http://www.asyura2.com/16/hasan113/msg/776.html
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なんや、最近、お天道様何某とかいう、危機ばかり煽っている不埒者が阿修羅掲示板におる、けしからん!、と、お叱りをうけそうですが、私は何もやりたくて狼少年のように振る舞っているのではありません。 これこれこういう、世界の1%に遥か満たない少数の強欲共の企てがあって、それが起こるかもと注意喚起、拡散する一助に徹することで、そうならないように願っているだけです。 何も起こらないのであれば、当然、それに越したことはありません。
そしてこれもその、起こるかも事象の一つについて、
<<世界危機?>>オバマ大統領やドイツ政府、さらにチェコやフィンランドが国民に何らかの緊急事態に備えて準備せよという詭弁で述べた金融危機に伴う世界的カオスの可能性ですが、通常方法では相殺できないのが明らかなドイツ銀行のデリバティブ未決済残高と、FRBを中心とする世界の中央銀行がこのところ積みましてきた、主に彼等のタコの足食い行為(=各国債務の自行買いや野放図な金融緩和)によってバブっている資産と、危機に備えよの警告が、同じドイツと米国発というのをみても、経済危機から世界的無秩序の創出がなされる確率は依然、高いのではないのでしょうか。 それらについての記事をさらに以下に掲載します。
政策金利の正常化への機会を失った米FRB trendswatcher
Photo: usnews
9月のFOMCで追加利上げが見送られた。イエレン議長は年内の追加利上げを示唆しているが、年内に残された2回のFOMC会合で利上げを決定することが困難な状況にある。今回の利上げ見送りでFRBは金利の正常化への機会を失ったことになる。
9月の利上げ見送り
8月25日に米ジャクソン・ホールで開催された年次経済政策シンポジウムでは、イエレン議長(連邦準備制度理事会:FRB)は年内の利上げ、スタンレー・フィッシャー副議長は利上げが2回ある可能性のタカ派コメントを出した。しかし、9月21日の米連邦公開市場委員会(FOMC)会合では、追加利上げの見送りを決定した。
経済成長と金利の見通し
今回のFOMC声明文では、2016年の経済成長見通しと長期見通しをそれぞれ6月予想の2.0%から1.8%と下方修正している。コアPCE(個人消費支出)インフレーションは1.7%であるため、「経済成長」は物価上昇によるものであり、生産、投資、消費などの拡大による経済の活動規模の拡張を示すものではない。2016から2019年までは、経済成長の予測は0%と解釈できる。
Source: FOMC
声明文とは正反対に、記者会見ではイエレン議長は強気な経済見通しを述べ、年内の追加利上げの公算が高いと強調したが、明らかにアメリカ経済は低迷傾向にあり、経済成長の下方修正がそのことを反映している。
FF金利も6月予想の0.875% から0.625%と、利上げを示唆しながら30%の下方修正となった。さらに、2017年と2018年の金利見通しを前回の1.625%と2.375%から、それぞれ1.125%と1.875%と30%下方修正した。今回、利上げを見送ったことで、年内の金利目標が達成できないことから、今年を含めて今後3年間の金利の見通しを下方修正したことになる。
年内に利上げの可能性はない
イエレン議長は、「ほとんどの参加者は年内1回の利上げを予想している」と述べている。9月FOMC会合の金利目標を達成するには、年内の利上げは必要不可欠となる。年内開催される FOMC会合は、11月1〜2日と12月13〜14日の2回。11月の会合は大統領選の一週間前で、金融市場への混乱を避けるため、金利の据え置きを決定すると思われる。
さらに、12月のFOMC会合でも、利上げに踏み切れる状況でもない。会合前に7-9月の第3四半期のGDPが発表される予定で、アメリカ経済の長期的減速を裏付けする統計がでれば、利上げは見送られ、利下げに動く可能性が高くなる。経済の低迷は確実に進んでおり、悪化が加速している。今回の利上げを見送ったことで、FRBは金利の正常化ができない状況をつくってしまったといえる。
