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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「日本の海人族は、よく分からない」に、ご興味をお持ちでしょうか。
『よく分からないようなものを、よく記事に書けるもんだ』という御批判も有るでしょうが、まあ、一つの流れであり、海人族は日本人の核心ですから、分からなくても、飛ばすわけにも往きません。
つまり、日本人は「天孫族」と「海人族」の二つの核心が有りました。
「姓氏録」の「皇別」が、「天孫族」であり「お殿様の家族」であり、「神別」が、「海人族」を含む「臣下」ということになり、「諸蕃」は「特別縁故者」のように感じられますが、
(「姓氏録」は、明確な血統に基づかず、「勝者の論理」で振り分けられているように、感じます)。
A−1 九州の海人族。
九州の海人族には、月読命を祀る系統(月読神社)、塩土老翁を祀る系統(塩釜神社)、綿津見神を祀る系統、住吉三神を祀る系統、大国主系の宗形氏の系統(宗像三神)、その他の系統が有りますが、これらが練り重ねられており、訳が分かりません。
はじめに、北九州の海人族は、朝鮮との交流を抜きにしては語ることが出来ませんし、対馬を抜きにすることも出来ません。
その後には、神功皇后の三韓征伐や、「倭の五王」時代からの海人族の淘汰と収斂が起こりました。
さらに、天智天皇や大海人天皇に至って、古い海人族が消え去って、(豪族管理の)日本海軍に再編成されました。
ですから、何回にもわたって「上書き」されており、古い海人族は、想像するしか有りません。
ア) 綿津見と安曇氏。
安曇氏につながる綿津見や豊玉姫と対馬は、古代史の必修項目ですし、全国に広がる安曇氏と「安曇野」「渥美」「熱海」「厚木」などの地名は、一考の余地があると言えます。
イ) 宗像と宗形氏。
また、綿津見の独断場であった北九州には、大神朝臣と同祖で大国主系列の「宗形朝臣」が、宗像を根拠地に展開しました。
後世には、胸形徳善の娘の尼子姫が大海人天皇の妃として、高市天皇(高市皇子)を生み、孫の長屋皇太子(長屋王)が、持統女帝との政争に敗れる悲劇も語り伝えられています。
しかしながら、
真実は、歴史の闇に葬り去られて、想像の域を脱することが出来ません。
ウ) 隼人族。
鹿児島には、隼人族が居ましたが、その源流は分かりません。
鹿児島を地理的に見れば、奄美や琉球に繋がっているので、チアム系・クメール系の南方種族だろうと推測されますが、古代から北九州の海人族と交流を重ねていますから、正確な源流は分かりません。
古代史で見れば、大伴氏や久米氏などのルーツと言われますが、「住吉神」を奉祭する(尾張氏や火明命系列の)津守氏などは大隈半島がルーツと言われているようです。
阿多・吾田の地名は、名古屋市の熱田・伊豆の熱海・東京都の足立区などが指摘されます。
大隈(大住)の地名は、京都府京田辺市の大住、大阪市の大隅、大阪府茨木市の大住、神奈川県の大住郡、秋田市の大住、静岡県焼津市の大住、などが指摘されます。
また、日本書紀の神代下・第九段・本文9)に、『其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。・・・』
(簡略の翻訳に)、
「その地(吾田)に、一人の人間が居た。名を事勝国勝長狭と言った。皇孫のニニギが問うた『ここに国は有りや否や』。答えて言った『ここに国が有る。好きにされよ』。それで、留まって住んだ。・・・」
と有りますように、事勝國勝長狹の「長狹」は、なぎさ(渚)であり、名草、長狭、名古屋にも通じます。
また、鹿児島には、日本書紀の神代下・第十段一書・四の一)に、『一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎。」』
(簡略の翻訳)に、
『山幸彦が、兄の海幸彦の釣針を失くした一件で、海辺で泣いているときに、鹽筒老翁(塩土老翁)に出会って事情を説明した。』
と有りますように、塩土老翁が鹿児島に居ました。
この塩土老翁は、
「塩筒の老翁」であり、「筒の男」は住吉三神ですから、塩土老翁=筒の男=住吉三神となります。
すると、
住吉三神=津守氏=尾張氏や火明命系列が導かれます。
さらに、
住吉三神→福岡県の博多の住吉神社→博多は綿津見の子孫の安曇氏の本拠地となると、訳が分かりません。
(これとは別に、ニニギの段の「猿田彦」は「サダヒコ」であり、鹿児島の佐多岬の神の説もあり、サダ→アダ・アタ、カダ・カタの地名との関連性を指摘する説も有ります)。
A−2 瀬戸内の海人族。
瀬戸内の海人族は、伊予の三島神(大山祇神)に「上書き」され、さらに、中世には「河野水軍」とか「村上水軍」とかに「上書き」されて、分かりません。
また、「倭の五王」時代以降、度重なる「朝鮮出兵」が有り、物部氏(摂津)・大伴氏(泉州)・紀氏(和歌山市)・吉備氏(岡山市)などの大豪族が派遣されましたが、彼らは自前の海軍を保有していました。
(その意味において、海運業者のレンタルで「「朝鮮出兵」は有りませんでした)。
ア) 伊予の三島神(大山祇神)。
「伊予国風土記」逸文に、『大山積神、一名に和多志(ワタシ)の大神なり。この神は難波高津宮御宇天皇(仁徳天皇)の御世に顕われた。この神は百済国から度(ワタ)り来て津国(摂津の国)の御島に坐した・・・』と有るようです。
