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バブル期に種がまかれた軽減税率、北陸新幹線、小笠原空港構想の今
http://diamond.jp/articles/-/110863
2016年12月12日 和泉虎太郎 [ノンフィクションライター] ダイヤモンド・オンライン
あの1989年(平成元年)から四半世紀。多くの政党が名称を変え、合流離脱を繰り返してきた。肝心の政策はどうだろうか?この25年間あまり、政治はどれほど変わったのか、または変わっていないのか、いくつかの事例を挙げて振り返ってみよう。
■土井たか子旋風で社会党躍進
その後の布石となった参院選
1989年7月23日に投開票が行われた第15回参議院議員選挙で「山が動いた」。
社会党が大躍進し「マドンナ旋風」を引き起こした土井たか子委員長。「55年体制」崩壊の予兆が、この頃すでにあらわれていた Photo:Kaku Kurita/AFLO
与党・自由民主党は、リクルート社から未公開株で政官財に広く利益供与が行われたリクルート事件、この年の4月に導入された消費税への批判、そして6月にあの鳥越俊太郎氏が編集長だったサンデー毎日が報じた宇野宗佑首相の女性スキャンダルと、台風並みの三連発の逆風にさらされていた。
何とかしたいと出てきたのが全国市町村に1億円をばらまいた「ふるさと創生資金」だったりするのだが、あがきも空しく自由民主党は獲得議席が69から36へと半減、特に1人区で3勝23敗と大惨敗、非改選の73を足しても109議席と、結党以来初めて、参議院での過半数を失うことになった。
その批判票の受け皿となったのが土井たか子委員長率いる社会党で、22から45議席と大幅躍進。このとき女性候補を多数擁立、当選させていたことで「おたかさん旋風」「マドンナ旋風」とも呼ばれた。
この後、勢いを得た社会党は野党を糾合して参議院での土井たか子首班指名や消費税廃止法案の上程など、新機軸を打ち出すも、パチンコ業界(と、その向こうにいる朝鮮総連、北朝鮮)との癒着が取りざたされてイメージダウン。非自民勢力は日本新党という新しい求心力を得て、社会党の勢いは急速にしぼんでいく。
一般的に55年体制(与党が自民党、野党第一党が社会党という55年以降続いていた政治の勢力分布)の崩壊とは93年、宮澤喜一政権下で行われた第40回衆議院議員総選挙で自民党が単独過半数を失い、政権の座から下野したことを指す。
しかし、この89年の参議院議員選挙は、政権への不信が募れば、政権交代は現実的であることを示唆したことで、時代の変化の予兆となっていた。
そして、実際に自民党が下野した93年総選挙後、社会党はあろうことか自民党と組んで自社さ(新党さきがけ)連立を組み、本当に望んでいたのかどうか政権政党となる。
ちなみに、社会党躍進の出鼻をくじいたパチンコ疑惑だが、最初に報じたのは週刊文春。当時から文春砲は強烈だった。
■四半世紀を経て
よみがえった軽減税率案
消費税が導入されたのは89年4月、税率は3%。消費のすべてに網を掛ける間接税に対しての国民の反発は強く、10月2日には海部俊樹首相が所信表明演説で「消費税を思い切って見直す」と語ったように、半年後にはすでに見直しが国会で盛んに議論されている。
それには背景がある。先ほど触れた、89年7月の参議院選挙自民党惨敗である。
参議院での与野党逆転に勢いづいた野党は、共同で消費税廃止法案を参議院に上程する。代替となる財源は消費税導入に伴って廃止された物品税、電気税ガス税の復活、自然増収頼みという愚にもつかないものでしかなかったが、勢いとはそういうものである。この案は12月に参院で可決した後、衆院で否決され廃案となる。
見直し論議は翌年に持ち越される。与野党の税制問題担当者が参加する協議の場で、食料品の軽減税率を巡って議論が対立した。野党は食料品の全段階非課税を主張。一方、結党以来の参院過半数割れという恐怖におののいたか、自民党案は食料品の卸段階に1.5%の軽減税率、小売り非課税にするというものだ。
ということは、与野党とも何らかの形で食料品の消費税率を引き下げることを提案したというわけだ。ところがお気づきの通り、軽減税率は今に至るまで導入されていない。
誰も想像し得なかった結果である。なにが起きたのか。
90年2月に実施された衆議院議員総選挙で、自民党は単独過半数を確保した。世界では社会主義陣営の崩壊が始まっており、それが自由主義体制選択の空気を生んだこと、89年に社会党とパチンコ業界との不明朗な関係が国会で話題になったこと、89年の参議院選挙で自民党へのガス抜きができていたことが、自民党を復活へと導いた。
その次の総選挙で自民党は政権を失うことになるのであるが、この時はとりあえず一時的に安定を得たことで、消費税見直し議論のうち、対立していた食料品の扱いを当面棚上げして消費税改正を実行したのだ。ところがその後の急速な景気後退が判明して、財源不足の傾向が明らかになる。棚上げされていた軽減税率案はうやむやになり、今に至る。そう、うやむやのなかで消えたのである。
2016年の今年、10%への消費税率引き上げ時期の先延ばし論議で出てきた軽減税率問題は、四半世紀を過ぎて再び姿を現した亡霊でもある。軽減税率にはそれほど深い意図があるわけでなく、あからさまな選挙対策で出たり引っ込んだりするものだと知っておいても損はない。
■今なお工事中!
