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アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた! 歴史家が危惧する「いつか通った道」(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/16/hasan113/msg/235.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 9 月 14 日 12:46:25: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 


アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた! 歴史家が危惧する「いつか通った道」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49687
2016.9.14 河合 敦 歴史研究家 多摩大学客員教授 現代ビジネス


■「三本の矢」はウソだった!

第2次安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を「三本の矢」として2012年にスタート。一時は日本経済が急速に回復するかに見えましたが、いまは完全に停滞してしまいました。

私の専門は歴史で、経済や政治ではありませんが、今回は現在の政府による経済運営について気になることを、歴史的な視点から述べてみたいと思います。

一般的にアベノミクスが期待された結果を出せない理由については、こう言われています。中国経済の失速、イギリスをめぐるEUの混乱、さらには原油安による新興国経済の失速など、海外の経済がよくないために、日本も景気がよくならないのだ……と。

その指摘自体は間違いではないと思います。ただ、これが事実だとすれば、それまでアベノミクスが好調だったのも、単に世界経済の動向が日本に有利に働いただけで、政府や日銀の経済政策の効果でないことがはっきりしたと言えなくもありません。

ところで「三本の矢」というネーミングですが、これは、安倍首相の故郷山口県を支配していた毛利元就「三本の矢」の教訓になぞらえたものであることは、多くの方がご存知のことでしょう。プロサッカークラブの「サンフレッチェ広島」の名の由来にもなっていますが、簡単に言えば、こんなお話です。

病床に伏していた毛利元就はある日、隆元・元春・隆景の3人の息子を枕許に呼び出します。元就は、まず1本の矢を息子たちに持たせて折らせ、続いて矢を3本束ねて折るよう命じますが、今度は誰も折ることができません。そして元就は息子達にこう告げました。

「よいか1本の矢では簡単に折れるが、3本まとめると容易に折れない。お前達3人がよく結束して毛利家を守って欲しい」と。

息子たちは、この教えに従う事を誓うのでした……。

安倍首相は、三本の矢の逸話よろしく、金融政策、財政政策、成長戦略という三つの施策が相乗効果をもたらし、日本経済をデフレから救いだし再び上昇軌道に乗せようとしたのです。

その施策の有効性はともかく、この話を最初に聞いたとき、これは先行きが思いやられるな、と感じました。

なぜなら、この逸話が、そもそもウソだからです。



■江戸時代にも「アベノミクス」はあった

元就は死ぬ前に3人の息子達を枕元に集め、三本の矢の教訓など語っていません。戦前は小学校の教科書にも紹介されていたこの話は、もともと中国の古典にある話で、それを後世の人が勝手に元就の逸話にしてしまっただけなのです。

安倍首相の熱心なファンはこう反論するかもしれません。何百年も前の話なのだから、言ったか言わないかは誰にもわからない。失礼なことを言うな、と。

確かに私も現場を見たわけではありませんが、これに関しては史実と異なる、と断言できます。なにしろ長男の隆元は、元就が臨終する数年前に死んでいたからです。次男の吉川元春は戦に出ていて臨終の場にはおらず、3男の小早川隆景は40歳近くになっている。これらに関してはさまざまな文献で証明されているのです。

間違った言い伝えになぞらえているようでは、施策自身の説得力もありません。そこに不安を感じたのです。

もちろん三本の矢の逸話がフィクションだとしても、政策そのものが的を射ていれば問題はありません。しかし、歴史的観点から言えば、この点に関してもやや疑問符が付きます。

アベノミクスとは簡単にいえば、円を安くし、国内の物価を上げ、規制を緩和し、政府の予算を民間にばらまいて景気を良くしようという経済政策ですが、じつは江戸時代、同じような政策をおこなった藩がありました。

徳川御三家の筆頭・尾張藩でのこと。実施したのは7代藩主宗春。ちょうど幕府では8代将軍徳川吉宗が享保の改革をしていた時期と重なります。

よく知られているように、紀州藩主から将軍になった吉宗は、傾いた幕府の財政を立て直すため、自ら質素な木綿の服を着、食事も「一汁三菜」にして倹約につとめ、徹底的に支出をおさえました。また、庶民にも質素倹約を求め、贅沢を禁止したことは歴史の教科書でも習ったでしょう。

