違和感としてのものを感じられたら、それを吐き出すか、それともそこに留まるか。 はたまたその違和感が感じられるのと逆の向きを行くか。常にその選択はあなたに委ねられてある。 身体の知覚に感じられる苦痛や痛みのみに限らず、 心のしこり、沸き立つ焦燥感、憤慨、 それぞれの感情レベルに表される異質感、違和感といったものすべてが、 常時あなたに帰還命令、気付きをもたらしており、そこからの解放を促しているのである。 それが苦そのものがもつ役割としての存在意義である。 だから大切な事は、まずそうした「違和感に気付く事」であり、 そしてそのことをあなたの中に明確にするということにある。 違和感が明確になる事によってあなた自身に解放の道を模索させる。 それが本来のプログラムである。 ゆえにそれがあなたの仕事であるのだが、あなた方の脳は外側に意識を張って注意することを優先するようにつくられてもいる。 そしてその危機意識を盾に危険な崖を坂道を転がるように滑り落ちてきた。 やがて外側に社会性という外部プログラミングをつくることなり、倫理教典ができると教科書どおりにそこに支配されるばかりとなった。 そこに合わせる事だけを好しとされれば、内的な心理性の働きも全て外部に合わせる事となっていく。 そこに生じる痛みも内々に隠すだけとなっていった。 そしてその中で、痛みを感じるのが確定したことなら、 大きな痛みを感じるより、より小さなもので我慢できるようにしよう という考えに巻かれるだけとなっていったのである。 最初に感じる僅かな異質感、違和感を取り除こうとしないままでいれば、 やがてそれが原因で病の種が芽を出し、ほったらかしにしてしまえば、その芽は育ち成長する。 痛みが生じても、我慢する事が良い事だと教えられ、痛む事は悪い事だと理解すれば、誰でもそのようにする。 小さな痛みならばいずれ消えるだろう。しかしそれが心の傷だったらどうだろうか。 痛みを忘れる為に強い痛みで自分を抑え込もうとするものもいる。 やがて痛みを感じないフリではもたないまでになると、今度はより大きな薬の力で抑え込もうとする。 それを繰り返してやがて、何も効かないところまでいくとお手上げとなる。 不感症の度合いもいきつくところまでいき、雪だるま式に大きくなっていくだけとなり、やがてくる大きな痛みにも耐えるとして、社会全体が不感症となって沈黙してしまったのが今日の日本である。 我々がすべき事、また出来る事とは、どんな些細なものでも違和感があればそれを放置しないで解決方法を模索するということだ。 それは違和感を手放さないと云う事とは全く真逆の事である。 改善案、提案をしつづけることで社会は良くなって行く。 内向的にただひたすら痛みに耐え、隠し続けていても何も良くならないばかりか、 坂道を転げ落ちてどこまでも泥沼にはまり込んで行くだけである。 誰もが共鳴する声を挙げるとするには、そこに嘘偽りが一切あってはなら無い。 自分の中にどれだけ違和感が隠れているのか、どれだけ感じられてきたのか。 その一切をすべてつまびらかにする事だ。 インターネットが普及する以前の人々の生活はこの異質な違和感を取り除く事がとても困難な状況だったろう。 だから今日変わり始めたのである。 異質なものをいつまでも感じ取って、痛みや心苦しさを感じる場所に留まるのではなく、 自分の心の解放が促される場所に、心の顔の向きを変えて声を出す事である。 自分の中に疑問として感じる点があれば、それは他人の心にもまた同様に隠されたものでもある。 それをあらいざらいテーブルの上にぶちまけ、あらためてそれらを見直す機会をつくる事である。 そのためにまずは行動する。 周囲の比較、評価にたじろがず、純粋に自分を表現するのみである。 あなたは今何かを感じ取ってここに吐き出している。 あなたにはその表現者としての質の高さが感じられる。 あなたは自分の本分を捨てていない。 あなたがこれまで受けた怖れや怒りや躊躇いや悲しみはあなたに一体どんな夢を見ることを促しただろうか。 それを表現する事が倖せへの近道だ。 景色と映るすべてを悲しみとばかり感じ、心を無駄なものにつまらせていれば、怖れや怒りは消えても行かず、ただ増すばかりとなる。 理屈のみを言い述べる脳の働きに留まるのではなく、 どうすればその痛みが和らぎ、消えて行くのかは心に聞いて頂きたい。 心はあなたに言葉ではなく、感覚に答えを伝えてくれる。 あなたがその受け入れ態勢をきちんと整えてさえ居れば。 自分につく嘘や誰かに作られた理屈に自分の心を包む事無く、 純粋にその違和感が指し示す解放への道のりへと歩みだしてもらいたい。 そしてその解法に至る道をあなた自身にも説いてもらいたい。 自分の事だからと黙って看過ごす、 違和感を感じていながらそれを感じていないフリをしてやり過ごす、 というだけでは何ら自らに期待できる変化など生じない。 誰もがあなた同様、理屈に固められたまま、雁字搦めにされたまま、 ただ怖れる捕虜の身の上から脱していない。 それではただ捕虜の身であることを世界に表現することにしかなら無い。 すべきことはそれじゃない。あなた方はそこから抜け出せるのである。 悟りとは、気付きであり、すべてに気付きを得る時ゲームを終える鐘が鳴る。 この世界に痛みが何故あるのかは、あなたに気付きを促す為だ。 痛みある場所に留まる事をさせないためである。 あなた自身が自らに期待し、信じ、そして守られた存在であることに気付かなくてはなら無い。 あなたもまた変化してみせてくれている。 あらゆる兆しは良いものだ。 着実に違和感からの脱出に向けて進行しているものだ。 そのように嬉しく感じられたらそれでいい。 変わるには良い変化しかない。それとも再びただ違和感を募らせる場所にに戻るかのどちらかだけだ。 なにをしたいのか決めるのはそれぞれに任せられた事である。 あなたはあなただけが変わればそれでいい。 あなたが変わればあなたの周囲に変化への影響を与えることになるだけだ。 あなたはただ自分の輝度を増すだけでいい。 そうなれば周囲の状況も明るく変わるしかなくなるのである。 自分の力を見くびる事は他人をも暗がりに置く事と同義と理解してくれればいい。
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