米国経済の実体は、長らく株価や債権市場操作によるみせかけで、それこそ、軍産複合体何ら中身がなく、もっぱら、石油の米ドル決済と、償還されることのない米国債の中日サウジ等による買い増しで延命されてきたのも明かでしょう。
そして今回のFRBのもはや、万策尽きたかのようなバンザイ宣言…
一方、何奴のせいでもない、あんたが招いたドイツ銀行について、
ドイツ銀行株大幅安 第二リーマンショック? 黄金の金玉を知らないか?より抜粋
以下はゼロヘッジから。
前にリーマンブラザーズとドイツ銀行の株価の推移がそっくりだと書いたのですが。
その後もそっくりな動きになってきてます。
もうすぐドイツ銀行ご臨終なんでしょうか。
ちなみにドイツ銀行の持つデリバティブ残高は75兆ドル(約8,000兆円)。
この額は、ドイツGDPの20倍。ユーロ圏GDPの5倍。
世界中の国々のGDPの合計は66兆ドルなのでそれでも足りない金額。
全世界のGDPを上回るデリバティブ残高が弾けたらどうなるんでしょう。
考えただけでもヒャッハーですね。
以下はドイツ銀行のCDSです。
CDSとはつまり倒産保険。
みんなが倒産するとふんでか急激に上がってます。
この危機に対してメルケルさんは公的援助を拒否して、自国民に対しては、食料や水の、少なくとも10日間の備蓄を呼びかけ…
さらにその、ドイツ銀行、
ドイツ銀行を破綻に追い込む訴訟の連鎖:Part 1 trendswatcer
Photo: alliance/dpa/A. Dedert
ドイツ銀行は欧州経済の低迷とマイナス金利政策で収益性は低迷、巨額なデリバティブ・ポジションや資本不足で破綻危機にある。時価総額約174.3億ドルのドイツ銀行は将来の収益性の改善の見通しは低く、今後、不正操作による金融当局による罰金、民事訴訟による損害賠償金や和解金、米司法省による140億ドルの制裁金などの支払いで、多額な資本増強が必要となる状況に追い込まれている。破綻危機が一段と深刻化している。
増加する罰金、損害賠償金、和解金、制裁金
ドイツ銀行は4月に、LIBOR金利(ロンドン市場においての銀行間のお金を貸し借りするときの指標金利)の不正操作で25億ドルの制裁金が課せられた。さらに、金・銀価格の不正操作による損失に対する損害賠償金の要求やロシアで40億ドルの不正取引と60億ドルの「ミラートレード」と呼ばれるマネーロンダリングの関与などに関して訴訟案件を抱えている。投資家による訴訟案件は7,000件以上に膨れあがり、将来発生すると思われる訴訟費用として約61億ドルを引き当てているが、今後巨額な追加資金が必要となってくる。
9月15日には、2007~2009年の金融危機の引き金となったサブプライム住宅ローン担保証券の販売で、米司法省から140億ドル(約1兆4,000億円)の制裁金の支払いを要求された。これは司法省が外国の銀行に対して請求した倍賞金額としては史上最高である。ドイツ銀行が、訴訟費用として準備している61億ドルの2倍以上の額である。ドイツ銀行は要求された制裁金の金額には応じないと、交渉による金額の引き下げを目指しているものの、状況は厳しいとされている。
ブルームバーグによると、2008年からこれまで罰金や和解金などでドイツ銀行は90億ドルを支払ってきた。司法省の制裁金が40億ドルを越えれば、今後発生する訴訟費用に対応するための予備資金を追加しなくてはならない状況に追い込まれる。
しかし、ドイツ銀行が抱える問題は、現在進行している訴訟案件や今後起こされる訴訟による和解金や損害倍賞金、金融当局による制裁金が金額的にどれほどに上るのかが予想できないことである。長期期間にわたり、訴訟費用が積み重なっていく状況に対応していくのは不可能である。先行きが不透明な訴訟費用の増加で、ドイツ銀行の破綻は現実味を増している。
そらーここまで、危うい状況が露呈しちゃえば、ドイツ政府もそっぽを向きます。
