『from 911/USAレポート』第710回 「日本経済には、どうしてトリクルダウンが起きないのか?」 ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (冷泉彰彦さんからのお知らせ) もう一つのメルマガ、「冷泉彰彦のプリンストン通信」(まぐまぐ発行) http://www.mag2.com/m/0001628903.html (「プリンストン通信」で検索)のご紹介。 JMMと併せて、この『冷泉彰彦のプリンストン通信』(毎週火曜日朝発行)も定期 的にお読みいただければ幸いです。購読料は税込み月額864円で、初月無料。登録 いただいた時点で、月初からのバックナンバーが自動配信されます。 直近2回の内容を簡単にご紹介しておきます。 第102号(2015/02/09)「北朝鮮のミサイル問題/スーパーボウルとゴルフのWM杯 /映画『オデッセイ』と米中接近/ニューハンプシャー予備選、直前の情勢」」 「『左派の旗手のいない日本』論議とその反響」「フラッシュバック71(第84 回)」「Q&Aコーナー」 第103号(2015/02/16)「(短信・短評)「何も起こさなかったアベノミクス/北海 道新幹線停電事件への違和感」」「現代日本の左右対立はどこへ向かっているのか?」 「フラッシュバック71(第85回)」「Q&Aコーナー」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 『from 911/USAレポート』 第710回 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 竹中平蔵氏が、今年の元日未明に放映されたTV番組『朝まで生テレビ』の中で 「トリクルダウンなどあり得ない」という発言を行って物議を醸しました。この発言 ですが、私はアメリカにいて放映を見ていないので、ネットを通じて間接的に知り得 ただけであり、正確なニュアンスはよく分かりません。 ですが、「本来起きるはずが起きていない」とか「起きないのが問題だ」という意 味合いではなく、経済政策の結果として起きた富裕層中心の好景気が、幅広く「滴 (したた)り落ちる」つまり「トリクルダウン効果を発生する」のを待つのではなく、 国民の全員が「自分で努力して行かなくてはならない」というような言い方であった ようです。 この発言が問題視されたのには、1つには過去からの経緯があると思います。竹中 氏が経済財政政策の特命相として直接経済政策に関与していたのは、小泉政権の時代 で、2001から05年でした。この時期の日本経済は、今から思えば「虚しい幻影」 にも似た「デジタル家電三種の神器」などによる「オールド・エコノミー最後の好況」 に湧いていた一方で、社会全体の格差は拡大していました。 そんな中で、小泉政権は「格差を再分配によって是正することはしない」という政 策を原則とする中で、富裕層から好況になれば内需が拡大することによって経済効果 が全体に及ぶ、つまり経済学で言う「トリクルダウン」が起きるという立場を取って いました。その小泉政権の経済政策を立案していた竹中氏が「トリクルダウンなどあ り得ない」ということを言ったのですから、話としては「一貫していない」というこ とになります。 この発言が問題視された2つ目の理由は純粋な経済政策論争としてです。格差が拡 大しているのが事実だということを前提にして、「トリクルダウンは起きない」とい う認識をしたとすると、格差を是正するには「再分配を強化する」必要があるという ことになります。ですが、小泉政権の当時も今もそうですが、竹中氏の立場は「再分 配を強めることはしない」という立場だということは、ハッキリしています。 ということになりますと、経済の現象として「富裕層から自然に富が滴り落ちる」 ことはないし、だからといって「再分配も強化しない」という話になります。という ことは、格差は格差として放置するとか、せいぜいが「自助努力で」ということにな るのでしょう。 もう一つ、この「竹中発言」が唐突に思えるのは、政府の方針とは少し違うと思わ れるからです。。例えば1年前になりますが、2015年の1月28日に参議院本会 議での論戦で、相原久美子氏(民主)の質問に答えて安倍首相は「政府がどれだけ所 得再配分を繰り返しても、持続的な経済成長を通じて富を生み出すことができなけれ ば、経済全体のパイも個人の所得も減る」「わが国はデフレ脱却と経済再生の実現が 喫緊の課題だ。政労使による賃上げの促進や地方創生にも取り組んでいる」と語って います。(ロイターによる) この発言で安倍首相は、「大きな政府による福祉や増税による格差是正」は「やら ない」と言っているのですが、一方で、「企業が収益を上げてそれを賃上げという形 で分配」すれば、国内消費が拡大する中で、デフレ基調が克服されるというストーリ ーを描いているわけです。これは、一種のトリクルダウン理論だと思います。 この15年2月の安倍発言に関して、例えば今回引用したロイター電などもそうで すが、「首相が目指すのはトリクルダウンではない」という論評が多かったのですが、 冷静に考えれば「グローバル企業の業績が向上」して、その利益が「国内での賃上げ」 となって還流して、更に国内消費を喚起して行くのであれば、これはこれで立派な 「トリクルダウン理論」だということが言えます。 仮にそうだとすると、約1年後に竹中平蔵氏が「トリクルダウンの否定」をしたと いうのは、やはり特筆すべきことだと思います。私は何も、ここで竹中氏と安倍首相 の不一致を指摘して批判したいのではありません。 問題は日本経済に何が起きているのかということです。