http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/135.html
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今さらいうまでもなく、医療による被害者は増加する一方です。残念ながら公式の統計はありませんが、ある弁護士の推計では、医療ミスで死亡する人は年間17、000から39、000人となっています。これは交通事故による死亡者数を明らかに上回っています。
連日のよう に報道される医療ミスには、すぐに死亡にいたる場合のほかに、病状がさらに悪化する、新たな病気をつくりだす、二度と元に戻らない障害を負わせるなど、さ まざまな種類があることがわかります。死亡事故は遺族にとって、障害事故は当の被害者と家族の両方にとって悲劇です。医療事故で障害を負うと、肉体的、精 神的苦痛が長引き、生活の基盤さえ奪われ、単なる悲劇では終わらないのです。
そしてこれらの事故は、検査・投薬・放射線・手術など医療行為そのものによって起こる、あるいは医者、看護婦などの医療従事者の不注意や怠慢、意思疎通のトラブルで起こるなど、複雑多岐にわたっています。
幸いにして障害・死亡事故には到らなかったものの、病状悪化や合併症の誘発などは、大小あわせると年間数十万、いや数百万単位で起こっているともいわれ、医療ミスはまさに、「明日はわが身」といっても過言ではありません。
この深刻な事態について、マスコミや医療ジャーナリストはつぎのように分析しています。
・医者の資格認定や研修医制度の欠陥や不備
・それが原因の医者の知識不足や技術不足
・医療行為を監視する医道審議会の怠慢
・新薬をめぐる医者と医薬品メーカーとの癒着
・患者軽視の利益優先主義
・『出来高払い』という不可解な診療報酬請求システム
・制度を悪用する医道モラルの荒廃
しかしながら、これらの指摘では、事故との具体的な結びつきはよくわかりません。
今私の手元に、医療事故にあった人たちとその家族からの相談内容を検証し、医療問題をより深く掘り下げた一冊の本があります。
慶應義塾大学医学部放射線課講師・近藤誠氏と、医療消費者ネットワークMECON代表世話人・清水とよ子氏の共著による『医療ミス』という本で、つぎにその一部を要約させていただきます。
医療事故には「うっかり型」、「能力欠落型」、「必然型」 の三つの種類があり、それらが起こる原因は「個人」、「組織」、「構造」、「意識」の四つにあると考えられる。個人とは医者、看護婦、技師などの医療従事 者、組織とは病院などの医療機関の人員配置や役割分担、構造とは医療の仕組み、そして意識とは、医療従事者や一般の人々の病気や治療に対する見方のことで ある。
能力欠落型の医者が大量に生み出される原因は、偏差値教育、つまり医者を養成する教育システムという構造のなかにある。偏差値教育は拝金主義を助長し、医者として不的確な人間をつくるな どの弊害を生む。その結果、医学生は医師国家試験にうかることだけを唯一の目標にするようになる。試験対策の手引きのようなものが教科書がわりに使われ, 試験といっても、解答の選択肢のなかから正解を一つだけ当てさせるもので、勉強の仕方もそれに対応した知識つめこみ型になる。
正式の教科書も、臨床能力に乏しい老齢の大学教授が執筆したもので、内容はじつにお粗末なものだ。日本語で書かれているため、学生は英語の勉強をしない。そのため、最新の医学情報を知るための文献が読めない(日本の医療・医学レベルは欧米より10〜20年遅れている)。
埼玉医大では、医者が簡単な英単語を読めなかったため、患者を殺してしまったという実例がある。べつの例では、放射線治療をうけていた咽頭がんの患者が死亡し た。放射線の急性反応である口内炎で食事ができなくなり、高カロリー輸液の点滴をしていたが、医者に必須ビタミンを輸液に入れる必要があるという知識がな かったため、患者はビタミンB1の欠乏症である脚気、ないし血液が酸性に傾くアシドーシスにかかり、それが重症化したのが死因だった。欠陥だらけの医学教 育によって医学生の頭のなかはすっかり〇×式になってしまい、多様な事態に対処する能力は養われないのである。
