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家族は猫1匹だけ、路上生活男性はなぜ再起を果たせたか?
http://diamond.jp/articles/-/97096
2016年7月29日 みわよしこ [フリーランス・ライター] ダイヤモンド・オンライン
介護離職は、キャリアと収入の中断だけではなく、本人の老後まで続く深刻な影響をもたらす。年収1200万円の会社員は、介護離職によって困窮し、路上生活と生活保護を経験した後、どのように希望ある現在を手にしたのだろうか。
路上生活を経験した元エリート男性が、1匹だけの家族だった猫と一緒に夢見た未来とは(イメージ写真)
■介護離職による生活困窮は
どこまで「自己責任」?
今回は、前回に引き続き、介護離職・住居喪失・路上生活・生活保護を経験した高野昭博さん(61歳)の経験と思いを紹介する。今回は、高野さんの住居喪失から現在までと、今後に焦点を当てる。
流通大手・ブランド企業の会社員として有能さと仕事熱心さを評価され、年収1200万円を得ていた高野さんは、39歳のとき、母親の介護に直面することとなった。当初は父親と介護を分担し、仕事と介護のギリギリの両立生活を続けていた高野さんだが、父親が病気で入院したことをきっかけに、45歳で退職せざるを得なくなった。過労死する同僚が珍しくない職場での激務は、両親の介護との両立が、まったく不可能だったからだ。しかし皮肉にも、高野さんが退職した直後に父親が他界し、介護を必要とする家族は母親1人になった。
このとき、高野さんはほとんど苦労なく再就職を果たすことができた。年収は500万円へと大幅ダウンしたものの、母親の介護に理解があり、前職の職務経験を評価してくれる企業であった。しかし5年後、その企業の経営状況の悪化に伴い、再び失職。「動いてないとおかしくなっちゃう」という高野さんは、とにもかくにも求職と就労を続けたが、正社員の立場や十分な収入からは、遠ざかっていくばかりだった。
そうこうするうち、高野さんが53歳になった2008年、母親が亡くなった。14年にわたる介護生活には、一応のピリオドが打たれた。しかし高野さんの前には、自分自身の生活困窮という問題が立ちふさがることになった。
「仕事はずっと続けていたんですが、母が亡くなったときには、アルバイト的な仕事でした。手取り収入は、母の介護をしながらの就労で、月あたり10万円〜16万円くらい。30年以上、両親と住んでいた借家の家賃は5万2000円でしたから、家賃を払うと、本当にギリギリの生活でした」(高野さん)
前回も紹介したとおり、その「ギリギリの生活」の中から、高野さんは母親の葬儀費用を捻出し、約100万円の質素な葬儀を営んだ。しかし納骨費用は捻出できなかった。それどころか、家賃の支払いも困難になっていった。
高野昭博(たかの・あきひろ)さん
1955年、東京都生まれ。埼玉県で育ち、現在も埼玉県に在住。現在はNPO等で、生活困窮者支援業務に従事。趣味はスポーツ・音楽鑑賞・旅行。大切にしている言葉は「明鏡止水」
「自分1人になったので、もう少しコンパクトな住まいを見つけて引っ越すことも考えました。でも、30年以上、両親と暮らしていた住まいだったんです」(高野さん)
そうこうするうち、家賃滞納によって、高野さんは借家を退去せざるを得なくなった。母親を見送ってから約1年後、2009年8月のことであった。高野さんは、母親の遺骨と、母親と共に愛した茶トラのオス猫を抱いて、公園で路上生活を始めた。
高野さんに対し、「なぜ、もっと早く引っ越さなかったのか? 行政などに相談しなかったのか?」という疑問を持たれる方もおられるだろう。あえて「自己責任論」の立場からする質問に、高野さんはどう答えるだろうか?
■「自己責任」で何とかできたはず?
