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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「四道将軍・元伊勢巡歴・ホムチワケの白鳥の、相関関係」に、ご興味をお持ちでしょうか。
これらは、別々の事件のように述べられていますが、実は、国土の平定・統一化という意味で、一つに繋がっているのではないかと、思います。
A 四道将軍を派遣して、崇神天皇から、中央集権化が始まった。
ア) 崇神天皇の奈良遠征の前に、奈良は権力闘争を繰り返して内部分裂していた。崇神天皇の奈良入城に際しては、奈良の豪族たちは、恭順派と抗戦派に分裂した。これにより、崇神天皇の遠征が成功したと言えます。
(タケ・ハニヤス彦の乱)
たとえば、一例として、8代の孝元天皇の皇子に、大彦(大毘古)と、タケ・ハニヤス彦の異母兄弟が有りました。
大彦の母親は、物部氏の娘のウツシコメですから、大彦は物部氏系列と考えられます。さらに、ウツシコメの姪のイカガシコメが、同じ孝元天皇の妃になっていて、物部氏系列が孝元天皇をガチガチに取り囲んでしまいました。
そして、もう一人の皇子のタケ・ハニヤス彦の母親は、河内の青玉の娘のタケ・ハニヤス姫でしたが、権力闘争に敗れて、次の天皇位は、大彦の同母兄弟の開化天皇に奪われてしまいました。
また、大彦や物部氏は、崇神天皇の奈良入城に際しては、崇神天皇を支持したと考えられます。その根拠には、その後に物部氏が隆盛していますし、大彦は「四道将軍」の一人に任じられているからです。
そして、大彦(大毘古)は、安倍の臣・膳の臣・阿閉の臣・狭狭城山の君・筑紫国造・越国造・伊賀の臣などの「七族の祖」になったと云いますから、大活躍しました。
対するタケ・ハニヤス彦は、河内・山城の豪族を率いて、崇神天皇に反乱し、「木津川の戦い」で大彦に敗れて戦死しました。
★ 8代孝元天皇皇子の「タケ・ハニヤス彦の乱」が、崇神天皇の奈良入城中での戦いか、即位後の膨張政策中での戦争かは不明ですが、河内の勢力や山城の勢力を率いた大規模な戦闘が行われているから、タケ・ハニヤス彦は、崇神天皇に対する抗戦派の頭目だったと、思われます。
イ) 四道将軍を各地に派遣して、西日本の統一化が、スタートした。
タケ・ハニヤス彦の抵抗軍を蹴散らすのを皮切りとして、崇神天皇の膨張政策が始まりました。
大彦は、異母兄弟のタケ・ハニヤス彦に勝利して、北陸方面を侵略して領地を増やしました。
タケ・ヌナカワ・ワケ(大彦の息子)は、東海道を進軍して、領地を拡大しました。
吉備津彦(古事記では7代孝霊天皇皇子で異母兄弟の、2人の吉備津彦)は、岡山県の「吉備王国」をボコボコにして、『勝てば官軍、負ければ賊軍だ』と豪語して、領地を略奪しました。
彦坐王(9代開化天皇皇子)は、(日本書紀では彦坐王の息子の丹波道主)は、丹波(丹後を含む)方面を侵略破壊して、領地を拡大しました。
(古い神社の祭神の考察から)大歳系列の「丹後王国」も、解体されて、多くの難民が「山の民」になったという説が有ります。
(★ 昔は、戦争に負けると、殺されたり、奴婢にされたり、山に逃げたり、関東東北の蝦夷に合流して大和朝廷に反抗したと、云われます)。
B 元伊勢巡歴は、(高天原を破壊した)スサノオに対する、アマテラスの復讐戦だった。
ア) 元伊勢巡歴の概略。
「日本書紀・崇神天皇・即位6年の条」によると、御所に、アマテラスと倭大国魂神(たぶん大国主)の2神を祀っていたら、毎日のように喧嘩ばかりしていて、うるさくて叶わないから、両神とも御所から放り出した。
アマテラスを、初めは、(崇神天皇の娘の)トヨスキ・イリ姫を世話係にして、大和国の笠縫村(比定地は奈良県桜井市・田原本町・明日香村の8社地)を転々として祀っていた。
その後、(日本書紀・垂仁天皇・即位25年3月の条に)、アマテラスの世話係を、トヨスキ・イリ姫から、(垂仁天皇の娘で景行天皇と同母妹の)ヤマト姫に交代させて、およそ90年の歳月を掛けて、諸国を転々とした後に、今の伊勢に鎮座したという、スケールの大きな「作り話」です。
