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30年福島第一原発で働いた男の思い 「引き裂かれた人」第3回
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8233
2016年12月9日 山田清機がいく5年後のいわき 山田清機 (ノンフィクションライター) WEDGE Infinity
■野次馬
前回、「立ち位置」という言葉を使った。いわきを取材するに当たって、自分の立ち位置はいったいどこにあるのかと自問してみると、自分が福島第一原発の事故に対して寄せる思いには、先の戦争に対する思いやら、中学3年で志願兵として従軍した父の戦争観に対する反感やら、(いわきとは無縁な)さまざまな思いが上乗せされているような気がしてきたのである。
そうした、いわきとは直接的には無関係な思いを抱えて、福島へ、いわきへ、そして福島第一原発へアプローチしようとする人間のことを、私自身も含めてどう表現すればいいのだろうかと考えてあぐねていて、ある文章に行き当たった。
少し長いが、引用してみる。
野次馬は、当たり前のことや、わかりやすいことを好みません。いろんな視点が出てくることをよろこびます。その見方が強く感情に訴えるものだったり、強い興味をひくようなものだったりしたら、おおいに心を騒がせます。視点どうしが対立して激しい応酬があったりしたら、格闘技をみるようにそのスリルをたのしんだりもします。そして、こころの奥にある「たのしんでいる」ということを隠したままで、無垢な善意の人として心配そうに顔を曇らせたりもします。
「たのしんでいる」ということを隠したままで……心配そうに顔を曇らせたりします。というあたり、実に辛辣に野次馬根性の本質を言い当てていると思うのだが、この文章を書いたのはコピーライターの糸井重里氏である。まさに、福島第一原発事故への「姿勢」について論じた、『知ろうとすること。』(新潮文庫所収)の中に出てくる文章だ。
私はこの文章に出会って、正直なところ、ああ自分はまさに「野次馬」なのだと思った。しかも、ただの野次馬ではない。ずいぶん遅くなってから現場にかけつけた“遅れてきた野次馬”だ。
だが、自分は野次馬であると認める一方で、野次馬だから何も言うなと言われると、それはどうかと思う。たしかに野次馬には事件や事故を「たのしんでいる」ところがあるだろう。私の中にも、たぶんそれはある。しかし、「野次馬は黙れ」と言われると、柄杓で冷や水を浴びせられたような気持になってしまうのだ。
現地の人の声を聞き続けていくうちに、やがて自分自身の正体がはっきりしてくるのかもしれないが、少なくともそれが自覚できるようになるまで、私はこの取材をやめない。
■テレビかマンガのような
福島第一原発で働く作業員(GettyImages)
さて、今回登場していただくMさんは、富岡町に暮らしていた元原発作業員である。こう書いただけで、勘のいい読者はお気づきになったと思うが、Mさんは原発事故の被害者であると同時に、事故を起こした東京電力の“身内”でもあった。被害者と加害者という、ふたつの立ち位置を持つ人物なのである。
Mさんは現在、72歳。昭和45年から定年退職するまで福島第一原発一筋に働いてきた。所属していたのは東電の下請け企業のひとつである。
原発の下請けは多層構造になっているとよく言われるが、Mさんによるとそれは本当の話らしい。Mさんのいた会社は、東電→大手商社→大手電器メーカー→大手電器メーカー系列のプラント会社という連なりの、さらにひとつ下に位置していたという。
なぜ東電の1次請けが商社なのか、なぜ2次請け、3次請けと連続して同じ電器メーカー系列の会社が2社入っているのかよく理解できないが、これは実際に現場で働いていたMさんにもよくわからないことだという。
「商社の事務所なんて、女性がふたり常駐してるぐらいで、実質的な作業はなんにもしねぇんだよ。その下の電器メーカーもほとんど何もしない。もうひとつ下のプラント会社になってやっと少し、現場の仕事をやるぐらいかな」
