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http://www.sankei.com/affairs/news/160225/afr1602250012-n1.html
2016.2.25 08:51
【福島第1原発事故 5年目の真実(3)】
(1/5ページ)【東日本大震災5年】
参院決算委員会の最中に東日本大震災が発生し、机の下にもぐる速記者ら。菅直人首相(当時)も驚いて周りを見渡した =平成23年3月11日(矢島康弘撮影)
東京電力福島第1原発の事故直後、陸上自衛隊内で、ある「極秘作戦」が検討されていた。
ホウ酸とコンクリートの「石棺」で原子炉を封じ込める−。作戦を知っていたのは折木良一統合幕僚長、火箱(ひばこ)芳文陸上幕僚長ら最高幹部数人のみ。火箱氏は「当時は相当伏せていた。犠牲者も覚悟したし、私も行くつもりだった」と振り返る。
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自衛隊に本格的な原発対応が命じられたのは、東日本大震災発生から4日後の平成23年3月15日午前9時32分。その約3時間前の午前6時10分、全電源を喪失した福島第1原発4号機で水素爆発が起き、燃料貯蔵プールの屋根が吹き飛んだ。
4号機の爆発は重大な意味を持っていた。すでに12日には1号機、14日には3号機が爆発していたとはいえ、原子炉格納容器などは多重に防御されていた。一方、4号機は定期検査中で、燃料プールには1535本の核燃料が“裸”のまま保管されていたのだ。多重防御されていない4号機の燃料プールの水が干上がり、燃料がむき出しになれば、膨大な量の放射性物質が首都圏にまでまき散らされる可能性がある。
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半径170キロの住民は強制移転区域、東京都を含む半径250キロは避難、避難住民は3千万人以上となる−。内閣府原子力委員会の近藤駿介委員長が個人的に作成し、3月25日に政府に提出した「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」では、首都圏の壊滅もありうるという最悪の事態が想定されていた。
にもかかわらず当時の菅直人政権は、その危機的な状況を国民に一切開示することはなかった。危機管理のプロフェッショナルである自衛隊にも4日間も伝えていなかった。
枝野幸男官房長官は1、3号機爆発後も、「直ちに人体や健康に影響を及ぼすことはない」と繰り返し、危機をひた隠しにしていた。
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一方、菅首相はパフォーマンスに躍起になった。12日午前7時すぎ、福島第1原発をヘリで訪れ視察。その後も自ら現場に直接電話をかけ、指示を飛ばした。
この間、全電源を喪失した福島第1原発の状況は刻一刻と深刻さを増していた。
原発事故に関する政府の事故調査・検証委員会が後にまとめた最終報告書は、当時の菅政権の行動を次のように結論づけている。「介入は現場を混乱させ、重要判断の機会を失し、判断を誤る結果を生むことにつながりかねず、弊害のほうが大きい」
火箱氏は不測の事態が起こった場合、陸自きっての精鋭落下傘部隊、第1空挺(くうてい)団(千葉県船橋市)を石棺化作戦に投入しようと考えていた。また、自衛隊は2号機の屋上に降り立ち、建屋内に入って原子炉に対し、ホウ酸を直接まく作戦も検討していた
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しかし、自衛隊などの放水が功を奏し、原子炉は小康状態となった。3月27日に自衛隊は特殊装置を使い原子炉の温度を測定し、100度以下になったことを確認。決死の作戦は幸い、実行されることはなかった。
◇
「飯舘村の人たちは何も知らなかった」「国民を信用しない政府」が危機拡大
「国民を信用できない政府、政府を信用できない国民が、今も続く福島復興の遅れの原因なのではないか」。東京電力福島第1原発事故当時、首相官邸に出入りしていた民主党の長島昭久衆院議員は自戒を込めてこう話す。
東日本大震災が発生する直前、菅直人政権の支持率は約18%と2割を下回っていた。首相自らが外国人からの献金問題を国会で追及され、政権はまさに瀕死(ひんし)の状態だった。
そんな状況で発生した未曽有の大災害。菅氏は自らの支持率挽回、政権延命のためのチャンスとしか捉えていなかったかのようだ。
象徴的なのは、いわゆる「東電撤退」問題。震災発生から4日後の平成23年3月15日未明、「東電社員が福島第1原発から全面撤退する」との情報を得た菅氏は、清水正孝社長を官邸に呼び、その意向をただした。清水氏は「そんなことは考えていない」と答えたのだが、菅氏はその後、自ら東電本店に乗り込み、「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」と怒鳴った。テレビ会議でこの様子を見ていた福島第1原発の吉田昌郎所長は「(菅氏が)何かわめいていらっしゃるうちに、この事象(4号機で水素爆発)になってしまった」と証言している。
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こうした菅氏を尻目に、最悪事態に対処する新たな検討が政府内で始まった。その重責を担ったのが、23年3月26日付で首相補佐官として官邸に入った馬淵澄夫元国土交通相だった。
馬淵氏のミッションは、1号機が再爆発した場合、決死隊を編成し、原子炉に水と砂を混ぜたドロドロの「スラリー(泥漿(でいしょう))」を流し込み、再臨界を止めるという内容だった。馬淵氏は「全員被曝(ひばく)して死ぬような放射線量だった。私も現場で、責任者として作業員とともに作業するつもりだった」と振り返る。
この計画は極秘扱いで進められた。政府が隠したかったのは最悪の場合、首都圏にも自主避難を促し、約3千万人の避難民が出ると予測した「近藤シナリオ」の存在だった。
馬淵氏は「なぜ隠すのか」という疑問を持ち続けていたという。一方、細野豪志首相補佐官は24年5月31日に政府事故調が行った聴取に対し、「公表することで、場合によってはこのシナリオが現実になるかもしれない。万が一誤った形で伝わると、東京から人がいなくなる可能性がある」と述べている。
こうした政府の無策を目の当たりにして前回の選挙で落選した自民党の根本匠氏(後に復興相)は独自に動き始めた。根本氏は「政治が全く機能していない。民主党政権では事態は改善しない」と直感し、地元の福島県郡山市を拠点に政府に対し緊急提言を送り続けていた。
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事故後、郡山市にも原発周辺地域から多くの人たちが逃れてきた。避難所となった「ビッグパレットふくしま」には何千人もの被災者が集まっていた。原発周辺地域から内陸に逃れてきた人たちの多くが目に見えない放射線におびえながら、いつまで続くかわからない避難生活に不安な日々を送っていた。当時、政府は住民被曝につながる情報を持ちながらも、やはり不安をあおるとして隠していた。
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「あのとき飯舘村の人たちは何も知らなかった。自衛隊が飯舘村の住民を避難させるべきだった」。火箱芳文陸幕長は悔しさをにじませる。
23年3月18日から福島県飯舘村に展開していた第1空挺団(千葉県船橋市)の被曝線量だけが上昇していた。火箱氏はその数値に疑問を感じ、手元にあった緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)と見比べると、図面通りだった。「飯舘村の人たちも被曝している」と確信した。3月29日、火箱氏が現地部隊を視察した際、現場の指揮官に「村長さんにも、今の状況を言ったほうがいい」と指示したが、この重要な情報が住民に伝わることはなかった。当時の官邸筋によると、3月17日に枝野幸男官房長官がSPEEDIの観測結果を非公表とするよう指示を出していたとされる。同日のデータでは飯舘村でも高い数値が検出されていた。
政府が飯舘村全域を計画的避難区域に指定する方針を発表したのは4月11日になってからだった。菅政権の隠蔽(いんぺい)により無用な被曝を受け、今も飯舘村から避難する住民は6735人にのぼる。(肩書は当時)
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