そして、今回、内閣府が発 表した2015年10〜12月期の国内総生産(GDP、実質)の速報値が前期比マ イナス0・4%、年率換算でマイナス1・4%減となったということの意味を、どう 考えるかということです。 この点に関しては、少し以前になりますが、昨年2015年の6月9日に経済産業 省が発表した「ものづくり白書」が参考になると思います。詳しくはその全文が公開 されていますので、 http://www.meti.go.jp/report/whitepaper/mono/2015/honbun_pdf/pdf/gaiyou.pdf そちらをご覧いただければと思うのですが、21世紀に入って日本の製造業が大きく 変化していることがよく分かります。 問題は3点あります。 1点目は経産省の言い方で言えば「グローバル最適地生産」つまり「海外生産=海 外販売」という流れが非常に強くなっている中で、国内の製造業が空洞化しているの です。その結果として、貿易収支としても自動車などの輸送用機器は横ばいですが、 その他の電気機器や一般機器の貿易収支は縮小しています。 2点目としては、その結果として、これも経産省の表現を借りると「経常収支は従 来の輸出で稼ぐ構造から、投資で稼ぐ構造に変化しつつある。」つまり、日本国内で もモノを作って、それを輸出して稼ぐのではなく、海外に投資して、その結果のリタ ーンで稼ぐという構造になって来ているのです。 3点目としては、日本の製造業全体として、自動車産業など一部の業種を除くと 「各国の最終消費者のニーズに応えるコンシューマー用の製品づくり」から「部品産 業やBtoB」といった企業や政府相手のビジネスへの移行が進んでいるということ があります。その結果として、競争の激しい最先端市場での競争ノウハウは薄れる一 方であり、同時に下請け的なビジネスが主要となって利幅も薄いし、主導権は発注者 に握られるような構造になりつつあるのです。 以上は、現在の日本経済に、とりわけ製造業において「既に起きてしまっている」 現実です。例えば、自動車の三大メーカーに関して言えば、全生産台数に占める国内 生産の割合は、トヨタが40.4%と比較的高率である一方で、本田は19.0%、 日産は20.8%に過ぎません。 そんな中で、アベノミクスの円安というのは、「海外で稼いだカネ」を日本国内に 持ってくると「円で見れば大きくなる」という効果があるわけです。別に実際に海外 での利益を日本に送金する必要はありません。各企業の決算において、日本の収益に 海外の収益をプラスすると「数字が大きくなる」のです。トヨタをはじめとするグロ ーバル企業が「過去最高益」を達成したというような景気のいい話が飛び交っていま すが、それはそのような効果があっただけの話というわけです。 最初の問題、つまり「トリクルダウン」に関して言えば、では、そのように稼いだ 「海外での利益」が日本の本社の決算に合算されて日本円でみれば「史上最高益」に なったとして、それが日本の国内経済に「滴り落ちる」のでしょうか? その効果はゼロではないでしょうが、決して大きくはないと思われます。というの は、海外での製造販売が拡大する中で、海外で稼いだ利益の中から海外での再投資に 回る部分が大きくなって来ているということ、また各国のそれぞれの規制の結果とし て「送金に限度がある」からです。 また、海外で稼いだ利益が「安い円に換算して大きく」なっても、その分だけ日本 国内の賃上げを行うというのは、企業としては簡単にはできる判断ではありません。 というのは、為替レートというのは、いつ円高に振れるか分からないということもあ りますし、何よりも終身雇用を前提とした年功序列の賃金制度を今でも維持している 企業が多い中で、「主要な生産拠点から降りつつある」日本国内の賃金を「ベースア ップ」という形で将来にわたって固定的に上げるという判断はできないからです。 竹中氏の言う「トリクルダウンはあり得ない」というのは、別に竹中氏が格差容認 の冷酷な心情を持っているというわけではなく、現在の日本経済を見ていると、どう しようもない現実認識として出てきているのだと思います。 では、「アベノミクス」というのは格差拡大、大企業優遇の「筋の悪い政策」なの でしょうか? この点に関しては、正確に言えば「アベノミクス」はこの3年間の日 本経済に「特に弊害はなかった」一方で「何も生まなかった」、つまり「何も起こさ なかった」ということが言えると思います。 一つの証拠は、日本株の動きです。先週、つまり2月の8日の週の世界市場の動き は荒く、特に日本株は大きく乱高下しました。一時期は2万円をつけていた日経平均 が1万5千円を割ったわけで、これは確かにショッキングでした。 ですが、日本株が下がっているのは、別に日本経済に絶望して「投げ売り」が起き ているわけでもないし、日本企業の「業績の見通しが悪化した」から売られているの でもありません。例えば、トヨタや、ソニーなど日本のグローバル企業の場合は、ま ずNY市場で評価が決まると言っていいと思います。 そのNY市場で株価が全面安になって2%下がったとします。同時に世界の為替市 場が荒れて3%円高になったとします。そうすると、同じ日本企業の株は、NY市場 で2%下がった株価を円に換算するだけで「0.98÷1.03≒0.95」という計 算から、5%下がることになります。更にNYが夜の間に日本市場で同じ企業の株が 売られて1%下げれば、1日で6%の下落ということになります。あくまで円で見て いればそういうことです。 では、「アベノミクス」の意味ですが、私は「何も起きない」ことを前提にしつつ も「やらないよりはやったほうがまし」という考え方に立っていました。