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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「応神天皇は、暗殺された」に、ご興味をお持ちでしょうか。
実は、応神天皇は、「何者か」に暗殺されたのではないかと、妄想しています。
応神天皇は、謎の多い天皇でしたが、真実は歴史の闇に隠されています。
A (お断り)
今回は、「推理小説」です。根拠無しの推理であり、単なる妄想です。よろしいですか。
B (物語は)、オス鹿が、射殺されるシーンから始まります。
ア) 「摂津国風土記(逸文)」の「夢野(イメノ)の条」(内容は「釈日本紀」十二の引用から)
(簡略の翻訳)、
『摂津国の風土記に言う。雄伴郡に夢野がある。父や古老が伝えるには、昔、刀我野(トガノ・夢野の古名で神戸市兵庫区夢野町の説)に、オス鹿がいた。
そのオス鹿の本妻のメス鹿が、この野に居て、妾のメス鹿が淡路国の野島に居た。オス鹿は妾を愛し、しばしば、淡路国の野島に通った。
時に、
オス鹿が、本妻のメス鹿に言った。『昨夜の夢に、私の背中に雪が降り積もった。薄(ススキ)が生えた。どういう意味か』。本妻は、夫を妾の所に行かせたくないので、ウソの夢占いをして、答えた。
『背中に薄(ススキ)が生えたのは、背中に矢が突き刺さる意味です。背中に雪が積もったのは、塩を塗られて食べられてしまう意味です。だから、淡路国の野島には、二度と行っては成りません』と、嘘の夢占いで注意した。
しかし、
本妻の忠告を無視して、オス鹿が野島に渡ったところ、海で船に見つかり、弓で射殺されてしまった。ゆえに、この野を夢野と呼ぶ。
イ) 上記の類似の話。日本書紀・仁徳天皇・即位38年の条の、オス鹿が射殺される話。
(その1) 卅八年春正月癸酉朔戊寅、立八田皇女爲皇后。秋七月、天皇與皇后、居高臺而避暑。時毎夜、自菟餓野、有聞鹿鳴、其聲寥亮而悲之、共起可怜之情。及月盡、以鹿鳴不聆、爰天皇語皇后曰「當是夕而鹿不鳴、其何由焉。」明日、猪名縣佐伯部、獻苞苴。天皇令膳夫以問曰「其苞苴何物也。」對言「牡鹿也。」問之「何處鹿也。」曰「菟餓野。」時天皇以爲、是苞苴者必其鳴鹿也、因語皇后曰「朕、比有懷抱、聞鹿聲而慰之。今推佐伯部獲鹿之日夜及山野、卽當鳴鹿。其人、雖不知朕之愛以適逢獮獲、猶不得已而有恨。故、佐伯部不欲近於皇居。」乃令有司、移ク于安藝渟田、此今渟田佐伯部之祖也。
(その2) 俗曰「昔有一人、往菟餓、宿于野中。時二鹿臥傍、將及鶏鳴、牝鹿謂牝鹿曰『吾今夜夢之、白霜多降之覆吾身。是何祥焉。』牝鹿答曰『汝之出行、必爲人見射而死。卽以白鹽塗其身、如霜素之應也。』時宿人、心裏異之。未及昧爽、有獵人、以射牡鹿而殺。」是以、時人諺曰「鳴牡鹿矣、隨相夢也。」
(必要部分の、簡略の翻訳)、
(その1)
『仁徳天皇の即位38年春正月・・・天皇と皇后が高台で避暑をした。毎夜に、菟餓野(摂津国八田郡菟餓野と神戸市兵庫区夢野町の2説)から鹿の鳴き声が聞こえた。
二人は、鹿の鳴き声を哀れに感じていたが、月末になると、泣き声が聞こえなくなったので、天皇が皇后に『鳴き声が聞こえなくなったが、どうしたのだろうか』と言った。
翌日、
猪名県(イナのアガタ・摂津国河辺郡為奈郷)の佐伯部が、苞苴(オオニエ・献上する食料)を献じた。天皇が膳夫(料理人)に問うた。『オス鹿です。菟餓野の鹿です』と答えた。
天皇が皇后に語った。
