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トランプ的無茶への対処法は9世紀に空海が教えてくれてた。
ブログというのは一回に読んで貰える分量が限られていて、かつ初めましての方向けに前提条件をあまり置かずに書かないといけないので非常に限られたことしか言えないため、最近毎回のブログに追加して「さらに長文読める読解体力がある人限定」に、「こぼれ話」というものを作ってるんですが。
前回の「こぼれ話」が本編以上に好評で、胸が熱くなったとかプリントアウトして何回も読んだなどと言ってもらえて嬉しかったので、「アゴラ」と「ハフィントンポスト」向けに・・・・
つまりはそれなりに長い文章でも読めそうな人に出会えるだろう媒体向けだけに、再構成してアップすることにしました。
トランプ大統領がどんどん「本領発揮」しはじめて、「まあ実際大統領になったら"ソレナリ"になるだろう」と思ったら全然そうじゃなかった!!という誤算に世界中が恐々としている時代です。
トランプ大統領本人が厄介なだけじゃなくて、彼を取り巻く「トランプ賛成」な人と「トランプ大反対」な人たちとの間の人類的分断がどんどん大きくなって、お互いを徹底的に攻撃しあっているのはいいが、「両者をつなぐようなコミュニケーション」がむしろどんどん排除されていっていくような状況に対して危機感を感じておられる人も多いだろうと思います。
トランプ大統領界隈が色々と「嘘」を言うのは折込済みなんですが、数は確かに多少トランプ側よりも少ないかもしれないが、過去一週間に「反トランプ側」にいる人が流す情報にも色々と「え?あれデマだったの?」と後から分かるものも結構あって、なんか「おいおい反トランプ側まで引っ張られて一緒に"良識"を失ってっちゃったら、みんなが困るだろーが!」と不安になってきます。
ここでむしろ、
「っていうかまず落ち着こうぜ!!」
という毒にも薬にもならない立場が大事なんじゃないかと、これはナアナアに誤魔化してしまおうというわけではなくてむしろ積極的かつ真剣にそう思います。
しかし・・・
こんなことを言うと、特に「反トランプ」の立場を真剣に生きておられる人には許しがたい呑気さだったり、「不作為の罪」みたいなものに見えるかもしれません。
そう思う人にとってみれば、今回の記事全体がそういう「不作為の罪」に値する、「人々の無関心がナチスの台頭を許した」型の「吐き気を催す邪悪さ」であるように思えるかもしれない。
ただ私がこれを読んでいるあなたに是非考えてほしいことは、そうやって「トランプ陣営の嘘を暴く」「トランプ陣営によって抑圧されるマイノリティを助ける」・・・そういう「攻撃的な対処」とは別に、
「トランプを深く深く支持している人たちの気持ちを理解し、トランプとは違うやり方でそれに応えていく」という対処の方法もあってしかるべきだし、それこそが本当の「根治療法」なはず
なのに、なかなかそういう動きが欧米では大きくなっていかない(ないわけはなくて散発的に聞こえてくるんですが、"攻撃的対処"があまりにも声が大きいのでかきけされてしまっている)のはやはり大問題であるように思われるということです。
個人的に私は、(特に任期後半は)オバマ大統領の大ファンだった人間で、選挙結果が出た時も実際に大統領就任式があった時も、なんか黒い雲にゴゴゴゴゴと覆われてしまうような不安に襲われたりした人間です。
だから「反トランプ」の人の気持ちは超わかる。
超わかるんだけど、わかるからこそ、だからこそやっていくべき対処の方向性ってのがあるはずで、で「思考のパターン、クセ」として欧米人には「攻撃型の対処」の方がやはり習い性的に大きくなるのであれば、東洋人たる我々こそ、前述した「根治療法」的なムーブメントの基礎固めぐらいはできたらいいんじゃないかと思って、以下に再掲する前回の「こぼれ話」を書きました。
それは「一神教的な裁きのありよう」が現地現物的な社会の末端で不具合を起こしている現状を補完するための「思考法」で、実はそれを平安時代初期に弘法大師空海が「こうあるべき」と明言している世界観から出てくるんじゃないかという話です。
(写真は2015年の正月に大雪の中訪れた、高野山の"根本大塔")
「こぼれ話」本編で詳しく述べるように、これは「欧米的世界観」のある種の立場から見ると非常に"邪悪"に見える(戦国時代にイエズス会の宣教師が空海について非常に邪悪な人物だと言ったという話があるそうです)んですよね。
