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(回答先: パレスチナ暫定自治政府議長が英国に謝罪要求〜「バルフォア宣言」から来年で100年/nhk 投稿者 仁王像 日時 2016 年 9 月 23 日 05:51:42)
1982年「サブラ・シャティーラの虐殺」、今も国際社会の無策を問い続ける〜イラク戦争でもシリア内戦でも犠牲になるのは市民/川上泰徳
2016年09月22日
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/09/1982_1.php
(抜粋)
<レバノン・ベイルートのパレスチナ難民キャンプで起こった大規模な虐殺から34年がたった。犠牲者数は数百人〜3000人台。イスラエル軍は間接的な責任しか問われず、遺族は今も「罪を問うことをやめない」と誓う。市民の保護に無力で、無策だった国際社会の対応を浮き彫りにする事件だが、中東では今も同様の悲劇が続いている>
9月16日に、レバノンの首都ベイルート南郊のシャティーラにあるパレスチナ難民キャンプを訪れた。
記念行事の中でシャヒーラ・アブルテイナさん(58)が、遺族を代表して「私たちは決して虐殺のことを忘れることはないし、虐殺を行った者たちの罪を問うことをやめもしない」とスピーチをした。
虐殺は、イスラエル軍のレバノン侵攻とベイルート包囲によってパレスチナ解放機構(PLO)の戦士がベイルートから退去した後、親イスラエルのキリスト教右派民兵がキャンプ地域に入り実行した。犠牲者数は数百人台から3000人台まで、様々な説がある。死者数が確定されないのは、多くの大規模虐殺事件に共通することである。犠牲者が家族ごと死んで集団で埋葬されたり、行方不明のまま死亡が確認されなかったりする例が多いためだろう。
私は、遺族代表でスピーチをしたシャヒーラさんを8年ほど前にインタビューしたことがあり、今回もあらためて話を聞く機会を持った。虐殺で、父親と夫、弟、妹、甥の5人を殺された。
虐殺は9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りで始まった。シャヒーラさんの家はサブラ通りから7メートルほど中に入ったところにある。空に曳光弾が撃たれて明るくなり、銃撃音が聞こえた。家には16人が固まっていた。夜遅く、17歳の妹が「外を見てくる」と言って通りに出た。しばらくして、「助けて」という悲鳴が聞こえ、65歳の父親が出て、そのまま2人とも帰らなかった。外で虐殺が起きていることは疑いなかった。この時、シャヒーラさんは半月前に生まれた3男を抱え、2人の息子と、1人の娘の4人の子供と一緒にいた。弟夫妻、甥夫妻やその子供など残った14人の家族はまんじりともせず、朝を迎えた。
午前5時ごろ、10数人の民兵が家に入ってきて、家族を外に引き出した。夫や弟、甥を家の前の壁に並べて、自動小銃を掃射し、崩れ落ちたところを、ナイフやバルタと呼ばれる手斧を持った民兵が襲い掛かって、とどめを刺した。惨劇は、シャヒーラさんら女性たちの目の前で行われた。シャヒーラさんらはそのままキャンプの外に連れて行かれた。通りに出たところに、父親と妹の遺体があった。
サブラ通りは遺体で埋まっていた。腹を切り裂かれた女性の遺体もあったという。女性も子供も無差別に殺された。虐殺直後に現場で撮影された写真の中には、殺された子供たちの写真もある。子供とともに助かったシャヒーラさんはむしろ例外的である。
シャヒーラさんは「34年たったいまでも、目の前で夫や弟を殺されたことや、通りの恐ろしい光景は鮮やかに覚えている。決して忘れることはない」と語る。父と夫を失って、幼い4人の子供を育てるのは、並大抵の苦労ではなかった。生後15日だった3男のマーヒルさんは、小学校2年でドロップアウトして、オートバイ修理の使い走りで働き、家計を助けた。いま、マーヒルさんは虐殺があったサブラ通りに面してオートバイ修理の店を構えるまでになった。彼の前向きなバイタリティは、家族の支えである。
「民間人しかいない。降伏する」と代表団を送ったが
虐殺については、当時、国連総会で「ジェノサイド」とする決議が採択された。しかし、決議は言葉だけに過ぎなかった。イスラエル軍が包囲下のパレスチナ難民キャンプに敵対する右派民兵を入れたことについて、イスラエル軍と当時の国防相アリエル・シャロンらイスラエル政府の責任を問う声は強かったが、結局、責任はあいまいにされた。
当時、イスラエルが設立した虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」の報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に「虐殺の間接的な責任」があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、さらに虐殺が起こっているという報告が出ていたのに、それを制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。しかし、イスラエル軍もシャロンも、虐殺についての「直接的な責任」を問われたわけではない。
