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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「大物主の三輪山王朝」に、ご興味をお持ちでしょうか。実は、「神武東征」以前に、出雲族の「オオモノヌシの王朝」が有ったのではないかと思っています。
A オオモノヌシの三輪山王朝。
記紀神話によると、神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことが記されています。
また、「神武東征」により天孫族が支配し続けた奈良県には、出雲神を祀る古い神社が各所に残されていますが、これらの神社は延喜式神名帳には一位とか二位とか三位とかの破格の神格が与えられており、アマテラス系の神社よりも上位に置かれていて、「歴史のミステリー」と言われています。
(個別の神社名については現存しているため、万一、誤記や虚偽を記載した場合には、名誉や権威にも関わり、後が面倒なので割愛します。各自で調べてください)。
また、オオモノヌシを「大物主」と書きますと、物部氏を連想した「武力の神」を連想しますが、「物」には「物の怪」の意味や、「物申す」の言葉の意味もありますし、「物の道理」という言葉もありますので、多角的な解釈が必要だと思います。
また、「三輪」の地名も後代のものであって、延喜式の出雲国造神賀詞(カムヨゴト)には「大御和の神奈備に」とあり、古事記の崇神天皇の大田田根子の条には「御諸山に意富美和の大神の前を」とあります。
B 大田田根子、「根子」のこと。
ちなみに、大田田根子をオオタ・タネコと読む人がありますが、古事記の崇神天皇の大田田根子の条には「意富多泥古(大田田根子のこと)」とあります。
これを、「大・多々・根子」としますと、大和の国に繁栄した賀茂氏や三輪氏や神人部氏の祖先である根子となりそうです。
(少し脱線しますが、オオモノヌシの子には、加茂の君、大三輪の君、(背矢がホトに立たら姫の娘で、神の矢が)ホト立たら五十鈴姫、などがあった説もあります)。
また、「根子」は7代・8代・9代天皇の別名にも「根子・日子」がみられます。
C 記紀神話の改ざん問題。
また、記紀神話の改ざん問題については、記紀神話は、(紙や墨の風化・劣化やカビ・虫の浸食による耐用年数の問題もあり、後世に残すためには)、その時々の政権によって何回も書き写されており、古事記の現存する最古のものは1371年1372年の足利義満時代に書写された「真福寺本古事記」といわれます。
たとえば、藤原時平が、醍醐天皇時代の延喜元年(901年)に、日本書記から始まる「いわゆる六国史」の完結編である「日本三代実録」を撰上していますから、それまでの六国史の編集にあたっては、その時々に記紀神話を見直していると考えるのが当然だと思います。
(改ざんの根拠としては、古事記の「序文」は平安時代に付け加えたというのが学者間の「通説」。古事記・日本書記・風土記・先代旧事本紀・古い神社の伝承などが相互に食い違いがあり異なっていること。古い氏族の系図と食い違いがあるなどが挙げられます)。
また、日本書紀は官製の記録書ですから、改ざんは言うまでも有りません。(現存する様々な古文書でも、朱を用いた加除添削を目にしますから、次に書写するときには、書き換えてしまうのが当然です)。
D 「三輪王朝」と、「三輪山王朝」のこと。
「三輪王朝」とは崇神天皇や垂仁天皇らの王朝のことだ、いや「欠史八代」のことだと云っていますが、私の云う「三輪山王朝」とは、「神武東征」以前に有った「オオモノヌシの王朝」のことを云っています。
(注) 「欠史八代」は実在しなかったとの説がありますが、そんなことは有りません。たとえば、7代の孝霊天皇は中国地方の「楽々福(ササフク)」に事跡を残しています。「欠史八代」の事績は後世に都合が悪いから削除されたと考えられます。
E 「大国主の王朝」のこと。
「大国主の王朝」については、奈良県を大国主が支配したことは明確にされていませんが、越の国のヌナカワヒメとの恋愛や、稲羽の八上姫との恋愛や、伊予での少彦名との国造りの物語もありますから、西日本を支配した大王だったと思われます。