これも原発事故が起きた後によく聞いた話だが、原発構内の線量の高い場所では、作業時間が厳密に管理されている。何人もの作業員が交替しながらたった1本のボルトを締めるような仕事が、実際にあるそうだ。
「原子炉の冷却水を循環させるポンプを分解して整備する仕事なんかになると、ネジを1回まわすだけで2レントゲン(約20ミリシーベルト)ぐらい被ばくしてしまうわけ。だからネジを1回したら、その日の仕事は終わりだよね。
昔は、朝礼の時間に現場に入って、1時間ミーティングやって、現場に入って2時間仕事して、昼には上がりなんて仕事がよくあったね。最近は、線量のある現場で半日仕事したら、残りは線量のない現場で働いて、トータルで8時間労働ってことが多かったけれど、昔はだいたい1日3時間労働だったもんな」
1日平均3時間労働で、しかも相当にいい給料が貰えるのであれば、地元の人にとって原発はいい仕事場だったに違いない。実際、Mさんも彼の妻も、東京電力のことを「マルトウさん(○東、の意味か)」と親しみを込めて呼ぶ。東電が事故を起こしたことへの憤りがないどころか、昔の仕事仲間で東電の悪口を言う人間がいると、むしろたしなめるという。
「もともと富岡は農業の町で、原発がないときはみんな出稼ぎしてたんだ。だから、俺もそうだけど東電にお世話になった人は、東電の悪口なんて言わないよ。東電から給料貰って、子供育てて、家建ててさ、たぶん富岡の人の80%は東電のお世話になってるんじゃないの。だから、東電が事故起こしたって鬼の首取ったみたいに悪く言う奴がいると、みんな『おめー、どうなってんだ?』って言うんだよ」
では、1日に数分しか作業できないような線量の高い場所で長年仕事をしてきて、健康上の不安はないのだろうか。
「俺は放管手帳(放射線管理手帳)持ってるけど、35年間で1万6300ミリシーベルトぐらい被ばくしてるんだよ。原発事故の後に現場で被ばくして白血病になったとかいう作業員が労災認定されたけど、あり得ない話だな。俺なんて、この年になってもがんにも何にもならないし、仲間にも白血病になった奴なんてひとりもいないよ。
でも、復水器の下に大きなコンデンサーがあってさ、その点検作業なんてなると8000工数もあるんだけど、さすがにコンデンサーの下に入って線量の高いスラグ(汚泥)の掃除をするのは怖かったな。
スコップでスラグを掬ってドラム缶の中に詰めて、掬えないやつは放水して流すんだけど、線量が100ミリぐらいあるから3分ぐらいしか現場に入れないんだよ。だから、300人ぐらいの作業員が交替でやることになる。うちだけじゃ人数が足りないってときは、他の下請け会社に頼んで応援の作業員を出してもらうわけ。
俺は所長をやってたんだけど、所長自ら線量の高いところに入って作業をしたからさ、部下も納得して、プライドをもって仕事をしていたね。つまり、原発の現場ってのは、男気で成り立っていたわけですよ」
原発作業のプロは、事故の本当の原因を何だと思っているのだろうか。
「バカ菅だよ。バカ菅が来ることになったから、ベントを遅らせたべ。あれ、普通にベントしていれば、多少空気中に放射能は飛散したかもしれないけど、あんな爆発なんて起こすことはなかったんだ。菅がアホだったんだよ」
菅とは、言うまでもなく、時の総理大臣、菅直人氏のことである。
■あのくらいの放射能じゃなんともない
Mさんは、前述の通り原発で働く作業員であったと同時に富岡町の住人でもあった。富岡町は福島第一原発のある双葉町と大熊町の南に位置する町であり、町内に東京電力福島第二原発を抱えている。震災直後に全域が「警戒区域」に指定されて、全町民が避難を余儀なくされた。
Mさんは小学校1年生のときに山形から家族で引っ越してきてから原発事故が起こるまで、実に60年以上を富岡で暮らしていた。最盛期、6LDKの大きな家に孫を含めて11人の家族が暮らしていたという。現在は、いわき市の南端にある勿来町に家を買って、夫婦2人で暮らしている。
東日本大震災発生から現在に至るまでのMさんの足取りは、大略以下のようなものである。