(ただし"裁くなかれ"と言ったキリスト本人はむしろこっちに近いと勝手に思ってるんですが)
でも私個人の生まれ育ちの中にこの「空海のメッセージ」は明らかに生きていると感じるし、多くの日本人の人たちの、「欧米的価値観」からすると愚かしさとしか呼べないような性質(しかしそれこそが彼らの美点を支えるものでもある)の中に、この「空海のメッセージ」は含まれているだろうと感じています。
今までの国際社会の欧米的価値観の中で「邪悪さ」として排除され続け、その価値観に別に反対したいわけでもないんだが、しかしどうしても自分の心の底で疼くものが残ってしまうんだよなあ・・・
というあたりにこそ、世界が「トランプ的な2つの極論の罵り合い」に落ち込んでいく中での、「本来的な希望のタネ」であると私は信じています。
ちょっとわかりやすい例をあげると、最近小田原市で「生活保護なめんな」というジャンパーを職員が揃いで作って仕事をしていて大問題になりましたよね。
でね、「ちゃんと必要な人に生活保護が行き渡るような制度運営にするべき」という「良心派のゴール」は決して曲げてはいけないと私も考えているんですが、それはイコール「ジャンパーを作った職員の気持ち」を理解しなくていいということではないはずだと私は思うわけです。
実際にあの仕事をしている友人がいて話を聞いたことがあるんですが、普段自分の身の回りには対象者がいないことが多いだろう普通の人の想像を絶するようなタイプの人に時々出会うそうです。
で、数は少ないだろうけど、明らかに不正受給的なことをしている人が、露悪的に侮辱してきたりすることもあるらしい。
そういう状況下で仕事をしている彼らに対して、まず「その気持ちはわかるでぇ」から入ることがメチャクチャ大事なはずなんですよ。
その上で、"気持ちはわかるけれども"、実際に全体の中の比率で言えば極少ない不正受給に目をつぶってでも助けないといけない人が今はいる時代なんだ・・・というメッセージを出せるかどうか。
そうすれば、
・「勤労者との間の不公平感が出ないようにするにはどうしたらいいか」
・「不正受給を減らしつつ、本当に必要としている人がちゃんと受け取れるような雰囲気作りはどうしたらいいか」
といった問題に対して「ジャンパーを着てる人たちの気持ちと意志と現場感」をも動員して一緒に進んでいくことができる。
大小どんな組織を動かす時でも、大きな理想は常に「現場の良心さん」に対して「納得感」を持ってもらえる方向性や話の持って行き方にしないと、「不服だけど押し切って」実行してもその「不服さ」は永遠に残り続けていずれ暴発してしまいますよね(現場にいる人全員に納得してもらう必要はないしそこは最後は押し切ってしまうべきだが、その現場の彼らを黙らせてくれるキーマンにだけはちゃんと意義や大きな目的ごと理解してもらう必要があるし、そのために"彼らの言葉・彼らの関心"の延長に位置づけていく配慮が必要になる)。
ってこんなこと書くと当たり前すぎることのようですが、たったこれだけのことすらできてない現状がありますよね。
むしろジャンパーを作った人たちに対して「これだから野蛮な後進国のジャップ土人どもは困るよねぇ!!」的なエネルギーがギャンギャン唸りをあげて世間を飛び交っている。
そこで「裁き」から入らないようにできるかどうか。
そこで今はナチュラルに無意識的に垂れ流されている彼らへの侮辱や蔑視を辞めることができるかどうか。
それが今問われているのだと私は感じています。
結果として同じことをやるんでも、「ジャンパーを作った彼らの気持ち」を想像すらせずにバコーンと断罪して進むなら、そのタイプの文明に対して「我がこととして参加する気持ち」を持ってくれる人はどんどん減っていき、いずれ何年かたったらトランプ現象とか、イスラム国みたいな形で「はじき出してしまったものがまとまって復讐してくる」現象から逃れることはできなくなります。
日本人にとってわかりやすい「具体例」で述べてみましたが、とにかくありとあらゆる社会問題から、ありとあらゆる日常会話やネットでのやり取りにいたるまで、「この回路」が作動しはじめない限りは、我々は一日過ごす度にさらにお互いのことがキライになり、トランプ信者は反トランプの人を、反トランプの人はトランプ信者を、果てしなく憎悪していくことになるでしょう。
