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危険にさらされている民主的資本主義 世界が向かう先は、金権政治か人民投票的独裁か?(Financial Times)
http://www.asyura2.com/16/kokusai15/msg/236.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 9 月 08 日 00:53:16: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

マケドニアのゲブゲリヤ付近で、ギリシャとの国境を越える移民(2016年2月23日撮影、資料写真)。(c)AFP/Robert ATANASOVSKI〔AFPBB News〕


危険にさらされている民主的資本主義 世界が向かう先は、金権政治か人民投票的独裁か?
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47814
2016.9.8 Financial Times


(英フィナンシャル・タイムズ紙 2016年8月31日付)

 自由民主主義とグローバル資本主義の結婚は長続きするものなのだろうか。西側諸国における昨今の政治状況――特に、世界で最も重要な民主主義国で権威主義的なポピュリストが大統領候補になっていること――ゆえに、この問いかけの重要性は高まっている。

 西側世界を導き、そのほかの国々にとっても過去40年にわたって西側の魅力の源泉になっている政治経済システムの成功は、決して当然視できるものではない。では、このシステムがもし機能しなくなったら、その次に登場するのはどんなシステムなのだろうか。

 自由民主主義(普通選挙権と確固たる公民権・人格権)と資本主義(財、サービス、資本、そして自分自身の労働力を自由に売買できる権利)との間には、自然なつながりが存在する。民主主義と資本主義は、人は個人および市民として自ら選択すべきだという信念を共有している。双方とも人には主体的に行動する権利が備わっているとの見方を前提としている。人間はほかの人間が権力を行使する対象としてだけでなく、主体的行為者でもあると考えなければならない、ということだ。

 とはいえ、民主主義と資本主義の間に緊張関係も存在することは容易に分かる。民主主義は平等主義で、資本主義は反平等主義だ。少なくとも、結果に対してはそうだ。経済の低迷が続いたら、過半数の人々は1930年代と同様に権威主義を選択するかもしれない。経済活動の結果があまりに不平等なものになったら、裕福な人々は民主主義国家を金権国家に変えてしまうかもしれない。

 歴史的には、資本主義の発展と、選挙権の拡大を求める圧力の高まりが両立していた。世界で最も裕福な国々が、多かれ少なかれ資本主義の経済を備えた自由民主主義国であるのはそのためだ。幅広い層の人々が実質所得の増加を享受したことが、資本主義の正当化と民主主義の安定化において極めて重要な役割を果たした。

 だが、今日の資本主義では、そうした豊かさの向上を生み出すことが以前よりはるかに難しくなっている。それどころか、不平等の拡大と生産性の伸びの鈍化を裏付ける証拠がある。この有害な組み合わせは、民主主義を不寛容にし、資本主義の正当性を蝕む。

 今日の資本主義はグローバルだ。これもまた、自然なことだと見なせる。放っておけば、資本主義者は自分たちの活動を特定の国や地域に制限しない。利潤を得る機会がグローバルに存在するのなら、資本主義者の活動もグローバルになる。その結果、経済活動を行う組織もグローバルになる。大企業などは特にそうだ。

 しかし、ハーバード大学のダニ・ロドリック教授が指摘しているように、グローバル化は各国の自律性を抑制する。教授が書いたところによれば、「民主主義、国家主権、そしてグローバルな経済統合の3点は相いれない。2つまでならどの組み合わせも可能だが、3つを同時に、かつ完全に満たすことは決してできない」。

 なるほど、各国が独自の規制を自由に設定できれば、国境を越えて商品を売買する自由はいくらか損なわれる。逆に、貿易の障壁を取り除いて規制も統一すれば、今度は各国の立法の自律性が制限されてしまう。特に、資本が国境を自由に越えられるようになれば、各国が自国の税制や規制を自由に決めることは難しくなるだろう。

 さらに、グローバル化が進む時期に共通して見られるのが、大量の移民の発生だ。多くの人々が国境を越えて移動するときには、個人の自由と民主国家の主権との間にこれ以上ないほど激しい軋轢が生じる。前者は、人はどこでも好きなところに移動できるようにすべきだと主張し、後者は、市民権は集団的財産権であり、その権利へのアクセスは市民が制御すると主張するからだ。

 一方で企業は、従業員を自由に雇えることは非常に価値のあることだと考える。移民の問題が現代民主政治の避雷針になってしまったことは、単に不思議でないだけではない。移民は今後、各国の民主主義と、グローバルな経済的利潤獲得のチャンスとの間で軋轢を生むことになる。

 グローバル資本主義は近年、残念なパフォーマンスに終わっている。特に残念なのは世界金融危機のショックと、我々の政治経済をつかさどるエリートたちへの信頼が大きく損なわれたことだ。そう考えると、自由民主主義とグローバル資本主義の結婚が長続きするとの見方は、妥当でないように思えてくる。

 では、これに取って代わる可能性があるものは何なのだろうか。まず考えられるのは、グローバルな金権政治が台頭し、国レベルの民主主義が事実上終わりを迎えるというシナリオだ。ローマ帝国のときのように、共和国という政体は残るかもしれないが、その実体はなくなってしまうだろう。

 これと正反対のシナリオは、自由でない民主主義あるいは露骨な人民投票的独裁の台頭となるだろう。人民投票的独裁とは、選挙で選ばれた支配者が国家と資本主義者の両方をコントロールする仕組みのことで、今ではロシアとトルコでこれが起きている。

 このシナリオが実現した場合、コントロールされた国家資本主義がグローバル資本主義に取って代わることになる。1930年代に起こったことに似た状況だ。まさにこの方向に進みたいと思っている政治家は西側諸国にもおり、それが誰かを見極めることも難しくはない。

 一方、自由民主主義とグローバル資本主義の両方を維持したいと思う我々は、いくつかの重要な問いかけに向き合わねばならない。第1の問いかけは、既存の企業を守るために、各国の規制当局の裁量を制限する国際的な取り決めをさらに推進することは理にかなっているのか、というものだ。

 この問題について筆者は、ハーバード大学のローレンス・サマーズ教授の見解に次第に近づきつつある。「国際的な取り決めというものは、共通化がどの程度なされたかとか、どれだけの障壁が撤廃されたかではなく、市民にどれだけの力が与えられるのかという観点から判断すべきである」と教授は話している。

 確かに貿易は利益をもたらすが、いかなる代償を払ってでも推進するというわけにはいかない。

 何にも増して、我々の民主政治制度の正当性を維持したいのであれば、少数の限られた人々ではなく、多くの人々に利益をもたらすような経済政策を進めなければならない。政治家が説明責任を負っている一般市民の利益を優先する必要がある。

 もしそれができなければ、我々の政治秩序の土台は崩れてしまうように思われる。自由民主主義と資本主義の結婚にはいくらか支援が必要だ。長続きするのが当然だと思ってはいけない。

 

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