「うちは富岡でも標高の高いところにあったから、津波の被害はなかったし、家の中もウイスキーの壜が割れて臭いがひどかった以外、たいしたことはなかったんだ。でも、12日の朝、町の防災無線で『逃げろー』となったわけ。俺は原発で働いていたからさ、あのくらいの放射能じゃなんともないってわかってたけど、家族が怖がるから仕方なく逃げたんだ」
Mさんたち家族(Mさんと妻と楢葉の工業団地で働いていた長男の3人)は、川内村方面(富岡町の西側、つまり海と反対の内陸部)へ逃げろと指示をされた。しかし、川内村へ向かう道は大渋滞を起こしていた。Mさんと長男はこのままでは身動きが取れなくなると判断して、赤木にさしかかったところで思い切ってUターンを切り、いわき方面へ向かった。
「12日は四倉の青年の家に泊まって、そこで娘夫婦(乳児を含む4人)と合流したんだけど、翌朝8時のニュースで2号機がドンとなったって聞いてさ、四倉も原発から20キロ圏内だから避難しなくてはダメだとなったわけ。最初は湯本四中に逃げろって言われたんだけど、避難所はもういやだねーってことになって、国道49号線で郡山まで出て、郡山から高速に乗って神奈川県の大和市にいる姉ちゃんのところに向かったんだ。電話は何度かけても通じなかったから、事後承諾のつもりだったんだ」
途中で次男の家族4人と合流して、車2台で大和に向かった。総勢11名の大所帯である。事故直後はガソリンを手に入れるのが困難だったと聞いたが、Mさんたちは道を間違えたおかげで、偶然にも空いているガソリンスタンドに出くわして給油をすることができたという。
現金なら3000円までしか入れられないが、カードだったら満タンOKと言われたので、2台ともカードで満タンにした。なぜ、カードなら満タンOKだったのか、理由はいまだによくわからない。
大和市の姉の家には夜中の12時頃についた。途中、何度かコンビニに立ち寄ったが食糧はほとんど売り切れていたために、飲まず食わずの道中だった。乳児のミルクは、避難する際にカセットコンロと鍋を持ち出していたのでなんとか作ることができた。
「いま思い出しても、テレビドラマかマンガの世界みたいだったな。四ツ倉の青年の家は水道が出なかったからトイレがひどかった。流れなくても、みんなやっちゃうんだよ。一泊させてもらって、翌朝、白いおにぎりをひとつとタクアンをふた切れくらいもらったかな。それから大和に着くまで飲まず食わずだったから、大和に着いて温かい食事を出してもらったときは、本当にほっとしたよ」
川内村方面に避難した人の中には、7〜8カ所も避難所を巡り歩いた人もいるというから、Mさん一家の判断は結果的に正しかったということになるだろうか。
■鬱状態からの復活
約2週間大和の姉の家で世話になって、Mさんたちは新潟県の長岡市に移動することになる。長男の会社の事業所が長岡市の隣の柏崎市にあり、長男がそこで働くことになったからだ。次男は、とりあえず会社が用意してくれた住宅に入れることになったから、長女の家族四人と一緒に長岡へ向かった。
長岡では、最初の3カ月は民間のアパートを借りて、その後、県営の雇用促進住宅に入居した。ここは、すでに取り壊しの決まっていた老朽アパートだったが、エアコンやガス器具を整備した上で、震災の避難者のために提供されることになった。
Mさんは10万円の支度金をもらい、赤十字の6点セット(冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電気ポット、炊飯器、掃除機)を提供されて、本格的な避難生活を開始することになった。湿気の多い雪国の冬は不快だったが、向かいの部屋に長女の一家が入ったから、孫の顔を見られるのが慰めになったという。
「人数分の毛布に食器類、後はラーメンなんかの乾物も貰ったかな。半端なくありがたかったよね」
雇用促進住宅の間取りは4畳半、6畳、6畳、にリビングが10畳あったから3人で暮らすには充分過ぎる広さだった。しかし、大和に避難してからずっと、Mさんは気分がすぐれなかった。いや、すぐれなかったどころか、ほとんど鬱状態だった。Mさんの妻が言う。
「大和の時は2週間ほとんど寝た切りで、ぜんぜん起きてこないんだもの。お姉さんから病院行けって叱られてたよねぇ。長岡でも、窓を開けては『あー帰りてー、帰りてー』って溜息つくばっかりで、部屋から一歩も出なくてね」
