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画期的さつまいも「べにはるか」がヒットした理由
さつまいも400年の歴史と現代の科学(後篇)
2016.11.18(金) 漆原 次郎
育種によってさつまいもは形も味も多様化している。(写真提供:農研機構)
秋の味覚「さつまいも」の歴史と科学を前後篇でたどっている。前篇では、さつまいもが日本にどう伝播し、どう育種(品種改良)されてきたかを追った。
17世紀初頭、中国などから琉球地方に伝わり、18世紀にかけて本州各地に広まっていった。並行して品種の導入や改良も進み、極多収性の品種などが戦中戦後の食糧難を救ってきた。
飽食の現代、さつまいもの「救荒作物」としての役目は終わったように思える。だが、研究開発者たちは、さつまいもの新たな魅力を引き出そうと育種を続けている。
そこで後篇では、さつまいもの育種に取り組む農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)主席研究員の片山健二氏に、現代のさつまいも育種の事情を聞くことにした。2010年以降も、国内勢力図を大きく変える品種が誕生しているのだ。どんな品種だろうか。
新品種が出回るまで10年以上の長い道のり
作物の風味を良くする、収量を増やす、病気への抵抗性を強くするなどの目的を叶えるため、育種(品種改良)が行われる。前篇で述べたとおり、さつまいもの歴史もいわば育種の歴史だった。
現在、さつまいもの育種のおもな担い手となっているのが農研機構だ。西日本向けには宮崎県都城市の九州沖縄農業研究センターが、そして東日本向けには茨城県つくば市の次世代作物開発研究センターが育種を行っている。
「さつまいもの新品種を世に出すまでには交配から10年以上かかります。息の長い仕事です」と、次世代作物開発研究センター主席研究員の片山健二氏は話す。その手順は大まかには次のとおりだ。
片山健二(かたやま けんじ)氏。農研機構次世代作物開発研究センター畑作物研究領域カンショ・資源作物育種ユニット主席研究員。農学博士。入所以来30年近く、デンプン特性の改良に関する育種研究や新品種の開発など、さつまいもの研究に取り組む。2005年、日本育種学会奨励賞を受賞。
まず、交配して種を得る。ただし、さつまいもは熱帯原産のため、温帯の日本では花が咲かない。そこで、同じヒルガオ科のキダチアサガオを台木に、接ぎ木をして花を咲かせ、受粉させて種を得るのだ。
種を苗まで育てて畑に移植し、1株からさつまいもを1個ずつ取る。この際、いもの付きの悪い株は取り除く(実生個体選抜試験)。
そして、選抜したさつまいもを冬に貯蔵しておき、翌春に種芋として苗床に伏せ込み、萌芽した苗8本をさらに畑に移植して育てる。すると1系統(種芋)から20個ほどのさつまいもが穫れるので、どの系統が良質かを試験する(系統選抜試験)。
その後も、生産力に関する成績などを見て(生産力検定試験)合格すると、「関東何号」や「九州何号」といった系統番号がつく。「全体的には系統の数を絞り込みつつ、選んだ系統の種芋の数は増やしていくのです」。
その後は、関東や九州などの各県の試験場で各種栽培試験をしてもらい、「この系統は優れているので品種にしたい」との要望が出れば、農研機構で審査をし、通過したものを新品種として登録出願するのだ。ここまで最低8年はかかる。
だが、新品種がすぐ流通するわけではない。「農家の方々が実際に新品種の苗を買うまでにさらに3〜4年かかります」と片山氏は加える。
新品種の販売許諾権を得た種苗会社は、社内でさらに良質の系統を選抜したり、感染を防ぐためウイルスフリー苗を増殖したりする。ここでも3〜4年かかる。手塩にかけられた新品種をようやく農家が購入し、栽培する。
「良い品種と認められれば、そこからじわじわ広がっていきます。そうでなければ、あまり広がらずに終わってしまいます」
二大勢力を打ち破る「べにはるか」の誕生
