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ルワンダの発展に力を貸すアメリカの深謀遠慮
旅の形、国の形(ルワンダ)
2016.9.3(土) 原口 侑子
ルワンダの首都キガリの街並み(筆者撮影)
ルワンダ南部の町ブタレ近郊にある虐殺記念館には、おびただしい数の虐殺被害者の骨とミイラが安置されていた。安置所に一歩足を踏み入れると、石膏の乾いたにおいの中に、饐(す)えた時間のにおいが混ざっている。
ブタレ・首都キガリにある2つの虐殺記念館は、違和感ばかりだった。
展示は加害者側の民族とされるフツ族の非難に終始していて(確かに虐殺には加害者/被害者がいるのだが)、その背景に関する歴史的記述は予想外に少なかった。ルワンダがベルギーの植民地だった時代の民族関係や、結局何がこの虐殺を引き起こしたのかといったことについては、あまり言及されていなかった。
どうやら、展示には立場があるようだった。フツ族を支援していたフランスは当然激しく非難されていたが、アメリカの不介入についての言及は薄く、ざっくりと国際連合の失態というような形でまとめられていた。
よく見ると、入場無料の記念館入り口には透明の募金箱が置かれていて、床はピカピカに磨かれて白く光っている。維持にはかなりお金がかかっていると見える。と思ったら、この記念館の設立者はイギリス・アメリカ系のトラストであった。
何か目に見えない力が働いているような気がした。
ルワンダ虐殺の際に避難民をかくまったことで知られる「ホテル・ミル・コリンズ」の看板(筆者撮影)
キガリの虐殺記念館(筆者撮影)
水面下に存在する民族間の壁
ルワンダはいまやアフリカの中の先進国だ。首都キガリの中心部はアフリカの他のどの都市よりもすっきりと整備されている。
アフリカではお馴染みのバイクタクシー3人乗り4人乗りも、キガリでは「法令で禁止」されているらしく見かけなかったし、バイクに乗る客にはヘルメット着用が義務付けられていた。新しいビルがにょきにょきと生えていて、スマホを持つ人もよく見かけた。IT立国をうたっているだけあって、インターネットもわりと通じた(私が訪れたのが2013年だったので、今ではもっと通じているに違いない)。そして何よりもここは、他のアフリカの諸都市よりも格段に、静かだった。
私はルワンダに行くことを伝えた友人の多くから「大丈夫?」と心配の声をかけられた。「内戦あったよね?」「虐殺とか・・・もう復興してるの?危なくない?」 虐殺とかは、もう20年も前のことだ。危なくはない。むしろ治安はアフリカトップクラスに良い。それでも、その場所についたイメージはなかなか消えない。
悪名高いルワンダ虐殺が起こったのは1994年の4月から7月。単純化すると、当時政権を握っていた多数派のフツ族が、少数派のツチ族を虐殺したという事件で、被害者数は3カ月で50万人とも100万人とも言われている。
ルワンダは、独立前は、少数派のツチ族が多数派のフツ族を支配していた。独立後は支配が逆転し(フツ族が支配民族になった)、民族対立はツチ族への弾圧という形に変わった。弾圧がエスカレートする中で、1994年、フツ族大統領の暗殺をきっかけに3か月間の虐殺と、それに伴う一連の紛争が起こった。
凄惨な虐殺を前にして、アメリカをはじめとする国際社会は介入を躊躇した。その中で、今のルワンダ大統領ポール・カガメ将軍が亡命先のウガンダから戻って、混乱を収める。
それから20年が経ち、カガメ将軍は大統領となって、開発独裁でルワンダを一気に豊かにした。ルワ ンダの成長の背景には、ルワンダ虐殺を止められなかった罪滅ぼしに開発援助を注ぎ込む欧米マネーもあるし、世界各地から戻ってきた亡命ルワンダ人の活躍も あるが、カガメ大統領の治世に負う部分は大きいと言われる。
ルワンダのカガメ大統領(左)とウォルフォウィッツ世界銀行前総裁(出所:Wikipedia)
さらに、カガメ大統領は紛争後、「フツ族・ツチ族」という呼称を廃止している(同じ民族構成の隣国ブルンジが、2005年に定めた憲法で、ツチ/フツの民族構成に応じて政治ポストの構成割合を決めたのとは対照的だ)。公式な民族の別はなくなり、表面上は、民族は融和して平和に暮らしているように見える。
