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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「邪馬台国と大宰府の考察」に、ご興味をお持ちでしょうか。卑弥呼がいた邪馬台国の首都は、今に至るまで特定されていません。そこで、大宰府について考えてみたいと思います。
A はじめに、「倭人伝」は、ウソの羅列で信用ならない。
魏略にしても魏志(三国志)にしても、原本は存在しておらず、写本の一部分がわずかに残されているに過ぎません。
しかも、故意か過失か未必の故意か知りませんが、虚偽の記載のテンコ盛りで、まともに信用することは出来ません。以下、気になる点をピックアップしてみたいと思います。
(ア) 太伯の後か、夏后少康の後かの違いについて。
魏略では、邪馬台国を『太伯の後』とあり、これに従うと、呉の子孫の意味になります。魏志(三国志)では『大夫で夏后少康の後』とあり、これに従うと、越の子孫になります。
私たち日本人にとっては、非常に重要な点であるのに、両者で食い違っており、どちらかが間違っているということになります。実に、いい加減です。
(イ) 伊都国の戸数が異なる点について。
魏略では、伊都国の戸数について、『戸は万余』とありますが、魏志(三国志)では、『千余戸』になっていますが、どちらが正しいのでしょうか。
(ウ) 魏略で書かれていない内容がある点について。
魏略では、伊都国に到着したところで地理の記述が終わっています。魏志(三国志)では、伊都国の後も奴国に続いて、南の邪馬台国まで地理の記述が続いています。
邪馬台国の首都は倭国の一番の核心なのに、魏略が省略しているのはシックリとしません。
そうしますと、比較が出来ないので、魏志(三国志)の記述の信憑性を担保できませんし、そもそも、記述自体が間違っているかも知れません。
(エ) 戸数の記述が信用できない点について。
たとえば、(魏略には見えませんが)、魏志(三国志)の中で、『対馬国には千余戸ある』、『一支国には三千ほどの家がある』、『邪馬台国には七万余戸ある』と見えます。
これを一戸を4人で計算しますと、対馬に4,000人、壱岐に1万2,000人、邪馬台国で28万人になります。
ところが、平安初期の米の生産高では、対馬は2,000石余り、壱岐では3,000石余り、筑前一国で9万3,000石弱、筑後一国で6万4,000石程度です。
1人が1年に1石を食べるとして、対馬で2,000人、壱岐で3,000人、邪馬台国を筑前と筑後の2カ国全部としても16万人程度しか養えません。
しかも、統計は平安初期の記録ですから、(飛鳥時代・奈良時代・平安初期の大開墾の時代以前の)、邪馬台国の当時では、2分の1とか、3分の1とかの米の収量で計算しなければなりませんから、全然計算が合いません。
しかも、前記の(イ)伊都国の戸数が異なっている例もありますから、この戸数計算は、全く信用できないことになります。
(オ) 現実に存在しない記述が有ります。
魏略には『倭の南に侏儒国がある。人の丈は三、四尺』。つまり小人(こびと)の国があると書かれていますが、そんな国はどこにも有りません。
魏志(三国志)では侏儒国のほかにも、『裸国』や『黒歯国』の記述がありますが、日本周辺には該当する国は見当たりません。
B 「倭人伝」は参考に出来ても、全面的な信用は出来ない。
倭人の国(日本)については、紀元後57年には、後漢の光武帝から倭の奴国王が印綬を受けた記録がありますから、早くから日本のことを中国人が知っていたことは事実だと思います。
だからと言って、中国人の記録が正しいとは限りません。間違いも有るでしょうし、悪意ある虚偽も有ると思います。疑って掛かるべきだと思います。
C (内容を変えて)、邪馬台国と大宰府について。
卑弥呼が居た邪馬台国の首都が、どこに有ったかについては、現在に至っても特定できていません。
おそらくは、『(奴国の)南の邪馬台国に至る』のとおり、奴国を「那の津」(博多)と解釈しますと、その南は大宰府であるし、さらに山を越えて筑後平野が考えられます。
常識的には、大宰府が一番適当ではないかと思います。
D なぜ大宰府なのか。それは博多の町が無かったからです。
私たちの多くは、古代の博多を論じるときには、現在の福岡県地図を思い描きながら会話を進めていますが、古代には博多の町どころか博多平野自体が有りませんでした。
古代には、現在の博多平野を流れる御笠川とか那珂川などの何本かの川が有っただけで、博多平野と呼べるようなものは無く、川と川との間に段丘が有っただけです。
そして、その段丘部分に、須玖岡本遺跡だとか、三雲南小路遺跡だとか、板付遺跡だとかが散在していました。
しかも、海岸線は、今よりも遥かに後退しており、大半の平野が存在しませんでした。
E やっぱり、大宰府が妥当な場所だった。
上で述べたように、平野が無く、しかも、大宰府市方面から流れる御笠川は大きく後退していましたから、船で比較的上流部まで行けるので、『大宰府の場所が一番適当だろう』ということになって、「大宰府」が置かれたと思います。
F 現在の大宰府市は永い間、国府が置かれ、九州方面司令部の大宰府も置かれた。
大宰府が有った太宰府市には、大宰府の他にも筑前国府や国分寺も置かれています。
博多の町が大宰府に取って代わったのは、戦国時代からではないでしょうか。
G 博多平野が整備されたのは、江戸時代以降です。
平安末期に、平清盛が日宋貿易の拠点にするために博多港を築港しましたが、ごく小規模でした。
大きく整備されたのは、徳川初期に、黒田長政が福岡に入城して以降のことで、その後、大規模な開墾が行われたと言われています。
H (話をまとめて)、邪馬台国の首都が大宰府に有った可能性について。
以上、長々と、博多の町が無かったとか、博多平野も無かったとかを述べました。
古代の博多の平野部に有ったのは、(海人族の本拠地であるところの)福岡市博多区の住吉神社とか、東区の志賀海神社とかであり、その辺りまで海岸線が広がっていました。
また、(現在の海岸線からは十数キロも内陸部に入り込んだところの)大宰府も、古代には、(今の平野が無かったので)比較的海岸部に近く、しかも、御笠川を船で遡れば、不便さを感じない距離に有ったと思います。
また、戦国時代に入るまでの筑前国の中心地としての国府や、九州方面司令部としての大宰府が有ったことは、合理的に考えて『一番良い場所だった』と思います。
このように考えますと、邪馬台国についても、首都が大宰府に置かれていたとしても、別に不思議ではないし、違和感も感じないと思います。
「倭人伝」の記述に、転記ミスとか虚偽の記載があったとか、省略も有ったと考えるなら、候補地の一つとして、妥当なところではないでしょうか。
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