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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「応神天皇と仁徳天皇は、兄弟だった」に、ご興味をお持ちでしょうか。
応神天皇と仁徳天皇は、親子ということに成っていますが、本当は、兄弟だったと思います。
そこで、今回は、「応神天皇と仁徳天皇の兄弟説」を唱えたいと思います。「言論の自由」です。
★ 応神天皇の別名は、譽田天皇(日本書紀)・品太天皇(播磨風土記)、譽田別・品陀和気・大鞆和気など多数あります。
よって今回は、ホンダ別・ホムタ別・ホムヤ別の名称を使用します。
A 初めに、記紀神話の要点を、再考する。
物語の初めに、息長帯姫(神功皇后)が仲哀天皇の2番目の皇后に召されて、ホムヤ別(本当の応神天皇)を産みました。
その後、仲哀天皇が九州に出陣し、遅れて息長帯姫(神功皇后)も福井県の敦賀から、海人族の安曇氏を従えて九州に出陣しました。
そして、仲哀天皇が九州で戦死した後に、息長帯姫(神功皇后)が摂政として、北九州を討伐した後に、三韓征伐を行いました。
そして、息長帯姫(神功皇后)は、北九州に帰還して、ホンダ別(本当の仁徳天皇)を産みました。
そして、大阪に帰って、皇位争奪戦を、カゴサカ王・オシクマ王と戦って、勝利しました。
それによって、大将軍の武内宿禰が、乳飲み子のホンダ別を伴って、敦賀の(名神大社の)気比神社の神様と、ホンダ別の名前を交換しました。
その後は、息長帯姫(神功皇后)を摂政と仰いで、大将軍の武内宿禰を首班とする「河内王朝政権」が、応神天皇が成人して天皇に即位するまで続きました。
B 根拠の1に、中国の文献に、倭の五王で、『兄が讃、弟が珍』と有ります。
513年頃の継体天皇の頃に、「宋書」が作られましたが、「宋書帝紀」には、『438年に倭王の「珍」が宋に遣使した。讃の弟の珍だ』と有るようです。
だから、『讃(応神天皇)の弟の珍(仁徳天皇)』は、兄弟説の一つの根拠です。
C 根拠の2に、息長帯姫(神功皇后)が、仲哀天皇の皇子のホムヤ別・ホンダ別の2人の男子を産んだ事実が有ります。
ホンダ別が応神天皇ならば、兄のホムヤ別は、どこに行ったのかという疑問が生じます。
だから、本当は、兄のホムヤ別が応神天皇で、弟のホンダ別が仁徳天皇なのです。
D 根拠の3に、武内宿禰が、乳飲み子のホンダ別を伴って、敦賀の気比神社に参拝して、神様と名前を交換したことです。
ア) 名前を交換した後の敦賀の神様の名前は「イザサ別」の神様に成り、皇子の名前は「ホンダ別」に成りました。
イ) このことについて、日本書紀・応神天皇・即位前期に、
『譽田天皇、足仲彥天皇第四子也、母曰氣長足姬尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。・・・初天皇、在孕而天~地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆肖、此云阿叡、故稱其名謂譽田天皇。・・・』
(簡略の翻訳の修正文に)
『譽田天皇は、・・・筑紫の蚊田で生まれた。・・・生まれた時には、腕に肉が付いていた。その形が鞆(ホムタ)弓の防具のこと)に似ていた。・・・』
したがって、
生まれた時に「ホムタ別(ホンダ別)」と名前が付けられています。
ウ) 同じく、日本書紀・応神天皇・即位前期に、続けて、一書として、
『・・・一云「初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大~。時、大~與太子、名相易、故號大~曰去來紗別~、太子名譽田別尊。」然則、可謂大~本名譽田別~、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。・・・』
(簡略の翻訳の修正文に)
『・・・ある伝によれば、応神天皇は太子に成った時に、敦賀に行って、神様と名前を交換した。それで神様の名前が「去來紗別~(イザサワケ~)」に変り、太子の名前が「譽田別尊(ホムタワケ)」に変った。
つまり、大神の元の名前は「譽田別の~」であり、太子の名前は「去來紗別の尊」だったのだ。
しかしながら、証拠に成るものは見えず、未だに詳細は分らない。・・・」
エ) つまり、上記の日本書紀の文章(イ)では、応神天皇は、生まれた時に「ホムタ別(ホンダ別)」であり、後ろの文章(ウ)では、太子の名前は「去來紗別の尊」だったと有り、前後の(イ)と(ウ)の文章で矛盾しており、無茶苦茶です。