さて、そこで、私たち、一般大多数の世界市民は何をすべきか、これは以前にも申し上げましたが、私たちは彼等を見習って、備えよ、ではなくて、それが彼等によってもたらされた、結果であり、私たち、人類のほとんどに何らその債務を払うイワレはないことを拡散していただき、断罪されるべきは、彼等のお身内にあることを、やはり、一人でも多くの隣人らに知ってもらうことでしょう。
そして、その現代金融機関が、自己欲の具現化の手段、つまり、競争社会の根底をなすものであるのは、申し上げるまでもありません。 しかし、金融制度そのものが最初から矛盾を抱え、権力や権威の根源であり、それが人類を惑わせ、その進化を妨げ、社会全体を狂わせてきた怪物であったのも、事実なのではないのでしょうか。
藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2016年9月28日 シェアと感謝の経営革命
<<前略>>
本当に30代半ばより下の人たちの価値観というのが、
40代後半以降の人達の価値観とものすごく違うのに
本当によく、驚きます。
40代後半以降の人達っていうのは、割と発想が単純で、
とにかくその自分の欲望と競争ですね。
これにすごく、忠実なんですね。
競争と自分の欲望に忠実で、それをどこまでも
推し進めていく事が、この世を進化・生成・発展させ
人々を幸せにする原理である、原動力であると
固く信じて疑わないところがあるんですね。
しかし、若い世代から見ると、それは原発みたいなもので
非常に危険なものだと。
異常にまわりに有毒なものを撒き散らして、非常によろしくない。
よく暴走するじゃないかと。
確かにそうですね。
市場経済のメルトダウンなんていうのは、
まさに競争と欲望から生まれて、それがメルトダウンする
わけですから、若い世代から見ると、ああいう人達は何なんだと
あれは、原発みたいなものじゃないかと。
競争と欲望で動いていて、それが言ってみれば、ウランですね。
それが、こう、連鎖反応を起こすと。
競争と欲望が隣に影響を与えて、その隣の人がまた競争と欲望の塊になって、その隣もさらに隣も競争と欲望の塊になって、それでみんながハイの状態になって、さあ、あの商売、この商売、いくら儲かったか、さあ、売れと。 これが臨界という状態で、そこでしっかりカネを稼ぎ出すと。
ああ、幸せと… そう見えるわけですよね。
確かにその通りかもしれません。
この競争と欲望の問題、それこそ、経済学が始まって以来の問題だと思うんですけれども、だからそれは如何にレギュレート(統制または規制)するか、というのはすごく重要な問題で、それがやはりレギュレートできなければ、今度はコントロールになっていくわけですね。
そうすると価値観の問題から宗教的な問題まで含めて、どうするかっていう事をものすごく、皆悩んで今日まで生きているわけですが…
反対に若い人達は、その対極にある感じがするんですね。
まずその競争よりもシェアーということをすごく大事にしますね。
あの共有とか共生、ともに生きるっていうことですね。
で、シェアーするというのはもう一つ大きな概念があって、
魂の元は一つだっていう安心感があるから実はシェアーって、できるのですね。
競争と言ったときは、自分は一人であると、天もクソもあるものか、
と言う部分があって、 天もクソもあるものかと思うから自分一人でどこまでもがんばれるところがあるのですが、
シェアーといった場合には、もう、ビンビンと天からの意図を感じているわけですね。
それは決して、その、多数決に逃げ込むっていいますか、多数の集団に逃げるためにシェアーと言っているのではなくて、やはりこう、たどっていけば魂はひとつでありますから、その一つの魂の源での分け御霊でありますから、そういう意味で言ったら、シェアーと言うのはごくごく当たり前の事であって、皆が元々魂はシェアーしあっているわけですから、生活も仕事もシェアーしていきながら、情報も価値観もシェアーしていきながら、皆で幸せになろうねっていうのは、まるで大自然がですね、植物も動物も一つの生態系をなしているのと同じことだと思うのですね。
