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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「新羅は日本で、天日矛は、崇神天皇の親戚だった」に、ご興味をお持ちでしょうか。
一般に、天日矛(アメノヒボコ)は、朝鮮の新羅人であり、日本人ではないという認識ですが、本当は日本人だったかも知れないという「トンでも論」です。
A 天日矛の伝承。(簡略版)。
ア) 記紀神話に、天日矛の伝承が有ります。
古事記では「天日矛」と書き、応神天皇時代の事にしていますが、日本書紀では「天日槍」と書いて、垂仁天皇時代の事にしています。
(どちらかが「ウソ」、あるいは、どちらも「ウソ」と、醒めた目で見る必要が有ります。記紀神話は「捏造の日本史」です。さらに、播磨国風土記では、天日槍と葦原志挙乎(大国主)が対抗していますから、頭がおかしくなります)。
ところで、(小異は有りますが)、天日矛の簡略の翻訳をしますと、
天日矛は、新羅国王の王子ですが、赤玉が化成した美女を妻にしたものの、その妻が『祖(オヤ)の国に帰ると言って、日本の難波に帰った。
天日矛は、妻を追い掛けて、難波に来たものの、渡りの神が妨害をしたために入れないので、引き返して、但馬の国に入り、その国の「俣尾(マタオ)妻の名と父の名の説)の女を娶って、息長帯比売(神功皇后)の祖先に繋がった。
また、
天日矛が持ち込んだ神宝が八種あった。(垂仁天皇三年の条には七種とある)。
別の説(垂仁天皇三年の条)には、
天日矛は、初めに、小舟で播磨の国に来て、日本に帰化したいと願った。そこで、播磨の国を許可したが、気に入らなかったので、宇治川を遡って近江の国に住み、さらに、近江から若狭に抜けて但馬に入った。
但馬の出島(イヅシマ)出石)で、地元の女を娶って、田道間守の祖先になる子供を生んだ。
イ) 播磨の国の風土記。
a 「揖保の郡・揖保(イヒボ)の里・粒丘(イヒボオカ)の条」に、
(簡略の翻訳では)、
天日槍(アメノヒボコ)が、韓国(カラクニ)から渡って来て、宇頭川の川口に着いて、宿所を、葦原志挙乎(アシハラシコオ)に乞うた。『あなたは、この国の主だから、私の泊まる所を与えて欲しい』。
それで、葦原志挙乎が、海上にとどまる事を許したら、天日槍は、剣で海水を掻き回して、これに宿った。
その霊力を見て恐れた葦原志挙乎は、天日槍よりも先に、この国を占領しようと思って、巡り上って粒丘に辿り着いて、大急ぎで飯を食った。
すると、口から粒(米粒)が落ちた。そこで、粒(イヒボ)の丘と呼ぶ。
b 「宍禾(シサハ)の郡・比治(ヒヂ)の里・川音(カハト)の村の条」に、(簡略の翻訳では)、
天日槍が、この村に宿をとり、『川の音が、ひどく高い』と言ったので、川音の村と云う。
c 「宍禾(シサハ)の郡・比治(ヒジ)の里・奪谷(ウバヒダニ)の条」に、(簡略の翻訳では)、
葦原志挙乎と天日槍が、この谷を奪い合った。だから奪谷(ウバヒダニ)と云う。
d 「宍禾(シサハ)の郡・高家(タカヤ)の里の条」に、(簡略の翻訳では)、
天日槍が『この村は高いことで、他の村に勝る』と言ったから、高家と云う。
e 「宍禾(シサハ)の郡・柏野(カシハノ)の里・伊奈加川(イナカガワ)の条」に、(簡略の翻訳では)、
葦原志挙乎と天日槍が、競争して、国を占めた時に、いななく馬が有って、この川で出逢った。だから、伊奈加川と云う。
f 「宍禾(シサハ)の郡・雲箇(ウルカ)の里・波加(ハカ)の村の条」に、(簡略の翻訳では)、
国を占めた時に、天日槍が先にこの処に来て、伊和大神が後からここに来た。それで、伊和大神が大変に不思議に思って、『度(ハカ)らずも(思いもかけずに)、先に来ていたものだ』と言った。だから、波加の村と云う。
g 「宍禾(シサハ)の郡・御方(ミカタ)の里の条」に、
(簡略の翻訳では)、
葦原志挙乎と天日槍が、黒土(クロツチ)の志爾嵩(シニタケ)に行って、お互いに黒葛(ツヅラ)を三条(ミカタ)、足に着けて投げ合った。
葦原志挙乎の黒葛は、一条(ヒトカタ)は但馬の気多(ケタ)の郡に、一条は夜夫(ヤブ)の郡に、一条はこの村に落ちた。だから三条(ミカタ)と云う。
天日槍の黒葛は、全部が但馬の国に落ちた。だから但馬の伊都志(出石)の地を占めている。
h 「宍禾(シサハ)の郡・多駝(タダ)の里・糠岡(ヌカオカ)の条」に、(簡略の翻訳では)、
伊和大神と天日槍が、軍兵を発して互いに戦った。伊和大神の軍兵が集まって、稲を搗いた。その糠が群れ集まって丘になった。