この点について、記紀神話編集委員会は、『証拠も無く、詳細も不明だ』と逃げています。
★ 文章の(イ)で、生まれた時に腕に肉が付いていたから「ホムタ別(ホンダ別)」と名前を付けたとチャンと書いて有るのです。だから、応神天皇は、名前を交換した後は、「去來紗別尊(イザサワケ)」でなければ、おかしいのです。
★ 「生まれた時に腕に肉が付いていた」というのは、既に2,3歳に成っていたからです。ここで、ホムヤ別(応神天皇)とホンダ別(仁徳天皇)を「すり替えた」事実を暴露しているのです。だから「なぞかけ」に成っているのです。記紀神話編集委員会も事実を隠せなかったのです。
E 根拠の4に、敦賀の気比神社に保護されていた兄のホムヤ別と弟のホンダ別を入れ替えたことです。
記紀神話では、皇位争奪戦での「穢れ」の禊(みそぎ)のために敦賀に行った訳ですが、必要もないのに名前を交換したが、(前述のように)その名前が無茶苦茶なのです。
だから、本当は、兄のホムヤ別と弟のホンダ別を入れ替えた推理が働きます。
じゃあ、何で、入れ替えたかと言うと、弟のホンダ別は生後間もない乳飲み子で、生命が安定していない。兄のホムヤ別は生後数年を経ているから生命が安定している。
これから皇位争奪戦の残党の掃討作戦も行わなければ成らないし、河内王朝の建設でドタバタしなければ成らないから、安全策を採ったと思います。
それから、敦賀には、息長帯姫(神功皇后)の妹の「虚空津比売(ソラツヒメ)」が居たから、虚空津比売に弟のホンダ別を託したという推理も働きます。
★ それから、「誉田別」の「誉」は、垂仁天皇皇子の「誉津別」がイメージされ、神がかった「失語症」の疑いも有りますが、話が混乱して面倒なので、省略します。
F 根拠の5に、敦賀の気比神社に、息長帯姫(神功皇后)の妹の「虚空津比売(ソラツヒメ)」が祀られていることです。
「虚空津比売(ソラツヒメ)」が、息長帯姫(神功皇后)の妹なのは通説です。(Wikiも言ってます)。
この虚空津比売が、(名神大社の)気比神社の神の「玉姫命」として祀られている事実です。息長帯姫(神功皇后)の妹というだけで祀るのは不自然ですから、兄のホムヤ別(応神天皇)の乳母・義母としての意味を持っていたと推理される訳です。
G 根拠の6に、古事記の「なぞなぞ」。『姫島で、雁が卵を産んだ話』。
古事記の仁徳天皇の段で、『仁徳天皇が、大阪市西淀川区の姫島に行くと、雁が卵を産んでいたので、武内宿禰に尋ねると、「倭国で雁が卵を産むことは無いが、産んだということは、仁徳天皇の子孫が繁栄するという瑞兆でしょう」と答えた』、と有ります。
これは、遠まわしに、『有っては成らない事が起きている。つまり、仁徳天皇の行っていることは無茶苦茶だ』という「謎掛け」だと想像します。
(★これは、次回の(その6の55)の(仮称)「応神天皇は、暗殺された」で述べればと思います)。
H 根拠の7に、筑紫の「ツク」の意味と、武内宿禰の子供と仁徳天皇の子供の名前を交換した「なぞなぞ」の意味です。
ア) 日本書紀・仁徳天皇・即位元年に、
『元年春正月丁丑朔己卯、・・・初天皇生日、木菟入于産殿、明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰語之曰「是何瑞也。」大臣對言「吉祥也。復、當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦異焉。」爰天皇曰「今朕之子與大臣之子、同日共産、並有瑞。是天之表焉、以爲、取其鳥名各相易名子、爲後葉之契也。」則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰、是平群臣之始祖也。・・・』
(簡略の翻訳の修正文に)
『仁徳天皇の即位元年に、・・・。仁徳天皇が生まれた日に、木菟(ツク・ミミズク)が産屋に飛び込んで来た。翌朝、応神天皇が武内宿禰に、その意味を尋ねた。
武内宿禰は『目出度い事です。昨日、私の妻も出産しましたが、鷦鷯(ササキ・ミソサザイ)が産屋に飛び込んで来ました。不思議なことです』と答えた。
そこで、応神天皇が『何かの兆しだから、お互いの子供の名前を交換しよう』と言う事で、名前を交換した。
そう言う訳で、仁徳天皇の幼名が鷦鷯(ササキ・ミソサザイ)になり、武内宿禰の子供の名前が木菟宿禰(ツクノ・スクネ)になり平群臣の始祖になった』。
イ) 木菟(ツク・ミミズク)の意味。「ツク・ミミズク・フクロウ」には、鳥の名前のほかに、「怪しい」、「邪(よこしま)」という意味も隠されています。
