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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「北九州の邪馬台国」に、ご興味をお持ちでしょうか。邪馬台国については記紀神話は何も触れていません。
触れていないからといって知らなかった訳ではなく、関係なかったか、もしくは、『触れたくなかった』と思います。
A 「倭人伝」は信用ならない。
「倭人伝」の原本は残っていません。何回も何回も書き写されたものが残っているだけです。
ですから、誤字脱字や加除添削が行われている可能性があります。
しかも、「中華思想」の影響から、卑語・蔑称の漢字が盛り沢山であり、内容は悪意に満ちたものです。
(ただ、「倭人伝」は、比較的に早く日本にも伝わり、720年に成立した「日本書記」にも引用されていると言われています。
B 邪馬台国は、北九州に有った。
邪馬台国が北九州に有ったというのは、簡単な話です。「倭人伝」が北九州にしか触れていないからです。
対馬とか壱岐の島とか、松浦とか伊都・糸島平野だとかの女王国に至るまでは詳細な記述があるのに、女王国以降については触れていません。
触れていないのは、張政(チョウセイ)が、女王国以外には行っていないからです。張政そのものは、軍旗を女王に手渡すために来たはずです。
張政は、(魏の朝鮮領であるところの)帯方郡の太守(県知事クラス)の部下の国境警備隊の隊長クラスです。
中級の軍人程度ですから、『日本に行って来い』と言われたら従うだけです。
また、日本の偵察の任務も兼ねていたと思います。
当時の中国の魏は、「魏呉蜀の三国志」の戦争中であり、蜀は諸葛孔明が234年に消えた後は勢いを無くして263年に滅亡しました。
しかし、揚子江南岸の呉は勢いが盛んで、魏と互角の勝負をしていました。
(魏は265年に晋に禅譲しましたが、呉が滅亡したのは280年であり、邪馬台国の記録以降まで存続したのです)。
そんな「戦時中」という時代背景がありましたから、張政がノンビリと邪馬台国を見学する余裕はなかったと思います。
軍旗を手渡したら、早急に朝鮮に帰ったと思います。
C 奈良県の「箸墓古墳」は、卑弥呼の墓ではない。
奈良県の愛好家が、『卑弥呼の墓は(奈良県桜井市にある)箸墓古墳だ』と言っていますが、そんなことは有りません。
簡単な話です。箸墓古墳は全長が280メートルも有るような大古墳であり、しかも前方後円墳です。
ところが、卑弥呼の領地が有った松浦とか伊都・糸島平野だとか博多平野だとかには、1個も前方後円墳が無いのです。
(北九州の前方後円墳は古墳時代以降のものであり、卑弥呼の時代よりも後世のものです)。
つまり、卑弥呼だけが特別に巨大な前方後円墳で、その他の一族や高位高官のものが小さな「盛り土墓」では、辻褄が合いません。
卑弥呼が前方後円墳なら、その他の一族や高位高官のものも、たとえ小さくても前方後円墳になるはずです。それが「祭祀」というものだと思います。
★ また、箸墓古墳は、2百年代の中頃だとの説が有りますが、(それよりも古いとされるところの)、近隣に有る「ホケノ山古墳」は、発掘土器などの調査では3百年代の中頃との説が有ります。
(古いホケノ山が300年代で、新しい箸墓が200年代では、辻褄が合いません。考古学者も頭が痛いそうです)。
D 邪馬台国は弱小国家だった。
「倭人伝」によれば、『女王国の南側に、狗奴国という国があり、狗古智卑狗がいて、女王に服属しなかった』とあります。
これは、熊本県に菊池彦という豪族がいて、卑弥呼の邪馬台国と戦争をしていたという意味です。(通説です)。
そして、卑弥呼では、どうにも出来なくて、魏に応援を求めたからこそ、朝鮮の帯方郡から張政が派遣された訳です。
ここで、たとえば、後の「大和王権」であれば、「ヤマトタケルの遠征」のように、近畿の豪族とか中国地方の豪族とかを派遣して、熊本県の菊池彦をボコボコにしたはずです。
内地からの援軍を求められなかったというのは、卑弥呼の女王国が、熊本県の菊池彦と国境を接する北九州にあった「弱小国家」だったことを証明しています。
(もしも、邪馬台国が奈良県に有ったとするなら、わざわざ魏に応援を求めなくても、「内輪の揉め事」で済ませたはずです)。
E 邪馬台国の国力・軍事力の考察。
邪馬台国の国力・軍事力を推量する一つの手法に「米の生産高」が挙げられます。
(資料の信憑性に欠けると断っておきますが)、平安初期の日本全国の米の生産高は凡そ400万石と言われます。
(1人平均で1年間に1石を食べるとして、日本全国の総人口は400万人と言われます。あるいは600万人いた説もあります)。
平安初期の米の生産高を基に、卑弥呼が領有したであろう筑前一国が9万石、筑後一国が6万石、肥前一国が7万石で、合わせて22万石程度になります。
また、平安初期の壱岐は3千石(推定人口は3000人±か)、対馬は2千石(推定人口は2000人±か)しか有りませんでした。
(ちなみに、江戸末期の米の生産高は3200万石弱で、人口は3000万人と云われていますから、1人1石が当てはまります)。
(ただ、筑前については東側は不明ですし、豊前一国の7万石についても、卑弥呼の領地か不明です)。
対抗する菊池彦の熊本県の肥後一国は、12万石程度と言われますから、邪馬台国の半分くらいだと思われます。
ただ、古代には、米以外の雑穀を主体にし、高カロリーな獣の肉も食べていたと思われます。