地道な育種作業の中、近年まれに見る良質な品種が農研機構から誕生した。2010年に品種登録された「べにはるか」だ。
従来、1985年品種登録の「ベニアズマ」と、1945年育成の「高系14号」が、東西の二大勢力を張る品種だった。そこに九州沖縄農業研究センターが開発した「べにはるか」が割って入ってきているのだ。
品種登録から6年が経った現在の「べにはるか」のシェアは、焼酎用や工業用などを含む全用途のさつまいもの品種の中で「5〜6%」(片山氏)という。食用の二大勢力「ベニアズマ」と「高系14号」が「それぞれ11〜12%」(同)というから、確実にシェアに食い込んでいると言える。
食感と甘味の点で、従来品種にない“空白域”に「べにはるか」が入り込んだ。さらに、総合力でも優れていた。これが、ヒットの理由のようだ。
「従来品種の『ベニアズマ』はホクホク系。『高系14号』はホクホクとネットリの中間。そして、どちらも甘味はさほど強くはありませんでした。しかし、近年の傾向として若い世代はネットリ系を好み、甘味については強いほど好ましいことが分かってきました。そこで、そこに狙いを定めたのです」
さつまいもの食感がホクホク系かネットリ系かは、おもにデンプン含量の多少で決まる。甘味の強さについては、さつまいもに含まれるβ-アミラーゼという糖化酵素の活性がカギを握ることが知られていた。つまり、デンプン含有量は適量に抑え、かつβ-アミラーゼの活性が高い品種が「べにはるか」だった。
さらに、形が揃っている点や、病気への抵抗性が強い点、そして収量性の高い点など、「べにはるか」はおしなべて優秀な品種だったようだ。
「私は『べにはるか』の開発が進んでいたころ、九州沖縄農業研究センターにいたのですが、食味試験をすると、味見をするパートさんたちから『この系統はおいしい』ととても良い評判だったのを覚えています」
「べにはるか」の父は「春こがね」、母は「九州121号」。これら父母もそれぞれ「ベニアズマ」と「関東103号」、また「九系61」と「九系58」を交配して生まれたものだ。ほとんどの交配系統が新品種まで至らない中、優れた系統だけが新品種として登録され、さらにその一部だけがヒットする。それが「べにはるか」だったわけだ。
新品種「べにはるか」と従来品種「高系14号」。下は、蒸した「べにはるか」の中身。(写真提供:農研機構)
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美味しさのカギ握る甘味の新事実も
その後も、さつまいもに関する研究成果が上がっている。人々の嗜好性に欠かせない甘味についての新たな要因が、農研機構の研究者により解明されている。
甘味の要因として、β-アミラーゼの活性の高さがあるということは前述の通りだ。加えて、デンプンが糊化し始める温度が低いほうが、加熱調理時の甘味が増すことを、片山氏と同ユニットの中村善行上級研究員が明らかにした。
「糊化温度が低いほうがβーアミラーゼが早く働き始めるため、甘くなりやすいのです」と片山氏は説明する。「糊化温度が低いこと」も、育種における重要な尺度に加わったわけだ。
品種改良もさらになされている。
2014年には「あいこまち」が登録された。収量や糖度などの食味は「ベニアズマ」並みに優れている。「『ベニアズマ』の誕生から時間が経ち、同じ『ベニアズマ』でも品質に徐々にバラつきが出てきています。代わりになるような新品種を作れないかということで開発しました」。
さつまいもは、りんごと同様に酵素が作用して調理後の黒変が早いが、「あいこまち」はその変色が少ない。そのため、いもようかんや大学いもなどの加工品にも適している。
新品種「あいこまち」と従来品種「ベニアズマ」。左上(四角枠)は、蒸しいもペースト。「あいこまち」のほうが黒変しづらい。(写真提供:農研機構)
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地域ブランドや海外輸出を視野に育種