★ 伊和大神は、大国主のことだと云うのが、通説です。葦原志挙乎と伊和大神との使い分けがされていますが、大国主と天日槍が同時代に登場するのは、不思議です。
ほかに、播磨国風土記では、葦原志挙乎と少彦名が登場する条も有りますから、訳が分かりません。無茶苦茶です。
ウ) 「筑前国風土記・逸文」「怡土(イト)郡」の条(原文は「釈日本紀・十」からの引用)。
(簡略の翻訳に、)
『昔、穴門(アナト)の豊浦の宮に天下を治めた足仲彦天皇(仲哀天皇)が、クマソを討とうとして筑紫に来られた時、怡土(イト)の県主らの祖の五十跡手(イトテ)は、天皇が来られたと聞いて、・・・五十跡手(イトテ)は奏上して、『高麗の国の意呂山(オロサン)(蔚山・ウルサンの説)に天から降ってきた日桙(天日槍)の末裔の五十跡手とは私のことです』と言った。・・・』
(五十跡手については、日本書紀・仲哀天皇・八年の条に、類似の記述あり)。
★ 天日槍が新羅から来たことは知られますが、蔚山(ウルサン)に居たのが事実なら、新羅と言うよりは南加羅(アリヒシノカラ)、あるいは金官加羅の領域だったかも、知れません。
南加羅あるいは金官加羅は、日本と朝鮮半島との交流の拠点ですし、日本人が朝鮮半島から渡ってきた基点でも有ります。
そうすると、
新羅の膨張・南下によって、天日槍の居た蔚山が制圧されたが、その過程で、日本に亡命してきた可能性があり、新羅人と云うよりは、加羅人であり日本人の一員だった、と云うことになりそうですが、どうでしょうか。
B 崇神天皇神武の兄の稻飯命が、新羅の王になった。
(日本書紀・神武天皇)
『六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野~邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天~、母則海~。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持~。・・・
「日本書紀」の記述では、神武天皇の東征の場面で、東大阪からの侵攻作戦が失敗して、和歌山から熊野に迂回する時に、神武天皇の兄の稻飯命が海に飛び込んで、鋤持~(サイモチノカミ)になりました。
ところが、
「姓氏録・右京・皇別」には、「新良貴」という豪族が有り、出自には、『彦波瀲武草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合。』と見えます。
(★ 「姓氏録」は、「皇別」・「神別」・「諸蕃」に大別されますが、「皇別」は天皇家の別れであり、最も厳格な視線に晒されますから、「新良貴氏」は、それに耐え抜いて名を留めたことに成ります)。
ウガヤフキアエズの息子の稲飯命が新羅に行き、新羅の国主(王)になったと解されます。
新羅の建国開始は、「三国志・辰韓伝」の記述以降の西晋の衰退期か滅亡期で、早くても300年前後の建国開始になり、完成が30−50年後と推測しますと、330−350年のころに成ります。
(「晋書・辰韓伝」では、『武帝の太康元年(280年)に王が遣使した。2年にも遣使し、7年(286年)にも遣使した』と見えますが、この頃は都市国家の「斯盧」の時代であり、辰韓を統一した「新羅」の前段階と考えられます)。
ここで、「神武東征」を、290−300年ころのニギハヤヒ天皇神武ではなく、340−360年ころの崇神天皇神武のことだと解釈しますと、つまり、(奈良の御間城に入った彦であるところの、日向から来たイニエの)崇神天皇神武のこととすると、年代的に、新羅の建国と一致します。
また、
ここで、初期の新羅の王族が、九州の日向から渡ったものだとすると、(日向は、アマテラス系列の海人族の根拠地であり、呉系倭人が主体ですから)、新羅も呉系倭人になります。
★ 新羅の王家の氏は、朴氏・昔氏・金氏に移っていることが知られていますし、初めの朴氏は倭人(日本人)の説が有ります。
そうすると、崇神天皇神武の兄の稻飯命が、新羅に渡って、新たな王朝を築いた可能性を、否定できないかも、知れません。
C 混血児の帰属問題。
ア) (日本書紀の継体天皇の条に)、
『近江毛野臣が、新羅に奪われた任那を回復するために、6万の軍勢を率いて朝鮮に行こうとしたら、新羅に同調した北九州の磐井が反乱して渡航を妨害した。
やがて、筑紫の磐井が排除されて、近江毛野臣が任那に入って政治を行ったが、日本人男性と任那人女性との間に生まれた子供の帰属問題が有った』。
つまり、現地で生まれた子供は、日本人なのか任那人なのか。難しい問題が有りました。
イ) (日本書紀の継体天皇の条に)、
日本が、(加羅の国の領域の)多沙津を百済に与えたので、加羅の国は怒った。
