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蔡英文の台湾
(上)8年の対中融和 転換 東アジアの安定に影
台湾で20日発足した民主進歩党(民進党)の蔡英文政権は中台関係の「現状維持」を掲げ、不振にあえぐ経済の再生を重視する。対する中国は民進党の理念「台湾独立」を警戒する。過去8年、親中的な国民党政権で続いた台湾海峡の「なぎ」は終わった。台湾の政権交代で生じる中台関係の変化は、東アジア全体に波及する可能性がある。(1面参照)
■政権への示威行動 「歩兵、砲兵など10種類の兵を組み合わせ、鉄の拳をつくり上げる」。中国人民解放軍の機関紙・解放軍報は17日、台湾対岸の福建省アモイに本拠を置く「第31集団軍」の上陸演習を写真付きで報じた。中国国防省は「演習に特定の目標はない」というが、蔡政権への示威行動なのは明らかだ。
「いかなる形の台湾独立の動きも断固阻止する」。習近平国家主席がこう語った3月5日以降、中国はかつて台湾を外交承認していたガンビアと国交を結ぶなど、蔡政権が発足する前から圧力をかけ続けた。
一方の蔡総統は中国を刺激しないよう配慮をにじませる。20日の就任演説では「両岸(中台)の政権は歴史の重荷を下ろそう」と呼びかけ、対話による現実路線を探る。
だが、蔡政権誕生の原動力は、8年にわたる馬英九・前政権の対中傾斜を疑問視する有権者の支持だ。自らを中国人ではなく台湾人と疑わない「天然独(生まれながらの独立派)」という若者層の発言力も強まった。
蔡氏も演説で、中国が求める「一つの中国」の原則には最後まで触れなかった。「大陸(中国)からの圧力に反発し、独立色を帯びた発言や行動が増える恐れがある」(台湾師範大学の范世平教授)というように、中台関係に働く遠心力の源には台湾の民意がある。
中台関係の変化は、中国が軍事拠点化を進める南シナ海の領有権問題にも影を落とす。
「太平島は岩ではなく島だ」。台湾の「中華民国国際法学会」は3月、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に意見書を提出した。太平島は南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島にあり、台湾当局が実効支配する。フィリピンが中国を相手に申し立てた国際仲裁手続きに絡み、馬前政権が台湾の立場を主張した。
仲裁を無視する構えの中国はこれまで、「一つの中国」の原則に基づく馬前政権との蜜月関係から、台湾の動きを黙認してきた。しかし、蔡総統はこれまで「争いは国際法に基づいて処理すべきだ」と述べており、中国に不利な仲裁の受け入れも示唆する。中台の「共同歩調」が崩れ、南シナ海問題がより複雑になる恐れがある。
■「現状維持」でも落差 台湾が中国から離れ、米国や日本と安全保障や経済で接近すればいいという単純な未来図も描きにくい。民進党が初めて政権に就いた00〜08年、当時の陳水扁総統は中国が「将来の台湾独立につながる」と非難した住民投票を強行。中国との対立が深まり、地域の不安定化を懸念する米国との関係もぎくしゃくした。
米国防総省は13日、「台湾独立を支持しない」と表明し、蔡氏に地域の緊張を高めないようくぎを刺した。中台関係が冷えれば、日本と台湾の接近に中国が反発し、日中間の摩擦がまたひとつ増える恐れもある。
たとえ蔡政権が「現状維持」を訴えても、対中融和にまい進した過去8年との落差は大きい。蔡氏が望むと望まないとにかかわらず、それが地域の安定に新たなスキを生む恐れをはらんでいる。
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蔡総統どんな人? 縁故なし、清新さに若者支持
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領をはじめアジアの女性リーダーは政界有力者との血縁など「縁故」がある人物が多い。蔡英文氏は台北市の裕福な家庭に育ったが、両親は本省人(戦前からの台湾住民とその子孫)で政治的な背景はない。清新な印象は若者らの支持を集める。
1978年に台湾で最難関とされる台湾大学法学部を卒業、84年に英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士号を取得した。08〜12年と、14年から現在まで民進党主席を務める。「民進党のイメージを変えた」(台湾の研究者)とされる。民進党は過去の国民党の独裁体制に対し民主化運動を繰り広げた人々の集まり。「口はうまいが荒っぽい」(同)のが特徴だが、内向的と評される蔡氏に将来を託す選択をした。59歳、独身。2匹の猫と暮らす。愛称は「小英(英ちゃん)」。