しかしながら、大事なことは、飛鳥時代や奈良時代や平安初期には大規模な開墾が行われただろうから、平安初期の米の生産高は、一つの目安にはなるが、それでもって、卑弥呼の時代を推量することは出来ないということです。
ただ、卑弥呼の北九州に対して、菊池彦の熊本県が対抗するだけの力を持っていたとの推量は出来ます。
また、陸戦主体で、菊池彦が、筑後平野を舞台にした白兵戦を行ったなら、菊池彦の方が強かった可能性も有ります。
要するに、卑弥呼の邪馬台国は、その程度の国力しかない「弱小国」だったと言えます。
F 魏の張政が飛んできたのは、呉と菊池彦の同盟の可能性があった(説)。
張政は、正始八年(247年)に、邪馬台国が狗奴国と武力衝突した際に、魏の命令で朝鮮の帯方郡から派遣されたと言われます。
本来、張政が、日本に来る必要性は無かったはずですが、呉と熊本県の菊池彦が同盟したのが原因だ、との説があります。
ここで、当時の中国情勢を分析しますと、中国は「魏呉蜀の三国志」の戦争中であり、魏の強力なライバルが呉でした。
魏は、揚子江の北側を領有しましたが、軍事戦略上、北側の満州方面から襲われることを警戒しました。
そして、魏は、(後漢の地方長官の「太守」で、後漢の後に満州方面を支配したところの)公孫氏と同盟して、北方の脅威を取り除きました。
ところが、呉の方は、魏を南北からの「挟み撃ち」にしようと画策して、公孫氏と同盟した説があり、事実、228年に公孫氏が魏に反旗を翻して、238年に魏の司馬仲達によって公孫氏が滅ぼされました。
このように、魏は、満州方面の動向を極度に警戒しました。
もしも、『呉と菊池彦が同盟した』となりますと、菊池彦が邪馬台国を撃ち破って、日本から朝鮮に逆上陸して、朝鮮半島が日本に押さえられたら、そのショックで満州方面の騎馬民族が呉に味方をすると大変なことになる、との危機感があったものと想像します。
そこで、邪馬台国からの救援要請を受けて、張政の現地視察ということになりました。
実際に日本を訪れると、イレズミをした土人ばかりで、戦術も戦略も無く、熊本県と福岡県の喧嘩のレベルでした。
よって、『長くとどまって調査の必要性なし』ということで、早々に帰国したと想像します。
また、倭国が30くらいに分かれて分立していることも、事前に知っていたと思います。
ところが、『倭国のトップの邪馬台国がこの程度なら、あとは推して知るべし』ということになり、倭国の調査は省略したと想像します。
張政にすれば、自分が担任する(ソウル方面にあったところの)帯方郡隷下の国境警備のほうが大事ですから、長くは留まらなかったと思います。
G 熊本県と呉との交流の可能性。
呉は揚子江の河口に有りましたが、緯度的には熊本県のレベルに在り、海流や潮流を上手に利用すれば、呉が日本を往復することは可能です。
事実、平安時代の遣唐使は揚子江方面の航路を採っていた歴史があります。
★ 熊本県には、呉王の子孫の「松野の連(ムラジ)」の伝承があります。(興味のある人は、ご自分で)。
H 馬鹿にされた邪馬台国。
「邪馬台国」という表記は卑語・蔑称です。「邪」の字には邪悪な・よこしまな・捻じ曲がるという意味があります。
「馬」の字には家畜のような・従属するような・人間に満たないというような意味があり、「台」の字には下僕・高殿という意味が含まれています。
直訳しますと、「家畜のような、人間に満たない、下僕に等しい国」という見方が出来るかも知れません。
I 馬鹿にされた卑弥呼。
「卑弥呼」(俾彌呼)も卑語・蔑称です。「卑」は卑しいという意味であり、「俾」には僕(しもべ)・訪ねる・使役するなどの意味があります。
「弥(彌)」には遠い・過ぎる・経るなどの意味があります。「呼」には叫ぶ・ため息を吐く・名付けるなどの意味があります。
直訳しますと、「遠くに居る、僕(しもべ)のような、卑しい(女王)」という見方が出来るかも知れません。
J 「邪馬台国」でもないし、「邪馬壱国」でもなかった。
女王国の呼び方について、邪馬台国だとか、邪馬壱国だとかの論争がありますが、どちらでもないと、私は思います。
古代日本人の発音は「やまと言葉」であり、「呉語」であり、「訓読み」であって、漢音での発音は無かったと思います。
したがって、「邪馬台国」の「邪馬」は、「ヤマ」であり「山」の意味だと思いますが、これは「訓読み」の発音です。
「台」は「タイ・ダイ」にしても漢読み・漢音です。訓読みでは「ウテナ・シモベ・タカドノ」などと発音します。
また、「邪馬壱国」も同じように、「壱」(イチ)は漢音であり、訓読みは「ヒト(ツ)」です。
ですから、「邪馬台国」という卑語・蔑称の本来の発音は「ヤマタ(ノクニ)」かも知れません。
そうすると、山と山の間に広がった博多平野とか、あるいは大宰府とかをイメージすると、「山・田」とか「山・谷」とか「山・高殿」を意味すると思います。
あるいは、「邪馬壱国」と発音するなら、本来は「ヤマイツ(クニ)」だと思います。つまり、山に「坐(イマス)」の意味ではないかと思います。
自分の国の国名を、卑語・蔑称の意味でもって名付ける民族は、世界中どこにも居ません。
★ 邪馬台国については、「ヤマト」の説があります。これなら山門とか山都とか山戸の字がふさわしいでしょう。
張政は、帰国した後に、「西戎・北狄・南蛮・東夷」という「中華思想」の慣例法に従って、卑語・蔑称の漢字を並べ立てた報告書を提出し、それが後世の「倭人伝」にまとめられたものと思います。
★ どう思われますか。
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