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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「建御名方と建御雷と蝦夷の相関性」に、ご興味をお持ちでしょうか。彼らは、蝦夷と何らかの関係が有るのではないか、と思っています。
A アマテラスが、出雲を、不法に強奪した。
国譲り神話では、アマテラスが、高天原の支配に飽き足らず、葦原の中つ国までも、単に『欲しいから』という情動に駆られて、不法にも強奪したことが書かれています。
元々の取り決めでは、イザナギが3神を生んだときに、『アマテラスは高天原を治めよ。ツクヨミは「夜の食国(オスクニ)」を治めよ。スサノオは海原を治めよ』との勅命を受けていたはずです。
そして、スサノオは、子供の大国主に、葦原の中つ国を「生前贈与」して、自らは「根の堅州国」の責任者に赴任しました。これらは全て遵法行為であり適法行為です。
ですから、アマテラスが、国譲り神話で出雲を領有する権利は有りません。一方的な侵略行為であり、不法行為です。
B 建御雷(タケ・ミカヅチ)の暴力行為。
「(その6の13)「蝦夷と天香香背男」の、Aアメノカカセオ(天香香背男)は蝦夷だった。」、で述べたように、
高天原で、蝦夷の守護神のアメノ・カカセオをボコボコにした後で、出雲に降りました。
そして、建御雷は、一方的に、『出雲を受け取りに来た。お前たちは荷物をまとめて出て行け』と通告しました。
この理不尽な要求に、大国主と事代主は従いましたが、建御名方(タケ・ミナカタ)は、『信義則に反するから、受忍義務は無い』として、抵抗しましたが、敗れて、信州にまで敗走しました。
これが、記紀神話での記述の要旨だと思います。
C 実は、建御雷(タケ・ミカヅチ)は、建御名方(タケ・ミナカタ)の神霊のことで、同一人物だった。
『建御雷と建御名方が同一人物だった』と言うと、皆さんはビックリされます。
(ア) つまり、建御雷は、イザナギがカグツチを斬った刀から生まれた神です。そこで、「武・御・か・津・霊(ち)」と置き換えると、「武勇に優れた、尊い「か」の霊」と解釈できそうです。
(「か」は、刀とか、鎌、刈る、輝くとかに関係が有りそうですが、解けません)。
(ただ、「天津甕星」は明星のことであり、明るく輝くから、「天・之・身・輝・星」に変換できますから、「甕」は「輝く」かも知れません)。
(イ) また、建御名方は、「武・御名・方」と置き換えると、「武勇に優れた、尊いお名前の方」、それは建御雷のことです。」に解釈できます。
(ウ) そうすると、建御雷(タケ・ミカヅチ) → タケ・ミカ・ヅチ+のカタ → タケ・ミカ・のカタ → タケ・ミカ・カタ → タケ・ミナ・カタ(建御名方)に変換できます。
つまり、「建御雷の神霊(意識)が、建御名方という人間(肉体)に憑依した」のだから、同一人物(霊肉一致)だと言うことになります。
(『そんなのは、単なる「言葉遊び」に過ぎない』、と言われれば、それまでですが)。
D 日本書記の、気になる記述。
(日本書記の「神代・下」の第9段の一書2−2の中で)、
『於是、大己貴~報曰「天~勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐~於二~曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主~、以岐~爲ク導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主~及事代主~。・・・』、と有ります。
つまり、『大国主は国譲りを承諾し、さらに、岐神(フナトノカミ)を、フツヌシ・タケミカヅチの2柱の神に差し出して、道案内をさせた。岐神(フナトノカミ)の先導で、葦原の中つ国を廻って、諸国を平定した。』と解釈できます。
★(もしかすると、道案内をした岐神(フナトノカミ)は、建御名方のことかも知れません)。
さらに、『この時に、従った首渠者(集団の長)は、大物主~と事代主~だ。』とも有ります。
