぐ敗戦
2016年10月27日(木)
熊谷 徹
地方選敗戦の責任を認めた独首相のメルケル
アンゲラ・メルケルは2005年にドイツ連邦政府の首相に就任した。2010年以降は好景気を背景として国民の間で絶大な人気を誇っている。欧州最大の経済パワーを率いるメルケルは、リーマンショック、ギリシャ過重債務問題、ロシアによるクリミア併合とウクライナ内戦など様々な危機に対処し、欧州連合(EU)の事実上のリーダーとみなされてきた。
地方選挙で連敗
だがメルケルが2015年9月にシリア難民など約89万人にドイツへの入国と亡命申請を許して以来、彼女に対する国民の支持率は急激に低下した。メルケル率いるキリスト教民主同盟(CDU)は、今年春から秋にかけて、5つの州議会選挙で立て続けに負けた。
一方、メルケルの政策に真っ向から対立する右派ポピュリスト政党「ドイツのための選択肢(AfD)」は、大きく躍進した。この結果AfDは、ドイツにある16の州議会のうち、10州で議席を持つことになった。2013年に創設されたばかりの同党は、わずか3年で泡沫政党の地位を脱した。
まず3月に旧西ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州で行われた議会選挙で、CDUは得票率を前回選挙の39%から12ポイントも減らし、惨敗。メルケルの難民政策に失望した多くの保守主義者たちがAfDの下へ走り、この反イスラム政党は15.1%の票を確保し、この州で初めて議会入りを果たした。
CDUは隣の州ラインラント・プファルツでも得票率を4ポイント落とした。一方、投票者の12.6%がAfDを選んだ。このポピュリスト政党の躍進は、旧東ドイツで一段と目立った。同党はザクセン・アンハルト州で24.2%という驚異的な得票率を記録。投票者のほぼ5人に1人が、メルケルの難民政策に抗議するためにこの新政党に票を投じたのだ。CDUは逆に得票率を2.7ポイント減らしている。
ドイツで進行する「右派革命」
旧東ドイツでは失業率が西側よりも高く、西側の企業の投資が進んでいない。このため技能を持った若者が旧西ドイツへ移住する動きが止まらない。つまり旧東ドイツでは、「東西ドイツ統一によって負け組となった」と感じる市民が今でも多く、CDUなど伝統的な政党への不信感が強い。
この3つの州議会選挙で特筆すべきことは、前回の選挙に比べて投票率が大幅に上昇したことだ。バーデン・ヴュルテンベルク州では投票率が約4ポイント、ザクセン・アンハルト州では実に10ポイントも増えた。
つまり前回の選挙では棄権した有権者たちが、難民問題についての不満を自分の1票によってぶちまけるために、投票所へ足を運んだのだ。最近流行語となっているドイツ語に「Wutbürger」つまり「怒れる市民」という言葉がある。難民危機はこうした怒れる市民を、右派ポピュリスト政党に投票させる起爆剤となったのだ。この点からも、難民危機はドイツ社会をじわじわと変えつつある。
かつて社会からの疎外感を抱く人々は、緑の党などのリベラルもしくは左派の政党を支持した。1980年に結成された当時は泡沫政党だった環境保護政党「緑の党」が、支持率10%前後の中堅政党に成長したのは、「(当時、政権を担っていた)ドイツ社会民主党(SPD)の政策は保守的すぎる」と感じた人々が離反した結果だった。つまりリベラルな市民がSPDよりも左の政党を生む「左派革命」が起きたのである。
今同じことが、右派の間で起きている。つまりCDU・CSU(キリスト教社会同盟)よりも右の政党が生まれる「右派革命」が進行しているのだ。ナチスの過去を持つドイツにとって、右派革命は、緑の党の躍進よりもはるかにデリケートな問題である。貿易立国であるドイツにとって、右傾化は対外的なイメージの悪化につながるからだ。
CDUは首相のお膝元でも敗北
CDUの退潮は、9月に旧東ドイツのメクレンブルク・フォアポンメルン州で行われた州議会選挙でも、歯止めがかからなかった。AfDは20.8%もの得票率を記録して、第2党として議会入りに成功。逆にCDUは、得票率を23%から19%に減らして大敗。同党はSPD、AfDに次ぐ第3党の地位に転落した。AfD以外のほぼ全ての党が前回(2011年)の選挙に比べて得票率を落とした。
AfDが躍進した最大の理由は、同党がメルケルの難民政策を激しく批判したためである。市民の間では、メルケルの難民政策に対する不満が高まっていた。民間放送局N24が今年7月に実施した世論調査によると、回答者の57%が「メルケルの難民政策は失敗した」と答えた。また公共放送局ARDが9月1日に発表した世論調査によると、メルケルへの支持率は45%だった。これは、過去5年間で最低の水準だ。