1年に約1種ほどの頻度で新品種が生まれている。今後も食感、糖度、収量、耐病性などを改善した新品種が確実に出続ければ、いつかは“出尽くした”状況にならないだろうか。
片山氏は「産地間の競争で考えると、自分たちの産地独自で良質なさつまいもが穫れるということが重要になってきます。地域ブランドとなるような品種が欲しいという声に応えてもいきたいと思っています」と答える。
たとえば、2014年9月に農研機構が公表した「からゆたか」は、佐賀県の唐津や上場などの地域での栽培が始まった新品種だ。「から」は、さつまいもの別称「唐いも」由来だが、佐賀県は「唐津・上場地域の風土に適していることが大きな特徴。“唐津”をイメージさせる素敵な品種名」と期待を寄せている。
さらに、あまり知られていないが、日本産のさつまいもは海外でも注目されている。
「たとえば香港では、食べきりサイズの焼きいもを街なかで食べ歩く習慣があるそうです。日本では小さめのいもでも、現地では手に持つのにちょうどよい大きさ。甘味も強いので、受けているようです」と、片山氏は話す。
宮崎県南端の串間市では、地元の品種「やまだいかんしょ」の香港への輸出を2004年から行っている。輸出量は年々増加。シンガポールや台湾などにも販路を拡大しているという。
「今後は、アジアなどの国外に向けて、日本の美味しいさつまいもを売り込むための技術開発もできればと考えています」
救荒作物としての役割は終わったけれど・・・
日本で人工交配によるさつまいもの育種が始まったのが1914(大正3)年。父系と母系の品種を交配させて新品種を生み出し、さらにその品種を父系あるいは母系として交配し、さらに新品種を生み出す。これを繰り返して良質な品種を多様に生み出してきた。
救荒作物としての役割を果たし終えた今もなお、より良質のさつまいも、地域特産品としてのさつまいも、輸出向けのさつまいも作りのために、蓄積された知見を活用していく余地は十分ありそうだ。
「さつまいもには食物繊維やビタミンC、ポリフェノールが豊富なため、機能性にも優れています。食べて美味しいし健康にも良いので、さつまいもがもっと広まってもらえればと思います。その役に立てればいいなと思っています」(片山氏)
食の多様化が進んだ今、良質な新品種を出し続けることが、日本のさつまいもを発展させるための鍵となっている。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/48408
琉球では日常食の9割を占めたさつまいも
さつまいも400年の歴史と現代の科学(前篇)
2016.11.11(金) 漆原 次郎
焼きいも。黄金色の湯気が食欲を誘う。
秋から冬にかけて、家の玄関から外に出ると仄かに焦げた匂いが鼻に届くことがあった。街をまわる石焼きいも屋の匂いだったのかもしれない。どこか哀しげなあの石焼きいもの歌とともにある昭和の記憶だ。
石焼きいも屋を見る機会は減った。それでも、スーパーマーケットやコンビニエンスストアのレジ横に居場所を変えつつ、焼きいもは人々を誘いつづける。カロリーは気になるが、「それはそれ、さつまいもはさつまいも」と思って頬張る人は多いだろう。
今は、おやつとしての印象が強い。だが、かつては人々の命を支えるほどの役割を担っていたこともあったという。時代ごとに、日本人の「さつまいも観」は変化してきたにちがいない。どのような歴史を歩み、そして現在どのような進歩を遂げているのだろう。
今回は「さつまいも」をテーマに、歴史と科学を前後篇で追っていくことにしたい。
中国から琉球、種子島、そして薩摩へ
南西から北東へ。これが、日本でのさつまいもの伝播の大きな方向だ。
1597(慶長2)年、中国の福建省から宮古島に長眞氏旨屋(ちょうしんうじしおく)という人物がさつまいもを伝えたのが日本での事始めとされる。だが、伝来は1618年という指摘もあって定かではない。