これの解決のためには、そもそも「欧米人的に人工的な"個"という概念」とか、そういうレベルで現代社会の基礎になっている意識のありようみたいなものから捉え返していくことが必要だろうと思っています。
とか言うと「個は常に全体のことを考えて奉仕せねばならない」的に非常に「全体主義的」なことを言ってるようですが、そうではないんですね。
この前「"逃げ恥"が教える本当の自分らしさという記事」を書いた時に触れたような話に近いんですよね。「個」という"枠組み"ではなく「本当の個自体」に着目しなくてはいけない時代なんですよ。
「俺は俺、君は君、一切交わらないのが本来のあり方!」という前提を一応は尊重しつつ、「なんか情にほだされて共感しちゃうわぁ」とか「なんかその気持わかるわぁ」的に「個・同士が勝手に混じっちゃう」のも「自然なありよう」で、それを全拒否にし"なくてはならない"というのは、それが好きな人はそうすればいいけどかなり「無理」してる部分もあるわけです。
他にも、なんとなく共感しちゃう自分。
言語的に把握してる自分の気持ちとは裏腹な気持ちが渦巻いている自分。
嫉妬したり落ち込んだりする自分。
その「千変万化する感情の流れ」を「あるがまま」に尊重するのが本当の意味で『個人主義』だとすると、それは「欧米的な意味での"個"の枠組み」ですら窮屈になってしまうような境地にこそ「本当の個人の尊重」は見えてくる。
真剣な話、むしろこういう対処を真剣にやらずに"人工的な枠組み"を世界中にゴリ押ししようとするから、反発した生身の感情の行き場が失われて暴走することで全体主義ムーブメントが起きるんですよ。
人工的に作り上げた「決して混じり合わない個という幻想」がはじき出してしまったエネルギーの行き場がなくなって暴走をはじめ、誰の幸せにもつながらない形で結集してしまったものがファシズムなわけです。
だからこそ、どっちが善だとか悪だとか、どっちが倫理的に上か下かとか、欧米的システムが根っこのところで抱え込んでしまっている仕組みを超えたところから「空海の立っていた地平」から全てを丸呑みに再構成することが必要な時代なんですよね。
あまりに大きな話なので、ブログ一回で具体的なレベルまで述べ尽くせるとも思ってないですが、しかしこの文章に何かピンと来たようなあなたはぜひ最後までお読みいただき、あなたの人生の中における「善悪を超えた大欲の世界」について考えてみていただければと思います。
では以下、「こぼれ話」本文です。
2017/01/16 01:25
全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して・・・・あえて京大受けてみると人生変わるかも?という話(17年1月16日)のブログこぼれ話
この記事は、表のブログの17年1月16日の記事(あえて京大受けてみると人生変わるかも?という話)のブログこぼれ話です。
こぼれ話ってなんだ?という場合には初回のこの記事を参考にしていただきたいですが、一言で言うと、ブログって読んで貰える文字数制限も厳しいし毎回あらゆる人向けのウォームアップから始めないといけないので、込み入った文脈を積んだ先でやっと言えることみたいなのが全然書けないために、既にブログとしちゃ相当長い表ブログを読んでさらに読めるインテリ(笑)の人向けだけの「氷山の一角よりもさらに下まで」掘り下げる記事を追加していこうという趣旨です。
今回は「全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して」みたいな大仰なタイトルを付けてしまいましたが、これは「こぼれ話へのリンクを踏む」ようなタイプの読者のあなたにはぜひ聞いてほしい話なので、いつもより無料部分を長めに掲載しておくので、今このページを開いておられるご縁を信じてそこの部分だけでもぜひ読んでいただき、あなたの中で長期的な「野心」や「勇気」につなげてほしいと思ったりしています。
では以下こぼれ話本文。
・
今回の表ブログで、「行方不明的ヒッピーも国際弁護士や中央官僚もベンチャー起業家も、並列的なそれぞれの生き方の一つ」という感覚を維持していたいと思っているのが「京大らしさ」っていう話をしました。
勿論そういう「理想」はだんだん難しくなってきている時代ではあるものの、しかしこの発想自体は非常に「日本文明の良い部分」を表していると私は思っていて。