イ) 崇神天皇の御所で、アマテラスと倭大国魂神(たぶん大国主)の2神を祀っていた、ウソ。
崇神天皇が奈良に入城する前は、ニギハヤヒ系列の皇統でしたから、祀るのは、ニギハヤヒ・大国主の出雲神だけで、アマテラスは祀っていません。三輪山には大物主(大国主)を祀っていました。
(つまり、アマテラスは、海人族の棟梁の崇神天皇が、新たに持ち込んだものです。崇神天皇がアマテラスを奈良に持ち込んだため、スサノオ系列の大国主と、毎日のように喧嘩したのです。スサノオとアマテラスは犬猿の仲です)。
イ) 元伊勢巡歴の比定地(比定神社)。(トヨスキイリ姫と、ヤマト姫の2代にわたる)。
奈良県は、桜井・田原本・明日香・宇陀方面で、十数社程度。
★ 奈良県は、出雲族の本拠地の一つで、ガチガチのスサノオ系列だったので、アマテラスが、ボコボコに叩きのめした。しかし、三輪山を始めとして、出雲神の霊力のほうが強くて、屈服させたのは少数だったと、思います。
京都府は、福知山・舞鶴・宮津・京丹後方面で、十社程度。
★ 京都府北部は、(古い神社の祭神などの解読から)スサノオ系列の大歳の王国が推定されるが、ボコボコに叩きのめされて、一部は「山の民」になって、諸国へ流出したと、推測されます。
また、命脈を保つ者も居らず、奈良王権の有力豪族の植民地にされたと、想像します。
和歌山県は、和歌山市・海南・有田方面で、数社程度。
★ 和歌山方面は、スサノオ系列の五十猛・大屋津姫・抓津姫らが、和歌山市方面に入植していたし、その後に、ニギハヤヒの東遷に伴って、息子の天香語山らが「上書き」したと思います。恭順の意を示さなかったので、アマテラスに叩きのめされた。
その後は、アマテラスの海人族系統の領地になったと、想像します。
三重県の伊賀方面は、伊賀上野・名張方面で、十社程度。
★ 伊賀方面は、「伊勢国風土記・伊勢の国号(1)」の中で、『伊勢と称するは、伊賀の安志(アナシ)の社に居る神は、出雲の神の子で、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天櫛玉命である。・・・』と有ります。
すると、
伊勢も伊賀も、出雲神の系列に有ったようなので、ボコボコにされたことが、想像されます。
三重県の桑名・亀山・津方面は、数社程度。
★ 伊賀方面と同じく、出雲神の系列なので、アマテラスにボコボコにされたと、思います。
三重県の松阪・多気郡・伊勢方面は、20社程度。
★ 伊勢市や志摩の方面は、海人族の本拠地ですから、アマテラス系列(尾張氏系列)で、ガチガチに固められたと、想像します。
滋賀県は、甲賀・信楽方面で、十数社程度。
★ 甲賀郡の方面は、新しい豪族に「上書き」されて、よく分りません。(想像では)、ニギハヤヒと共に天降った「天御影命」が野洲市方面の入植も考えられるし、京都市・比叡山・滋賀県湖西線方面に大歳(大山咋)系列が散在しているが、滅亡した豪族は記紀神話にも残されず、調べようが有りません。
つまり、アマテラスから徹底的にボコボコにされたことが、読み解けそうです。
岐阜県は、安八町方面に数社程度。
★ 岐阜県には、大国主の子供のアシスキタカヒコネが入植していましたから、アマテラスから、徹底的にボコボコにされたと、思います。
愛知県は、一宮方面に数社程度。
★ 一宮方面は、岐阜県安八町方面に近いので、アシスキタカヒコネの影響力が有ったかも、知れません。
岡山県は、岡山市・倉敷・総社市方面の数社程度。
★ 岡山県は、独立した「吉備王国」が有り、出雲や大和王権とは距離を置いていたと思いますが、アマテラスにボコボコにされて、領地の全部が奪い取られたと、思います。
岡山の神社も、吉備津彦以降のものが大半のようです。崇神天皇以前の歴史は分りません。
ウ) 元伊勢巡歴は、四道将軍の派遣と、重なって見える。