(100人の従者を引き連れて入城した新羅王の王女を娶った)加羅王に息子が生まれた。後に、諸々の場所に散った従者たちが、新羅の着物や冠をかぶっていた。
つまり、日本寄りの加羅の人が、新羅との交流を通じて、新羅化した。
ウ) 継体天皇の頃の任那・新羅・百済は、明確な線引きが出来ない状況に陥っていた。
任那王の阿利斯等は、近江毛野臣の政治が気に入らないから反乱し、新羅に援軍を求め、百済にも援軍を求めた。城に篭城した近江毛野臣は、新羅と百済を迎え撃った。
つまり、任那日本府の晩期には、洛東江の下流域は、無茶苦茶な混乱に陥っていた。
エ) 蘇我氏は、混血児の子孫だった。
蘇我氏は、8代・孝元天皇→彦太忍信→屋主忍男武雄心→武内宿禰→蘇我石川宿禰→蘇我満智→蘇我韓子→蘇我高麗→蘇我稲目→蘇我馬子→→と言われます。
ここで、
蘇我韓子宿禰について、「雄略天皇・即位九年三月の条」にも有るように、蘇我韓子の「韓子」とは、朝鮮で生まれた子供を意味し、父親が蘇我氏の男で母親が半島の女と云われています。
その子供の「蘇我高麗」も、朝鮮半島の娘との子供、との説が有ります。
オ) 古代の日本人の名前が、おかしい。
「敏達天皇十二年の条」に、『今在百濟、阿利斯登子達率火葦北国造阿利斯登子達率日羅、賢而有勇。』と有ります。
(翻訳すると)、
『今、百済に居る、火葦北(ヒのアシキタ)国造(クニノミヤッコ)の阿利斯登(アリシト)の子の達率日羅(ダチソチニチラ)は賢くて勇猛だ』。
つまり、
新羅を征伐する人材の「日羅」を百済に送っている。それを返して欲しいと日本が言ったら、百済は拒否した。このため、日本は吉備海部直羽嶋を派遣して、日羅を連れ戻した。
日本が派遣したのは、日羅(ニチラ)・恩率(オンソチ)・コ爾(トクニ)・余怒(ヨヌ)・奇奴知(ガヌチ)・参官(サンカン)・柁師コ率次干コ(カドトリトクソチシカントク)と水手(カコ・船員のこと)たちと若干の人です。
これらの名前を読むにつけ、いったい、どこの国の人かと、困惑します。
D (余談ですが)、賢すぎて嫌われて、天皇に成れなかった、聖徳太子の悲劇。
最高権力者の蘇我馬子にとって、蘇我馬子の「言いなりになる姪」の推古女帝はベストだったが、用明天皇の皇子で頭脳明晰で政治に明るい聖徳太子は、蘇我馬子にとってバッドだった。
(朝鮮出兵に消極的な豪族会議と、積極的な聖徳太子)
推古天皇九年に、新羅征討が会議されて、推古天皇十年に、(聖徳太子の弟の)来目皇子が2万5千を率いて、総司令官で遠征したが、途中の筑紫で急病死した。
続いて、(聖徳太子の異母兄弟の)当麻皇子が総司令官に任命されて出発したが、遠征に同行した妻が播磨で急死したので、予定をキャンセルして奈良に引き返した。
このため、豪族会議は、『神は、新羅遠征を望んでいない』と噂して、新羅遠征をボイコットし、結局、新羅遠征は中止された。
聖徳太子は、新羅遠征の強硬派の中心であり、蘇我馬子は反対派の中心だった。(想像)。
『聖徳太子を天皇にしたら、新羅遠征の強行で、国が疲弊するから、聖徳太子を絶対に天皇に即位させるな』。
『聖徳太子は、十七条の憲法を起案するなどの開明派だが、理想主義者の原理主義者であり、振り回されたくない。今の推古天皇体制を堅持せよ』。
結局、聖徳太子は、天皇に推す声も無く、皇太子どまりで一生を終わったと言います。
★(神も、朝鮮にかかわることを望まなかった)
備中国風土記・逸文「邇磨(ニマ)の郷」(原文は「本朝文粋」二・三善清行「意見封事」の引用)、
(簡略の翻訳に)、
『臣は、寛平五年(893年)に備中介に任じられた。・・・かの国の風土記を見ると、皇極天皇の六年(日本書紀は四年で終わっているが)、唐が新羅の軍を率いて百済を攻めたので、百済が日本に援軍を求め、皇極天皇が筑紫に行幸して救援軍を出そうとした。この時、天智天皇は皇太子で摂政だったが従軍して、かの国の下道郡に宿った。
その後、皇極天皇が、筑紫の行宮で崩御したので、救援軍の派遣は中止になった。・・・
★ (真偽不明の記事ですが、事実と仮定して、皇極天皇が筑紫で崩御したのは、神が『これ以上は朝鮮にかかわるな』、というメッセージだろうか。どうでしょうか)。
E まとめ。
古代の日本人の多くが、半島南部に居た「呉越系倭人(本当の中国人)」に間違いは無く、大陸や半島の動乱により、新天地「日本」に移動した。
大半の日本人(倭人)が移動を終えた段階で、神は、『半島と日本列島を切り離してしまえ。今後はかかわるな』、と命じた。
(その意味において、神の御霊が宿るのは、日本人だけだと思いますが、どうでしょうか)。
★ どう思われますか。
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