『この頃は、物思いにふけたが、鹿の声に慰められていた。佐伯部が献じた鹿は、その鹿だろう。佐伯部が恨めしいから、今後は皇居に近づけないようにしたい』。
そういう事で、
佐伯部は安芸国渟田(ヌタ・沼田郡沼田郷)に移動して、「沼田の佐伯部」の祖先になった。
(その2)
『俗に言う。昔、一人の人が居た。菟餓に行って、野中に宿を取った。その時、2頭の鹿が傍らに来て伏せた。夜明けに、オス鹿がメス鹿に言った。『今夜、夢を見た。白い霜が多く降り、我が身を覆った。どういう意味だろうか』。
メス鹿が答えた。
『貴方が出かけたら、人に射殺されるだろう。直ぐに白い塩を身体に塗られて、霜の様に白くなる意味だろう』。
その時に宿を取った人は、不思議に思ったが、夜明けに、狩人が現われてオス鹿を射殺した。
C 何で、「国の正史である日本書紀」に、鹿の話が挿入されているのか。
おかしな話です。たかが鹿の話です。日本書紀だけを読むと、「つまらん鹿の話です」。何で、こんな話を挿入するのか。
ところが、上記のア)「摂津国風土記(逸文)」と重ねると、意外な内容が浮き彫りになります。
つまり、オス鹿が神戸市兵庫区夢野町から、淡路島の野島に渡ったところを、弓で射殺された。
これは、もしかすると、『応神天皇が暗殺された話』ではないのか。
つまり、神戸は、応神天皇の母親の神功皇后の根拠地の一つで、海人族の根拠地でも有ります。神功皇后や海人族を祀る神社が数多く有ります。
また、応神天皇は、摂津や播磨に足跡を残しています。応神天皇は、淡路島に縁が有ります。鹿の話も有ります。
(本妻のメス鹿は、海人族の娘だったのか)
上記Bア)を根拠に、神戸市兵庫区夢野町に本妻のメス鹿が居たと推理するなら、それは「海人族」ではないのか。海人族は昔は「鰐・ワニ」と読んでいた。
そして、応神天皇の次には「宇治天皇」が即位するが、母親は「ワニ」の娘です。娘の父親の名前は、古事記では「ヒフレノ、オホミ」とあるが、日本書紀では「和珥臣の祖になった日觸使主(ヒフレノ、オミ)」(応神天皇・即位二年の条)と有りますが、「使主」という文字は「渡来系豪族」に付けるものだと思いますが、どうなんでしょうか。
ということは、(ストーリーとしては)、
渡来系の娘が「皇后」で、娘の男子が「宇治天皇」だが、この鰐(ワニ)族系の政権構造に、仁徳天皇を支持する「在来勢力」が反発して、3年にわたって権力闘争が繰り広げられたが、ついに仁徳天皇支持グループが勝利した。特に、葛城氏の娘の「イワノ姫」は大喜びだった。
また、(古事記にある)「仁徳天皇と矢田皇女との浮気事件」とか、「雌鳥皇女の悲恋物語」は全部ウソで、本当は、和珥臣グループを飲み込む過程での一大権力抗争だった。
★ 日本書紀の崇~天皇の「四道将軍」の段で、「和珥臣の遠祖の彦國葺」が登場しますが、応神天皇即位二年の条で登場する「和珥臣の祖の日觸使主(ヒフレノ、オミ)」は、同じ「和珥臣」なのだろうか。それとも、遠いルーツが同じだったのだろうか。
また、
(応神天皇の母親の)神功皇后の父親か祖父を「天日槍」と仮定し、神功皇后や応神天皇の「三韓征伐」を考えると、渡来系の海人族を重用するのは有り得ると思うが、どうでしょうか。
(メモ) 丸迩(ワニ)と奈良市あたりの関連性。(★誤記あり要確認のこと)。
上記の「和珥臣の祖の日觸使主」は、孫の宇治天皇が宇治市方面に居たとするなら、和珥臣は奈良市方面に居たと考えるのが順当。
奈良市には「春日臣」が居たが、「姓氏録」に、大春日朝臣は孝昭天皇皇子の大帯彦国押人命が始祖のようだ。