AfDは、メルケルが昨年人道的な理由で行った難民受け入れ決定を批判し、亡命権を制限するよう求めている。同党は、「戦火を逃れてドイツに一時的に逃げてくる難民は受け入れるが、亡命する理由もないのにドイツに不法に入国する外国人は受け入れるべきではない。ドイツへの移民は、我が国の経済が必要とする知識や技術を持っているか、経済に貢献できるかどうかを基準に決めるべきだ」と主張してきた。
メクレンブルク・フォアポンメルン州は、旧東ドイツでも最も貧しい州の一つ。市民の間には、「多数の難民が流入したら、単純作業などの仕事を奪われるかもしれない」という不安感がある。AfDのメルケル批判は、市民の琴線に触れた。
この州でも投票率が前回の選挙から10ポイントも増えて、61.6%となった。前回棄権した66万6000人の無党派層のうち、5万5000人が今回投票所に足を運び、AfDに票を投じた。AfDは、CDUなどの伝統的な政党よりも、政治に無関心な有権者を動員する力を持っている。
今回の選挙結果は、メルケル個人にとっても痛打だ。メクレンブルク・フォアポンメルン州には、メルケルの連邦議会選挙での選挙区があるからだ。AfDはこの地域でもCDUなどの票を奪って躍進した。たとえばフォアポンメルン・グライフスヴァルト第3選挙区では、AfDの得票率が32.3%に達し、CDU(17.7%)に大きく水をあけている。有権者のほぼ3人に1人が、「難民が警官の制止を聞かずに国境を越えようとした場合には、武器を使ってでも侵入を止めるべきだ」と考える政党に票を投じたのは、驚くべきことである。
CDUとSPDが構成するメクレンブルク・フォアポンメルン州の大連立政権は、過去4年間に雇用を増やし、失業率を低下させることに成功した。同州の失業率は、2011年には12.5%だったが、2015年には10,4%に低下している。だが多くの有権者は、伝統的な政党がもたらした経済的な成果を高く評価するよりも、AfDが強調した「難民増加による脅威」を理由にCDUとSPDを罰する道を選んだ。つまり同州の有権者たちは、経済的な合理性よりも、難民政策に対する感情的な反発によって突き動かされたのだ。
首都ベルリンで史上最低の得票率
9月18日には、首都ベルリンで市議会選挙が行われた。ベルリン市は州と同格だ。このため首都での選挙は、市議会選挙と呼ばれていても、重要な意味を持っている。ところがCDUは、この選挙でも歴史的な敗北を喫した。同党は前回の選挙に比べて得票率を5.7ポイント減らして、17.6%しか取れなかった。これはベルリン市議会選挙におけるCDUの得票率としては、過去最低である。
これに対しAfDは14.2%の得票率を記録して初の議会入りを果たした。世論調査機関インフラテスト・ディマップの推計によると、前回の選挙でCDUに投票した市民28万8000人のうち、3万9000人がメルケルに背を向けてAfDに票を投じた。
ちなみにAfDは他の大半の既成政党にも痛打を与えた。社会民主党(SPD)の得票率は28.3%から21.6%に下がったほか、緑の党も得票率を17.6%から15.2%に減らした。
つまり今年のドイツでは、どの州議会選挙でもCDUなど伝統的な政党が得票率を減らし、AfDが2桁の得票率を確保するというパターンが定着したのだ。
AfDは保守層を侵食
特に、バイエルン州を地盤とするキリスト教社会同盟(CSU)――CDUの姉妹政党――の危機は深刻だ。CDUとCSUの中の超保守層、右派に属する人々は、メルケルの政策を「あまりにもリベラルで左派的」と考えている。彼らは昨年9月のシリア難民受け入れ以来、CDUとCSUを自分の「政治的故郷」と感じることができず、疎外感を日に日に強めているのだ。こうした人々がCDUとCSUに背を向け、AfDに票を投じている。
CSUは、自分たちよりも右に位置する党が誕生したことについて、特に危機感を強めている。2015年9月にメルケルがシリア難民の受け入れを決めた直後に、CSUのホルスト・ゼーホーファー党首(バイエルン州首相)が「この決定は、大きな誤りだ」とメルケルを批判し、「難民の毎年の受け入れ数を20万人に限定するべきだ」と要求したのは、AfDに支持者が奪われることを強く危惧したからである。彼の危惧は、現実のものとなった。
敗北の責任を認めたメルケル