いっぽうで各藩から米を供出させ(上米の制)、農民に対する税率を上げて(定免法の採用)幕府への収入を増やしました。こうした緊縮財政を長年続けたことで、見事幕府の財政を再建したのです。

つまり、増税と財政緊縮を同時に、長い間コツコツ進める事で、ようやく財政立て直しに成功したのです。


■尾張藩のイケイケ規制緩和

各藩でもこれをまねて改革をおこなっていましたが、1730年に尾張藩主となった宗春は、将軍吉宗と真逆のことをはじめます。享保の改革以来、自粛していた名古屋での祭りを大々的に復活させ、藩士にも芝居見物を許したのです。

また、藩祖以来、禁止されていた遊郭の設置も認めました。驚くべきは、宗春自身が自ら祭りや芝居小屋に出向き、さらにはお忍びで遊郭に足を向けたことでしょう。
 
宗春は名古屋城下を歩くさい、上から下まで紅色に服を身につけ、3メートルもあるキセルを家臣に背負わせ、それを吸いながら真っ白な牛の背に乗って、ゆるゆると巡ったといいます。付き従う家来たちの服も紅色で統一されていたという記録もあります。
 
辛気くさい倹約が十数年続いていた尾張藩内ゆえ、この規制緩和に人びとは大いに喜び、すぐに娯楽を楽しみ、金を使って贅沢をするようになりました。服装も華美になりました。
 
こうして名古屋城下には芝居小屋が林立し、遊郭の数も増えていきます。それに誘われるように、多くの人々が周辺から名古屋に遊びに来るようになりました。この客足をあてにして有名な料理屋、茶屋、さらには大店(大きな商店)が競って名古屋に支店を出し、5万人だった人口がわずか数年で倍近くに増えたそうです。
 
宗春は、今で言う大胆な開放政策、規制緩和を展開したのです。遊郭ではありませんが、オリンピックを誘致して投資を刺激したり、海外からの観光客を呼び込んでいる今の日本と不思議なほどリンクしています。

では、そうした開放政策の結果、尾張藩はどうなったのでしょうか。結論から言えば、尾張藩の繁栄は長続きしませんでした。

1739年、宗春は藩主の座を追われました。享保の改革に逆らう宗春に将軍吉宗の堪忍袋の緒が切れ、幕府が宗春の蟄居謹慎を命じたからです。
 
宗春に代わって8代藩主には、親戚筋から宗勝が迎えられましたが、彼の一生は、宗春の放漫財政のためにふくれあがった借金を返す尻ぬぐいに費やされたそうです。つましく涙ぐましい節約によって支出を可能な限り減らしたのです。けれど、それでも財政はなかなか好転せず、最終的に負の財産は9代藩主宗睦の代まで引き継がれることになりました。

これを見ても、いかに宗春の開放路線が、最終的に藩の財政を破壊し、多くの民を苦しめることになったかが、わかるでしょう。

ただ、一説によると、宗春の失脚は尾張藩の重臣たちの希望でもあったという説もあります。じつは、宗春の積極政策のために藩の支出が莫大に増え、借金がかさんで破綻しそうになっていました。それを案じた重臣がいたということなのでしょう。この点、今の政府内にもそうした危機感を持つ人がどれだけいるのか。そこが心配です。


■人口減少問題にも、歴史が答えを示してくれる

もちろん、現代と江戸時代では経済環境が違いますから、両者を単純に比較することはできません。

ただ、強引な金融政策と規制緩和で経済成長を促してきた安倍内閣ですが、その成果は世界経済の悪化によって相殺されてしまい、国債の発行額は上昇しつづけ、国の借金は1000兆円を超え、世界有数の借金大国になっていることだけは否定のしようがありません。この政策をこのまま続けていけば、国家がどうなるかは歴史が証明しているのです。

そもそも日本の人口は、もう増えることはないでしょう。移民を大量に導入すれば別ですが、右傾化しているいまの社会で、その選択肢は難しいでしょう。だとすれば人口減少の中で、経済成長を求め続けることが、そもそも間違っているのではないでしょうか――。