Mさんはいったいどんな気持ちだったのだろうか。
「俺的には、大和からすぐ富岡に帰りたかったわけ。でも帰らんねぇから、脱力感っていうのかな、何も考えられなくなってしまったんだよ」
転機になったのは、長岡の雇用促進住宅で南相馬からの避難者に声を掛けられたことだった。カラオケのある温泉施設に行こうと誘われたのだ。
「アパートの外で車洗ってた人から、おんちゃん歌好き? って声かけられて、ああ歌は好きだよって言ったら、明日カラオケ行くべって誘われて、あれで俺は復活したんだ。もう少し生きられっかなーと思ったんだよ」
長岡には200円払えば一日過ごせる公営の温泉施設が数か所あって、そこにはカラオケルームも併設されている。同じ福島の避難者と一緒に温泉に入り、心ゆくまで歌を歌うことによってMさんはようやく生気を取り戻したのだ。
地元長岡の利用者から、「避難の人はお金があっていいねぇ」と嫌味を言われたり、「避難者にカラオケを歌わせるな」と怒鳴り込んでくる人がいたりで嫌な思いもいくつかしたが、この温泉施設のおかげでMさんは約3年間にも及んだ避難生活を、なんとか乗り切ることができたという。
それにしても2日か3日、ちょっと避難するつもりで富岡の家を出て、そのまま3年間も避難し続けることになるとは……。Mさんはまさに、テレビドラマかマンガを見ているような気分だっただろう。
■勿来の豪邸
Mさんにインタビューをしたのは、勿来にあるMさんの家である。Mさんは、長男の勤務が茨城県の笠間に変わったのを機に、富岡に家を残したままの状態で勿来に中古の家を買った。土地が240坪、建坪が53坪ある。首都圏なら豪邸の部類に入るだろう。
富岡の家も6LDKの大きな家だった。最盛期、富岡の家には11人が暮らしていたというから賑やかだったのだろう。勿来の家も、盆暮れ正月に一族郎党が集まれるように大きな家を選んだということだが、それにしても広い。いわきの人から「避難者はたくさんお金を貰っているからいいね」と嫌味を言われたことが何度かあったというが、この豪邸を見てしまうと、正直言って、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、Mさんの富岡の家は居住制限区域ではなく、避難指示解除準備区域にあるため、それほど大きな補償金を貰ったわけではないという。
「杭一本で緑(避難指示解除準備区域)とか黄色(居住制限区域)とか赤(居住制限区域)に分かれるわけだけど、いったい誰が杭の位置を決めるんだかな。うちらが貰う補償金はせいぜい帰還困難区域の人の70〜80%ぐらいじゃないかな。それを、地元(いわき)の人は勝手に計算して、あんたたちはたくさんお金貰ってるからいいねって言うわけさ」
Mさんの妻が言う。
「たしかに補償金も貰ってるし、毎月の避難手当も貰ってるけど、家も土地も、家財道具も全部なくしたんだからね。本当に体ひとつで、裸で逃げたんだからね。避難者ぶるつもりはないけど、そこんところはわかって欲しいわね」
住人が避難して数年経った家は、多くの場合、ネズミの被害がひどくてとても人間が住める状態ではなくなってしまうと聞いた。しかし、Mさんの家は家財道具の処分をしてもらっていたのでネズミの被害はなく、住もうと思えばいつでも住める状態が保たれている。
しかし、実際に帰還するためには、解決すべきいくつもの困難な問題が横たわっている。
第一は、生活インフラがないことだ。まず近くに病院がないし、食料品や衣料品を買えるスーパーマーケットもない。さらに深刻なのは、水道水だ。避難に際して、「あの程度の放射能はなんともない」と豪語していたMさんも、富岡町の飲料水は危険だと言う。
「富岡は、木戸ダムから飲料水を引いてるんだけど、木戸ダムの底のヘドロはものすごい線量があるんだ。上澄みを飲めばいいとか、濾過すれば大丈夫だとか言ってるけど、いくら目の細かいフィルターでろ過しても取れない放射性物資があるからね。飲み水だけは、原発のプロの俺の目からみても絶対にダメだわ。富岡に泊まりに行く時は、水買っていくんもんな。そう考えるとさ、俺たちはよくても子や孫を富岡に連れて行く気にはなんねぇな」