森でも何でも、一つ一つの木が生えていて、そこに動物がいるわけですが、それは一見、競争と欲望で動いているようにみえるわけですけれども、全宇宙、全大自然の調和の中に生きているわけですね。
だからそれを見て、一つ一つの生き物に注目して、競争と欲望だとみるのか、あるいは森全体が共生している、実に多くの種が共生していると見るか、その大きな違いですよね。
共生していると見るのが、若い人達の間で多くて、そこにはやはり、皆で共有している魂みたいなものがあるという発想なんだと思うのです。
で、競争っていうことが好きな人にシェアーって言うと、途端に力が抜けますよね。 何かこう発想をシェアーしましょうとか、行動をシェアーしましょうっていうのは、やはり、競争に染まりきった人達には、耐えがたいことのようで、シェアーするなら、自分が頑張る必要がないんじゃないかと、いうふうにすぐなってしまう。
それからこう、シェアーっていうことが当たり前の人に、隣と競争しろよと言っても、これはなかなか大変なんですよね。 かえって力が抜けてしまうわけです。
ですからこの間は、本当に大きな価値観のギャップがあると思います。
競争とか欲望って、より狭い意味での自分の認識だと思うのですね。
やはり、自分の体のまわりだけしか考えていない世界で、で、共生、シェアーってことを考えると、ものすごい広い概念ですよね。 幅広くものを考えるという部分があって、実際に現実をどこまで知っているかって言うその問題とは全く別に、どこまで自分を認識しているのか、と言う部分がうんと広いと思います。
それから感謝という言葉もそうなんですね。 感謝というのは、競争と欲望の世界だったら、それは対価に相当するんですね。 対価、何かやったから、感謝だと。 ギブアンドテイクの中の一つが感謝っていうことですね。
共生における感謝というのは、ギブアンドテイクの感謝ではなくて、一緒にいられるからうれしいねっていう世界ですね。 魂を共有できているから、行動を共有できているから、うれしいねっていう世界で、それは、やはり天とつながっているからうれしいねっていうのと同じ意味ですね。
ですからこの感謝って言うのが、実はこれまた競争と欲望を既になかなかわからないところがあって、例えば大自然の恵みに感謝するって言うのが一番いい例で、いや別に、ここで、畑で何かを獲るより、買ってきたほうが、おいしいし、とかね、というと、全然分からないし、反対にその大自然の恵みに感謝するって形で、農園なんかやってる人にとってみると、農園にいることそのものが、楽しくなってくる、それそのものが感謝になってくるわけですね。
このような感じで、どうも日本の場合は、30代前半と40代後半でかなり本格的に価値観が違っていて、30代前半のシェアーと感謝っていうことの価値観っていうのは、これは、皆さん、年齢とともにどんどん世の中で活躍するわけですから、日々、その影響力を大きくしているように思います。
もちろんですね、今、年齢で大きく分けましたけども、全ての人が
そんなふうになっているわけではないですね。
当然の事ながら、年配の人達の中に、シェアーと感謝がよく分かる人達もいるし、それから若い人達の中にも、やはり、欲望と競争しか分からない人達もいます。 それは間違いなくいるんですが、しかし、時代の大勢がどちらにあるのかなんです。
要するに、最終的に分水嶺のどちら側にいるかですね。 競争と欲望の側にいるのか、あるいは、そのシェアーと感謝の側にいるのか、分水嶺のどちらにいるのかによって、彼等が頑張れば頑張るほど、行き先が全然違うじゃないですか。 分水嶺の右側にいれば、頑張れば頑張るほど、右の方にどんどん行くし、左側にいれば、頑張れば頑張るほど、左に行きますよね。
これは右翼左翼という意味ではなくて、ただ、単にその分水嶺のどちら側にいるかって言う話でしょう。
そんな感じで考えると、やはり、分水嶺の全く反対側にいるんだとと思うんです。 したがって今、様々な組織で、大きなストレスが生まれてきているんだと思うんですね、この世代の違いによって。