54歳の就職活動に立ちはだかる年齢の壁
まずは、なぜ「アルバイトのような仕事」なのかという疑問だ。少なくとも母親を見送った後は、フルタイム就労が可能であろう。なにも、不安定なアルバイトの立場にこだわる必要はないはずだ。
「ハローワークで、仕事は探しましたよ。でも『54歳』という年齢だと、安定した仕事、まずないんです。もしも資格職だったり、あるいは職務に関連する資格を持っていたりしたら別かもしれませんが。経験は、採用時の評価にまったく反映されないんです」(高野さん)
それでも高野さんは、熱心にハローワークに通い、求職情報を検索し、応募もした。しかし電話や相談ブースで高野さんの年齢を知った相手は、「ウチは35歳くらいまで」と即座に断ることの連続だった。
「能力や経験ではなく、まず年齢が問題にされて、面接にもたどりつけないんです。『不条理だな』と思いました」(高野さん)
それに、60歳定年の会社なら、当時54歳の高野さんが勤続できる時間は6年しかない。
「どこかに就職できても、すぐ定年ですからね。その後をどうするのかが問題になります。私としては、『定年のない仕事に就ければ』と思っていましたが……世の中は、そんなにうまくいきませんね」(高野さん)
高野さんは致し方なく、不安定就労を続けていた。経営者による賃金の持ち逃げも、一度ならず経験した。不安定な身分と低収入には、高い確率で、賃金不払いなど「ブラック」な何かがセットになる。
もちろん高野さんも、安定した就労をしたかったし、そのための努力も重ねていた。しかし年齢の壁・年齢による将来見通しの不透明さは、いかんともしようがなかった。
「いくら努力してもダメなものはダメなんだと、そのときに気付かされました。自分が働きたくてもどうにもならない部分が、実際にあるんだと」(高野さん)
高野さんが路上生活者になったのは、2009年8月。年明け早々「年越し派遣村」が話題になった年のことだった。
「『路上』に落ちる前、家のテレビで『年越し派遣村』の様子を見ていたんです、まるで他人事のように。自分がそうなるとは、全く思っていませんでした。『まさか自分が』です」(高野さん)
■路上生活者を支援する側から支援される側に
利用できる資源は何もなかったのか?
2008年末〜2009年の年明けにかけ、日比谷公園に存在した『年越し派遣村』は、年末の「派遣切り」で住居と職業を同時に失った約500人に食糧と仮の住居を提供し、その後、生活保護など生活困窮者のための制度利用も支援した。
「2008年末、『年越し派遣村』のころ、家の近くで路上生活の方がうずくまっていて、具合悪そうだったので、声をかけて救急車を呼んだりしました。売店で働いていたときには、余ったおにぎりを路上生活の方に持って行ったりもしていました。今は生活困窮者支援の仕事をしていて、路上生活の方の支援もしていますが、その頃から『路上』に関わっていたのかもしれませんね」(高野さん)
高野さんの、根っからの心の優しさが感じられるエピソードだ。その人柄から、頼り頼られる関係にある人々は多かったのではないだろうか? たとえば親戚は?
「親戚はたくさんいました。でも、頼れないんです。自分で勝手に『頼れない』と決めているのかもしれませんけど。『恥ずかしい』という思いもあります。親戚だからこそ話せないことも、たくさんあります……良くも悪くも」(高野さん)
血縁の絆の強調や「親類がいるなら頼りなさい」という要求は、そういう思いを土足で踏みつけてまで行うべきことであろうか? 経済的な「支援する・される」がなければ、困窮の中にある時期には少し距離を置くことで、親戚づきあいを良好に維持できるかもしれない。しかし親戚づきあいは、具体的支援が問題になれば、簡単に壊れるものだ。
なお、高野さんが経験した路上生活の様子は、稲葉剛氏の著書『生活保護から考える』(岩波書店)に詳しい。
母親の遺骨と愛猫を抱えた高野さんは、寝ていたダンボールハウスに「火のついたタバコを投げつけられ、ダンボールが焼けちゃって火傷しそうになった」り、小売店で廃棄される賞味期限切れのおにぎりや弁当で飢えをしのいだりしていたものの、他の路上生活者との競争に勝てず「2、3日何も食べられない日も」あり、「3ヵ月で体重は20キロも減少」したという(引用部分は、いずれも同書による)。
もちろん地域の支援団体の人々も、「夜回り」などの機会に、高野さんの様子を気にかけていた。シェルターなど公共の支援施設の存在も教えてもらえた。
「でも、猫がいたから入れなかったんです。それで、ずっと公園にいました」(高野さん)
■たった1人の「尻尾のある家族」
さえ失ってしまい……
どんな猫だったのだろうか?
