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百一文と年の暮れ
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2016.12.22 きっこのブログ
ついこないだ年が明けたと思ってたのに、もう年末ですかぁ〜〜〜!‥‥ってなワケで、子どものころの1年は長かったのに、人間て年を取るたびに1年を短く感じるようになってくる。あたしの感覚で言うと、小学3年生や4年生のころの1年の長さの感覚を「100」とすると、中学生になってからは「90」くらいで、高校生になってからは「80」くらいで、高校を卒業して専門学校に入ってからは「70」くらいで、専門学校を卒業して社会人になった20歳の時には「50〜60」くらいになってた。つまり、10歳の時に感じてた1年の長さが、20歳になった時には半分くらいになってたワケだ。
そして、あたしは、30歳になり、40歳になったワケだけど、40歳を過ぎた今の感覚だと、まるでフォーミュラーマシンが目の前を通過するように、1年が「ヒュン!」と過ぎ去っていく。中学生の時に、国語で「光陰、矢の如し」という言葉を習ったけど、その時には言葉の意味を理解しただけで、感覚としてはぜんぜん理解できなかった。でも、今なら、この言葉の意味を感覚としても理解できる。時間と言うものは、年月と言うものは、ホントに弓から放たれた矢のように、一瞬のうちに過ぎ去っていくものなんだ。
まだ40歳を過ぎたばかりなのに、それでも「光陰、矢の如し」的に年末を迎えちゃったと言うことは、50歳を過ぎたら、60歳を過ぎたら、今の母さんと同じ70歳を過ぎたら、いったい1年の感覚ってどうなっちゃうんだろう?‥‥なんて、いろいろと複雑な心境で迎えた今年の年末だけど、年末と言えば、「とりあえず今年も何とか無事に過ごせたな」という安堵感と、「無事に年が越せるかなあ?」という不安感との入り混じった、何とも言えない年末特有の感覚になる。
子どものころは、生活のことはすべて親まかせだったから、年末になると「お正月には、いくらお年玉をもらえるかな?」なんてノンキなことを考えてたけど、大人になってからは、1年を必死に生きてきて、年末が迫ってくるたびに、仕事上での支払いの清算とか、生活上での家賃や光熱費の支払いなどで、いつも厳しい状況に立たされてきた。実際の仕事上の年末は「3月」だけど、江戸っ子の血を引く東京っ子のあたしとしては、「宵越しの銭は持たねえ」って感じで、できる限り溜まってた支払いを済ませて、スッキリとした気分でお正月を迎えるようにしてた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、借金がある人もない人も、年末と言えばそれなりにお金が必要で、こんな世の中だから、クレジットカードでキャッシングしたり、消費者金融でお金を借りたりしないと年が越せない人もたくさんいると思う。でも、これは、今に始まったことじゃなくて、昔からの日本の伝統みたいなものだ。そして、昔はクレジットカードなんてなかったけど、どうしてもお金が必要な人たちのために、それぞれの時代に、それぞれの消費者金融である「金貸し」が存在した。
たとえば、江戸時代には、通称「百一文(ひゃくいちもん)」と呼ばれる「金貸し」があった。これは、その日の朝に100文(もん)を借して、その日の夕方までに利息の1文を足した「101文」を返済させたり、翌朝までに「101文」を返済させるというシステムの「金貸し」だった。カラスは1日のうちで朝と夕方に「カ〜カ〜」と鳴くから、朝、カラスが鳴いたころに100文を借して、夕方、カラスが鳴くころまでに返済させるとか、カラスが「カ〜」と鳴くたびに利息がつくということから、別名「カラス金(がね)」とも呼ばれてた。
100文借りて利息が1文ということは、1万円借りて利息が100円ということだから、一瞬、ワリと良心的な感じがする。だけど、1日で1%の利息ということは、10日で10%、つまり、10日で1割の利息がつく高利貸しの「十一(といち)」と同じだ。それに、この「百一文」というのは、あくまでも1日決済の短期金融の通称で、実際の利息は「1文」じゃなかった。低いところでも2〜3%で、中には10%もの暴利を取る「百一文」もあったという。