この本ではさらに、医療行為そのもので生じる「必然型」の事故についても、多くの事実が明らかにされています。なお、能力欠落型も必然型も、見方によっては同一視できるものだと述べ、次のような例をあげています。
脳手術では、開頭しただけで攣縮して後遺症を生じることがある。病院には耐性菌がうよ うよしており、手術の種類にかかわらず、手術をすれば(免疫低下が原因で)一定の確率で感染症にかかることは必然だ。こういう患者から分離される黄色ブド ウ球菌のうち、耐性菌とされるMRSAが占める率はほとんどの病院で7〜8割にも達する。
もうすぐ自然に陣痛が始まるという時期に、妊婦にプロスタルモンという陣痛促進剤を点滴、服用させることがあるが、それが原因で陣痛が強くなりすぎたり、強直性子宮収縮を起こし、子宮が破裂して妊婦が死亡したり、胎児が重度の仮死状態になり、脳に障害を負うことがある。被害にあった妊婦のほぼ全員が、そのような事故が起こりうることを知らされていない。それどころか、「子宮口をやわらかくする薬です」くらいのことしかいわない。
同書はまた、医者を乱診・乱療に向かわせるこれら諸制度の弊害について述べています。
まず医局講座制について、つぎのような事実を明らかにしています(医局制度はもともと100年も前の明治時代に、当時の東京帝大が医科大学や大学病院にドイツから導入して作ったもので、これが一世紀にもわたって西洋医学の聖域ともいえるヒエラルキー、つまり権力構造を形成してきました)。
医局講座制が取り仕切る現在の研修医制度のもとでは、医大を卒業して医師免許をもらうと、研修 医となって2年間の研修をうけ、ほとんどが大学病院で研修する。その場合、複数の診療科をまわって研修する制度をもつ医大はほとんどなく、内科なら内科、 外科なら外科だけというように、単一診療科のなかだけで研修をおこなう。したがって耳鼻科のことしかわからない、精神科のことしかわからないという医者ができてしまう。
研修期間が 終わっても、医局講座制は悪影響をおよぼす。教授が人事権と学位権をにぎっているからだ。人事権とは、院内において誰を助手として採用するか、誰を講師・ 助教授に昇進させるかという権限で、事実上教授の一存できまる。教授はまた、関連病院への常勤医の派遣の権限もにぎっている。病院側には医者の選択権はほとんどない。医学博士の学位を医者に授与するのは教授会だが、教授たちは自分の部下が審査を受けるときに復讐されるのを恐れてだろう、教授会による審査段階では、ほぼフリーパスで学位授与を認めてしまう。したがってその前段階である、部下が学位審査を申請することを教授が認めるかが鍵になり、教授はそれを餌にして部下に服従をせまる。
いったい、医学博士という肩書きにはどんな効能があるのだろうか。いろいろな博士号があるなかでも医学博士は最も簡単にとれる学位で、" 足の裏の米粒"などと揶揄されている(取っても食えないけれど、取らないと気持ちが悪い)。このように人事権と学位権をにぎる教授は、それだけでは満足し ない。いずれ大きな学会を主宰したい、退職後は大病院の院長職につきたいなどの野望がある。それが達成されるかどうかの鍵は、部下たちのあげた業績にか かっている。
業績とは研究論文のことで、研究成果を載せた医学誌の格が高いほど、論文の 数が多いほど業績が評価される。患者を一生懸命診るより、ネズミや細胞を使った実験をするほうが論文になるわけだ。当然、医者は病棟に患者を訪ねるより、 研究室にこもって実験に没頭しようとする。こうして大学病院では構造的に、優れた臨床能力を持った医者が育ちにくいのである。
業績中心で教授を選ぶ傾向は、メスをふるう外科、整形外科、産婦人科などで も同様だ。日本では、ほとんど手術をした経験のない人間を、業績ゆえに外科系の教授にすることがよくある。ある大学病院では、乳がんの世界的権威を外科教 授として呼び戻し、紹介された患者たちに胃がんや大腸がんの手術を始めた。内臓の手術に慣れていなかったため、不用意に血管を切って患者が死ぬなどのトラ ブルが続き、教授の手術のときは以降、血管外科の医者が待機するようになった。「これではまるで、"何とかに刃物"だ」。