Mさん一家はまだ住民票をいわきに移していないから、身分としては避難者のままであり、現在でも避難手当を貰い続けている。しかし、Mさんの家がある富岡町の避難解除準備区域は、来年3月で避難指示が解除される。そうなれば、避難手当はあと1年しか貰うことができない。
「富岡とか楢葉の人は、四倉(楢葉町の南。いわきの中心地の北)あたりにたくさん住んでる。みんな故郷に近いところに住みたいんだよ。本当はいわきに住民税払わねばならないんだろうけど、住民票移すと故郷がなくなるみたいだから、住民票の移動は嫌だな。富岡に置きっぱなしだ。
本当はさ、富岡の家を買い上げて貰えばすっきりするんだよ。最初はみんな富岡に帰る気だったし、俺も長岡にいた頃は帰る気満々だったけどよ、時間がたつとだんだん帰る気がなくなるんだよ。富岡に帰るって人は、歯が抜けるように減っていったね。俺も72歳だからもう限界だよな。いまからバタバタしたってしょうがねえと思うのさ。それに年寄りばっかり帰ったって、若い人が帰らないと町はやっていけないぞ。富岡なんて町の予算の何分の一だか、東電から貰ってたんだからな。
国の偉い人にさ、家族を連れて1週間でも10日でもいいから富岡に泊まってみろって言いたいね。チェルノブイリがどうとかいうデータでなくて、どんだけ不便だか、ちゃんと現場を見てから言えって言うんだ。復興住宅だって全然、間に合ってないだろう。オリンピックの準備で職人も材料も足りないし、値段も上がってしまってさ。オリンピックなんて……たったの四年も待てないのかと思うね」
いずれにせよ、来年3月にMさん一家は大きな決断を迫られることになる。富岡に帰るのか帰らないのか、勿来を終の棲家にするのかしないのか。
「俺たちは親から何にも貰わないで、箸一本から始めた夫婦だからな。富岡になん十年も住んで、2回も家を建て替えたんだ……」
Mさんの立ち位置には、被害者と加害者の両面がある。しかし、Mさんはこう言うのである。
「一番かわいそうなのは、地元採用の東電の社員だよ。社員は避難しても補償金貰えないんだよ。それだと女房、子供を抱えて生きていけないからさ、泣く泣く東電をやめた人もいるよ。地元採用の社員がやめて現場を知らない人がたくさん入ってきたら、例の汚染水のタンクが漏ったりするんだ。だって、フランジの締め方ひとつ知らない素人ばっかりなんだからさ。昔の仲間に会うと、『みっともねーなー』って話になるな」
Mさんの言葉からは、東電傘下の企業で働いていたプライド、職人としてのプライドは感じられても、東電が事故を起こしたことへの怒りはまったく感じられない。避難民としても、それほど激しい怒りを持っているわけではなかった。菅総理や国への憤りの言葉はあったが、事故原因をあくまでも究明したいとか、故郷を完全に元の状態にして返してほしいというような、激越な言葉はなかった。
Mさんの年齢もあると思うが、言葉の端々から響いてくるのは、手厚い補償を貰っていることに対する納得感と、諦めの気持ちであった。
避難指示の解除に五年もの月日がかかったことで、おそらく富岡町から避難した人の多くが、Mさんのように避難先で新たな生活を始めてしまっている。子育て世代は子どもの学校の問題があるから、なおさらその傾向が強いだろう。
では、もっと早く避難が解除されていたら、町民の多くが町に戻ったのだろうか? 放射能に関して無知な人々の「無用の恐れ」が、避難解除を遅らせたのだろうか? 政治家がもっと強いリーダーシップを発揮して帰還を推進すればよかったのだろうか?
わたしにはまだよく分からないが、事故原因の解明や責任の所在の追及、そして放射能の影響に対する科学的な評価の確定といったことによって避難者を納得させるのではなく、「金と時間」によって少しずつ人心を宥めていくやり方に、私は漠然とだけれど“日本的なもの”を感じた。
取材の終わりに、Mさんが自作の川柳を書きつけたノートを見せてくれた。
・ふるさとと 今の住処を はかりかね
・わがいのち つきてもまだ ひなんかな
・ひとしれず きえさるのみか ろうじんは
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