江戸時代には、大工さんなど手に職を持つ人たちの生活はワリと安定してた。一般的な大工さんの日当が、現代に置き換えると1万2000円くらいで、仕事さえあれば月に30万円くらいは稼ぐことができた。そして、長屋の家賃は1年25万円くらい、1カ月2万円前後だったので、余裕で奥さんや子どもを養うことができたと思う。
一方、手に職のない人たちは、物売りをするくらいしかないので、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれる行商をするケースが多かった。長い天秤棒を担いで、その両端に籠をぶらさげて、そこに魚や野菜、日用品などを入れて売り歩くものだ。でも、魚や野菜を売り歩くのなら、朝早く河岸とかに仕入れに行かなきゃならないし、仕入れをするにはお金が必要だ。でも、こうした「棒手振り」は日銭商売なので、中には1日の稼ぎをぜんぶ酒や博打に使っちゃう人もいた。
そうなると、翌日の仕入れのお金がなくなり、翌朝、お金を持たずに河岸に行くことになる。そして、「今日1日、魚を売って金ができたら払うから」ということで、その日の仕入れのお金を夕方まで借りることになる。これが「百一文」の始まりだと言われてる。江戸時代は240年以上もあるから、貨幣価値もずいぶん変化してるけど、落語によく出てくる「二八蕎麦は2×8=18文」という江戸中期の貨幣価値で見ると、当時の1文は現代の18円くらいに当たる。
だから、この「百一文」を具体的に想像してみると、昨日の稼ぎをぜんぶ飲んじゃった「棒手振り」が、朝、河岸へ行き、魚を卸してる親方から100文(1800円)を借りて、そのお金で売れそうな魚をみつくろって仕入れ、町へと売りに行く。だいたい、10文で仕入れた魚を20文で売るような感じだったので、1800円で仕入れた魚がぜんぶ売れれば3600円になり、夕方、2〜3%の利息をつけて親方に返済しても、手元に1300〜1400円が残る計算だ。
当時はクーラーボックスなんてないから、早く売り切らないと、売れ残った魚は腐ってしまう。仕入れの2倍の値段で売り歩いたとしても、半分売れ残ったら儲けはゼロだ。だから、魚を扱う「棒手振り」は、それぞれがお得意さんを持っていたそうだ。魚を扱う「棒手振り」と言えば、時代劇の「一心太助」くらいしか思い浮かばないけど、酒はほどほどにして、博打になど手を出さずに真面目に働いていれば、この「棒手振り」から始めても、商売を大きくすることができたと思う。
‥‥そんなワケで、こんなふうに始まった「百一文」だったけど、そのうちに「百一文」専門の金貸しが現われ始めて、「棒手振り」以外の人たちも利用するようになった。幕府から許可を得て営業してた大店の金貸しは、主に武士を相手に五両とか十両とかの大金を貸して商売をしてたので、何の担保もない町民はなかなか利用できなかった。そのため、町の「百一文」はいろいろな人たちが利用するようになったそうだ。
町人でも、商売道具など金目のものを持っていれば、それを質草にして質屋さんでお金を作ることができた。だけど、商売道具を質に入れちゃったら仕事ができなくなるから、その質草を出せなくなってしまう。そんな時に利用したのが、担保がなくてもお金が借りられる「百一文」だった。そして、これも現代の消費者金融と同じで、生活費を借りる人もいれば、吉原へ遊びに行くお金や博打を打ちに行くお金を借りる人もいた。
‥‥そんなワケで、江戸っ子の血を引く東京っ子のあたし的には、年末にお金がなくても借金するのは嫌なので、時として100円が何万円にもなるタナボタ的な「有馬記念」に期待するしかない。でも、あたしの「有馬記念」の成績は、本格的に競馬を始めるキッカケになった2007年の「有馬記念」でマツリダゴッホの大穴を当てたくらいで、あとは2009年のドリームジャーニーと2012年のゴールドシップで中配当を当てただけ、過去9年で3勝6敗と負け越してる。今年は好きな馬が1頭も出ないけど、年末に大金が転がり込むと言えば落語の「芝浜」なので、これにあやかり、「芝コースで浜中ジョッキーが勝てば芝浜だ!」というワケで、浜中ジョッキーのミッキークイーンから買ってようと思ってる今日この頃なのだヒヒ〜ン♪
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