単純にまず中国や韓国と比べると、別にディスってるわけじゃなくキャラクターの違いとして、彼らの「席次」や「順番」に関するコダワリのレベルは呑気な日本人とは全然違いますよね。よく言われてる、日本は天皇が一緒になって田植えする神事があるが、中華文明では貴人は決して下々に混じって労働することはありえず、そういうことをするとむしろ軽んじられる・・・というような「性向の違い」がある。
上記で書いたような「京大イズム」というのは、そういう意味で「中華文明と島国日本を分ける根幹的な部分」だろうと思っていて、かつグローバリズム自体と、中国の国力伸長の影響によって日本の中から消えつつあり、だからこそ過剰にアレルギー反応みたいな暴発をして彼らとの間の相互対立のあらゆる火種になっている問題の根っこにある性質なんじゃないかと私は思っています。
この中国韓国(中華文明圏)との違いはまた後で掘り下げますが、同時にこれの欧米社会との違いについて述べると、欧米社会では「知識人の枠組み」がもっと強固なので、「認証された知の範囲」と「それ以外の有象無象」がもっと厳しく峻別されているところがある。勿論常にその秩序はオープンシステムによって揺らされ続けるダイナミズムがあるという彼らの美点はあるものの、その場合非常に不可避的に「無駄に”アンチ権威”ぶる」ようなことが必要だったりする。
つまり「体制側」か、そうでなくば・・・となった時には「アンチ体制側」に論理的帰結としてなっちゃう。この言い方は欧米と日本の特徴を述べるにあたってちょっと直観に反していて、というのは勿論「高度な議論としての是々非々のポジション」を位置づける力は欧米の方が日本と比べ物にならないレベルであるんですが、問題はその”知識人同士の冷静に閉じた茶話を遠景に大衆レベルから見て大河のような感情のウネリの中で見た時”には、中間のいい加減でなあなあでその日暮らし的なポジションの居場所が彼らには薄いというかほとんど排除されてしまっている。
で、そういうのが行き過ぎると、ありとあらゆる有権者が「マスメディアよりもよくわからんネットニュースの方が信頼できる」とか言い始めちゃう誰のためにもならない社会になったりする。(そうなるのと、日本みたいに”まあ大新聞さんが言うんやったらそうなんちゃうの?”とかいう呑気なオジサンオバサンがまだまだ一定数常にいるのと、どっちが”真実”をちゃんと社会に安定的にビルトインしていくために”良い仕組み”なのかは一概には言えないと思います。まあ日本の方が良いとまで言うつもりは全然ないですが)
つまり「今の社会の内側からはみ出してるものを内側に繰り込むシステム」を社会の中に仕組み化する時に、「個と集団」「権威とアンチ」を分別的に扱いすぎて、その「外部から内部への繰り込みの動き」が常に過剰に「革命ムード」を演出しないと成立しないようにしてしまうと、その本来の機能を例えば「1単位」果たすために、それに引きずられて社会全体の秩序が危機に瀕するところまで行ってしまう。
結果としてその「社会の外側にあるものを内側に入れ込む」仕組みを10単位や100単位単位で動かすことができなくなる・・・というような致命的欠陥を抱え込むことになる。社会はどんどん二項対立的分断から逃れられなくなってゆく。
「閉じた知的システム」の隔絶性を確保し、その「外側にあるノイズ」を排除し続けられてきたこれまでの歴史においてはそれでも機能した(しかも平時の日本においてなんかより圧倒的にスムーズに)んですが、だんだんその「知識人の閉鎖的議論」を「ソレ以外」と隔絶させるための「一線を共有する気分」まで「革命気分」でグダグダになってきてしまった現在においては、最初の段階で決然と分離しすぎた問題が後々にボディブローのように効いてきて身動きが取れなくなってしまうわけです。
そこが「VS(対立関係)」にならないように、ある意味でナアナアに、でも革命的な部分は決して消さずに、地続きに成立するような、そういう「人縁の繋がり」を醸成していくことこそ、今の日本が必要としているもので、さらに言うと「今の日本が必要としている」だけでなく、まあ夜郎自大なことをいうようだが、「トランプvs反トランプ」「欧米vsイスラム国」の二項対立を超える時に世界が「ヒント」として貰えるような価値があるんじゃないかと私は考えているわけです。
そういうところに、「愚かしさをも丸呑みにする日本的知識人」の歴史的使命ってもんがあるんじゃないかと。