自由開業医制や自由標榜制によって、医師免許さえあれば自由に開業でき、そのさい、自分がやろうと思う診療科目を勝手に決めることができる。その科目にどれくらい習熟しているかは問われない。たとえば、小児の診療にぜんぜん携わったことがない整形外科医でも、小児科を標榜していいのである。
出来高払い制や自家調剤制によって、健康な人にざまざまな検査をして病気を捏造し、山のように薬を処方する(いわゆるレセプト病)。患者への売値と仕入れ価格との「薬価差益」を利用して儲けようとする。
いかがでしょうか。医療の世界では、こんな信じられないようなことが、当たり前のようにおこなわれているの です。国民の多くはそのような事実があるなど知りようがありませんし、たとえそれを知ったからといって、どのように事態に対処したり改善すればいいのか、 これといってなすすべがありません。医療ミスへの反応が対岸の火事のごとく、切迫した危機感に欠けるのはそのためです。
じじつほとんどの人は、医療過誤は個々の医者、または病院の人為的なミスであって、制度や医療じたいは直接関係ないだろう、という受け止め方をしています。ましてや医学や医学理論に欠陥があるなど、夢想だにしないのではないでしょうか。
科学至上主義や一世紀も続いてきた体制によって、医学にたいする信仰めいた既成概念ができあがってしまったためで、それはそれで仕方のないことかも知れません。ところがあにはからんや、この世間の常識に相反して、
「医学理論そのものが矛盾と誤謬に満ちたものだった」のです。
そしてそれこそが、医療ミスを中心とする現代医学が抱えるすべての問題の核心です。といっても信じていただけないでしょうから、ここで、その誤った医学理論を生んだ科学の歴史を概観してみます。
近代科学はガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンなどによって確立されました。地動説を支持したガリレオは、観察に加えて実験と数値測定を研究手段として導入し、ベーコンは帰納法を、デカルトは解析幾何学をそれぞれ創始して科学の方法論を定着させ、万有引力の法則を発見したニュートンは、これらの業績を総合して力学の一大体系を築きました。
このニュートン力学の完成を機に、科学は目覚しい発展を遂げることになります。新 しい発明や発見が相次ぎ、それらが産業界で実用化され、人々の生活は劇的に便利になっていき、やがて蒸気機関や電気の利用による産業革命が起こりました。 こうしてニュートン力学は19世紀に頂点を迎え、科学は文明社会において不動の地位を占めることとなり、「科学は絶対で万能である」という科学至上主義が世界に広まり、それがそのまま人々の人生観になりました。
じつは、科学者自身は当初、自然を精神世界と物質世界の両面から探求しようとしていました。ところが、デカルトの懐疑的思想が科学者に強い影響を与えていたため、科学的手法になじまない精神世界はしだいに置き去りにされ、ついに物質世界だけが研究対象とされ、精神世界、つまり「意識の世界
デカルトやニュートンは神や霊魂の存在を認めなかったわけではありませんが、自然科学の探求においてはあくまで思考の合理性を重んじ、ヘーゲルの『弁証法』に由来する『要素分割還元主義』、または『二元論』と呼ばれる哲学的手法を編み出すにいたりました。
それは、まず複雑な現象を要素別に細かく分ける、次に分けたものからわずかでも疑わしいもの、客観的ではないもの、数値に表せないものを除く、そうして残ったものを研究し再統合するという分析的な手法でした。
この対象を観察して細かく分割するという思考形式こそ、「万能の科学」を誕生させた西洋思想の真髄だったわけで、その唯物的な世界観がじつに顕著に表れています。つまりデカルトもニュートンも物質世界を精巧な機械の集合体と考え、人間を含むすべての生物を自動機械とみなしたのです。もしこの世や人間が機械の寄り集まりであれば、機械を部品別に分解して研究し、それらを再構成すれば全体が理解できる、そう考えても何の不都合もなかったわけです。
こうして、人間を中心とするこの世の仕組みはすべて解明できるとしたのですが、20世紀初頭に登場してきた量子力学は、「物質の極限は波動であり、それを固定して観測することはできない」と主張し、「この世界は機械論で解明することは不可能である」と断定しました。