(台北=伊原健作)
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蔡総統の演説要旨
台湾の蔡英文総統による20日の就任演説の要旨は次の通り。
《中台関係》 両岸(中台)の窓口機関は1992年、相互理解に加え、相違点を脇に置いて共通点を模索する考えに基づいて協議を進め、若干の共通認識に達した。この歴史的事実を尊重する。
両岸はその後20年以上にわたる交流で築いた成果を共同で守り、関係の平和的な発展を推進しなければならない。新政府は中華民国憲法などに依拠して両岸の事務を処理する。両岸の2つの政権党は歴史の重荷を下ろし、対話を深めるべきだ。
《領土問題》 私には総統として中華民国の主権と領土を守る責任がある。東シナ海と南シナ海を巡る争いは棚上げし、共同で開発を進める。
《経済政策》 我々は台湾の経済構造を抜本的に改革する必要がある。新産業の育成などで持続的な発展が可能な経済モデルを構築し、活力と自主性を強化する。環太平洋経済連携協定(TPP)や東アジア地域包括的経済連携(RCEP)を含め、積極的に世界や地域での経済連携を推し進める。単一の市場に依存する状況からは決別しなければならない。
(台北=伊原健作)
[日経新聞5月21日朝刊P.7]
(下)長引く経済不振 選挙の追い風、足かせに
台湾北東部の宜蘭市。中心部から5キロほど南に行くと、「宜蘭科学園区」という真新しい看板が目に入る。約71ヘクタールの敷地に建物は3棟しか見えず、野鳥のさえずりが響く。散歩に訪れたエンジニアの男性(61)は「開発が遅すぎる。会社も人材もみんな大陸(中国)に行ってしまう」とこぼす。
通信分野などの先端研究開発拠点として整備が始まったのは2005年。国民党の馬英九・前総統が08年に国家計画事業に位置づけたが、企業誘致や環境対策が難航し、10年以上もたなざらしとなった。「蚊子園区(蚊が飛び交う産業パーク)」と皮肉られるこの地は、台湾経済の停滞を映す。
■「四小龍」の最下位 先端のIT(情報技術)を輸入し、高成長を実現する。かつて「キャッチアップ型」の成長モデルの典型とされた台湾は、韓国、シンガポール、香港と並ぶ「アジアの四小龍」と呼ばれた。ところが16年1〜3月期の実質域内総生産(GDP)は前年同期比0.84%減と、3四半期連続のマイナス成長に陥った。
人件費の上昇に加え、輸出の4割近くを占める中国の需要が鈍った。技術力を高めた中国勢との競合も激しい。「台湾は自前の技術や製品の付加価値を高めるという課題を克服できなかった」(九州産業大学の朝元照雄教授)。同様の課題を抱えるライバル・韓国にも水をあけられ、「四小龍」のなかで最も低い経済成長に沈んでいる。
20日就任した民主進歩党(民進党)の蔡英文総統にとって、経済の不振は8年ぶりに政権に返り咲くうえで強力な「追い風」だった。馬前総統は中国と接近すれば経済は「馬上好(すぐによくなる)」と唱えたが、実質賃金は10年前に比べて2%減った。投資資金は低成長の事業を避けて不動産市場ばかりに流入し、マンションなど住宅価格の急上昇で貧富の差はかえって広がった。
暮らしに期待が持てず、弱った経済は大陸にからめ取られていく――。蔡氏が選挙戦で掲げた「点亮台湾(台湾に灯をともそう)」という標語は、住民の怒りと危機感をくみ取り、1月の総統選での大勝利をもたらした。
しかし、蔡氏が総統に就いたいま、経済不振という現実は「追い風」から「足かせ」に転じる。
蔡氏は20日の就任演説の大部分を経済問題に費やし、環太平洋経済連携協定(TPP)への加入などで「台湾経済の新モデルをめざす」と訴えた。バイオやモノのインターネット「IoT」などを五大分野と位置づけ、当局主導で開発を加速する方針も示している。
■脱・中国依存の道険しく ただ、新産業の育成には時間がかかる。脱・中国依存の切り札と位置づけるTPP加入には、米国産豚肉の輸入解禁に対する地元農家の抵抗が強い。実際に参加に動けば、中国による反発も予想される。中華経済研究院の呉中書院長は「投資環境の整備などで強い指導力を発揮できるかどうかがカギだ」と指摘する。
中国は台湾企業の投資認可を絞り込んだり、台湾を訪れる観光客に必要な書類の発行を遅らせたりするなど、台湾経済を揺さぶる多様なカードを持つ。台湾初の女性総統は脱・中国依存をめざしつつ、経済を立て直すという難路を歩み出した。
伊原健作が担当しました。
[日経新聞5月22日朝刊P.5]
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