それから、「ツク」には、梟(フクロウ)のほかにも、「筑紫」(福岡県)の意味も含まれています。
ですから、木菟(ツク)の真意は、ホンダ別(仁徳天皇)が生まれた「筑紫」の意味と、仁徳天皇の出自・経緯が「怪しい」という意味だと、想像します。
ウ) 鷦鷯(ササキ・ミソサザイ)の意味。
鷦鷯(ササキ・ミソサザイ)という鳥は、ほとんどの人が知りません。よく分らない鳥です。森の中に居る雀(スズメ)のように小さな鳥ですが、森の中では見つけにくい鳥です。
つまり、これが真意なのです。『仁徳天皇は、よく分らない天皇だ』という意味です。
また、小さな鳥の鷦鷯(ササキ)が大きな木菟(ミミズク)に、よく見えない森の奥で、入れ替わったという意味です。
エ) 木菟(ツク・ミミズク)は夜の鳥。鷦鷯(ササキ・ミソサザイ)は昼の鳥。
「なぞなぞ」の一つの意味に、ミミズク・フクロウは夜行性の鳥であり、ミソサザイは昼間の鳥の意味が有るように感じられます。
つまり、昼と夜を交換した。『応神天皇の「夜の子供」を武内宿禰の「昼の子供」と交換した』。仁徳天皇は夜の子供だった。しかも、「怪しい」・「邪(よこしま)」という意味を含む「夜の鳥」だった。
それから、「夜」という漢字を見て、古事記の「品夜和気」(ホムヤワケ)連想しました。古事記では、息長帯姫(神功皇后)が仲哀天皇の皇子として品夜和気と品陀和気の2人を産んでいます。
だから、品夜和気と品陀和気が「入れ替わった」という推理が働くのです。敦賀で入れ替わった。
★ もちろん、敦賀で入れ替わった時に、『初めの品夜和気が応神天皇で、入れ替わった後の品夜和気が仁徳天皇だった』という考え方も成り立ちますが、
(あるいは逆に、兄の品夜和気が仁徳天皇であり、弟の品陀和気が応神天皇だった可能性も有るが)、そうなると「二元連立方程式」に成ってしまい、話がメチャクチャ、ややこしくなってしまうから、
『敦賀で、名前を入れ替えた時に、兄弟が入れ替わったのだ』と考えて、
今回は、スッキリ・サッパリで、『単に、入れ替わった』というだけに、とどめたいと思います。
★ それから、古代は「末子相続」だったから、弟の応神天皇が相続して、天皇に即位した可能性も考えられますが、そうなると話が面倒なので、打ち切ります。
オ) 以上のことを総合すると、『なーんか、怪しいなあ』と言う事です。
H 何で、兄のホムヤ別が敦賀に居たのか。その理由。
ア) ここで一つの疑問は『何で、敦賀なのか』です。その意味は、息長帯姫(神功皇后)の出自に有りそうです。
息長帯姫(神功皇后)は息長氏の娘と有りますが、本当は、(その6の51)・「神功皇后は、神に召された女だった」で述べたように、新羅から来た天日槍の子孫では無いかと言う事です。
息長氏の領地が有ったと推定される琵琶湖の東北部には天日槍の足跡が見られそうだし、天日槍は、近江国の後に敦賀に至って、日本海を南下して但馬の出石を領地にしました。
さらに、
「筑前国風土記・逸文」「怡土(イト)郡」の条」で、福岡県の怡土(イト)の県主らの祖の五十跡手(イトテ)は、足仲彦天皇(仲哀天皇)の九州遠征に出迎えて、『高麗の国の意呂山(オロサン)(蔚山・ウルサンの説)に天降った(領主だった)天日槍の末裔の五十跡手とは私のことです』と言っています。
だから、筑紫(北九州)に天日槍の子孫の勢力圏が有ったことが推定されます。
それから、仲哀天皇・神功皇后時代には、敦賀を始めとする若狭湾は、安曇氏の勢力圏に入っていたことが想像されますが、この安曇氏は天日槍と深い関係が有ったと、想像されます。
イ) 以上のことから、息長帯姫(神功皇后)の九州出陣に際しては、幼いホムヤ別(本当の応神天皇)を、妹の虚空津比売(ソラツヒメ)に預け、敦賀の安曇氏に身辺警護をさせて、万一の時には、船で九州に脱出させることが可能な敦賀が一番良かったのではないかと、想像する訳です。
I 何で、こんな馬鹿なことに成ったのか。
応神天皇と仁徳天皇を親子にした理由には、「神武天皇の紀元前660年即位問題」が有ります。
とにかく、雄略天皇までの間を、引き伸ばせるだけ引き伸ばして、繋がなければ成りません。兄弟相続などは「もってのほか」です。
神武天皇が127歳で崩御したなんて『有り得ません』。崇神天皇が120歳で崩御したなんて『ウソです』。垂仁天皇の140歳の崩御なんて『狂ってます』。
★ どう思われますか。
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