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「中国で一生を」、ある日本人孤児の物語―中国メディア
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投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 5 月 28 日 22:45:56: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

1981年5月、46歳の王林起さんは成田国際空港に降り立つと、肉親探しの旅へとその第一歩を踏み出した。写真は王林起さんが幼い頃両親と撮ったもの。


「中国で一生を」、ある日本人孤児の物語―中国メディア
http://www.recordchina.co.jp/a139977.html
2016年5月28日(土) 21時0分


1981年5月、46歳の王林起さんは成田国際空港に降り立つと、肉親探しの旅へとその第一歩を踏み出した。新京報が伝えた。(文:孔雪、王林起氏の自伝『私の中国での75年』より一部引用)


王林起さんの日本名は「渡部宏一」だ。渡部家の親族6人が写真で「渡部宏一」の身元を確認してくれた。渡部家は家族6人で1940年代の初めに日本開拓団のメンバーとして中国の東北部に渡った。そして6人家族のうち、彼以外は亡くなるか、行方不明になってしまい、一人生き残り、不惑の年も越えた宏一さんだけが故郷の土を踏んだ。


宏一さんは顔を合わせた親戚6人とは互いにほとんど交わす言葉も無く、気まずいとすら感じ、「この日会った人々」にはあまり親近感を覚えることができなかったと思い起こす。彼は中国から来た人間として恥をかかないようにと、特にかっちりした中山服に身を包み、手にはそこそこ見栄えのする旅行鞄を二つ持っていた。その晩、約40年の時を隔て、「宏一さん」は再び彼の生まれた場所で、畳に横になって深い眠りについた。


◆離散 ばらばらになった家族
1940年秋、5歳の宏一さんは開拓団のメンバーの一員として、家族と共に山形県から中国の東北部へとやってきた。


宏一さんの父親は勤勉な農民で、数年で渡部家は村の丘陵の荒れ地を開墾したばかりか、家畜も飼えるほどになった。ようやく暮らしが成り立ち始めた頃、日本軍は政局を挽回するため、開拓団内で徴兵を行った。宏一さんの父親にも召集がかかり、間もなくソ連で亡くなってしまった。しかしこれは渡部家にとって家族の離散の始まりに過ぎなかったのだ。


1945年8月11日、「引き揚げ命令」の悪夢が突如襲いかかる。開拓団の農民たちは日本に遺棄された難民となったのだ。集団自決という運命から逃れるため、難民たちは南へと避難を始めた。その混乱の中で、妹の登美子とははぐれてしまい、母親は瀋陽の難民キャンプに到着後、ある晩ソ連兵の襲撃を受け死亡。中国で生まれた幼い弟の秀策の生死も不明で、混乱の中で見知らぬ男性に抱きかかえられて連れ去られてしまった。宏一さんともう一人の兄弟もそれぞれ中国人に引き取られたが、生き残ったのは宏一さんただ一人だった。


◆新しい家 毛主席を描いた半生
宏一さんを引き取った男性の名は王殿臣さん。引き取られた宏一さんは王家の長男となり、名前も「王林起」となった。その日から、宏一さんは温かいオンドルの上で寝るようになった。


10代だった宏一さんは半年もしないうちに新しい生活に慣れていった。王家は瀋陽から北平へ引っ越し、宏一さんは3年生の時に中華人民共和国建国後、第一期生となる少年先鋒隊隊員に選ばれた。宏一さんは他の隊員とともに、天安門広場で行われた建国式典に参列し、金水橋に向かって無数に放たれた風船に両手を大きく振り、偉大な指導者である毛主席に歓呼の声をあげた。その時、彼は「なんとも言えない誇りと幸せを感じた」という。


その後、宏一さんは北京市第十二中学(中高一貫校)の高等部に進学したが、養父母が日々の生計にも苦労しているのを目にし、退学。ちょうど工場労働者募集が盛んな時期だったこともあり、北京タービン工場の研削盤操作の仕事を得て、定年退職まで勤め上げた。


また宏一さんは中央美術学院に派遣され、毛主席の肖像画を描くカリキュラムを受けた経験もある。カリキュラム修了後、宏一さんは工場のために数多くの毛主席の肖像画や、革命と生産促進の宣伝ポスターを描いた。彼のこの才能は工場で重用された。中国に残った宏一さんはその後の半生においても毛主席を描き続けた。


◆肉親捜し 養父の一言がきっかけ
養父母の家で過ごす年月が長くなるにつれて、宏一さんは日本語をすっかり忘れてしまっていた。1972年に日中国交が回復すると、彼が戦争孤児だと知る友人が彼の日本の生家について尋ねたことがあった。彼は幼少の頃の記憶はすでに曖昧になってしまっており、また中国の養父母の面倒を見る必要もあることを理由にきっぱりと帰国しないと答えた。


しかしそんな宏一さんの考えを変えたのが養父が生前言った「お前の故郷をとても見てみたいが、多分行くことはできないだろうな」という一言だった。1951年、養父は17歳になった宏一さんを自身の故郷である河北省景県に連れて行った。村の様子は宏一さんが覚えている日本の故郷に似ていたという。曖昧な記憶を頼りに、宏一さんは中国語で故郷の和田村の村長に一通の手紙を書いた。


2年後、再会を待ち望んでいた親戚側の準備が整い、宏一さんは親戚に会うため日本へ向かう飛行機に搭乗した。故郷の畳の上で一夜を過ごしたのはその晩のことだった。


宏一さんは日本で人々の世話になっただけでなく、日本の会社も高給を約束し、引き留めようと試みたが、彼はやはり中国への「帰国」を決めた。中国には戻ったが、その後も彼は何度も親戚に会いに訪日しているという。


◆手記を読んで
この手記は一人の日本人残留孤児の物語であるばかりでなく、80歳の一人の老人の日常生活の歴史が描かれている。最初、この「日本人残留孤児」が書いた本をやや重苦しい気持ちで読み始めたのだが、読んでいくうちに却って彼が孤児であることを忘れていった。そしてむしろ彼の豊かな日常生活や細部まで鮮明に覚えている記憶力に驚かされた。


宏一さんの好物は水餃子だという。当時、開拓団の日本の村は東北の中国人の村とさほど離れておらず、彼の家でも中国人の農民をお手伝いとして雇っており、年越しにはそのお手伝いが外套で包んだ水餃子を届けてくれた。宏一さんは中国人家庭に引き取られてから、水餃子の作り方を学び、親戚に会いに日本に帰った時には、親戚や友人に作ってご馳走するという。


老人の素朴な自叙伝は温かさに満ちている。彼の戦争時代の歴史に関する記述は正確で、多元的で、日中両国の数多くの一般大衆が人生において経験したことから物事の是非を切り離して、しっかりと個々人の命として帰着させている。そして無垢で素朴な考えだけでなく、この80歳の老人は穏やかな口調で個人の尊厳を語っているのだ。(提供/人民網日本語版・編集TG)




 

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