ベルリンでの敗北が明らかになった直後、メルケルは記者会見で「今回の無残な開票結果には、失望している」と述べた。そして、メクレンブルク・フォアポンメルン州とベルリンでの「ダブル敗北」の原因は、彼女が2015年9月に行った難民受け入れの決定にあるとして、自身の責任を認めた。
メルケルは「難民受け入れの決定自体は間違っていなかった。しかし我々は長期間にわたって、難民流入の状態を十分にコントロールすることができなかった。あのような状況は、二度と起こしてはならないと思っている」と述べた。
ドイツには2015年、約89万人の難民が到着。連邦政府は、全ての難民の身元の特定や指紋登録などを行うことができなかった。つまり政府は一時的であるにせよ、難民入国を制御できない状態に陥ったのだ。メルケルがこれほど率直に政府の失敗を認めるのは、珍しい。
さらに彼女は「現在、難民危機への対処が遅々として進まないのは、我々が過去数年間に過ちを犯してきたからである。今や我々は問題を解決するために、通常よりも一層努力しなくてはならない」と付け加えた。
「時計を戻したい」
メルケルを含めてEU加盟国の首脳たちは、2010年以降アラブ世界が不安定となる兆候を見せ始めてからも、難民の大量流入に備えて、EU外縁部の警備体制を強化するなどの努力を怠ってきた。
ベルリン市議会選での敗北直後、メルケルは珍しく、気弱な発言を行った。「できることならば、時間を何年も逆に戻して、連邦政府と全ての責任者が、昨年夏に起きたような事態に十分に対処できるように、準備を整えたかった」。普段はポーカーフェイスを決め込むメルケルが、このような後ろ向きの発言を行い、悔悟の念を露わにするのは、極めて稀である。
さらにメルケルは「Wir schaffen das(我々は問題を解決できる)」という決意表明が、“内容のない空虚な言葉”になってしまったことを残念に思う」とも述べ、もはやこの言葉を使わないと明言した。
歴史認識に基づくメルケルの決断は正しかった
私は、メルケルが昨年9月にハンガリーで立ち往生していたシリア難民たちを受け入れたことは、正しかったと考えている。もしもメルケルが「EU法を曲げることはできないので、全ての難民はハンガリーで亡命申請をするべきだ」として、国境を閉鎖したら、全世界から「ドイツは非情な国だ」という非難の声が上がったに違いない。
1930年代から第二次世界大戦が終結するまで、ナチス・ドイツはユダヤ人や外国人、SPD党員、共産党員、シンティ・ロマ(いわゆるジプシー)、身体障害者らを虐殺したり、強制収容所に閉じ込めたりした。
戦後西ドイツ政府はこの歴史的事実を反省して、人権擁護を重視してきた。同国の基本法(憲法)の第1条は、「人間の尊厳は、絶対に侵してはならない。人間の尊厳を守ることは、国家の義務である」という言葉で始まっている。この言葉には、狂った国粋主義、人種差別主義に基づき、ナチスが人権を踏みにじったことに対する深い反省が込められている。
ドイツの憲法が亡命権を基本的な権利の一つとして明記していることも、戦争中の体験に基づく。多くのユダヤ人や反体制派は、外国に亡命することによって、ナチスの迫害から逃れて生き延びることができたからである。後にドイツ連邦政府の首相になるヴィリー・ブラントもその一人。彼はスウェーデンに亡命できたおかげで命拾いした。
今日のドイツの亡命申請規定は、他国に比べて寛容だ。外国人がドイツ国内に入って、「亡命を申請する」と言った場合、ドイツ政府は審査が済むまでの間、この外国人に滞在場所、食事、医療サービスを無償で提供しなくてはならない。さらに、小遣いまで支給する。
今日のドイツが、ナチス・ドイツと訣別した「人権重視国家」であることを世界に示すために、メルケルはシリア難民たちを受け入れた。危機に際して、規則よりも人間の尊厳を重んじる国であることを、行動によって立証した。もしもドイツが昨年9月に国境を閉ざしていたら、イスラエルや米国などから「まるでナチス・ドイツのようだ。ドイツは人間の尊厳よりも規則を重視するのか」と批判されたに違いない。
しかも、当時東欧諸国やフランス、英国など他のEU加盟国は、シリア難民の受け入れに消極的だった。EUもまた第二次世界大戦の惨禍に対する反省から生まれた国際機関であり、人権擁護を重視するという大義名分を持っている。だが、その活動は振るわない。昨年の夏には船で地中海を渡ろうとして溺れ死んだり、ドイツへ向かう保冷車の中で窒息死したりする難民の数が増えていた。それにもかかわらず、EU政府に相当する欧州委員会は、手をこまねくだけだった。
