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令和への期待を盛んに報じるメディアが陥った陥穽
とにかく「明るい」ニュースの氾濫で何が報じられていないかに思いをいたそう
西田亮介(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)
論座 2019年04月21日
■メディア総動員で期待感を演出
公文書の改竄(かいざん)に統計不正、閣僚の失言など、平成末の政治の深刻さを覆い隠すかのように、「改元」は社会に華やいだ雰囲気をもたらしているようだ。
浮かれた空気は新元号の発表前からあった。新聞やテレビでは、通行人や女子高生に面白おかしく新元号を予想させるなど、新元号をネタにするニュースが溢れた。本番の「令和」の発表にあたっては、官邸がInstagramの予告機能を使ったほか、TwitterやYouTubeといったSNSの首相官邸アカウントを通して、インターネットでライブ配信が行われた。もちろん伝統的なマスコミも「改元シフト」で手厚く報道した。
かくして、新旧メディアが総動員で令和への期待感が賑々(にぎにぎ)しく演出されたのである。
■政権、メディアにとって好影響
「成果」はどうだったか?
2019年4月10日の読売新聞朝刊の「深読み視聴率 関東地区」欄は、
「多くの人々がテレビを通し、新元号の発表を見守ったに違いない。1日の各局のニュースが軒並み高視聴率だった。新元号発表の瞬間を中継した午前11時からの『ニュース』(NHK)が19.3%で、新元号を報じたこの日の番組で最も高かった」
と書いている。
元号を公表した菅義偉官房長官がネットで人気とも報じられている。ネット配信も行われたので、令和を掲げて見せた菅官房長官は、若い世代の間でも「令和おじさん」として認知されるようになったようだ。菅官房長官が得たのは新しい愛称だけではない。直後の世論調査では、「ポスト安倍」の候補として浮上したと産経新聞は報じている。(【産経・FNN合同世論調査】令和おじさん「ポスト安倍」にも浮上 菅氏が存在感)
また、令和公表直後に実施された各社の世論調査は、内閣支持率の大幅改善を伝えている。新元号の発表はメディアと政権の双方にとって好ましい影響を与えたといえそうだ。
■「政治ショー」をどうとらえるか?
「国民生活への影響を最小限度に」と天皇が望んでいたはずの改元だが、新紙幣の図柄の公表、日本で初めてのG20首脳会談開催など、幾つかの「政治ショー」が重なっている。こうした政治ショーをわれわれはどのようにとらえればいいのだろうか。
「たまたま」なのか、意図的か。 そもそも政治ショー化それ自体を批判する声もある。
もちろん、ときの政権が、政策を分かりやすく示して周知をはかること、タイミングをみて施策を講じること自体は、非難されるべきものではない。また、政治ショー批判は道義的なものであり、もっと言えば、政治ショーかどうかも明確には割り切れない。
だが、その一方で、現在の政治において、イベントとその日程、それに関する広報が専門性をもってデザインされているのも事実である。省庁再編とともに設置された政治任用の事務次官級ポストの内閣広報官と内閣広報室が中心となり、政府広報室も一体となった運用体制がつくられ、国際広報も含めて情報デザインは精緻(せいち)になる一方だ。
現在の安倍晋三政権は選挙日程の管理と広報に明らかに長けている。この政権には、2000年代に小泉純一郎政権のもと、政府と党の広報に関する仕事を経験した人が、安倍首相を含めて多い。安倍首相は官房長官、官房副長官、自民党幹事長を歴任したが、小泉内閣が広報ツールとして導入した「官邸メールマガジン」の初代編集長は、当時の官房副長官だった安倍氏である。
「たまたま」か否か(≒意図的かどうか)という問題に決着をつけるのは難しい。事実を列挙しながら、蓋然性を推測するしかない。ただ、政治ショーの背後に“プロ”の手が加わっている点は忘れるべきではない。
■平成、令和の初めの共通点は夏の参院選
昭和が終わったとき、平成の終わりに平成後の元号が、今のような空気感で公表されるとは、誰も想像しなかったであろう。