同じく「姓氏録」に、「和尓部宿尓」は、大春日朝臣と同祖で、彦姥津命の四世の孫の矢田宿尓の後裔のようだ。
同じく「姓氏録」・左京・皇別の「吉田連」は、大春日朝臣と同祖で、孝昭天皇皇子の天帯彦国押人命の四世の孫の彦国葺の後裔とある。また崇~天皇時代に任那国に奏したと有るし、新羅国と相争う、治めること不能と有り、云々。
同じく「姓氏録」・右京・皇別の「真野臣」は、天足彦国押人命の三世の孫の彦国葺の後裔とある。気長足姫(神功皇后)に従って新羅を征伐した。また鎮守府将軍に留まって、国王猶榻の娘を娶って二男を生む。兄が佐久命で次が武義命。佐久命の九世の孫が和珥部臣鳥。近江国志賀郡真野村に居住。庚寅年に真野臣の姓を賜う。云々。
★★ これらの総合的イメージでは、古代の日本と半島は明確な線引きを成すものではなく、相互の往来が自由に成され、婚姻も行われたから、一概に「朝鮮系渡来人」などとの区別をすべきでなく、「呉越系倭人の広域共栄圏」程度に考えるべきではないか。
すなわち、「倭の五王」時代から始まって平安時代前半までに、「帰るべき日本人」が日本列島に帰化して「日本国」を形成したと考えるべきでは、ないだろうか。
D 「鹿」の文字に隠された、意味を探る。
「鹿」の文字には、動物の鹿の意味の他に、「神・神の化身・神の使い」の意味も有ります。また、「帝位」「王位」という意味も含まれています。
「史記」には、『中原に鹿を逐(お)う』という言葉が有りますが、「中原の鹿」は周王朝の王権の象徴でした。それ以降は、「帝位」「王位」という意味にも使われるようです。
すると、「鹿」を、応神天皇の「隠語」として用いた可能性については、どうなんでしょうか。
E 播磨国風土記。
ア) 播磨国風土記には、品太天皇(応神天皇)の話が数多く残されています。また、品太天皇が播磨で度々狩をした話が載せられています。
(★ 昼間の狩りの後には、「夜の接待」(夜伽)が付いているのが、「大人」の解釈です)。
イ) 品太天皇と牝鹿(メジカ)の話。(播磨国風土記・飾磨郡・小川の里の条)。
(翻訳の簡略に)、
『・・。英馬野(アガマノ)と呼ぶ訳は、品太天皇が、この野で猟をされた時、・・。この時、大きな牝鹿(メジカ)が海を泳いで嶋に就(いた)った。だから伊刀嶋(イトシマ)と呼ぶ。
★ 下記F(ア)の「日向の諸縣の君の牛」の話に類似する。ただし牡鹿と牝鹿の違いが有る。
ウ) 品太天皇と牝鹿(メジカ)の話。(播磨国風土記・揖保郡・冒頭の伊刀嶋(イトシマ)の話)。
(翻訳の簡略に)、
『・・・。品太天皇は、射目人(いめびと)を飾磨の射目前(イメザキ)に立てて御刈をされた。この時、我馬野(アガマノ)から出てきた牝鹿(メジカ)が、この丘を通って海に入り、伊刀嶋(イトシマ)に泳ぎ渡った。・・・』
エ) その他にも、品太天皇(応神天皇)が各地で狩りをした話、鹿の話が記載されています。
★ 大切なのは、品太天皇が、「メス鹿に逢いに行く」という、連想ゲームです。
F 日本書紀の鹿の話。
ア) 日本書紀・応神天皇即位十三年の段の一書に、
『一云、日向諸縣君牛、仕于朝庭、年既耆耈之不能仕、仍致仕退於本土、則貢上己女髮長媛。始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。於是天皇西望之、數十麋鹿、浮海來之、便入于播磨鹿子水門。天皇謂左右曰「其何麋鹿也、泛巨海多來。」爰左右共視而奇、則遣使令察、使者至見、皆人也、唯以著角鹿皮爲衣服耳。問曰「誰人也。」對曰「諸縣君牛、是年耆之、雖致仕、不得忘朝。故以己女髮長媛而貢上矣。」天皇ス之、卽喚令從御船。是以、時人號其著岸之處曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子、蓋始起于是時也。』