メルケルは、難民危機がエスカレートしていたにもかかわらず、EUが救済のイニシアチブを取らないことに業を煮やし、ほぼ独断でシリア難民の受け入れに踏み切った。ある意味でメルケルは、「人権重視」を建前とするEUの名誉も守ろうとしたのだ。ドイツの首相は、時には100人が反対しても、自分が正しいと思う道を選ばなくてはならない。私は26年前からこの国に住む外国人の1人として、「メルケルは、戦後ドイツの首相として正しい道を選んだ」と確信している。
メルケルの失敗
メルケルがおかした失敗の一つは、英仏など他のEU加盟国の協力を取り付けることができなかったことだ。毎日1万人の難民が到着するという戦後最悪の危機は、EU随一の経済大国ドイツにとっても、荷が重すぎた。メルケルは、2015年9月に国境を開放した時、事前にフランスと英国に相談することをしなかった。その後ドイツの外交官たちが、難民の割り振りを要請しても、英仏など他のEU加盟国は「ドイツが勝手に招いた事態なのだから、自分で責任を取れ」と冷淡な姿勢を見せた。
欧州委員会によると、2015年にドイツで亡命を申請した外国人の数は44万1800人。フランスは約6分の1の7万570人。英国は約11分の1の3万8370人。ドイツは、EU域内で亡命を申請した外国人の35.2%を受け入れた。これに対しフランスは5.6%、英国は3.2%にすぎない。これらの数字は、メルケルが他のEU主要国の説得に失敗したことを如実に物語っている。
EUの女帝は、難民危機によって崩壊した「ヨーロッパの連帯」を修復することができなかったのだ。もしもドイツに到着した難民が、他のEU加盟国にも分配されていたら、AfDのような右派ポピュリスト政党がドイツでこれほど躍進することはなかったかもしれない。メルケルの人道主義に基づく政策は、皮肉にもAfDにとって追い風になってしまったのだ。
さらにメルケルは、「Wir schaffen das(我々は問題を解決できる)」というスローガンを繰り返すばかりで、難民危機を解決する具体的な手段を市民に提示することができなかった。このコミュニケーション不足も、メルケルが犯した失敗の一つだ。
2017年がメルケルの運命を決める
2017年は、ザールラント(3月26日)、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン(5月7日)、ノルトライン・ヴェストファーレン(5月14日)で州議会選挙が行われるほか、9月には連邦議会選挙を控えた重要な「選挙の年」である。このうち、ノルトライン・ヴェストファーレン州はドイツで最も人口が多い州なので、国政選挙の行方を占う重要なバロメーターとなる。
現在メルケルが直面している状況は、前任者だったゲアハルト・シュレーダーが2004年から2005年前半にかけて体験した運命と二重写しだ。シュレーダーは2003年に「アゲンダ2010」を断行。雇用市場と社会保険制度に大きくメスを入れ、庶民の痛みを伴う改革を推し進めた。その結果、彼が率いるSPDは州議会選挙で立て続けに負けて、シュレーダーは2005年の連邦議会選挙で惨敗し、政治生命を絶たれた。
メルケルが抱える最大の問題は、後継者選びだ。SPDばかりでなく、CDU・CSUにもメルケルほどの影響力と経験を持ったベテラン政治家はいない。小粒の「政治屋」ばかりだ。メルケルは2016年の連邦議会選挙に首相候補として再出馬するかどうかについて、まだ明らかにしていない。今年ドイツに入国する難民の数は、30万人前後と推定されている。昨年のほぼ3分の1だ。メルケルとしては、難民数が減少することで国民の不安感が鎮まり、自分に向かう批判の矢が減ったと判断すれば、CDU・CSUの後継者不足を理由に、再出馬しようとするかもしれない。
SPDのガブリエル党首は、「メルケルとは大連立政権を組まない」と発言したことがある。だが、AfDの伸張に歯止めをかけるという大義名分を掲げ、前言を翻して再びCDU・CSUとの大連立を受け入れる可能性がある。現在AfDの支持率は約12%。来年の総選挙で初めて連邦議会入りすることが確実視されている。
右派ポピュリスト政党の大躍進という、戦後初めての事態を前にして、伝統的な政党はどのように対処するのか。失われた国民の信頼を、どのように回復するのか。2017年が「欧州の女帝」メルケルの運命を左右する、正念場の年となることは間違いない。
このコラムについて
熊谷徹のヨーロッパ通信
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/102400021/
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