より確からしいのは1605(慶長10)年、琉球国の野國村(今の沖縄県嘉手納町野国)出身の野國總管(のぐにそうかん、生没年不詳)とよばれる人物が、進貢船で中国・福建省との間を往来する際、「蕃薯(はんす)」というさつまいもを持ち込んだという話だ。那覇の地主だった儀間真常(ぎましんじょう、1557-1644)も普及につとめ、わずか15年で琉球全体にさつまいもの栽培が広がったという。
その後、さつまいもは北上していく。1698(元禄11)年には、種子島にさつまいもが入った。薩摩国の島津家の家臣だった種子島久基(1664-1741)が琉球国の尚貞王(1646-1709)に依頼し、1箱分を寄贈された。家老を介して大瀬休左衛門(1621-1700)という82歳の農民に試作させると成功し、種子島にもさつまいもが普及した。
九州本土へは、琉球国への伝来から約100年後の1705(宝永2)年に伝わった。薩摩国の山川岡児ケ水(今の指宿市内)の貧農で生まれた前田利右衛門(1670-1719?)の功績だ。利右衛門は、船乗りとして琉球へ渡ったとき、人々が“草の根”を食べているのを珍しく思い、その植物の実を密かに持ち帰って家の垣根で育ててみた。だが、花も実もつかない。失望して根こそぎ捨てようとしたところ、土の中からさつまいもの実が出てきたので喜び、繁殖を始めたという。
他に、17世紀にはフィリピンから長崎にもさつまいもが伝わったとされる。その後、さつまいもは全国各地に飛び火するように広がっていった。
日本列島におけるさつまいものおもな伝播の経路と年代。資料によって年代が異なる場合がある。(いも類振興会編『サツマイモ事典』などをもとに筆者作成)
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青木昆陽以前にも関東で栽培の試み
関東地方でさつまいもが普及したのは、江戸時代中期の蘭学者として知られる青木昆陽(1698-1769)の貢献が大きい。
青木昆陽の肖像画。「甘藷先生」ともよばれた。
昆陽は京都で学に励んでいるとき、甘藷(かんしょ、さつまいもの別称)が、救荒作物だと知る。江戸に戻ると、江戸町奉行所の与力(指揮役)だった加藤枝直(1692-1785)の推挙もあり、大岡越前守(1677-1751)に気に入られる。
幕府との関係を持った昆陽は「享保の大飢饉」翌年の1733(享保18)年、さつまいもが救荒作物として優れていることを説いた著書『蕃薯考』を徳川吉宗(1684-1751)に提出した。これが認められ、昆陽は翌1734(元文元)年、「薩摩芋御用掛」を拝命し、薩摩国のさつまいもを小石川薬園(今の小石川植物園)、相模国の茅ヶ崎村(茅ヶ崎市)、下総国の馬加村(千葉市花見川区幕張)、上総国の不動尊村(九十九里町)で試験栽培したのである。
青木昆陽のこうした尽力が関東でのさつまいも普及をもたらしたのは事実だろう。ただし、昆陽の試みより13年も前の1722(享保7)年、幕府の代官だった伊奈忠逵(いなただみち、1690-1756)が武蔵国の数か所でさつまいもを試作させた(失敗に終わった)という記録もある。幕府によるさまざまな栽培の試みの中で、知識豊富な昆陽が大きな貢献を果たしたというのが事実かもしれない。
1日5キログラム、完全なる主食だった
さつまいもはどのように食べられていたのだろう。
江戸時代、100以上の料理法が書かれた『豆腐百珍』を筆頭に『蒟蒻百珍』『卵百珍』などの「百珍本」が流行した。さつまいも版の『甘藷(いも)百珍』も珍古楼主人なる著者により1789(天明8)年に出版されている。
この本には、123種類のさつまいも料理が「奇品」「妙品」「絶品」そして「尋常品」に分類されている。尋常品つまり日常的料理として「むしいも」「いも茶粥」「いも飯」「焼きいも」「いも雑炊」などが並んでいる。
そして「百余品のなか第一品」と記されているのが「塩蒸しやきいも」だ。土つきのいもを水に浸し、塩をべったり塗って炭火で蒸し焼きにするという。さらに塩釜からかき出した熱い塩にいもを埋めて焼いたものは「風味至ってよし」。さつまいもにも“甘いものに塩”が適用されていたのだろう。