報告書では、シャロンはベイルート入りし、虐殺が始まる2日前の9月14日に参謀総長ら軍幹部と協議し、キリスト教右派民兵をキャンプに入れることに同意したと明らかにされている。さらに前日の15日には、シャティーラキャンプから200メートルしか離れていないイスラエル軍陣地からキャンプを見下ろしながら、当時のベギン首相に「キャンプでは抵抗はない。作戦は順調に行っている」と電話し続けていた。
改めて読み返してみても、奇妙な調査結果であり、奇妙な国際社会の対応だと思わざるを得ない。シャロンはその後、イスラエルの首相となり、9.11事件の後、対テロ戦争を始めたブッシュ米大統領と呼応して、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府大統領のアラファトをヨルダン川西岸で包囲して、82年のベイルート包囲を再現することになった。
サブラ・シャティーラの虐殺は、34年たっても、パレスチナ人の記憶に残り、毎年、更新されていく。それは、人々の間に深い傷跡を残しているだけでなく、「パレスチナ人の受難」が現在まで繰り返され、「サブラ・シャティーラ」がそれを象徴する出来事となっているためであろう。
いまもシャティーラキャンプで虐殺について聞くと、虐殺前日の夕方、キャンプの会合でイスラエル軍に降伏を申し出る代表を送ったという話が出てくる。会合に参加した人物の話では、約50人が集まって、キャンプを包囲しているイスラエル軍に「キャンプには民間人しかいない。降伏する」と伝えるために、5人の代表を選んだという。キャンプには民間人しか残っていない。200メートルしか離れていないイスラエル軍の陣地に代表団を送ったのは、ただならぬ状況の中での決断だった。しかし、代表たちは出発したまま、戻らなかった。
人々の口から、この話がたびたび出てくるのは、丸腰の市民が争いを避けようとする必死の思いが踏みにじられたことの無念さのゆえであろう。
イラク戦争でもシリア内戦でも犠牲になるのは市民
悲劇は、82年の虐殺だけではない。シャティーラキャンプは1975年から90年まで15年続いたレバノン内戦の間に7回、破壊されたといわれる。イスラエル軍の絡みだけでなく、85年から87年には、シーア派民兵組織の包囲攻撃を受けた「キャンプ戦争」でキャンプの8割が破壊され、2500人が死んだ。最長6カ月の包囲もあり、キャンプ全体が飢餓状態になったこともある。
「サブラ・シャティーラ」は、戦争での民間人の犠牲の象徴でもある。2008年から2014年までに3回繰り返されたイスラエルによる大規模なガザ攻撃にもつながる。特に空爆による犠牲者の大半が民間人である。国際的な人権組織はイスラエル軍の「戦争犯罪」に言及するが、それが国連などで正式に問われることはない。
さらに、戦闘での民間人の犠牲という意味では、今年6年目を迎えるシリア内戦でも、政権軍による反体制地域への空爆や樽爆弾投下などで、より大規模に繰り返されている。反体制地域では他にも、過激派組織「イスラム国」による市民への攻撃とともに、それ以外の反体制組織による市民への圧力や暴力も報告されている。
当初は、市民による非暴力デモとして始まった運動が、政府の武力制圧とそれに対する武装抵抗から内戦化し、いつの間にか第2次世界大戦後最悪の紛争となり、人道的悲劇をもたらしている。市民の保護に無力で、無策だった国際社会の責任が問われるべきであろう。
それは「サブラ・シャティーラ」に象徴される虐殺や戦争で、武力行使をする者が、何ら責任を問われないということが繰り返されてきた結果である。
中東で取材していると、なぜ、これほどまでに市民の命が軽んじられているのかと思わずにおれない。大きな理由として、中東に市民社会があることが忘れられ、武装勢力とテロリストしかいないような先入観が欧米にも、日本にも強すぎるのではないだろうか。つまり、中東とのかかわりは、軍の領域だという思い込みである。
しかし、イラク戦争とその後の米軍駐留を取材した経験から言えることは、軍に市民的な人権に配慮せよということ自体、大きな限界があるということである。イラクだけではない。シリアでも、パレスチナでも、リビアでも、エジプトでも、軍や武装勢力や民兵が舞台の上に出てきた段階で、市民の人権は無にされると考えるしかない。
9.11事件以来、民間人を無差別に殺傷するテロに対しては、国際社会は厳しい目を向けるようになった。しかし、その結果が、軍を使っての対テロ戦争であり、その陰で多くの市民が軍事作戦の犠牲になっている。イラク戦争でも、シリア内戦でも、正規軍と外国軍と反体制武装組織や民兵が互いに戦闘と破壊を繰り返し、軍事的にエスカレートし、結果的に犠牲になっているのは常に市民である。シリアで500万人近い難民が出ているのは、市民社会が破壊された結果である。
イスラエル軍と民兵によって市民が犠牲となった「サブラ・シャティーラ」の教訓は、「市民の保護」に無力な国際社会の対応の在り方を、いまも問い続けている。
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