そうすると、
伊予の三島神は「倭の五王」時代の神であること。百済から来た朝鮮の神であること。摂津の大阪に鎮座した後に、伊予の大三島に移動した神であること。
一名の「和多志(ワタシ)の大神」とは、「渡し」の大神であり航海・渡海の海運業者の神であること、あるいは、「渡ってきた」外様の神であると、解釈できそうですが、どうでしょうか。
また、
「摂津に入った後に大三島に移動した」と言うなら、(記紀神話の神武天皇の段に登場する)伊須気余理比売皇后の祖父の三嶋溝杭(三嶋神)は、どうなるのでしょうか。
イ) 大阪の「三嶋溝杭耳」。
大阪に、上記の三嶋溝杭耳が居ました。大阪府茨木市五十鈴町の「溝咋神社(ミゾクイ・ジンジャ)」が根拠地に比定されています。昔は摂津国三島郡の溝咋村と云い、上下の2社が有ったそうです。
この付近は、今は平野部ですが、古代は河内湖の一角であり、港が築かれて、海人族の拠点が有ったかも知れません。また、この付近は、古代には、事代主系列の「鴨氏」の領地が有ったようです。
また別に、
摂津国島下郡(大阪府高槻市)にも、式内社の「三島鴨神社」が有り、三嶋溝杭耳との関連性が指摘されますが、こちらも古代豪族の鴨氏の領地が有りました。
鴨氏には諸説ありますが、「姓氏録」の「賀茂朝臣」では、「大神朝臣と同祖で、大国主の後裔で、大田田祢古の孫」と有ります。
また、大神朝臣は、「姓氏録」の「大神朝臣」では、「スサノオの子孫の大国主の後裔であり、大国主が三島溝杭耳の娘の玉櫛姫を娶った、云々」が記されて有ります。
しかしながら、大阪や神戸方面の海人族は、「倭の五王」時代から「住吉神」に「上書き」されたし、泉州方面は海人族の「大伴氏」に「上書き」されてしまい、古代の海人族については、分かりません。
ウ) 天津物部氏の海神族。
ニギハヤヒの降臨・奈良入城に際して、「天津物部の二十五部」も付き従って降臨しました。この天津物部氏の足跡が瀬戸内方面に残されています。
伊予国に物部氏の伝承が有り、「越智直」や「風速直」が知られています。
香川県の讃岐には「三野物部」があり、山口県下関には「赤間物部」、広島県には「風速物部」が有ります。
岡山県・明石海峡・淡路島にも物部氏の伝承や神社が残されています。
また、
大阪湾にも、神戸市兵庫区の「矢田部造」、摂津河辺郡の「若湯坐連」、摂津西成郡の「佐夜部首」、摂津武庫郡の「津門首」、河内交野郡の「交野物部氏」などが見られますが、彼らも水軍を構成していたと考えられます。
エ) 吉備氏の水軍。
「倭の五王」時代に、朝鮮出兵を重ねた古代豪族の吉備氏は、児島湾(児島)を支配して、水軍を持っていたと言われます。
A−3 山陰方面の海人族。
山陰方面には、大きな海人族は見当たりません。
その理由の第1には、良い港が少なかったことです。江戸時代と比較しても、鳥取県の境港(美保関)や、丹後の宮津や、若狭湾の敦賀などが有る程度です。
理由の第2には、水田地帯が小さくて大人口を養えないことです。
理由の第3には、京都・大阪・奈良の大都市に遠く、地産地消の漁業以外には、海運業や海軍などの職業が成り立たないことです。
ちなみに、大国主の子供の事代主は、出雲の美保関の水軍を支配していたかも知れません。
A−4 紀伊・東海方面の海人族。
ア) 紀州の海人族。
はじめに、南方系や倭人系の海人族が居り、やがてスサノオ系列の五十猛が和歌山市に加わったと思います。
その後、ニギハヤヒの降臨に伴って、子供の天香語山(アメノ・カゴヤマ)や、孫の天牟良雲(アメノ・ムラクモ)が、紀伊半島から尾張方面にかけて、海岸線を鎮圧していったのではないかと、思います。
(天香語山は尾張連の祖先と有りますし、天牟良雲は伊勢の度会の神主らの祖先と有ります)。
その後、八代の孝元天皇の孫の武内宿禰が和歌山に食い込み、神功皇后や「倭の五王」時代に勢力を伸ばして言ったと思います。
紀伊半島の海人族は、紀伊山地の豊富な木材資源を奈良・大阪に運ぶことで巨利を得て、熊野水軍を構成したようです。
イ) 尾張氏と東海方面の海人族。
東海方面は「尾張氏」が有名ですが、実際は複雑だと思います。
天香語山の尾張連のルーツは、鹿児島県の阿多(吾田)と言われ、名古屋市の熱田(アタ・アッタ)が根拠地と言われます。
ところが、愛知県の渥美半島は、綿津見系列の安曇氏の領地が有ったと言われますし、三河方面・静岡方面は物部氏が支配しています。また、大国主の子供のアシスキタカヒコネが美濃の攻略戦で戦死したと言われます。
ですから、東海方面では、各豪族たちは、大領地を支配したのでは無く、モザイク様に郡単位で領地を保有したのではないかと、想像します。
B 阿多(吾田)の語源。
阿多(吾田)の語源の「アタ」は、「ワタ」と同じです。また、「阿多津見」と「綿津見」も同じで、「アタ」は、海の意とする説があります。
「トンでも説」では、『アダパ Adapa エアの息子で、海の神』、『アダド Adad 雨の神、水の神』、『アプス Apus 深淵(ワタツミ)の神』とあり、日本語の「アタ」の源流は、「スメル王朝」にまで遡る説があるようですが、どうでしょうか。
★ どう思われますか。
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