ボーア、ハイゼンベルグ、シュレジンガーなどによって提唱された量子力学は、アインシュタインによって「非科学的である」と非難され、両者の間でながい論争が続くなど紆余曲折がありましたが、『コペンハーゲン解釈』、『ベルの定理』による理論的実証、さらには1982年のフランスのアラン・アスペや、1986年のイギリスのハンス・クラインポッペンの見事な実験によって、ついにその主張の真実性が認められたのです。
「現実は人間の意識が創造するものである(=この世はバーチャル・リアリティ)」というのがその最終的な結論です。
量子力学の登場いらい、科学者の多くは、従来の科学常識を根底から覆す量子力学に困惑し、 苦悩しています。また一方では、自分たちの立場が存亡の危機にさらされる懸念もあり、量子力学を率直に容認しようとしない傾向が根強く残っています。にも かかわらず、伝統科学では今なお説明できない現象が数え切れないほどあるのです。
宇宙の構造、重力(万有引力)の正体、素粒子の振る舞い、常温核融合、高温超電導、サイ現象などを目の当たりにして、科学者は絶望的な幻想のふちに立たされた思いを強めている、というのが科学界の現状です。しかしこれらの難問題も、量子理論によって解明の糸口がつかめると考えられています。
このジレンマから抜け出すには、科学のパラダイムシフトがどうしても必要です。パラダイム シフトの実現に向け、科学者の意識改革への努力は続けられてはいるものの、伝統科学に固執する科学者が多いことから、改革にはもうすこし時間がかかるので はないか、というのが専門家の共通した意見です。
とはいうものの、アスペなどの実験によって『古典物理学』、つまりは『相対性理論』(光速度不変の法則)が崩壊し、物質の客観性(物質は観測者に対しそれぞれ局所的に存在する)まで否定されてしまった以上、比較的近未来に、量子力学が科学の主流となる可能性は高いと予見されます。それが実現してはじめて唯物科学が終りをつげ、『ブーツストラップ理論』が述べるような全体的、包括的な科学が到来することになるのです。
ブーツストラップ理論とは、「物質は実在するものではなく、ただ素粒子間の関係性のみが存在する。またあらゆる現象の全体と部分は対等、平等である」というものです。
アメリカの核物理学者フリッチョフ・カプラは、「この次世代科学は東洋の神秘主義(仏教思想)に通ずるものである」と述べています。科学はこれまで、人間は脳、つまりコンピューターのようなもので思考するのだと思ってきましたが、そうではなく、心というプログラマーがべつに存在し、それが脳を操っているのだということが、しだいに明らかになってきたのです。
さて、科学の分野である医学は、いわば必然的に近代科学の手法に追随し、デカルトの機械論的世界観をその根底思想としました。このような背景のもとに生まれたのが、かの有名なフィルヒョウ理論です。
フィルヒョウとは今から100年ほど前のドイツの医学者で、『細胞は細胞から』という理論を現代医学の定律にしたことで知られています。じつは、医学教育で最初に教えられるのがこれなのです。医者は徹底してこの理論を学んでいますし、医療のすべてがこの理論を基本にして行われています。
ところがこのフィルヒョウ理論が、とんでもない誤りだったのです。フィルヒョウは、生命の根源を細胞に求め、その構造を解明しさえすれば、生命の神秘がわかるだろうと考えました。しかし、これはきわめて短絡的な発想で、そんなマクロレベルで生命の仕組みを捉えられるはずがなかったのです。
量子力学の主張を待つまでもなく、生命は科学が検知不可能な超ミクロの領域で発生するものであり、そこはまぎれもなく波動の世界です。静的に、人体の構成部分だけをいくら探求しても、瞬時に全身を統括する生命の営みは、垣間見ることすらできないものです。このような錯覚、つまり思い違いは医学者にかぎらず、科学者ぜんぱんが陥りがちな『合成の誤謬』(部分的には正解でも、全体としてみると矛盾している)といわれるもので、果たしてフィルヒョウもまんまとこの落とし穴にはまってしまったのです。
フィルヒョウ理論はつぎの三点に集約されます。