競争と欲望で運営しようとすると、もう下の方は、いやになっちゃうからもうすぐやめちゃうと。で、下の人達が、シェアーと感謝でやりだしちゃうと、上は怖くなるから、それを止めようとする…
そんなことがですねえ、決して営利組織だけでなくて、様々な部署で広がってきているのではないかと思うんですね。
でも、これはやはり、十年前と比べて、相当、顕著になってきていると思うんですね。十年前から確かに、そういうことはあったと思います。私自身もですね、昭和のバブルが弾けて、もう、昔のようなマネーゲームは通用しないということが、何か分かったときにですねえ、次は、御用達だって話したと思うんです。
で、御用達っていうのは、まあ、ある意味で言うと、お客さんと知恵や情報をシェアーすることだし、お客さんからいただく感謝の言葉その物が仕事の励みになるということで、御用達そのものは、実はシェアーと感謝が裏側にあるわけですね。
で、実際に90年代って言うのは、御用達の仕事をしてなかったところっていうのは、海外に行く以外、あまり生き残りの道はなかった。 で、もう、今世紀に入ると、海外に行ってた人達もうまく行かなくなっていて、結局は、御用達の仕事をしている人以外にうまく行く道がないと言う現実がはっきり見えてきたわけですね。
そうすると、御用達の仕事をしている人達って言うのは、シェアーと感謝の世界ですから、そこに完全に道が敷かれていて、だから結局のところ、年配の世代の人達でも、自分達で苦労して、シェアーと感謝をちゃんと手にした人達もいると思うんです。 これが大体20年ぐらい前からです。 25、6年前からですね。 で、こういう人達がやはり、まず、ひとつ、きっちりとある、そこにですね、
やっぱ、そういうのを見たことなのか、あるいは世の中の変化がもっと多くなっているのか、若い人達が後ろからついてきているわけです。
そうすると、もう、これはすごいもので、御用達をやっている組織と、そのシェアーとか感謝というものがいいと思っている若者がずっと動いてくると、もうこれは完全に勝負あったの世界なんです。
そうするとやはり、たとえ十年前は海外に行って、まだまだ競争と欲望でやってる会社も結構元気でしたから、十年前って言うとちょうどサブプライム危機の直前でしょ、だから、まだまだ競争と欲望系の会社はまだまだ元気だったと、そういう人も元気だったと思うのです。 シェアーと感謝は、ものすごくマイナーだったようなかんじがするんです。 一番マイナーだったかもしれません。
でも、反転しましたね、この十年で。 もう、競争と欲望は、何どうやったって、ダメだってことが、今の株式市場や世界の金融市場をみていても、あるいは今の自民党を見ていても、よくわかるわけで、やはりこの先は、本当のシェアーと感謝以外に残らないって世界ですね。
わたしこれが、本当に今回の経営革命じゃないかと思うのです。 よく、働き方革命が大事だと政府が言うんですが、いやその働き方って、やはり、経営者が決めてますから、経営の革命が起きなければ、働き方の革命って言うのは、進まないと思うんです。
で、やはり経営者自身が、競争と欲望で経営していると、もう、これから、御用達の会社にはなれませんよ。 それから、若い人は、ついてこれませんよということで、滅亡以外に道がないわけですよね。 ここにおける経営革命っていうのは、もう、何か全部一本にそろって、シェアーと感謝だというふうになるしかないですね。
では、シェアーと感謝の経営ってどんなものかですね。 まあ、これは堂々巡りになっちゃいますけど、一番わかりやすく言うと、御用達の経営なんですね。 御用達の経営だって事になるし、それからオープンな経営って事ですよね。 御用達であり、オープンっていうことが、まず、シェアーと感謝ということですね。