その問いに対する答えも、歴史が示してくれています。
 
じつは、将軍吉宗の18世紀以降、日本は現在のように人口停滞期にありました。だからこそ、江戸時代の手法に学ぶところはあると思うのです。



「経済的に豊かなことが幸せである」という考え方は、明治以降、西洋から入ってきた思想で、日本人には経済的豊かさを第一とする思想はありませんでした。江戸時代にはお金がなくても幸せに暮らしている人々がたくさんいました。
 
幕末、日本に不平等条約(日米修好通商条約)をおしつけたアメリカの総領事ハリスは、当時の日本人をみてつぎのような感想を抱いています。

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない──これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と黄金の時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見いだす」(ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記 下』岩波文庫)
 
また、ハリスの通訳であるヒュースケンも、日本が開国したことについて、

「世界のあらゆる大国の縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしようとしている」

と喜ぶ一方、

「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」 (ヒュースケン著、青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』岩波文庫)

と危惧しているのです。
 
本来持っていた日本人の価値観への回帰、そこに、これから進む日本の未来が見出されるように思えるのですが、いかがでしょうか。




 

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コメント
 
1. 中川隆[4010] koaQ7Jey 2016年9月14日 13:38:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4404]

この人は吉宗の緊縮財政で日本経済が滅茶苦茶になった事も知らないんだね:

・経済がわからなかったバカ殿 徳川吉宗

享保の改革 徳川吉宗 緊縮財政

【倹約令】・・・贅沢するな!
【年貢の増徴】・・・増税じゃ!
【定免法】・・・天候不良で不作でも年貢米の量は同じじゃ!
【上げ米の制】・・・米くれたら参勤交代の江戸滞在半分にしてあげるよ!
(大名の出張費が半分になるので、回る金が少なくなる)
【相対済し令】・・・お金の裁判はもうしません!当事者で勝手に解決して!
(借金踏み倒し増加。勿論お金の貸し借りが減り経済は・・・)
【堂島米市場の公認】・・・米価格を安定させるために米相場に積極的に介入しちゃう!
「お、米が安いな、それ商人ども米を買い占めろ!お、米が高いな、それ商人ども米を売れ!」
(市場経済に任せず権力が市場に介入すると・・・)

小石川養生所や目安箱設置したし、時代劇人気もあるから人徳者のように思われているけど、吉宗って結構最低ですよね。

・経済がわかった天才 田沼意次

田沼の改革 田沼意次 積極財政

【株仲間の公認】・・・商人はもっとお金儲けしてね♪
【運上金、冥加金】・・・商人からも税金徴収。株仲間で儲けたんだからしっかり税金払ってね♪
【通貨制度の改革】・・・金貨と銀貨の交換比率固定したし、銀貨を表位通貨制度に変更したから、お金が回りやすくなったよね。これでどんどん商売しちゃって♪
【長崎貿易の奨励】・・・いっそ開国しちゃう?♪
【印旛沼・手賀沼の干拓】・・・米ももっと作っちゃって♪
【蝦夷地開拓の計画】・・・土地がもうない?じゃあ開拓しちゃうよ♪

賄賂もらいまくってたからイメージ悪いけど、田沼ってイケイケですね。


・経済はわかったけど吉宗の妬みと苛めで潰された徳川宗春


徳川宗春率いる名古屋は尾張藩。吉宗に対抗するかの如く藩主自ら徹底的に贅沢してお金使いまくったのです。

その結果名古屋には人、物、金が集まり大いに繁栄し、すると文化が発展し、そして技術が発展しました。
具体的には山車祭りをはじめとしたカラクリ人形の文化、そして現代の機械に負けないレベルのカラクリを作る技術が発展し、それが世界初の自動織機発明の基となり、今のトヨタ自動車に繋がっているわけです。
http://shiodukeman.blog.fc2.com/blog-entry-94.html


”大減税”で大繁栄した江戸時代の日本


「五公五民」とか「六公四民」という単語を聞いたことがありますね。これ、中学や高校の歴史教科書に書いてある江戸時代の税率のことを指します。つまり、「五公」だと税率が50%、「六公」だと税率60%という意味です。この数字だと「なんとも税金が高いなぁ!」という印象を持たれる方も多いと思います。

