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弁護士もオフィスワークもサービス業の仕事も「なくなる」恐れ…機械による代替が加速
http://biz-journal.jp/2016/09/post_16536.html
2016.09.02 文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授 Business Journal
本連載前回記事では、AI(人工知能)、正確にはディープ・ラーニングに代表される機械学習の進歩によって、機械による雇用喪失が加速化するという時間的恐怖心が強まることはあれ、弱まることはないという状況を考察した。今回は、技術進歩による仕事の喪失のその他の特徴を探ってみたい。
まず、機械による仕事の代替の範囲について、これまでは産業転換のように局所的であった。炭鉱閉鎖や鉄鋼メーカーの製鉄所の高炉停止などのように、ある程度国が主導しながら配置転換をする産業政策としての整理がこれまでは可能であったが、もはやそれは限界に達している。なぜなら、機械による仕事の代替は、全産業で同時多発的に進行するので、一つの産業の問題ではないからである。これは、あらゆる産業にかかわる問題であり、霞が関の官僚や政治家による産業政策の手に負えるものではない。
機械化の歴史のなかで、まず製造にかかわる反復的作業が機械化され、経験に裏打ちされた勘が重要で計数化が難しいとされた職人の仕事も、徐々に機械化されてきた。こうした事態を、多くの人々は仕方のないことであると受け入れてきたが、その行きつく先が無人工場(機械を看視するオペレータとして人間はいる)である。
一方、オフィスワークというホワイトカラーの仕事は知的作業であり、サービス業は対人インターフェースが重要なため機械による代替は進まないとする論調もあるが、どれほどの人が高度なインターフェース技能を有しているであろうか。
これらは「人間の仕事」であり、労働集約的でなければならないという認識が広まっているが、「人間のやっている仕事だから価値がある」という議論の倒立が起こっている。これらの仕事の大部分は、実は反復的である。労働集約的であったのは、サービス業では賃金の安い労働者の確保が容易であること、ホワイトカラーの仕事では製造ラインと違いオフィスワークを機械化するために投資をしても、その回収が期待できなかっただけである。日本の大企業のかなりのホワイトカラー社員は社内失業者といわれており、ほとんど解雇ができないので、経営者にとって機械化のインセンティブは低かったといえる。加えて、仕事の工程の標準化よりも独自化を好む日本の企業組織では、「人間の仕事である」と捉える傾向が欧米に比べると強い。
つまり、労働集約的であったのは単なる結果であり、必然ではない。そして、急速な技術進歩により、安価な投資でこの領域の仕事を機械で代替することが可能になりつつある。
人がやっている仕事だから「人でなければならない」と合理化されている仕事が多いのが現状であり、そのことに働いている当人も半ば気が付いているので、機械による仕事の代替に強い危機感を覚えるのであろう。
変化が遅ければよいが、前回連載記事で述べたように、変化の速度は加速化していく。そして、ビジネス環境と仕事は高度化・複雑化していくが、多くの労働者はそれについていけていない。特に、職を奪われて他業種へと職を求める労働者が追いついていくとは考えにくい。
■人間にとって高度で複雑な作業は、機械にとっては反復作業
ここで注意を要するのは、「人間にとって高度で複雑」と思われることの多くは、実は機械にとっては精緻な反復作業にすぎない。たとえば、AirbnbやUberのような広範囲でのリアルタイム最適化マッチングは、とても人間の手に負えるものではないが、機械にとっては本領発揮の領域である。
また、車の自動運転が示すように、機械が不得意とされてきたパターン認識など、定性的・非定型といわれた仕事は、実はそうではなかったということである。詳しくは次回記事以降で考察するが、AIとディープ・ラーニングの見据える方向性の違いを理解することが重要である。
これは、国の言うところの「再教育」というお題目などでどうにかなるものではない。ゆえに、雇用のミスマッチは拡大することはあるにせよ、縮小すると考えるのは非現実的である。雇用延長を政府が企業に強制すればするほど、この傾向は強まるであろう。働いている人々も、この難しさを感じているのではないだろうか。
■二流・三流のプロの仕事はなくなる
以上より突き詰めると、一人ひとりが環境の進歩に合わせて「人でなければならない仕事」、つまり「それによって相応の対価を得られる仕事」とは何かを真剣に考え、そのスキルを獲得する必要に迫られるということである。
たとえば、弁護士の仕事は、膨大な判例に照らして資料を作成し、法廷で依頼人の弁護をすることである。このなかで付加価値の高いものは、法廷での弁護であり、判例の検索は必要であるが、人を使って労働集約的な作業を行う必要はない。検索能力に長けた機械のほうが、時間的・金額的に効率的であろう。そうであるとすると、法律事務所で働く人の数は、かなり減るはずである。
そして、現在の仕事の代替は、機械による直接的なものとは限らない。機械のデジタル化(写真撮影など)やソフトウエア(キャラクターのデザイン作成など)の進歩によって、一流のプロと玄人はだしの素人という二極化が進行し、二流・三流のプロの仕事がなくなりつつあるのである。
つまり今後、職業人として生活を支える対価を得られない人々が生まれてくるわけである。これも、間接的な機械による仕事の喪失である。自分に当てはめて考えると、かなり多くの人が不安になるのではないだろうか。
■単純仕事の需要は少ない
このように、機械による直接的・間接的な仕事の代替の範囲とその程度が計り知れない状況は、労働者にとって、かなりのストレスになるのではないか。しかし、身近でも起こりつつあり、「人でなければならない仕事とは何か」を真剣に考えることは、避けては通れない。
現実的に、機械に仕事を代替された労働者が労働市場に出てきても、求人側の要求にマッチするケースは少なく、その多くは低賃金の単純労働に向かうであろう。しかし、その単純仕事の需要は、仕事を探す労働者の数ほど多くはないであろう。
ここで問題になるのは、そのような労働者の受け皿は存在するのか、ということである。これまでは第三次産業が受け皿となってきたが、今後もそれが可能かを次回考察したい。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)
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