1. 一つの細胞が二つに分裂し、さらにそれが四つに分かれる
2. すべての生命体は細胞のみで構成される
3. 生命の最小単位は細胞である
これらは電子顕微鏡がまだなかった時代の、観測技術の精度の低さと誤った仮定に基づいた理論で、現代の先駆的な生物学者や医学者によってつぎのように是正されています。
1. 細胞は分裂しない。細胞は赤血球の融合化成、血球分化によって作られる
2. 細胞構造を持たない組織はたくさんある。脂肪組織、横紋筋組織、結合組織、硬組織など
3. 細胞が壊れても生命は存在する
このフィルヒョウとほぼ同時代に、メンデルとモルガンが遺伝理論を提唱したことをご存知でしょうか。遺伝理論の骨子は、「細胞核に染色体があり、そのなかに二重のらせん状にしっかり巻かれたDNAがある。そこに生命の設計図が書かれており、それによって遺伝やすべての生命活動がすでに決定されている」というものです。
じつはこの遺伝理論は、細胞分裂を唱えたフィルヒョウ理論を土台に発展させた考え方で、両者とも、生命は変わらないという 『生命不変説』 なのです。しかしじっさいには、生命は細胞に限定されるものではなく、細胞よりさらにもっと微小な超ミクロ物質が複雑に介在して、生命をたえず流動的、連続的、循環的に変化させているのです。
生命不変説は機械論の直線的、不可逆的、局所的、排中律的な思考パターンが生み出した説で、生命の探求にはまるでそぐわない考え方です。それをフィルヒョウが生命を直接取り扱う医学に適用したために、後世に多くの問題を残す結果となったのです。
そしてなんと驚くべきことに、これら誤った二大理論が現代医学の定律として、すんなり医学界で承認されているのです。矛盾や行き詰まりに遭遇するのは当然であり、そのつど突発的、偶発的などという説明で言い逃れをし、責任を回避しているのが現状です。
じじつ、多くの現代病が突発性のものと考えられており、それらにたいする有効な医療はない のです。そのため、残された唯一の対処法として、病気の表示箇所にすぎない症状をむりやり消去、除去するしかなく、その場かぎりの応急処置に頼るのが関の 山です。ようするに、病気そのものを治癒させることはできないわけで、これを「的外れ」と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょうか。
現代医学とは、人体を機械の寄せ集めのように考え、細胞をその部品とみなす西洋思想に立脚したものであることに気づけば、これがいかにとんでもない錯覚であるか、子供でもわかるのではないでしょうか。そしてその西洋思想の機械論的な特色は、現代医学の医療論理にはっきりと浮き彫りにされています。 つまり現代医学は、
・がん、糖尿病などの慢性病や、膠原病などの難病は治らないものと考える(がん細胞は無限に増殖する→ 直線的、不可逆的)
・風邪、アトピー、サーズ、肝炎などの原因を病原体によるものとする(病気は偶然に起こる→ 偶発的)
・組織や細胞、血液、血圧、尿、大便などさまざまな検査を個別にする(部分的な現象に固執する→局所的、分析的)
・病気そのものではなく、病気のシグナルにすぎない症状に紛らわしい名前をつける(病名を独断で決める→排中律的)
・病気の原因がわからず、生体へのダメージを無視する処置をとる(薬、放射線、手術に依存する→対処法が攻撃的)
フィルヒョウやメンデル・モルガンの理論を金科玉条とする現代医学は、こうして医療のあらゆる局面で、チグハグなことをやっているのです。メンデル・モルガン理論をもう少し詳しく見ていきます(森下説より要約)。
当時の生物学・遺伝学では、生殖細胞のなかに、完成された動物の"ひな型"がすでに宿っていると考えられていました。精子と卵子が結合して子孫が生まれていく仕組みがわからなかったため、精子細胞の中に"コビト"が住んでいて、それが卵子に入り、卵子の栄養によって育っていくと考えたわけです。
ハルストーカーという学者などは、それをじっさいに見たといって、その図を論文に載せました。今でも遺伝書に載っている「ショウジョウバエの染色体」の地図はその名残りにすぎず、それは明らかにメンデル・モルガン理論と同じ考え方なのです。染色体のなかに、やがて目になる部分、手や足になる部分というように、すでに予定通り遺伝子が配列されているというもので、つまるところ中世紀的な固定思想がそのまま、何の疑義も呈されずに現代の最先端理論になってしまっているのです。