江戸時代は税の取り立てが過酷で、貧窮した百姓(本来は”ひゃくせい”と読みます)が一揆を起こす。悪徳なお代官様が商人から袖の下を貰って私服を肥やし、税金(年貢)が払えない農民には代わりに生娘を要求する…こんな「江戸時代は暗かった」イメージが、時代劇や歴史ドラマで定着しているから、尚の事、江戸時代の税制は現代に比べてとてつもなく厳しく、そしてお上からの取り立てもきついと思われている。「そろそろ年貢の納め時」という言葉もあるくらいです。

しかし、この「江戸時代は税金が高かった」というイメージ、実は全部嘘です。江戸時代は暗い…というイメージ自体、戦後の歴史学者の主流を占めていたマルクス主義者による階級闘争史観に基づいたものですが、その話は長くなるので置いておいて、実際の江戸時代の税率というのは、本当のところどうだったのでしょうか。

江戸時代は米が経済単位の基本です。米の産出量=石高で国力が決定します。江戸時代では全国で収穫された米が一旦、大坂(現在の大阪とは一字違います)に運搬され、そこの米相場で米の価格が決定し、貨幣に変換されます。その貨幣で、例えば武士は生活必需品を買う。260年間ずっとそういう仕組みになっていたのです。

金本位制ならぬ米本位制。ですから江戸時代の農民に課せられた税金というのも、当然全部米で支払うことになります。ちなみに、税金が米から現金で払うようになったのは、明治に入ってからの地租改正が初めてです。

では当時の政府(幕府)は、農民から取る税金をどのように計算していたのか。ここからが本題。例えば「五公五民」で税率50%なら、農民Aが所有する農地の生産力100石から、50石を取ります。このためには農地の生産力を予め算定しなければなりません。そこで行われたのが「検地」です。

全国の農地の生産力を調査して、税率の母数を決めるために、徳川幕府は慶長年間(1596〜1615)に大規模な検地を行います。これを「慶長検地」といいます。これによって、日本全国の農地の生産力が確定し、徳川幕府は安定的に農民から税を取ることが出来るようになりました。

ところがその後、70年から80年間にわたって、徳川幕府は国をあげて新田開発を推奨します。つまり「土地を開墾して新しい水田をどんどん作りなさい」という方針になります。徳川の平和の世(“元和偃武=げんなえんぶ”といいます)になって、日本は経済発展に突き進んだわけです。現在、日本各地に「◯◯新田」という地名があると思いますが、そのほとんどがこの江戸時代の最初の80年くらいに開発された新しい農地という意味です。

大開発の結果、日本の農地面積はこの間、2倍になり、日本の人口は1,600万人から3,200万人に倍増します。江戸時代の最初の80年間で、日本の経済規模は倍になった、という大繁栄の時代を迎えるのです。この生産力の向上が招いた町人文化の発展と都市人口の増加で、日本は未曽有の大好況になります。それこそが、17世紀半ばから始まる「元禄時代」(1688〜1704)で知られる黄金時代です。

ここで問題なのは「五公五民」の税率。実は、江戸時代の大規模な検地は、「慶長検地」1回きりです。つまり生産力が倍になっても、最初の基準の母数を幕府は使い続けたのです。お分かりでしょうか?つまり実質的な税率は、50%から半分の25%になった、というカラクリです。江戸時代はこのように “大減税の時代”だったのです。

江戸時代のほとんどの時期、「五公五民」というのは建前で、せいぜい2割から3割程度が実効税率。場所によっては1割という場合も。あれ、現在よりもだいぶ税金安いかも?なんだ、江戸時代って、実はぜんぜん厳しい時代ではなかったんですね。羨ましい!