(簡略の翻訳に)
『日向の諸縣の君の牛が、年老いて朝廷を退職した。そこで、娘の髮長媛を天皇に献上した。髮長媛が播磨に到着した。
その時、応神天皇は、淡路島で狩をしていた。海に数十の大鹿が泳いでいるのを天皇が見た。
大鹿たちが兵庫県の加古川に入ったところで、側近に尋ねさせた。すると、鹿の毛皮を着た諸縣の君の牛たちだった。
応神天皇は、大いに喜んで、髮長媛を天皇の舟に乗せた。・・・』
★ ここで大事な事は、「応神天皇」と「大鹿」と「淡路島」と「髮長媛」です。
イ) 日本書紀・応神天皇即位廿二年の秋九月段に、
『秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲。亦麋鹿・鳧・鴈、多在其嶋、故乘輿屢遊之。・・・』
と有り、応神天皇は、たびたび、淡路島に行って、狩を楽しんでいた事です。
★ ここで大事な事は、「応神天皇」と「鹿」と「淡路島」です。
G 髪長姫の話。
ア) 淡路国風土記・逸文「鹿子の湊」の条(原文は「詞林采葉抄・七」の引用)、
(簡略の翻訳をすると)、
『淡路国風土記に云う、・・・応神天皇二十年秋八月、天皇が淡路島に遊猟した時、海上に大きな鹿が浮かんでいた。これは人間だった。天皇が従臣に尋ねさせたら、『私は日向国の諸県(モロアガタ)の君(族長)の牛(ウシ)です。角の有る鹿の皮を着ています。年をとってしまい、お仕え出来ませんが、御恩は忘れません。そこで、娘の髪長姫を献上させて頂きます。・・・』
イ) 仁徳天皇が、髪長姫を奪った話。
(古事記に)、応神天皇は、日向国の諸県(モロアガタ)の君の娘の髪長比売が美人と聞いて、妃に譲り受けて、仁徳天皇が大阪港に受け取りに行ったが、余りにも美人だったので、仁徳天皇が応神天皇から譲り受けた。
★ 日向国の諸県(モロアガタ)は、宮崎県の内陸部に有ったので「熊襲」の系統と考えられ、強力な「武闘集団」がイメージされます。また水軍を持っていたと考えられるので、鹿児島県の志布志や串間方面、宮崎県の日南市、宮崎市方面に影響力を持ち、「隼人族」を支配化に収めていた可能性も考えられます。
したがって、南九州最大の豪族と考えるなら、何としても自分の陣営に引き込みたいはずです。
ウ) 穿った見方をすると、応神天皇が手に入れようとしていた南九州の「諸県の君」を、仁徳天皇が横取りした。あるいは、「諸県の君」が、応神天皇治世下で権勢を誇った北九州の安曇氏に対抗しようとして、仁徳天皇と同盟したとも考えられそうですが、どうでしょうか。
H 一つの参考として、景行天皇の愛人を奪った話。
(記紀神話に)、景行天皇には多くの愛人・妾がいた。美濃の国に美女姉妹がいることを聞き、ゲットしようとして、息子の大碓命を使者に立てて美濃に行かせた。
大碓命は、その美女を横取りしてしまい、別人の「ブサイクな女」を美女姉妹の身代わりとして、景行天皇に献上した。
これによって、大碓命と美女姉妹の子孫が美濃の国に繁栄した。
★ ここで言いたいことは、「美女」そのものよりも、その領地・領民・財産をゲットできる事です。
I 最後に、応神天皇を暗殺した犯人は、誰か。
「推理小説」の真犯人としては、誰が、面白いでしょうか。
★ どう思われますか。
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