「細胞は細胞から」というのは、同じ細胞が次から次へ分裂していくわけですから、そこには 何の進化も変化もなく、最初から決まっている形質は変わらないと想定するのは当然です。またこの理論では、一番元になる細胞がどこから、どうして生まれた のかが説明できません。ようするに因果関係の説明に矛盾が生じるパラドックスが内包されているため、生命現象が何一つ解明できないという欠陥があるわけです。
じつは、最初の細胞がどうしてできるのか、生命体の発生にかかわるこの重要な考え方がすでに提唱されています。それについて、つぎに森下博士の『自然医学の基礎』より一部を参照してご紹介します。
フィルヒョウやメンデル・モルガンの生命不変説にたいし、その対極にあるのが生命を動的・発展的に捉えるオパーリン、ダーウインの考え方です。ダーウインは『進化論』であまりにも有名ですが、オパーリンの『生命自然発生論』 はあまり知られていません。しかしこれは、生命の本質に迫る優れた理論なのです。ただ、これにも一つ大きな谷間が存在します。たとえば、メタン・アンモニ ア・水をフラスコに入れて火花放電すると、確かに蛋白質ができます。そこで無生物から蛋白質が生み出されることは確かめられるわけですが、ではその蛋白質がどうして生命を持つにいたったのかという点は、オパーリンの説では説明不十分なのです。
それについて、前世紀の偉大な哲学者であり、ダーウイン進化論の熱烈な信奉者であるドイツのヘッケルが、「モネラ」という概念を提唱しました。ふつう細胞は中心に核があり、そのまわりに蛋白質のかたまりであるコロイド状の細胞質があり、さらにそれを包む細胞膜がある、という構造をしています。そういうはっきりとした形態を整えた細胞にまで進化する前段階として、"核のない細胞"という存在を仮定してもよいのではないか、という考え方で、その核のない細胞を「モネラ」と名づけたのです。
つまり細胞になりきっていないが、いずれ細胞に発展するであろうという、細胞の前段階の状態のもの、いわば「未完成の細胞」という発想です。現代医学・生物学はこういう考えにはまったく関心がありませんが、本当は非常に重要な概念です。
そしてこれと同じような概念を、ロシア(旧ソ連)の医者であり、生物学者であるレペシンスカヤ女史も、「生きている物質」と名づけて提唱しているのです。レペシンスカヤは、卵黄の表面に発生する赤血球に注目することでその概念を得ました。
ニワトリなどの卵が孵化するとき、よく見ますと、黄身の表面に赤い斑点がいくつも出てきます。それがお互いにつながって網目状になり、日がたつにつれてその網の目は細かくなっていきます。しかもその網は単なる筋ではなく、中が空洞になっています。
そのチューブの一部がやがてふくらんできて、拍動をはじめます。そうすると、チューブの中を血液が一定方向に移動するようになります。それを観察したレペシンスカヤは、とくに卵の黄身の表面に、赤血球が寄り集まって赤い点になっているところに注目しました。顕微鏡で見ると、立派な細胞の形をしています。そこで、「これはいったいどこからきたのか?」という重大な疑問をもちました。そんなものは、もともと卵にはなかったことは事実です。卵の黄身しかなかったのに、孵化しはじめると赤い斑点がいっぱい現れてきたわけです。
「細胞は細胞から」という説が本当ならば、この赤い斑点となっている細胞の、その最初の第 一個目の細胞は、あらかじめこの卵の中に潜んでいたと考えなければなりません。そうでなければ、「細胞は細胞から」という考え方に反することになるからで す。でも、途中から赤い斑点が現れているのが事実ですから、はじめから赤血球が存在したなどということはありえないわけで、「細胞は細胞から」というフィ ルヒョウの考え方は明らかに誤りであることがわかります。