では何故、江戸幕府は検地を最初の1回きりしか行わなかったのでしょうか。幕府は金山等の鉱山を独占していたのと、対外貿易も取り仕切っていました。収入源が他に沢山あったのです。そしてなにより、実質的な減税を行うことによって、経済成長が達成され、人々の勤労意欲が増す、ということを経験的に知っていたと言われています。

強きをくじき弱きを助ける“武士道”を重んじる支配階級たる士族が、民衆から必要以上に過酷な税金の取り立てをするのは恥である、という道徳的意味合いもあったと言われています。

当時の「お上」は、実にこんな具合にいろいろと余裕があって、大人なところがあったのです。江戸時代は暗かったというのは、真っ赤な嘘であることがお分かりいただけたと思います。消費税増税を遮二無二になそうとする、どこかの財務省は、是非この江戸幕府の姿勢を見習って頂きたい。が、しかし、江戸時代でも強固な「増税論者」が居たのをご存知ですか。そう、皆さんご存知の通り「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍徳川吉宗その人です。

時代劇では人気があり、なんとなく庶民のことを思っていそうな吉宗。が、そのイメージとは裏腹に、実際の彼の治世下では全国各地で大一揆が起こり、最も民衆に嫌われた将軍でした。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/30/furuya-4/


増税将軍 吉宗

時代劇「暴れん坊将軍」を知らないという人はあまりいないでしょう。松平健扮する8代将軍吉宗が、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗り江戸町人と交流しながら、悪を成敗するという勧善懲悪のストーリーです。普段は貧乏旗本として仮の姿をしている吉宗も、クライマックでは必ず「余の顔を忘れたか!」と一喝して「成敗!」と号する姿は、なるほどカタルシスに満ちたもの。

吉宗は、紀州徳川藩の四男として生まれました。本来、継嗣(世継ぎ)となるべき長兄たちが、次々と病気で死去したのでトントン拍子に紀州徳川藩主になり、そのまま将軍職に上り詰めた幸運の人です。

最初から将軍候補として育てられたわけではないため、庶民的で、機転がきき、そのうえ豪気の性格で、その親しみやすく力強い人柄が、江戸町民に親しまれた…そんなイメージが「暴れん坊将軍」の中に登場する徳川吉宗のイメージです。きっと本当の吉宗も、新之助に扮しないまでも、民衆から人気のあった殿様なんだなあ…。そう思ってしまう人も多いかと思います。しかし、実像は全くの嘘でたらめです。

江戸時代の税制についての基本的事実は、前回お伝えしたとおりです。年貢の母数を決める検地も、江戸の最初、つまり慶長年間(1596〜1615)に行ったきりで、以後行われなくなった、というのも前回のとおりです。それまで新田開発による高度成長で、空前の好況(元禄時代)を迎えていた日本は、吉宗の時代に転換点を迎えます。8代将軍に吉宗が就任(在位・1716〜1745)すると、その在位30年間の間に、彼が行った様々な改革を、元号に習って「享保の改革」と呼びます。

「享保の改革」は、簡単にいえば幕府の財政再建政策です。主軸は、年貢の収納改善です。それまで「五公五民」(税率50%)と建前上の年貢率が採用されていましたが、江戸時代の最初の80年間の大開発によって、当初の検地では記録されていない田畑が大量に登場しました。それまでの年貢は、慶長検地の分母に基づく検見法(田んぼの生産量に応じて税率を決める)だったので、検地後に増加した新田からの収入は、そのまま農民の懐に入っていき、実効税率はせいぜい2割から3割、といったところだったのです。

ところが吉宗は、江戸幕府の財政が悪化したために、検見法から定免法へと年貢の収納方法を変更するのです。この定免法というのは、生産力に対し50%とか60%という従来の納税率ではなく、予め指定した量の年貢米を毎年納めよ、という新方式です。つまり、従量課金から定額制に移行したのです。

ふつう、定額制の方が割安感があると思いますが、繰り返すように江戸時代の従量課金(検見法)の分母は、新田が増加する前の、低い基準を分母としています。農民にとって、実質的に増加した新田の分の生産量まで網羅される定免法は、事実上の増税と受け取られたのです。吉宗は定免法の導入に合わせて、「隠田」(かくしでん)の摘発も積極的に行いました。

「隠田」とは農民が届出を出さないで、密かに経営する農地のことです。当然そこは年貢の計算の及ばないところでしたが、吉宗はその部分へも定免法を押し付けたのです。いくら広い日本とはいえ、「隠田」を本当に隠れて作ることは出来ません。幕府はこれまで、統治者としての寛大な精神から、そういった農民のへそくりにはお目こぼしを与えていました。しかし、吉宗はそれを全く許さなかったのです。