思い返せば、バブル経済の渦中にありながら、昭和天皇の体調不良と崩御で自粛ムードが社会を覆っていた昭和の終わり(平成の始まり)と、平成の「失われた30年」の痕跡を色濃く残しながらも、東京五輪を翌年に控えて漠然とだが華やいだ雰囲気が漂う現在の経済や世相とは、対照的である。
ただ、このふたつには共通点がある。いずれも夏に参院選が行われることだ。
平成元年、つまり1989年は、第15回参院選が実施された年だった。この参院選で自民党は大敗を喫した。前年に発覚したリクルート事件で自民党の腐敗体質が問われたこと、やはり平成元年に導入された消費税に世間が厳しい目を向けたためだった。参議院で過半数割れに陥った自民党では、その後、政治改革をめぐり党内対立が激化、非自民連立政権の誕生と55年体制の終焉を迎える。
令和元年の2019年夏には第25回参議院選挙が実施される。今年は、朝日新聞社の政治記者だった石川真澄が「亥年選挙」と名付けた、統一地方選挙と参院選が同時実施される年にあたる。相次ぐ選挙に組織が疲弊するため、組織への依存度が高い与党が議席を減らしがちだという経験的知見が、選挙の世界ではよく知られている。
今年の参院選はどうか。統一地方選の結果や政党間の現状を見ると、野党は厳しい状況におかれている。地方組織の整備も進まないうえ、政党としての主張も明確ではなく、平成元年参院選の再来は容易ではなさそうだ。
そうであるにもかかわらず、与党自民党では「安倍4選」がまことしやかに語られ、政権末期のレームダック化を避けるためか、与党は参院選に向けて引き締めを強めている。負の時代を繰り替えさないという政権の思惑が伺える。
■明るいニュースが氾濫すると……
そんな政治の動きや思惑を知ってか知らずか、メディアは改元や新通貨の図柄といった「明るい(しかし毒にも薬にもならない)ニュース」をしきりに流す。問題は、こうした「明るいニュース」はメディアの報道量を大きく消費することだ。
とりわけ、演出力に長けるテレビ(その一方で、専門報道の体制は新聞に大きく劣る)は「ひとネタ」あるだけで、あっという間に視聴者が安心して楽しめる情報番組の企画をつくりあげる。そこに現れるのは、「女子高生が考えた改元案一覧」といったひと笑いはできる企画である(ちなみに筆者は今回、異なる放送局の複数の番組で似た企画を目にした)。
テレビの企画力や演出は驚異的な職人技ではあるが、知性や理性の補完にはあまり貢献しない。そして、「毒にも薬にもならないが、ちょっと笑える企画」は、テレビから「その他のニュース」を報じるだけの時間(尺)を削っていく。
よほど世間の関心を集める「重要ニュース」がなければ、多くの場合、コストの問題で報道番組の長さや紙面のベージ数は変わらない。つまり、各ニュースの報道量はそれぞれトレードオフに近い関係にある。紙幅の制約の大きい新聞、雑誌は言うまでもなく、忘れられがちだがネットニュースでさえ、多くの人が目を通すトップ画面の表示量には限界があるため、事実上の「紙幅による制約」は存在する。
改元をめぐる報道や、その政治ショー化によって、メディアの一定量が消費される半面、何が報道されなかったのか。政治、とりわけ政権が、情報デザインに長けているだけに、そこに思いをはせる想像力が必要ではないか。
■「熟慮のメディア」が新聞の役割
政治は国民の理性を涵養(かんよう)すべきだという立場から、「政治ショー」を道義的に批判することはもちろん可能だ。しかし、民間でも広報戦略や手法の高度化が進んでおり、政治に「民間並み」を求める風潮もあるから、政治のショー化を止めることは現実には難しい。かといって、「メディア・リテラシー」の向上もなかなか期待できない。一般の視聴者や読者にとっての利得は少なく、政党や政治家ほど政治に対する、体感しやすい利害関係を持たないからだ。
そのなかにあって、相対的に新聞は「政治ショー」批判に向かっている。これはある意味正しい。テキストが媒体の中心で速報性の面で優位性を失っていくなかで、「熟慮のメディア」としての地位を模索するべきであろう。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019041800011.html?page=1
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