例えば明治維新とかね、ある意味で「ナアナアさの極地」みたいなところで、でも一気に「みんなのための改革」が実現したりしたわけじゃないですか。特に「廃藩置県」とか、なんであんなことがスムーズにできるのかわけがわからない。勿論それは「付和雷同型で自分というもんがない腑抜けな日本人の駄目な性質」によるんだとか、当時の国際政治のバランスとして自然な結果で別にスゴイことじゃないとか言う冷笑的な議論も可能かもしれませんが、しかしそこがエンエンと内戦になって誰のためにもならないことになった国も歴史上には沢山あることを考えると、「あれができる可能性」を閉じずにいるルートの可能性をやはり追求して生きたいように私は思ってしまうわけですね。
「知に働けば角が立つ。情に棹せば流される」的な「夏目漱石の悩み」に日本の中のインテリは明治維新以降悩み続けているわけですけど、大げさに言えばその「常にリアルに自分の中にある問題」について「馬鹿馬鹿しい非文明的野蛮民族だからほんと困るよね」で終わらせていいんだろうか?というところから自分の人生を立ち上げたいと思っているわけです。
別に非難したいわけじゃないが、ここ数百年の人類の歴史を考えると、「欧米的な個や知の枠組み」が一気にデファクト化した時代以降、あらゆる人が「それを扱いかねる」ことで、世界中に戦乱や混乱や支配・被支配のシステムが吹き荒れる結果になったところがあるわけですよね。
未だに、「欧米的文明のありよう」の余波が常にその社会の安定性をゼロベースに突き崩してしまうために、マトモな政権の安定すら不可能になって逆に無茶苦茶な独裁政権の支配でなんとかモタセテイル・・・という地域も世界には沢山あります。
繰り返し言うけれども、これは「欧米人を批判」しているんではなくて、「無邪気に彼らの文明を無誤謬的に称揚してると、彼らの文明の”自然的内側”にはない国では現実的にひどい不具合が起きることがある」ということを前提として対策を考えていかないと、この世界から「いっそ自由主義の良い部分も含めて全部排除しちゃおうというムーブメント」はむしろ強烈に湧き上がってくる可能性があるぜということが言いたいわけです。
彼らが理想化して述べている個人の自由やチェック&バランスの仕組みや、その他のあらゆる理想を否定したいわけじゃなくてむしろほんとそれがちゃんと機能する日本社会にしていきたいと思っている。そりゃこっちは毎日その内側で生きてるんやから切実でっせ!
しかしそういうシステムをどうやって「非欧米社会」に無無理に着地させるかということに真剣になって考えれば考えるほど、「個人の自由や客観的に認証された知性への全権移譲のようなものは、無料で簡単に手に入るもんではないぞ」ということについて真剣に考え、社会の中での「納得感の醸成」について特別に配慮された算段を必死に積み上げていく必要がある。
今まで欧米社会は「欧米社会が持っている征服されずに自然につづいてきた安定性」によって「欧米文明が持っている自己批判性」が本来の目的を超えたレベルに過剰化して秩序が崩壊寸前になるようなことは免れられたし、その間は非欧米国がいかに「因習にまみれた批判を許さない閉じた社会か」を上から目線で批判していればよかったが、いざ欧米社会自体の「特権的自明性」まで掘り崩されるご時世になってみると「あんたらも結局おんなじじゃん」的危機が世界中で巻き起こりつつある現在、「夏目漱石の悩み」に常に常に常に日常的に向き合い続けている「日本の知識人の苦労」が、単なる「野蛮的後進国の人たちは大変だねえ」じゃなくて、人類にとって世界史的意義のある「取り組むべき課題」として今後フレームアップされるべき時代の流れがあるだろうと私は思っているし、だからそういうのベースで「やれること」を積み上げていようと思ってこの10年ちょっとを過ごしてきました。
・
で、「愚かしさを丸呑みにする日本型知識人」て何なんだ?という話をより深く考えてみると、これって要するに、「欧米社会」や、「学歴的な序列感が無誤謬的に通用する中華文明圏」とは違って、日本社会において「インテリ」であろうとするということは、常に「そこら辺のオッサンオバサン」との「同じ目線の共有」を強いられるし、だから「自分の中にビルトインしていく客観的に認証された記号的な知性の体系」と「自分自身のあまりにも生身な日常生活」との間の矛盾をごまかすことなく、常に「どこまでも液状化した本能」と「記号的言明」との間の「弁証法的関係」に揉まれ揉まれ続けながら自分というものを形作っていく必要があるんだ・・・というふうに言えるかもしれない。(京都学派!っぽく言うとね)
