人間はどうやら本質的に「リスク」の認知が苦手であるようです。競馬やパチンコで痛い目に遭っても、ほとぼりが冷めたらまた嵌ってしまったり、タバコは体に悪いと知っていてもなお、多くの方がやめられずにいたりします。
心理学の分野では、「人は不確実な物事を正確な確率で認識できない」と考えられているそうです。
2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマンとトベルスキーが提唱しているプロスペクト理論の中では、「高い確率は低く見積もり、低い確率を高く見積もってしまう」と記されています。
また、社会学の分野ではロジャー・カスパーソンが1988年に「リスクの社会的増幅」を提唱しました。事故や不祥事の報道が多いと、利用可能な情報が増えてリスク認知が高まることを言います。
小さなリスクほど過大に取られがち
これらの考え方を知ると、比較的発生確率の高い自動車事故やがんなどのリスクが過小評価されていることや、BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)や鳥インフルエンザの確率はとても低いのに、事件の報道のインパクトによって過大評価され、パニックが引き起こされたことを理解することができます(参考)。
普段意識されていませんが、どんな薬にもリスクがあり、稀なものも含めると副作用のリスクがゼロということはありません。
風邪で受診した際に不用意に出された抗生剤で、重症の皮膚障害を起こして集中治療室に運ばれてしまう人も中にはいます。
ですから、医師は、病気を予防したり良くしたりする有益性(ベネフィット)と副作用のリスクを天秤にかけて、ベネフィットがリスクを上回ると見込んだ時にのみ、薬を処方しています。
しかし、本稿で取り上げる子宮頸がんワクチン騒動においては、新聞などのマスメディアを通じて、専門家の考える実態よりもはるかに高くリスクが伝えられているようです。
その結果、ワクチン接種への社会不安が増大し、接種率が低下することで、防げたはずの子宮頸がん患者の増加につながる危険性が高く、大変憂慮すべき事態が続いています。
子宮頸がんワクチンは、子宮頸がんや咽頭がん、尖圭コンジロームなどの病気を引き起こすヒトパピローマウイルスの感染を予防できるワクチンで、上皮内癌や前癌状態である高度異形成を減らすことが臨床試験で示されています。
また、多くの人が同ワクチンを接種することで集団免疫効果が得られ、ワクチン非接種者における感染率も低下することが報告されています(Clin Infect Dis. 2016, in press, doi: 10.1093/cid/ciw533)。
日本では2009年から導入され、2013年4月からは定期接種ワクチンに組み入れられました。ところが、2013年3月に朝日新聞が「子宮頸がんワクチンを接種した少女に歩行障害や計算障害が生じている」と報じました。
以後、同様の症例が次々と新聞やテレビ、インターネットなどで報じられ、副反応を巡る騒動はメディアで大々的に取り上げられるようになりました。そのため、政府は2013年6月から積極的な接種勧奨を中止する方針を打ち出しています。
世界が興味を持った"日本の騒動"
「積極的な接種勧奨の中止」という用語は分かりにくいですが、「政府として積極的にお勧めすることはやめますが、打ちたい人が打つことは構いませんよ」ということです。
この決定は国内外に大きな衝撃を与え、世界中で同ワクチンの有害事象について再検討がなされました。
しかし、大規模データでも同ワクチンが特別に高いリスクを持つわけではないことが確認されており、他国で日本と同様の方針を取っている政府はありません。それにもかかわらず日本の接種勧奨中止は3年たった今でも継続しており、国内外の医療専門家から強い批判を受けています。
筆者ら帝京大学、南相馬市立総合病院、ナビタスクリニック、医療ガバナンス研究所の合同研究チームは、日本の特異な状況にはメディアのリスクの伝え方、すなわちリスクコミュニケーションにも大きな問題があったのではないか、と考えました。
それを検証するために、2013年前後の新聞報道の変遷を調査・解析し、米国感染症学会によるClinical Infectious Diseases誌で招待論文として発表することになりました(Clin Infect Dis. 2016, in press, doi: 10.1093/cid/ciw647)。
世界を代表する感染症医学の専門誌に掲載が決まったのは、日本の騒動が世界でも大きな注目を集めているからでもあると思います。
同論文では、2013年3月以降、ワクチン接種後の副反応のリスクを強調する、ネガティブな新聞報道が急増したことを示しました。一方、学会や世界保健機関など専門家機構による、リスクと有益性(ベネフィット)を踏まえたうえでの見解を伝える報道は非常に限られていました。