北陸新幹線の完成は遠い
北陸新幹線高崎―軽井沢間(42.1キロ)の起工式が8月2日、JR軽井沢駅の構内で行われている。整備計画決定が71年なので、それから16年が過ぎてのようやくのスタートである。総工費2000億円をかけ97年の開業を目指すのだが、それには98年冬季五輪の長野招致が関わっていた(長野五輪は91年に招致に成功している)。国策があったからこその、着工実現だった。
北陸新幹線は東京と大阪とを北陸を経由して結ぶ高速鉄道路線で、整備新幹線のひとつでもある。また新しい言葉が出てきたが、「整備新幹線」とは、73年に政府が決定した新幹線の新設計画。北陸のほか、青森―札幌、盛岡―青森、博多―鹿児島、鳥栖―長崎の4ルートだ。 ただし、計画決定後に明らかになった国鉄の膨大な赤字のために着工が延々と見送られてきた。
転機が訪れたのが89年1月。リクルート事件などで苦戦が明らかだった自民党が選挙対策として利用し、バブル景気による空前の税収増が工事費の工面を可能にした。つまり、北陸新幹線はバブルに後押しされて生まれたのだ。
無事着工にこぎつけはしたが、じつはこの時点では軽井沢から先の路線は専用軌道のフル規格にするのか、秋田新幹線のように在来線の線路を使うミニ規格にするのかは、まだ決まっていなかった。
長野駅まではオリンピックに間に合い(長野新幹線と呼ばれていた)、2000年には金沢までフル規格が採用されることになり、2015年3月、ようやく東京—金沢間が開通したのはご存じの通り。この路線は大阪まで繋がって完成となる。金沢から敦賀までは2023年の開業が予定されているが、それから先は、ようやくルートが決まったばかりということもまた、ご存じの通り。
■漂流する小笠原空港計画
30年目の正直、なるか
1月下旬に政府の89年度予算大蔵原案で小笠原空港開設に満額が認められたことが判明し、「島民の念願が実現する」と新聞が報じている。
満額といっても調査費の2650万円なのであるが、船便しかない太平洋の孤島へは26時間もかかり、急病人は自衛隊の出動を要請せねばならず(現在も年30回程度行われている)、妊婦は島内で出産できないために早い時期から内地に長期滞在を強いられている。孫の顔を見に行くにも不便極まりない、これが島民の念願の中身だ。
ところが現在に至るまで小笠原空港は実現していない。
障壁となったのは自然環境だった。なにしろ島全体が国立公園、生物の固有種が数多く確認されているだけに、空港建設には環境庁(当時)が難色を示す。結果、2001年に計画は正式に断念される。
その代わりに「海の新幹線」とも呼ばれた超高速船、テクノスーパーライナー就航が検討された。定員740人、積載貨物重量210トン、99年に国策として開発が決まったばかりで、まだ実験段階ではあったが、東京への航路は16時間に短縮されると予想された。
ところが原油高騰で採算が取れない(毎年の赤字が20億円と試算された)ことが判明し、財政負担に堪えられないと、航路を運営する東京都はこちらも計画断念、現在に至るまで小笠原諸島へのアクセス環境はまったく変わっていない。
2015年、事態が動く。自民党の二階敏博総務会長(当時)が、小笠原関係者を集めた会合で2020年のオリンピック開催までに小笠原空港を完成させたいと発言。それを受けるようにこの6月、丸川珠代環境大臣(同)が「建設に協力する」と態度を表明した。環境省が前向きの方針を出したことで、89年の小笠原空港構想が息を吹き返したことになる。
環境か人命かの議論はかくして四半世紀を超えて続き、二階総務会長の発言が実現すれば、実に構想から30年を経て誕生することになる。
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