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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「古代の朝鮮人は、日本語を話していた」に、ご興味をお持ちでしょうか。
古代の朝鮮人は、朝鮮語ではなく、日本語(ただし呉語)を話していたという、スケールの大きな「お花畑」です。
A 辰韓人は、日本語(呉語)を話していた、可能性。
ア) 『魏志・辰韓伝」(さらに類似文書に「後漢書・辰韓伝」)に、
『古老は、代々の伝えとして、「いにしえ(秦)の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓が東の地を割譲した」と自称する』。
『そこでは、国を邦と、弓を弧と、賊を寇と、行酒を行觴と、お互いを徒(ト・ヤカラ)と呼ぶ。秦人(秦語)に似ており、単に(距離的に近い)燕や斉の言葉が伝わったのではない。
楽浪人を阿残と呼ぶ。東方の人は自分を阿(ア)という。楽浪人は、元は自分たちと同じで、楽浪に残った人という意味だ。今、この国を秦韓とする者もいる。』
★ ここで大事なことは、辰韓人の言葉が秦人(秦語)に似ていることであり、秦(中国)では、邦・弧・徒(ト・ヤカラ)と言い、自分を阿(ア)と言っていた可能性が高いと言うことです。
すると、秦の始皇帝や、当時の漢民族も、辰韓人と同じ言葉を使っていた可能性が有ります。
イ) (日本語の「吾(ア)」との類似性)
日本語で、(昔のことですが)、「私」を、「わたし」と発音する地方と「あたし」「あたい」と発音する地方が有りました。
この、「あたし」や「あたい」の語源は、「吾」という言葉だろうと思います。記紀神話でも各所に用いられています。
ウ) 以上により、辰韓人の言葉が秦人に似ており、さらに日本語に似ていた可能性が、浮上します。
B 神武天皇の兄の稻飯命が、新羅の王になった。
(日本書紀・神武天皇)
『六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野~邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天~、母則海~。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持~。・・・
「日本書紀」の記述では、
神武天皇の東征の場面で、東大阪からの侵攻作戦が失敗して、和歌山から熊野に迂回する時に、神武天皇の兄の稻飯命が海に飛び込んで、鋤持~(サイモチノカミ)になりました。
ところが、「姓氏録・右京・皇別」には、
「新良貴」という豪族が有り、出自には、『彦波瀲武草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合。』と見えます。
(★ 「姓氏録」は、「皇別」・「神別」・「諸蕃」に大別されますが、「皇別」は天皇家の別れであり、最も厳格な視線に晒されますから、「新良貴氏」は、それに耐え抜いて名を留めたことに成ります)。
つまり、ウガヤフキアエズの息子の稲飯命が新羅に行き、新羅の国主(王)になったと解されます。
新羅の建国開始は、「三国志・辰韓伝」の記述以降であり、最低限、西晋の衰退期か滅亡期ですから、早くても300年前後の建国開始になり、完成が30−50年後と推測しますと、330−350年のころに成ります。
(「晋書・辰韓伝」では、『武帝の太康元年(280年)に王が遣使した。2年にも遣使し、7年(286年)にも遣使した』と見えますが、この頃は都市国家の「斯盧」の時代であり、辰韓を統一した「新羅」の前段階と考えられます)。
ここで、「神武東征」を、290−300年ころのニギハヤヒ天皇神武ではなく、340−360年ころの崇神天皇神武のことだと解釈しますと、つまり、(奈良の御間城に入った彦であるところの、日向から来たイニエの)崇神天皇神武のこととすると、年代的に、新羅の建国と一致します。
(★ (ここで脱線しますが)、崇神天皇の「イニエ」とか、垂仁天皇の「イサチ」という名前ですが、「ニエ(贄)」・「サチ(幸)」は農耕族の名前ではなく、海人族が用いる言葉のように、思います)。
また、ここで、初期の新羅の王族が、九州の日向から渡ったものだとすると、(日向は、アマテラス系列の海人族の根拠地であり、呉系倭人が主体ですから)、新羅も呉系倭人になります。
初期の新羅は、呉系倭人が主体と云われますから、全く一致していると言えます。
(余談になりますが)、
380−400年ころの仲哀天皇・神功皇后(摂政)時代に、新羅が、北九州の呉系倭人を扇動して、大和王権に反旗を翻させ、結果、仲哀天皇・神功皇后の九州出陣になり、神功皇后の「三韓征伐」に発展しました。
また、継体天皇時代の527年にも、筑紫の磐井が反乱を起こしました。これは、(新羅の南下・侵略による朝鮮の任那の窮地を救うために)、日本軍が大軍で朝鮮に渡ろうとしたが、新羅が、(大和王権に不満を持っていたところの)筑紫の磐井を抱きこんで行った妨害工作だったと、云われています。
新羅と北九州は、同じ呉系倭人で結ばれていたように、思います。
C 古代の日本人は、任那を中心に、頻繁に朝鮮を往来していた。
(日本書紀によると)、「倭の五王」の時代から、頻繁に朝鮮の任那を往来しており、日本から派遣された豪族たちが現地で死亡すると、各所に「前方後円墳」の古墳を建造して埋葬しました。(南朝鮮の古墳の建造は400年代後半から500年代の前半)。