多くの一般市民が新聞を通じて、健康や医療に関する知識を得ているにもかかわらず、子宮頸がんワクチンに関しては、リスクとベネフィットの伝え方のバランスに偏りがあったことが示されました。
このことは、ワクチンの有益性とリスクを冷静に伝えるリスクコミュニケーションツールとして新聞が十分機能していなかったことを示唆します。
以下、同論文の内容を医療に馴染みのない方、特に接種対象となる中高生にとっても理解しやすいよう、心がけて解説したいと思います。
一般の方々も、この問題に関する理解を深め、子宮頸がんワクチンが是か非かという二項対立の罠から抜け出して、事実と科学に基づいた冷静な議論を積み重ねていくことが重要だと考えるからです。
日本の五大新聞を詳しく分析
私たちは新聞・雑誌記事の包括的データベースである、日経テレコンを用いて、2011年1月から2015年12月までの期間に、五大新聞紙(朝日、毎日、読売、産経、日本経済)に掲載された「子宮頸がんワクチン」に関する記事を抽出しました。
子宮頸がんワクチンに関する記事は1138あり、同期間の全記事の0.02%を占めていました。続いて、記事の内容を分析するために、私たちは2つのアプローチを取りました。キーワードを含む記事数を数える方法と、実際に記事を読んで論調を記していく方法です。
記事の中にある「キーワード」を含むということはすなわち、その内容について言及しているということにほかなりません。キーワードは「有効性」「有害事象」「専門家機構」を設定し、それぞれを含む記事数を月別に調べました。(各キーワードの定義は本稿末に記載)。
図1はキーワード別の記事数の時系列推移を示しています。2011年1月から2013年2月までに発行された487の記事中、有効性(赤色)に言及した記事は384(78.9%)あったのに対し、有害事象 (青色)に言及した記事は77(15.8%)でした。
しかし騒動が持ち上がった後の2013年3月から2015年12月までに発行された651の記事では、有効性に言及した記事は340(52.2%)と減少し、有害事象に言及した記事は565(86.8%)と増加しました。
また、2013年2月までは有効性に言及した記事数が、有害事象に言及した記事数を上回っていましたが、3月以降逆転しています。
専門家機構 (緑色)について言及した記事は研究期間を通じて少なく、2013年3月以前は10(2.1%)、3月以降で45(6.9%)でした。2013年3月以降と3月以前を比較すると、一面記事の数は2.49倍、有害事象に言及した記事数は5.49倍、専門家機構に言及した記事は3.37倍と増加する一方で、有効性に言及した記事数は0.66倍に減少していました。
続いて2人の医師がそれぞれ別々に、子宮頸がんワクチンに関する記事を読み、その内容をポジティブ、中立、ネガティブの3つに評価・分類しました。
2013年3月を契機に大変化
子宮頸がんの予防効果などのベネフィットに着目しているときは、ポジティブに、有害事象などのリスクに着目している場合はネガティブに、リスクとベネフィット双方を含めている場合は中立に分類しました。
図2はこの評価・分類の時系列推移を表しています。2013年3月以後、赤・ピンク色(ポジティブ)が減り青・薄青色(ネガティブ)が大きく増えています。
2013年3月以前はネガティブな記事は全体の3.3%にとどまり、ポジティブな記事が59.5%を占めましたが、3月以降は逆転し、ネガティブな記事が53.6%に増加、ポジティブな記事は8.1%に減少しました。ネガティブな記事は12〜21倍、ポジティブな記事は1/10〜1/5という劇的な変化です。
以上により、2013年3月のセンセーショナルな報道を契機に子宮頸がんワクチンをめぐる新聞報道の論調が大きくネガティブに変化していったことが分かります。新聞が一般社会におけるリスクの認識を過度に煽り、現在の世論を形成する上で大きな役割を果たしたといっても過言ではないでしょう。
今回の論文では検証していませんが、おそらくテレビや雑誌といった他のマスメディアでも状況は大きく変わらないものと思います。後編では、この問題を取り巻く背景について、さらに考察を深め論じていきます。
(補)
有効性キーワード:「効果」「有効」「ベネフィット」「予防」
有害事象キーワード:「副反応」「リスク」「副作用」「痙攣(けいれん)」「運動障害」「意識障害」「痛み」「麻痺(まひ)」「疲労」「線維筋痛症」「ギランバレー症候群」「HANS(子宮頸がんワクチン関連神経免疫異常症候群)」「複合性局所疼痛症候群」
専門家機構キーワード:「WHO(世界保健機構)」「GACVS(ワクチンの安全性に関する諮問委員会)」「EMA(欧州医薬品局)」「CDC(アメリカ疾病予防管理センター)」「小児科学会」「産婦人科学会」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48062