じつは、赤い斑点となった最初の細胞は、卵黄のなかから生み出されてきたものです。卵の黄 身をよく見ますと、私たちが卵黄球と呼んでいるブロック状のものからできています。これは核も細胞膜もないので細胞ではありません。その細胞ではないもの から、赤血球という細胞が生み出されている、これはもう卵黄球が赤血球へと発展していっている、としか考えようがないわけです。
「卵黄は生命体? 物質?」ということは議論の分かれるところですが、今の段階では、物質 (有機物質)だとみなす考え方が支配的です。そうしますと、卵黄球という有機物質から「生命」が生まれたということになり、レペシンスカヤが、卵黄球は 「生きている物質」ではないかと考えたことは正しかったのです。
無生物と生命体という大きく異なった存在を、連続相として捉える上での"つなぎの概念"と して、この考え方こそきわめて重大なポイントです。生命現象を固定的思想ではなく、発展的思想で捉えていこうとするには、ヘッケルの「モネラ」という概 念、およびレペシンスカヤの「生きている物質」という二つの概念を導入しなければならないのです。
このような概念とまったく相容れないフィルヒョウ理論に固執する現代医学は、生命現象の本 質である因果関係というものを説明できないわけです。現代医学とはいえ、その内実は100年以上も昔の古色蒼然たるもので、医学世界もことのほか保守的で 閉鎖的だといえるのではないでしょうか。森下先生は、「科学の目覚しい発展とは裏腹に、医学の本質的な部分は、ヒポクラテス(医学の祖と呼ばれる)のギリシャ時代からほとんど進歩していない」と述べておられます。
病気になって医者や病院へ行ったとき、身近に体験させられるのが検査です。とくに最近は検査の 重要性が強調され、医者もさかんに検査をうけるよう薦めています。しかし、いくらCTやMRI、エコー、内視鏡などのハイテク機器で検査をしても、病気の 原因は突き止められないのです。検査で見ているのは病気の症状であって、病気そのものではないからです。
一方、画像による検査のほかに、生体から組織を切り取って調べる病理学や疫学の検 査があります。組織を特殊な機械でごく薄い切片にする、それをアルコールで固定する、それに色をつけて顕微鏡で眺める、というようなことを行っています が、これはほとんど無駄で無意味な作業です。そんな不自然な操作を加えると、細胞が異常な代謝を始め、切り離されたために、生体内の組織とはまるっきり違った状態に変化するのです。
そもそも部分とか局所というものは、全体の中にあってこそ意味を持つものです。統合体の一部分という意味での局所は意味を持っているけれども、切り離されてしまったら意味はなくなってしまうの です。第一、全体の中の一部分であるからこそ局所といえるのであって、切り離された局所というのは言葉の上でも矛盾しています。そんなものは所詮存在しな いのです。全体から切り離された局所はもはや局所でさえない、それ自体が独立したまったく別物になっているからです。
生命問題を扱うにあたっては、この全体と部分との密接不可分の関係をしっかり理解しなければならないのです。
一時的でしかも局所的な検査では、全体をたえず変化させている人体の動的な基本構造はわかるはずがありません。
じつは、病気を発生させる根本要因は、成分が刻々と変化しながら全身の隅々を循環している血液が、質的に悪化することにあります(五章と六章に詳述)。これを検知するには、血液が体のどこで、どのように造られているかを知っていなければならないのは当然です。ところがなんと驚くべきことに、医者のほとんど(95%以上)がこれを知らないのです。
トテモ信じられないと思う方は、かかりつけの医者にでも質問してみてください。ほぼ間違いなく、「血液は骨髄で造られる」というはずです。私自身、つい最近のテレビの健康番組で、テレビ出演が多いため有名になった医学博士が、臆面もなくそういっていたのを見たばかりです。
血液は骨髄などで造られているのではありません。血液は小腸で造られているのです。胃のなかで、胃液や膵液によってあらかた消化された食物は、さらに腸の運動によって撹拌されてドロドロになり、それがしだいに絨毛組織(腸粘膜)のなかに取り込まれていき、腸の内壁をビッシリ覆っている絨毛上皮細胞と混ざり合って渾然一体となり、本格的な消化作用が行われます。