(大国主の子供とされる事代主やアジスキタカヒコネなどを祀る神社が奈良県の各所に点在し、延喜式神名帳にも記載されていることは歴史的な事実ですから、大国主の存在を無視することは出来ないと思います)。
また、大国主について特に注目すべきは、「播磨国風土記」の飾磨郡の条でありまして、『火明命の怒りによって、父神大汝命の船が破られたときに・・・』の記録が残されています。
(この「火明命」とはニギハヤヒのことではなかろうかとして、研究者の間で注目を集めています)。
オオモノヌシと大国主の関係については、記紀神話にありますように、大国主の国作りの途中で少彦名が去って嘆いていると、海上から光が現れて、『私を倭の東の御諸山(三輪山)に祀れ。』とありますから、大国主とか子孫の出雲族が三輪山のオオモノヌシを崇拝したと思われます。
また、(出雲神であるはずの)大国主を主祭神とする格式の高い古い神社が奈良県の各地にあるのは、歴史のミステリーと云えます。
F 「ニギハヤヒの王朝」のこと。
「ニギハヤヒの王朝」については、一説には、神武東征の前にアマテラスから十種神宝を授かって東征した説もありますが、謎の多い人です。
この子孫には、尾張氏や物部氏を代表として多くの氏族が繁栄しました。
また、Aに述べた通り、神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことは歴史的事実のように思われます。
G オオモノヌシの正体
オオモノヌシの正体については、蛇だとか大国主の分霊だとかの諸説がありますが、私は、大国主の父神のスサノウの大神、あるいは国祖の国常立大神の分霊ではないかと想像しています。あるいは大国主(別名が宇都志国玉神で、実は天津国玉神と同じ神)の霊も含めた古代日本の建国の神々の総称名を云うのかも知れません。
H 人間は、神が地上に降臨したものという世界観。
記紀神話では、イザナギとイザナミが国を産んだり、神を産んだ記述は有りますが、人間を産んだ記述は有りません。(ただし、記紀の中には「青人草」という表現があるようです)。
旧約聖書では、神が人間を作ったという記述がありますが(「創世記」の第1章の1の27あたり)、その点が記紀神話と全く異なります。
つまり、日本神道の考え方としては、天上(高天原)の神々が地上に降臨したものを「ミコト」と呼び、特に重要な者を「尊(ミコト)」と尊称し、一般の者は「命(ミコト)」と区別しているように思われますが、その区別は必ずしも明確ではありません。
ですから、「神」と表記されている者は、一般に、降臨して地上活動を行っていない存在だと私は解釈しています。
また、男子は「比古・日子」などとし、女子は「比売」などと表記しますが、特に重要な存在は「毘」を用いて「毘古・毘売」などと表しているように感じられます。
I 豪族の伝承神話と記紀神話の編纂。
(各々の神々が人間として地上に降臨したところの)各豪族には、それぞれに先祖の神話が伝承されていました。
ところが、日本が中国の唐から律令制や唐文化を導入するなかで、日本も唐に倣(なら)って、国家としての統一された一冊の歴史書を作ろう、天皇家を中心とした歴史書を作ろうということになって、国家事業として歴史書の編集を行った。それが記紀神話だと思います。
豪族たちに伝わる先祖の伝承を、稗田阿礼を中心に編集し直して古事記にまとめ、国の歴史書としては、舎人親王を中心に日本書記を編集し、それらを総編集長の太安万侶が加除添削を行い、その最終決裁者として藤原不比等が監督していたのではないか、と私は想像します。
中臣氏(藤原氏)は、中央政界に君臨した最も古い豪族の物部氏に近く、しかも祭祀を取り仕切る家系でしたので故事に明るく、また、藤原不比等は当時の中央政界の実力者でしたから、豪族間の調整役も出来たので、総責任者として記紀の編纂にあたったと思います。
(注) 藤原不比等、(659年-720年)。不比等の娘の宮子は文武天皇の夫人で、孫が聖武天皇。不比等の別の娘は光明子で聖武天皇の皇后。4人の男の子は「藤原四家」。古事記の編纂は712年、日本書記の編纂は720年。
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