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世界遺産「西洋美術館」とコルビュジエの視線
時効スクープ 〜今だから、聞けた
滞在8日間、稀代の建築家は日本の何に惹かれたのか
2016年7月20日(水)
吉田 卓哉、片瀬 京子
ル・コルビュジエ。黒縁眼鏡と蝶ネクタイがトレードマーク
フランスの名建築家、ル・コルビュジエが設計した17の建築物が、2016年7月、世界遺産に登録された。名だたる17の建築物には、東京・上野にある国立西洋美術館も名を連ねている。国立西洋美術館は、コルビュジエが設計した日本唯一の建物。7月20日放送の『アナザーストーリーズ』(NHK BSプレミアム、21時から)では、コルビュジエを愛する建築家・伊東豊雄がその国立西洋美術館を案内し、『世界ふれあい街歩き』でおなじみのブレのない映像での建築物を紹介し、テレビの前に居ながらの名建築巡りを提供する。
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コルビュジエが日本で唯一設計した国立西洋美術館。世界遺産に登録された
伝統より合理性、都市改造の誘惑
国立西洋美術館がオープンしたのは1959年6月、戦後14年目のことだ。戦時中にフランス政府に没収された実業家・松方幸次郎の西洋画コレクションの返還寄贈が決まったことを受け、日仏国交回復の象徴として新美術館の建設が決まり、その設計者にコルビュジエが選ばれたのだ。すでにコルビュジエは、17階建ての高層アパート『ユニテ・ダビタシオン』や20世紀の最高傑作とも呼ばれる『ロンシャンの礼拝堂』で名をはせた人物だった。
フランスにあるロンシャンの礼拝堂。カトリック・ドミニコ会の巡礼地として建てられた
スイスに生まれ、フランスで活動してきたコルビュジエは1931年に完成した個人宅『サヴォア邸』の設計でその名を知られる存在になりつつあった。当時の建築物には珍しい大きな窓や屋上庭園は、伝統を冒涜するものと受け止められたが、しかし、流行していた結核の当時の予防法は、日光浴。だったら自然光を取り入れやすい家がいい。コルビュジエは、伝統よりも合理性と住む人を優先させていた。
サヴォワ邸。コルビュジエ初期の作品で、コルビュジエが唱えた近代建築5原則が明確に表現されている
そのコルビュジエには、第二次世界大戦に苦い思い出がある。
開戦直後、勢いがあったのはフランスよりもドイツだった。パリはすぐさま陥落し、1940年6月、ヴィシー政権が誕生する。これは、ヒトラーの傀儡政権だ。その政権に、コルビュジエは協力を申し出た。進められていた都市改造計画に興味を持ったからだ。
しかし、期待していたような仕事は与えられず、1944年8月、パリに入っていたドイツ軍が降伏することで政権は崩壊し、終戦を迎える。コルビュジエはつくりたかったものをつくれず、ただ、ヴィシー政権に擦り寄った建築家という評価だけをその手に残した。
権力に擦り寄った愚か者から、一変
そこからコルビュジエと、戦争で大きな被害を受けたフランス南部の港町・マルセイユの再生が始まる。コルビュジエは復興住宅の建設を任され、そしてつくられたのがユニテ・ダビタシオンだった。広くはないが機能的な部屋が幾つも並ぶ、当時には斬新すぎる団地のような建物だ。
そのユニテ・ダビタシオンは散々な言われ方をした。“愚か者の館”“神経衰弱に陥る”“道徳的秩序の支障”“非人間的な環境づくり”・・・・・・。ついにはフランスの公衆衛生高等評議会は、このユニテに住むことを禁じる。
しかし、意に介さず暮らし始めた住人からの評判は上々だった。なぜなら、暮らしやすかったから。ユニテとコルビュジエへの評価は一変した。
そのコルビュジエが、日仏友好の証とも言える美術館の設計に取りかかる。
もちろんコルビュジエは、設計に先だって視察のため日本を訪れた。ただし、滞在期間はたったの8日間。このとき、コルビュジエは何を見て何に関心を抱き、何には飽きたのか。それが、フランスに残してきた妻に宛てたはがきや、同行した弟子の吉阪隆正の日記、回想から明らかになる。
「羽田はどこの飛行場よりも素晴らしい、なぜならば・・・・・・」と取材に来た新聞記者をからかったかと思うと「東京に小鳥が少ないのは、こんな原因があるからでは」とエスプリの国の人らしく考察してみせる。
寺より仏像より、路地、天窓、巻き貝
奈良・正倉院の校倉造りを見ると「木でできたピロティだ!」と看破する一方で、寺巡りにはうんざりし、東大寺では大仏よりも木製の大きな扉に注目。米のワイン(酒)を飲むのに小さな猪口を用いるのには「食事をするのに30杯は必要だ」と嘆いた。そして、最も興味を持ったのは京都・先斗町の路地。その空間に感心し、実測調査までした。
その後、フランスへ戻ったコルビュジエは基本設計を行い、それを前川國男、坂倉準三、そして吉阪という三人の弟子が具体的な設計を受け継いで、国立西洋美術館は完成した。広いピロティ、場に変化を生み出す柱、自然の光を取り込み室内に陰影をもたらす天窓、巻き貝から着想を得たという展示空間には、コルビュジエが抱いていた“無限成長美術館”という考え方が反映されている。
コルビュジエの日本弟子3人。左から前川國男、坂倉準三、吉阪隆正。コルビュジエから送られてきた図面を元に西洋美術館を建てた
小寺次郎。日本弟子3人らの元で、コルビュジエから送られてきた設計図を引き直した
国立西洋美術館では2016年9月19日まで、『ル・コルビュジエと無限成長美術館―その理念を知ろう―』の展示が行われている。(敬称略)
このコラムについて
時効スクープ 〜今だから、聞けた
「スクープ」とは誰よりも早く取材し、いち早く発信するもの…のはずですが、いわば「時効」を迎えたような過去の出来事からスクープが掘り起こされることがあります。当時は話せなかったことを、今なら話せる。いや、真実を話しておくべきだ。そんな思いも引き受けながら、「今だから、聞けた」話によって、知られざるストーリーが紡がれる――。NHKーBSプレミアム『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』はそんな番組です。当連載では、その番組の裏側にフォーカスします。「ニュース」ではなく「トゥルース」に、時を経たからこそ、たどり着けた。ダイアナ妃の事故死、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故など、その題材をなぜ選んだのか、どんな準備をし、どんな取材をし、どのように難題をブレークスルーしたのか。制作を指揮するプロデューサーに「“アナザーストーリーズ”のアナザーストーリー」を聞きます。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/070300016/071500028/
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