それからやはり、大地の恵みに感謝してと言うのと同じでありまして、会社の目的って言うのは、やはり、世の中を前に進めるためにあるわけですね。 何か”もの”っていうより、”事”のために皆が集まって、何かを成す、で、それはやはり、世の中を進化・生成・発展させる重要な役割を担っているわけであります。 ですから、組織というのは、世の中を進化・生成・発展させるために、人がそこに集まるわけでありまして、ですからそこ自身が大宇宙とつながってないという事は、ありえないわけであります。
だから、この競争と欲望だけで、組織を運営してきた時代って言うのは、むしろ、変わった時代でありまして、うまく行かないのは当然で、やはり、最終的には、天とつながらないとダメですから、そこに戻ってくると、帰着するんだと、私は言っていいと思います。
で、さらにこのシェアーって言うことの意味なんですけれども、これは皆が同じようになる、共産主義とは全く違うんですね。 共産主義とはすごく誤解が多いと思うんですが、あれはシェアーの全く反対ですね、アレは収奪です。
この力学は完全に反対なんです。今の安倍政権の強権的政治もそうだし、それから市場原理主義者による、強権的政治もそうだし、それから、共産主義者による強権的政治もそうだし、これ全部、富を吸い上げる、エネルギーを吸い上げる方向は、民から独裁者へなんですね。 民から独裁者へのお金の流れっていうものが、あるいは、エネルギーの流れが競争と欲望なんです。
ですからシェアーと感謝は、その全くの反対です。 上が手放さないと、何も生まれません。 シェアーも感謝も生まれません。 誰かが地位と権力、お金を独占している、貧富の格差の拡大を容認しているとか、自分達だけ楽な暮らしをしている、これは、シェアーと感謝の正反対です。 従ってシェアーと感謝っていうのは、共産主義の正反対なんです。 力学をよく見ないといけないですね。 たまに誤解する人がいます。 シェアーと感謝は、共産主義の全くの反対です。
ですからこれは、もう一つ進んで言うと、このシェアーにおいては、何も皆が同じ事をしろというのではないんです。 むしろその、安倍政権が言うような単一労働、単一賃金のように、収奪型の場合は皆、同じようにするんですね、これは、家畜を牧場で飼うと言うやり方と同じで、皆を家畜にしてしまうわけなんですよ、国民を。
で、単純にして管理しやすくするっていうやり方ですから、統制を強化すればするほど、人々は洗脳されて同じような行動、同じように考えてやるようになります。
反対にシェアーは、その逆ですから、全く皆、違うことを考えて、違うことを行動するようになって、それで当然なんです。 全く違うことを考えて行動しているのに、なんでシェアーなのというと、それがシェアーだからです。
すなわち、大自然が、大宇宙がそれを統制しているのですね。 統制っていうか、全部そこで、束ねているのです。 だから、人智を越えたところで人々が、思わぬ働きをして、思わぬチームワークをして、思わぬリーダーシップを発揮して、人智を越えた素晴らしい何か、その、有機体を作っていく、これが、本当のシェアーの世界なんです。
だから、シェアーというのは、実は狭い場所で人が見ると、何か矛盾に満ちたようにみえるかもしれません。 もっと効率的、効果的にやった方がいいようにみえることは、決して少なくないのです。 でもそれは、その世界をもっと突き詰めていくと、さっき言った、強権的政治、共産主義、市場原理主義に行き着いてしまうわけで、自分で目に見える範囲だけですね、きれいにしてしまおうと、自分で理解できる範囲にしてしまおうと、で、すごく単純にしてしまおうと、かえって大自然の姿とは、全く違う、極めてエキセントリックな、へんてこりんな怪物を生んでしまうんですね。
反対にシェアーの世界って言うのは、ものすごく豊かでありますから、およそ人間界に計りしれないものがあると、人間の世界というものも、計り知れないほど奥深い素晴らしいものであると。 それは何か、ものすごい天然の原生林みたいな世界に見えてくるわけで、危険というよりも、それは共生している世界、そういうところが最初になければ、ダメですね。 で、その上で人間は動物や植物と違うところがあって、理念の元に、皆さん自分を動かすことができるわけですね。 だから、いろんな異なる能力を持った人達が、理念に集まって共同で行動するって言うこと、これは人間の力でできるわけですね。 だから、ものすごく多様な人達が集まって、多様な能力を発揮して、一つの目的のために信じられない行動をとるっていうことが、できるようになるわけです。 そうするとそれがものすごく偉大な成果を生むことができる。