また、初期の新羅とは交流があり、百済とは滅亡までの緊密な交流が続きました。
この中で、日本人が、百済や新羅や任那の人々と通訳を介して会話をした記録が有りませんので、言葉が通じた可能性が考えられます。
また、任那が日本の属国状態であったことが、日本書紀に記されていますが、雄略天皇の段(即位七年の第二十五段参照)では「任那国司田狭臣」とあり、任那に国司を派遣して執政させています。
D 百済の王と日本の王は、兄弟だったという、真偽不明の話。
ア) 百済の建国は、謎に包まれており、分かりません。
その中で、高句麗から分派したという建国神話の中の、一つについて、考えてみたいと思いますが、最初に「眉ツバもの」と断っておきます。
(「三国史記」百済本紀の物語の初めに)、
天帝の子供の解慕漱(カイボソ)の一行が「天孫降臨」して、北扶餘(卒本扶餘)を建国した。解慕漱の子供の解夫婁(カイフル)が、東扶餘(迦葉原)に遷都した。子供が居なかったので、拾った子供の「金蛙」を後継者にした。
金蛙王は、河伯(水神)の娘の柳花を娶って、解朱蒙を生んだ。金蛙王の息子の帯素らの7人が、優秀な解朱蒙に嫉妬して、暗殺しようと企んだ。暗殺を予知した柳花が、息子の解朱蒙を逃走させた。
解朱蒙と少数の家来が、北扶餘(卒本扶餘)に逃れた。その王には娘は有ったが、息子が無いので、娘に入り婿して、後継者になった。
王が死んで、解朱蒙が王になり、国名を高句麗と改め、解朱蒙を高朱蒙に改名した(別名に「東明王」とも呼ばれた)。
解朱蒙(高朱蒙)が、子供の「沸流」と「温祚」の2人を生んだ。その後、解朱蒙が東扶餘(迦葉原)時代に生んだ子供の「瑠璃」が引っ越してきたので、瑠璃を後継者にした。
瑠璃王が即位すると、暗殺を恐れた「沸流」と「温祚」の2人は、高句麗を脱出した。百済の地に到着して、弟の温祚が百済王になった。兄の沸流は海岸部の仁川に移動した。
この説には異論が続出し、
「沸流」と「温祚」の2人の父は、高朱蒙の子ではなく、東扶餘(迦葉原)時代の有力者の娘の「召西奴」の連れ子の説。
百済の始祖王は、沸流であり、父は北扶餘(卒本扶餘)王の解慕漱の諸孫にあたる「優台」で、沸流の母親は北扶餘(卒本扶餘)王の娘の「召西奴」の説。
中国の「北史」や」「隋書皆伝」では、百済の始祖王は、東明の後の扶余王の「尉仇台」とする。また『仇台は、初め帯方郡の故地に国を立て、後漢の遼東太守だった公孫度の娘を妻にして、東夷の強国になった』。
仇台は、189年から遼東太守になった公孫度(190−204年の治世)の娘を得て強大になったが、後の魏の明帝が、238年に公孫度の孫の公孫淵を滅亡させ、帯方郡を魏の領土にしたため、(百済)は南方に移動した説。
★ また、高句麗の建国の年代と、百済の建国の年代が、全然合いません。
★ また、「三国史記」は、高麗の17代・仁宗の命令で、1143−1145年ころに完成しましたが、偽書説が強く、あまり信用されていないようです。
イ) 濊族から、日本の王族と、百済の王族が発生した、説。
濊族から扶余や高句麗が分かれた説や、更に、扶余から別れて百済を建国した説が有ります。
これとは別に、濊族が洛東江に侵入して「金官加羅」を建国した説が有りますが、この洛東江は、古代から日本と深い交流が有ったと云われています。
(★ 金官加羅の遺跡の発掘調査により、倭人系ではなく、騎馬民族系が建国した(通説)。
すると、濊族の一派が日本の王になり、別の一派が扶余族を経由して、百済の王になったとすると、日本と百済は、同じ先祖を持つことになりますが、どうなんでしょうか。
ウ) 百済初代王の「温祚」の兄の「沸流」が、日本に来た、説。
(百済の建国開始を300年前後と仮定して、百済初代の王を「温祚」として)、兄の「沸流」が海に入って、日本に渡来した説が有ります。
ソウル方面を船で南下して、対馬暖流に乗れば、九州の西部、あるいは北九州に到達するので、可能性は十分に有ります。
ただ、問題は、300年の以前から大国主などの「出雲族」の王統が続き、ニギハヤヒ天皇神武の皇統に入り、崇神天皇神武の皇統に続いており、百済の「沸流」が入り込む余地が有りません(そのような記録が有りません)。
したがって、「沸流」が来たとしても、歴史の闇に消えたのかも知れませんが、分かりません。
E 今の中国語について。
今の中国語は、古代の中国語では有りません。漢字は古代のままですが、発音は全然異なります。北京語と広東語の違いを見ても、一目瞭然です。
漢民族については、(西晋の滅亡は316年ですが)、異民族が、満州方面やモンゴル方面から押し寄せて、304年の「五胡十六国」時代からの3百年間の動乱で、漢民族の多くが死に絶え、生き延びた人々も南方に押しやられました。
589年に、鮮卑族の隋が中国を統一し、続く唐も鮮卑族であり、漢民族では有りません。
その後も、モンゴルから「蒙古族」が入って「元」を建国したり、満州方面から「女真族」が入って「清」を建国したりして、中国の歴史は動乱の歴史でありますから、正当な「漢語」などは失われてしまったと、思います。
日本人は、国の成り立ちが「呉越系倭人」ですから、古代から「呉語」を使っており、漢字も使いましたから「漢音」や「呉音」の区別もはっきりしており、本来の「中国語」は、日本語に残されているのではないかと、思います。
★ どう思われますか。
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