この絨毛組織内の消化の工程が完了すると、やがてそこに赤血球母細胞というものが現れてきます。これはその名のとおり赤血球の母親ともいうべきもので、なかに数十個の赤血球をすでに孕んでいます。それらが新生の赤血球となり、腸壁のすぐうしろを通っている毛細血管内に放出され、血流に乗って全身をめぐっていきます。赤血球はやがて白血球に分化し(一つの物質がべつの物質へ変化、発展すること)、白血球はさらにリンパ球と顆粒白血球に分化します。そして白血球のうちの顆粒白血球が、体の各部分の組織細胞を造っていくのです(細胞分裂という事実はありません)。
これに対して現代医学は、絨毛組織を単に栄養を吸収する役目を果たすに過ぎないもの、つま り食べ物が消化された後、たんぱく質はアミノ酸に、糖はブドウ糖にというように分解され、それらがこの膜を通して吸収されるだけ、と考えています。ようす るに腸粘膜を静的、受動的な存在と見ているわけで、消化物をアメーバのように貪欲に自分の組織に取り込む(森下説)という、動的でじつにダイナミックな実態とはまるで的外れの捉え方をしているのです。
消化作用の本質は食べ物を分解して栄養素を吸収するのではなく、食べ物という物質を血液という生命体へと質的に変化、発展させる組立作業であり、まさに驚天動地の働きなのです。なお、断食をするなど、食べ物が摂取できないときなどに、体内の赤血球を一定量に保つため、骨髄組織が崩壊して血球に逆戻りすることがあります。これはいわば『代償性』の造血であり、本来の『生理的』造血とは無関係です。現代医学は消化というものを一貫した連続相として捉えられないために(分割思考の宿命)、こうした見誤りを犯しているわけです。
ここに食物=血液=体細胞という因果関係が実証されるわけで、人体は食物の化身であるとはっきり断言できるのです。この重要な事実を知らないとすれば、医者としての資格が問われてしかるべきではないでしょうか。
現実が示すとおり、西洋医学の医者で、病気予防や健康維持のための最重要対策として、食生活の指導を徹底して行っている医者はほとんどいないのです。そのためほとんどの医療現場において、病気の原因の表示箇所にすぎない症状をあれこれいじくりまわし、細かく分割、分類し、それらに無意味で紛らわしい病名をつけ、その場かぎりの処置をする、その過程で診断ミスが起きたり、薬の処方を間違えるというような、無知蒙昧な診療が行われているのです。
腸造血を医学教育で義務づけないかぎり、いつまでたっても慢性疾患の増加を食いとめたり、問題となっている医原病(医療行為が原因で引き起こされる病気)の発生も防げるようにならないのは、火を見るより明らかです。
じつはアメリカで、1976年から2年間かけて、国防費に匹敵する巨費を投じて世界中の医学専門家を結集し、病気の原因を徹底的に究明調査したという事実があるのです。その結果は意外にも(むしろ当然だったのですが)、「ほとんどすべての慢性病は食源病である」という結論に達しました。ようするに、病気の原因は、食べ物の誤った摂り方にある、と結論したわけです。これを世界に発表したのが当時の上院議員であるマクガバーンで、以来、『マクガバーンレポート』と呼ばれて広く知られるようになったのです。
もちろん、日本政府や厚生労働省も、このレポートのことを知らないはずはないのですが、なぜかこれまで、国民には一切公表していません。
私は、もしこれを公表すれば、体制としての医学界の崩壊につながりかねないとの判断から、故意に情報操作をおこなって、情報の攪乱を図っているのではないかと推測しています。昨今の医学理論や栄養学情報が混沌の坩堝と化しているのは、そのあたりの事情を雄弁に物語っているのではないでしょうか。
この項のテーマであるフィルヒョウ(=ウイルヒョウ)理論、細胞分裂、造血箇所、血球分化(体内のすべての細胞は赤血球からできる)などの生理学的事実については、森下先生のご先輩である岐阜大学農学部、東邦大学医学部教授の故千島喜久男博士の革新生命科学理論をぜひお読みください。現代医学理論がいかに間違ったものであるか、よくご理解いただけると思います。
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