ただ、今も水面下では、民族の別は存在しているようだ。政府の上層部、警察や司法の要職はツチ族が占めているというのは公然の事実であるようだし、在住外国人たちからは、言論統制の緊張感も聞く。「ツチ族政権」を批判することはできないのだとか。
今のルワンダが「ツチ族政権」の国なのだとすると、ルワンダは独立前の支配構造に戻って、支配民族がフツ族からツチ族に再び代わったというだけではないか? 歴史はまた繰り返すのだろうか? そんな無責任な疑問にもとらわれる。
これは安易な問いなのかもしれない。私たちは20年前のことを経験したわけでもないから、本当のところは分からないし、「ルワンダで起きることはすべて虐殺の文脈で語られる」という時期はもう過ぎているのかもしれない。言論統制にも、民族対立とは別の力学が働いているのかもしれない。遠くのことを想像するにはいつも、勇気が必要だ。
コンゴへの足掛かりがほしいアメリカ
実際、物事はそう単純ではなさそうだ。
実はルワンダは今やフランス・ベルギーといった仏語圏の影響を退け、英連邦に加盟している。公用語にも英語が採用されるようになった。フランスやベルギーよりも、アメリカ・イギリスに与した方が、国家運 営上よいというカガメ大統領の判断であろう。
ルワンダ(地図の中央)、コンゴ、ウガンダの位置関係。(Google map)
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今なお続くルワンダと隣国コンゴの泥試合にも、背後にイギリスやアメリカの気配が見て取れる。
20年前、虐殺を鎮めたカガメ将軍は、西の国境を越えてコンゴ東部へ逃亡するフツ族たちを追いかけた。逃亡したフツ族難民は、コンゴ(当時 ザイール)の大統領モブツと結びつく。一方、カガメ率いるツチ族主体の新生ルワンダ(とウガンダ)は、コンゴ人のカビラが率いる現地の反政府組織(AFDL)と結びつき、クーデターでモブツを追い落とす(内戦その1)。
ところがその後、モブツの後に大統領の座に収まったカビラはルワンダ・ウガンダ勢力を国から追い出そうとする。そこで怒ったルワンダは、また別の反政府組織(RCD)と結びつき、内戦をけしかける。そのうちカビラは暗殺される(内戦その2)。
次の大統領(カビラの息子)もカガメ・ルワンダを敵視したために、ルワンダはさらなる反政府組織(M23)を支援してコンゴ政府に揺さぶりをかけ、内戦は今も続いている(内戦その3)。
こうしてルワンダは、手を変え品を変えコンゴに介入する。
その理由は、虐殺関係者やフツ族たちを深追いしているだけではない。コンゴに眠る資源を狙った欧米の後押しが大きい。
コンゴへの足掛かりがほしいアメリカは、背後でルワンダの「ツチ政権」と結びつき、当初はルワンダのコンゴ介入を黙認していた。アメリカがやっとルワンダのコンゴ介入を非難し、ルワンダへの援助を一部止めるようになったのは、ここ数年のことである。
カガメ大統領の強さには敬服するし、強さだけでなく、乱世を俯瞰する眼が彼にはあると見える。某中国史漫画の敵将の知を彷彿とさせる。アフリカの要所にあるという地の利を使って、九州よりも面積の小さなこの国を栄えさせている力は伊達ではない。
ただ、その状況をもっと俯瞰しているのはアメリカやヨーロッパの大国たちだ。彼らは権益こそ持っているものの、所詮は外者である。安全地帯にいながら、権益を拡大するために遠隔で糸を引くというのは大国の常だ。分かっていても、どこかぞっとするところがある。20年前の一連のルワンダ紛争も、イギリス・アメリカ対フランス・ベルギーの代理戦争だったと評する向きもある。
結局ルワンダでは1カ月弱を過ごした。ルワンダ滞在の最後に、コンゴ国境の町キブイエを訪ねた。ルワンダとコンゴを隔てるキブ湖に沈む夕陽は大きく、湖面はその向こうにある乱世を想像もさせないくらい、穏やかだった。私はキブイエに住む友人たちとヤギ肉を食べて、橙色の夕陽を見送った。
キブ湖に沈む夕陽(筆者撮影)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47775
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