一方、琉球地方では「んむ煮」とよばれる、いもの皮を剥いてしゃもじでつぶし、味付けせずに食べる料理が伝統的にある(ンムはイモの方言)。また、いもくずを水で溶いて塩やにらを加え、鍋で炒める「んむくじぷっとぅるー」や、煮てつぶしたいもに水溶きしたいもくずを加え、塩で味付けする「んむくじぽーぽー」などの料理もある。
かつて琉球地方では、さつまいもは完全なる主食だった。1879(明治12)年に農商務省がまとめた調査資料では、琉球藩における日常食のなんと9割以上をさつまいもが占めていたという。1919(大正8)年でも、当地の農家1人のさつまいも摂取量は1日で3〜5キログラムにも上っていた。
沖縄では今も「んむ煮」は砂糖を加えるなどして食されている。紅芋(右)を使うことが多い。
九州南東部より南の地域には、太平洋戦争のころまでさつまいもを主食とするところがあったという。温暖であれば土地をさほど選ばず栽培できるさつまいもが、人々の食を支えてきた。
改良品種が戦中戦後の命を救った
品種の導入や改良も昔からされてきた。
琉球地方では古く1707(宝永4)年、「古知屋芋(くちやいも)」の種を人々が求めたという記録がある。そのほか20世紀初頭までに「花松川(はなまちがー)」「花カジャー」「真栄里(めーざとー)」「暗川(くらがー)」「佐久川(さくがー)」など多くの品種が誕生している。これらは人の手を加えず自然な状態で実を結ぶ自然実生や、突然変異によるものだ。
日本に海外品種も持ち込まれた。広島県の久保田勇次郎は契約移民としてオーストラリアに渡り、1895(明治28)年、さつまいもを持ち帰ってきた。作りやすい、土地を選ばない、貯蔵しやすいということから「三徳イモ」と後によばれ、「源氏」という品種名などで全国に普及した。久保田は1900(明治33)年、米国からも新たな品種を持ち帰っている。
また、1898(明治31)年には、埼玉県木崎村(現さいたま市)の主婦だった山田いちが、「八房」という品種を育てていたところ、突然変異種を偶然に発見した。これは、今も「紅赤」として県内で栽培されている。さつまいもの歴史には民間人の功績が多い。
1914(大正3)年、いよいよ人工交配によるさつまいもの育種が始まった。場所は沖縄県糖業試験場。これが世界初のさつまいもの交配育種といわれている。「真栄里16号」「佐久川13号」「那覇屋6号」などが誕生し、沖縄県内の奨励品種となった。
国も、さつまいもを国民の重要な食糧の1つと位置づけ、品種改良の体制を整えた。1927(昭和2)年、農林省が「甘藷改良増殖試験事業」を開始。沖縄県の農事試験場で交配種子をつくり、岩手県、千葉県、三重県、高知県などの農場試験場で優れた系統を選ぶ体制をつくった。食用では「良食味・多収」が目指された。
こうして品種改良は自然によるものから人工的なものへ、また民から官主導へと移っていった。そして、戦中戦後の食料難の時代、極多収性の「沖縄100号」などが、工業用のみならず食用として栽培され、多くの人々の命を救ったのである。
1949(昭和24)年の作付面積44万ヘクタール、生産量600万トンを頂点に、その後は食糧事情が良くなると、さつまいもの需要は急減していった。「いもしか食べるものがなかった」という人々の記憶がさつまいもを遠ざけた面もあるだろう。
将来のことは分からないが、さつまいもの救荒作物としての役目は終わったのである。
だが、戦後も品種改良は続く。培われてきた多収性は保ちつつ、さらに食味のよい品種の開発が目指されていった。そして現代、人工交配が始まった100年ほど前には考えられないほど、質の高いさつまいもが誕生しているのだ。
(後篇へつづく)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/48348
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