それは言ってみれば、自分達の人智を越えたところから得られる進化・生成・発展でありますから、当然それは天に対する感謝、大自然に対する感謝というものが生まれてくるわけで、こうやって、大自然と人間の関係っていうのは、本来の姿が、取り戻されてくるわけですね。
だから今のように、ものすごい統制が崩れたら全部終わりだというのは、それは全く大自然に反するものの考え方でありまして、大自然というのは、もっと雄大なものであります。 人間の小賢しい知恵や法律なんかで、当然コントロールできるものではなくて、もっともっともっと、雄大なものです。 ですから、まず、その雄大なものの世界を前提にした経営に変えていかなくてはならないですね。
だから当然の事ながら、会社はオープンになっていきます。 オープンになっていて、同時に人は、怠けるわけにいかないんですね。 反対に統制の時代は、結構怠けることができるんです。 怠けないように結構監視しているようですが、言われたことだけやっていれば、いいわけでしょ。 言われないことをやらなくていい訳ですから、ちょっと何か工夫すると、いくらでも怠けられますよね。 結局そのつけが、今の日本経済の停滞なんかを生んでいるのだと思うんですけれども、本当のシェアーと感謝では、それができないですね。 枠がありませんから、オープンになっているから、なにをやるか、全部自分で決めなければならないでしょう。 だから自分に対して怠けることができなくなるわけですね。 で、やればやるだけ、なんでもできそうに思えてくるし、だから、その辺は何かやはり、大自然の力の中で人は、謙虚になって もっとやってみようという気力も湧いてくるのだと思うんですね。
で、こういうものを生かしながら経営していくことが今回の経営革命で、御用達であり、オープンであると。 で、人々の個性を重視して、横型リーダーシップでそれを束ね束ね、その一つ一つ状況の中でやるべきことを、積み上げていくと、そして、常に天に対しては、謙虚にと。 こういう経営に改めなければいけないわけですね。
でも、それは、若い人にとっては当然だと思うのです。 御用達の仕事している人には、当然の事でありまして、それを如何に形にしていくかというのは、喫緊の課題でありまして、その辺が新しい時代の幕開けを、一つ本当に形にするということではないかなと、そんなふうに思っております。 ということで今日の藤原直哉の21世紀のみんながリーダー、シェアと感謝の経営革命ということでお伝え致しました。 ではまた、おめにかかりましょう、さようなら。
経済評論家のほとんど多くが体制翼賛賛美芸者と成り下がっている今、藤原さんは数少ない、大多数の考えを代弁しておられる方であるのは間違いないでしょう。
が、組織企業の目的が営利と継続にある限り、御用達云々として、その生き残りが担保される事はありえないのではないのでしょうか。 もっとそれを簡潔に言えば、結局、そこに富や財の移転を伴う相互存在は、競争の是認でしかなく、真のシェアーリズムではないのではないのでしょうか。
真のシェアーと感謝への道
まだまだあるある歴史の嘘と、貧困、飢餓、殆どの犯罪、高齢化、少子化、等、社会問題の根源は貨幣制度の是認であるに違いない。
社会主義のデンマークVS自由主義のアメリカ、どちらが住みやすい?←右と左のいいとこどり、その間にある理想社会は、あります
あるべき持続可能な、循環型社会と、その、平和的な移行方法に関する考察。(コメントの6番が2016年2月9日現在の最新バージョンです。)
三つ、セットでご覧ください。
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