元伊勢巡歴を、ロマンチックに見る人が居ますが、実際には、四道将軍の派遣で侵略されて領地を奪われ、さらに、精神的かなめの「先祖の神社」も打ち壊されて、アマテラスへの改宗を押し付けられたのではないかと、思います。
エ) 大阪や兵庫県は、元伊勢巡歴の記録が無い。
元伊勢巡歴は、大阪府や兵庫県には記録が無いようですが、早くから崇神天皇を支持し恭順して、アマテラスに改宗したり、受け容れたからかも知れません。
つまり、元伊勢巡歴が行われた意味は、それだけスサノオ系列の祭祀を守り通したからこそ、弾圧を受けて破壊されたということ、かも知れませんが、どうでしょうか。
C ホムチワケの、白鳥を追う話。
ア) 話の概略。
(古事記に)、11代の垂仁天皇皇子のホムチワケは、言葉を話さなかったが、ある時、天空を飛ぶ白鳥に興味を示したので、天皇が、白鳥を捕らえるように、家臣に命じました。
家臣が追いかけると、白鳥は、大和の国の三輪山の麓から、紀伊の国→播磨の国→因幡の国→丹波(丹後を含む)の国→但馬の国→近江の国→美濃の国→尾張の国→信濃の国→越の国に至り、そこで白鳥を捕らえることが出来た。
家臣は、捕らえた白鳥を垂仁天皇に献上すると、天皇は喜び、ホムチワケに見せたが、ホムチワケは何の言葉も話さなかった。
その後は、垂仁天皇に、出雲大神(大国主)の夢のお告げがあったので、ホムチワケが出雲に行って、出雲大神(大国主)に参拝して、ついに言葉を話すようになった。
イ) 白鳥を追う話と、四道将軍の派遣と、元伊勢巡歴との、重なり。
大和→紀伊→播磨→因幡→丹波→但馬→近江→美濃→尾張→信濃→越の国。
これは、四道将軍の派遣と、元伊勢巡歴と、重なり合っているのではないか、と想像します。
(あるいは、四道将軍の派遣に限定せずに、崇神天皇と垂仁天皇の二代天皇の間に行われた遠征の概略ではないかと、想像します)。
(播磨や因幡は、四道将軍の派遣と元伊勢巡歴に登場しませんが、本当は、播磨や因幡も、制圧されたのかも、知れません)。
ウ) 霊的な意味。(想像)。
白鳥が飛んだコースは、全部、出雲族が平和に暮らしていた土地。
白鳥は、(アマテラスによる)侵略戦争で殺された出雲族の霊魂。
ホムチワケが出雲に参拝した意味は、出雲族の聖地(大国主)への謝罪と鎮魂。
D 崇神天皇から、国家の概念が変った。
10代崇神天皇までは、古い国家観であり、都市国家の概念しか有りませんでした。丹後には「丹後王国」の自治国家が有り、吉備には「吉備王国」が有り、共存共栄を図っていました。
ですから、奈良も「ニギハヤヒ王朝の自治王国」しか有りませんでした。
崇神天皇の登場により、都市国家から、日本という統一国家の概念が生まれましたが、その背景には、朝鮮の動乱と統一化の動きが有りました。
また、中国の動乱も有りましたし、ひいては、ヨーロッパでは、ローマ帝国の解体による「民族の大移動」が、洋の東西で並行的に始まっています。
★ これらの一連の流れは、すべて「神の計画」によるものです。崇神天皇に神が取り付いてチャネリングが有ったことが、記紀神話に記述されています。
(大国主とアマテラスの戦い)(妄想)。
大国主は、地方分権政治を提唱した。対する、アマテラスは、中央集権政治を提唱して、イデオロギーの違いから、毎日のように喧嘩をしていた。
間に立たされた崇神天皇は、ノイローゼになり、寿命を縮めて、短命政権に終わった。
(「日本書紀・垂仁天皇・即位25年・一書」、「(その6の44)・D」。参照)。
後継政権の垂仁天皇は、アマテラスを全面採用して、国土の統一化を推し進めた。多くの血が流され、多くの難民も生み出された。
しかしながら、日本は、朝鮮に飲み込まれず、中国に土下座外交をすることなく、今日に至った。
★ どう思われますか。
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- 「今後、アセンションは、加速化するだろう」 どう思われますか 2018/10/01 11:14:03
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