「茶トラのオスで、雑種です。母親が拾ってきた猫です」(高野さん)
母親と共に愛した、母親の形見でもある、たった「ひとり」の尻尾のある家族。でも、自分も食いかねている状況では、猫を放り出してしまったとしても、誰も責めないだろう。
「いいえ、猫がいたから生きてこれました。何があっても、手放すつもりはありませんでした」(高野さん)
高野さんの路上生活は、3ヵ月間で終わった。2009年11月、支援団体の支援のもとで生活保護を申請し、猫とともにペット可アパートに入居できることになったからだ。
「アパートに入って1ヵ月後、猫の様子が、急におかしくなりました。動物病院に連れて行ったら、すでに多臓器不全になっていて、治療の甲斐もなく、すぐ亡くなりました。ショックで、涙しました。猫は10歳9ヵ月でした。デブ猫だったのに、亡くなったときは痩せて体重8kgくらいになっていました……もっと長生きできたはずだと思います」(高野さん)
なお、路上生活時代、猫とともに抱えていた母親の遺骨は、その後貯金し、無事に納骨できたということだ。
■職業経験を活かして相談・支援業務に
現在の目標は「社会福祉士資格の取得」
高野さんは、生活保護で暮らし始めた2009年12月から、支援団体で相談員の仕事に就いている。最初はパートタイムだった。理由の1つは、リーマンショックの余波や東日本大震災の影響で、支援団体が支払う給料の「財源」が不足していたことにある。その時期の高野さんは、生活保護「も」利用しながら就労していた。しかし2012年7月からは、週6日のフルタイム就労。月々の収入は生活保護基準よりはるかに高くなった。もちろんそのとき以後、生活保護は利用していない。
「希望していた『定年のない仕事』に就くことが、現実になりました。私は、対人関係に抵抗ありませんし」(高野さん)
流通大手に長年勤務していた高野さんの仕事には、接客や営業なども含まれていた。その意味では、経験が活かされている。しかし、生活困窮状態に陥る人々の相談に乗り支援をすることは、まったく「きれいごと」ではない。
「でも、前職の流通で、お客様の苦情対応係をしていた経験もありますから。色々、言ったりされたりすることはありますけれど、自分の心の中に『それはそれ』にできる部分があるので、今も続けられているんだと思います」(高野さん)
長年の希望だった「定年のない仕事」を続け、発展させていくために、高野さんは今、資格取得へとチャレンジしている。
「周囲の社会福祉士さんたちに、勉強させてもらっていて、自分も『社会福祉士になろう』と思うようになりました。今、専門学校に行くための資金を貯金しています。もともと勉強は嫌いではなかったんですけど、早く仕事して稼ぎたくて、高卒で就職しました。大学に行っていないわけですから、社会福祉士になるには、専門学校に行くのが最短なんです」(高野さん)
とはいえ、相談や支援は、決してラクな仕事ではない。相手が人間、生き物である以上、「定められた時間だけ」を徹底できるわけでもない。
「寝不足が続く時期もあります。正直、61歳の自分には、かなりキツいです。でも自分が、やっぱり、何かしてないと、動いてないと落ち着かないんです」(高野さん)
■「大手企業の正社員」時代があればこそ
それさえもない人の明日は?
路上生活を経験し、2年7ヵ月にわたって生活保護を利用していた高野さんは、高校を卒業して以後、完全に働いていなかった時期がほとんどない。仕事と仕事との間のブランクは、ほとんど1ヵ月以内、長くても2ヵ月程度でつながってきた。生活保護を利用していなかった期間は、年金保険料も支払ってきた。大手企業・一定規模以上の企業に勤務していた時期は、厚生年金の対象にもなる。
「年金、60歳が近づくころに支給開始が65歳になって、こんどは70歳になるっていうでしょう? まるで『逃げ水』ですよ。逃げ水年金」
高野さんはこう苦笑するが、健康に歳を重ねていけば、年金を逃げ切らせずに受給することは可能だろう。そのとき、厚生年金の期間が約30年間ある高野さんは、基礎年金・厚生年金の「2階建て」の老齢年金を受給できる。おそらく高野さんは、老齢年金の受給対象となった後は、再び生活保護を必要とすることはないだろう。
流通大手での、30年近くにわたったハードな会社員生活を、高野さんは今、どう思っているだろうか?
「終身雇用が当たり前、定年までいるのが当たり前の時代で、やり甲斐がありました。大変なこともありましたけど、向いていたのだろうと思います。今、全く違う世界にいるわけですけれど」(高野さん)
その会社員生活は、年金によって、高野さん自身の老後を支える基盤ともなっている。ともあれ、経験や過去の蓄積が活かされている高野さんの現在とこれからを、私は高野さんのために喜びたい。しかし高野さんは、「男性正社員の長期安定雇用」というレールに乗ることができていた。介護離職による中断を余儀なくされたとはいえ、レールに乗れていた期間は30年近くにも達した。最初から「家計を支える男性正社員」というレールに乗れなかった人々・対象にならなかった人々の老後は、これからどうなっていくのだろうか?
次回は、生活保護と資産形成について、現状を紹介し、問題点について考えてみる予定だ。「ある程度の蓄えがなければ安心して暮らせない」ことは、生活保護世帯も例外ではない。
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