こうした強引とも言える「享保の改革」のさなか、全国各地で事実上の増税に反対する一揆が増加しました。幕府の財政緊縮のため、江戸の街も一気に冷え切った様相になったと伝えられています。質素倹約が合言葉となり、豪華な催し(祭りや芝居)は禁止され、消費は落ち込み、世の中は一気に不景気になりました。H本龍太郎総理による消費税5%引き上げの時と、はからずもシンクロいたしますね。

では、なぜ吉宗はこうまでして財政再建を行わなければならなかったのでしょうか。それは吉宗以前の、歴代将軍による瀟洒な贅沢が原因です。徳川幕府の始祖、徳川家康は現在でも栃木県日光市の「日光東照宮」に祀られていますが、江戸時代、歴代の将軍は神君とまで呼ばれた家康の墓参に訪れるのが慣例となっていました。これを「日光社参」(にっこうしゃさん)と言います。

特に三代将軍家光・四代大将軍家綱による社参は壮麗で、国家を挙げての大イベントが、毎年のように開催されていたのです。このような莫大な浪費は、徳川家の権威を内外に知らしめるという効果はありましたが、いき過ぎた社参は幕府財政を圧迫し、家康の時代には江戸城の倉庫が黄金で光り輝いていたが、吉宗の時代の頃になると全くの空になってしまったといいます。つまり吉宗の「享保の改革」は、過去におこなった贅沢の尻拭いを、後世、国民にさせているのと同じです。これもどこか、現在と通じるものがあるかもしれません。

こういった吉宗によって引き起こされた緊縮財政による不景気が列島を覆う中、ただ一箇所だけ湧いていた都市があります。尾張徳川藩のお膝元、名古屋です。当時、尾張藩主であった徳川宗春(むねはる)は、吉宗のこういった増税政策に反発し、逆に財政出動と民間消費の喚起を目論見、人心を鼓舞することに勤めました。

宗春自身、「白牛に乗って、キセルを蒸かしながら街を練り歩いていた」という記録が残るほど、豪快で派手好きな人物だったようです。倹約の風潮で禁止されていた祭りや芝居も、名古屋では何の制限もありませんでした。こうした尾張藩の政策が功を奏し、名古屋には増税と緊縮財政で火が消えた日本各地から、商機や活気を求めて人口が流入し、空前の大繁栄を謳歌しました。現在、名古屋は人口200万を超える日本三大都市のひとつでありますが、その基礎は、増税に真っ向から対決した宗春が創り上げたといって過言ではありません。

しかし、こういった幕府と正反対の政策をおこなって成功した宗春に、吉宗は良い気がしません。嫉妬の炎を燃やしたのか、尾張藩内の反宗春派と結託して宗春を失脚に追い込みます。1739年、徳川宗春は蟄居謹慎(自宅軟禁)の命を受け、事実上の追放。吉宗が死ぬ1751年まで、屋敷に幽閉されることとなりました。吉宗の死後、宗春は自由の身となりますが、そのまま1764年に死去しています。大増税で民衆の怒りを買った徳川吉宗と、減税と人心喚起で名古屋繁栄の礎を築いた徳川宗春。どちらが正しかったのかは、歴史を振り返れば明らかなはずです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/09/13/furuya-5/


2. 2016年9月14日 20:50:06 : gNM94mG1C2 : XuXldcAHKSA[69]
乱高下 慌てふためく 米将軍

3. 2016年9月14日 21:20:05 : le45Me9PMs : 8kS13eNZOSE[1]
こういうとまた知ったかが鎖国などなかったと言いそうですが、今よりもはるかに国際的な金と物の流れが乏しかった時代と、現代を同列に扱うのはどうかと思います。
アベノミクスがどうあれ現代と江戸時代の比較はほぼ出来ないと考えていいでしょう。
藩経済と全国経済を世界の縮小モデルとして、世界経済をシミュレートするのはありだと思いますが、それも所詮シミュレーションであって、現実の世界経済とは異なります。
天気予報のシミュレーションと同じで、50%当たったらよしとするところです。

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