基本的には、 それでも「円で見れば株高」には間違いないので、株の売却益が内需を後押しすると いうことが期待されるということがあります。これについては、予測したほどの効果 ではなかったわけですが、「やってダメだった」ということはない一定程度の効果は あったと思います。 また、先ほど「トリクルダウン効果には期待できない」という悲観論をお話しまし たが、そうは言っても、「円で見れば最高益」という企業が続出したのは事実です。 ということは、会計上各企業には余裕が生まれているわけで、その「余裕」を使うこ とで「競争力のなくなったものを捨てる」という「損切り」ができれば、数年後には 各企業が引き締まった体質、時代の最先端で競争力を持つ体質に生まれ変わることも できる、そんな期待も持って見ていました。 ですから、アベノミクスによる円安誘導「それ自体」が弊害があるとか、経済政策 として誤りだったということは言えないように思ったのです。ですから、政策として の円安誘導に関しては否定はできないという観点で見ていました。これに加えて、天 の助けとでも言うべき「原油安」が起きている中で、日本経済にとっての最大の「円 安デメリット」が相殺されていたということも指摘できると思います。 ですが、ここへ来て大きな問題が出てきたのも事実です。2つあります。 ひとつは、現在の日本経済においては、個人消費が拡大するための「センチメント」 つまり「今日より明日が良くなる」というポジティブな世相を作り出すことが何より も大切で、この点において「アベノミクス」は結局のところ大した効果を挙げること はできなかったという事実です。竹中氏の言う「トリクルダウンはない」というのが 構造的に真実であるのであれば、何か別のことをしなくてはならない、それができて いないのです。 別のことというのは、為替誘導というような小手先のことではなく、産業構造の問 題です。冷静に考えると日本経済というのは、過去から現在にかけて競争力のある製 造業を、どんどん海外に移転させて国内を空洞化させている一方で、国内では新規に 最先端の新しい産業が育っているか、あるいは究極の知的産業である金融業などが競 争力を持っているかというとダメなわけです。つまり産業政策として、「空洞化を抑 制する」か「空洞化で出て行った分を埋める新産業へのシフト」のどちらかをしなく てはならないと思います。 この点に関しては、岩盤規制を突破するとか、地方の生産性を向上するなどといっ た「スローガン」や、環境産業や健康産業の育成が成長戦略だといった「ストーリー」 が描かれていたわけですが、そんな実体のない話ではなく、真剣に取り組まなくては ならないと思います。 ですが、仮に改革が上手く行かない、あるいは社会として真剣に取り組む条件が揃 わない場合、それでもグローバル化による空洞化が進行して、GDPはジワジワと低 迷していくという「悲観シナリオ」で進む可能性もあるわけです。その場合は、消費 増税は断念される中で、国内では格差がある臨界点を超えることで、政権が変わるな どしながら「再分配」が強まっていく、そうして財政規律が崩れていくという可能性 が現実のものとなっていきます。 そこまで考えると、「それ自体の弊害はない」と言える「アベノミクス」ですが、 それはそれで、根本的な産業と経済の政策としては無策であることには変わりはない し、悲観シナリオも、あるいは改革シナリオも含めた中長期的なビジョン論議からの 「逃避」を触発しているという点では、そろそろ限界に来ているように思います。 では、大きな破綻が迫っているのかというと、今年、2016年に関しては新興国 経済の動揺と、原油価格の低迷、そして米国の政治経済が過渡期に差し掛かっている 中では、「日本の政治経済は安定している方」であり、日本がターゲットとなって 「大きく売られる危険」は少ないと思います。その意味で、まだ方向転換をするだけ の時間はあります。 現在の「海外収益が円安で拡大する」だけの経済ではない、空洞化の克服と、高付 加価値産業への進出という選択肢を、真剣に議論すべきで、その契機となるのであれ ば「トリクルダウンが起きていない」という指摘にも意味はあると思います。そうで ないのであれば、それは経国済民の責任を放棄しているとしか言いようがありません。 ------------------------------------------------------------------ 冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ) 作家(米国ニュージャージー州在住) 1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。 著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空 気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』『チェンジはどこへ 消えたか〜オーラをなくしたオバマの試練』。訳書に『チャター』がある。 最新作 は『場違いな人〜「空気」と「目線」に悩まないコミュニケーション』(大和書房)。 またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。 ◆"from 911/USAレポート"『10周年メモリアル特別編集版』◆ 「FROM911、USAレポート 10年の記録」 App Storeにて配信中 詳しくはこちら ≫ http://itunes.apple.com/jp/app/id460233679?mt=8
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