そして、最後には、タケミカヅチは茨城県の鹿島神宮に鎮座し、フツヌシは千葉県の香取神宮に鎮座して、奥州の蝦夷に睨みを利かせている、ということに成りそうです。
E 建御名方(タケ・ミナカタ)が、信州に鎮座した意味。
建御雷と建御名方が同一人物だったと考えますと、別に、戦争に負けて信州に逃げた、とは成りません。
むしろ、逆に、『信州を支配して経営した』、と考えるべきかも知れません。
F 記紀神話は、実は、ひねくれていた。
(記紀神話では)、
出雲で戦いに敗れた建御名方が、命からがら、信濃に逃げ込んだが、建御雷が追い駆けて来たので、土下座をして泣きながら、『信濃からは一歩も出ないから、助けてくれ』、と命乞いをした、と有るようです。
(ところが、建御雷と建御名方の同一人物説で考えると)、
建御雷こと建御名方は、出雲から、(蝦夷の一大拠点であったところの)信濃に遠征して、蝦夷をボコボコにした。
そして、建御名方が、『子々孫々にわたって、蝦夷の脅威を防御するために、信濃を死守する。天地神明に誓う。』、と豪語した。
それを聞いて安心した建御雷は、『よろしく頼みますよ。私は神霊となって、利根川河口の鹿島神宮で、奥州の蝦夷に睨みを利かせます。お互いに頑張りましょう。』
、と云うことになり、(よく有る推理小説のように)、『被害者が、実は加害者側の黒幕だった』、と云うことになりそうですが、真相は、どうなんでしょうか。
G 建御名方は蝦夷だったと云う異説について。
建御名方は蝦夷だったと云う説がありますが、私は、違うと思います。
H 越のヌナカワヒメについて。
建御名方は、通説では、越のヌナカワヒメと大国主の間に生まれた子供とされています。
「越」の場所は諸説ありますが、新潟県の糸魚川に比定する説が有力です。
ただ、糸魚川は町自体が小さ過ぎるので、軍事的・経済的側面から見ると、富山の可能性も有ります。
つまり、四隅突出型墳丘墓が富山市方面にあり、出雲との交流が指摘されていますし、奴奈加波比売を祀る神社も有ります。
また、出雲国風土記には、『ヌナカワ姫の子が美保須須美で、美保に居ます』とありますが、美保には事代主が居たはずなので、訳が分かりません。
(まあ、記紀神話のことですから、『あはは』と笑ってスルーしたいと思います)。
I 信州の、経済的な価値。
米の生産高で見た経済的な価値としましては、信濃の国は、平安初期の米の生産が、約15万石余り有り、大和(奈良県)の9万石弱なんか問題にならないほどの大国になっていました。
(ちなみに、西日本で信濃より多かったのは近江(滋賀県)の17万石弱だけです)。
また、江戸末期の信濃は78万石弱と云われ、西日本では、近江の86万石弱と、肥後の85万石余に続く、3番目の大国でした。
米が必要な日本政府(朝廷)としては、絶対に手に入れたい土地だったと思います。
J 信州の、軍事的な価値。
信州(長野県)は、北東に出れば越後に出られますし、西と南に出れば美濃・尾張・三河に出られますし、東に向かえば関東に出られます。また、東山道を使えば京の都にも出られます。
そして、諏訪の地は、古代の交通の要衝でした。(今の長野市は、古代には、単なる田舎でした)。
軍事的には、経済力を伴う信濃は、重要拠点だったと思います。
K 蝦夷を追い払って、新天地を手に入れるという、国策。
日本が、高句麗や新羅などの朝鮮に侵略されないためには、あるいは「元寇」のように中国に侵略されないためには、国力としての人口増加が必要だったと思います。
古代は自給自足が原則でしたから、日本人に必要な食料は、日本国内で作るより仕方が有りません。
蝦夷が、米などの食料生産に何の貢献もせず、米作り農家の受け入れも拒否するなら、武力でもって排除するのは「国策」としては、やむを得なかったのかも知れません。
(信州が蝦夷の領土だろうと、奥州が蝦夷の理想郷だろうと、関係ありません。日本が、大国の植民地になるのを防ぐための「超法規的措置」だった、と云えるかも知れません)。
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