はっきり言ってこういうものは、日本以外の多くの国において、欧米社会でも中華文明圏でも(というか当の現代の日本社会においても!)、「愚かしさ」と名付けられるものソノモノみたいなところがあるように思います(笑)
だからこういう「性質」を徹底して拒否したいとあなたが思っていて、むしろ日本社会の今の駄目さの根幹的なものだと考えていても全然オカシクない。というかマジで俺もそう思うぜ!!!・・という気持ちも嘘偽りなくあります。
現実的な個人の生活においては、客観的に認証された現代的知性の運用によってホイホイ進められるべき要素が社会の中で滞りなく動かせるようにしていくことは超大事なことなんですが、同時に、「自分がそれだけを考えて生き、同僚もそれだけを考えて生き、あらゆる社会の中のオッサンオバサンが同じように考えて生き・・・」た時に生まれでてくる「総体的なムーブメント」が、キリスト教社会の人が無邪気に「神の見えざる手でなんとかなる」とか言っちゃえるほどには全然そうならない・・・という問題があったりする。
「神の見えざる手的な調和があるはずなのに全然そうならない問題」については、やはり欧米社会の方がまだマシである場合が多い。繰り返すようですがそれは彼らが我々より賢いからではなくて、彼らの文明がとりあえず自明的惰性的延長を生きることが他の地域よりもできているので、「おばあちゃんの知恵袋的な配慮」が他の地域ほどには破壊されていないから・・・というだけなんですよね。
そういう現在の世界史的状況を生きている我々日本的知識人がですね、自分の中の「愚かしさの半身」を呪うだけに終わってはたしていいんだろうか?ちょっともったいなくね?というところを突破口にしたい。
日常的には、「こういう自分のアホなとこって嫌だなあ」と思いながら、知識人風にサクサク生きるべき部分では積極的にそうしていこうとするのはいい。そして、現代を生きる知識人のある範囲までの人間が、過剰に液状化した愚かしさに足を取られずに、欧米的なシステムの延長でサクサク生きることを選択する自由も尊重されるべきだし、そういう人たちの奮闘によって現代社会の滞りない運営も支えられているわけではあります。
しかし、「インテリの範囲内」の人間は完全にそういう「性質」を持って生きていて、「その範囲外」に生きている人間との”共感関係”が一切途絶してしまった社会において、じゃあその「デジタルに固定的な入れ物が取りこぼした、どこまでもドロドロに液状化したエネルギー」をどうやって社会の中に還流させていけばいいんだ?という問題が喫緊の課題となっている現代の世界の現状の中では。
むしろ積極的に「愚かしさの塊を自分の中から排除せず、それも自分の一部だと思って生きる」ことを引き受けて、できればさっき書いたような「京都学派的弁証法」的なムーブメントを迂遠なようでも自分の中で常に持とうとし「揺れ動き続ける自我」を持つことの価値が、今後絶対的に世界人類の新しい一歩としての貢献を生み出す可能性が必ずあるはずです。
・
そういう余計なことを一々考え続ける(というか”生命レベルで抱え込み続ける”)ことの「価値」は、結局実践面においては単に「非知識人への知識人による呼びかけ」において「配慮が行き届く」というだけの話かもしれないですけどね。でも”それだけ”でも物凄く大事な進歩だと思います。
例えば最近、ハリウッド女優メリル・ストリープさんが、ゴールデングローブ賞のスピーチでトランプ大統領への批判演説をしてて、それがスゴイ「最高の名演説だ」ってネットで話題になっていました。
で、嘘でなく本当の気持ちとして、その演説を聞いて熱くなる気持ちを私も持ってるんですよ!持ってるんだけど、演説の中で唐突に(ほんと唐突に)フットボール(アメフト)と格闘技(プロレス?)をディスって、いわゆる「アート」を称揚してるところがあって、そういうところでなんか一気に夢が冷めちゃうっていうか。
私は毎年スーパーボウルの時期に特別ブログをあげるぐらいアメフト見るのが好きなので↓。(今年もやりたいと思ってます)
単なる「配慮」の問題だけじゃなくて、やはり「社会の中でマトモなもの」と「それ以外」が過剰に峻別されてしまう世界観で全てが組み上げられているから、どれだけ「他者への寛容」を目指しても、ナチュラルに相手の感情を傷つけてしまったりするんだなあ・・・と、「演説の他の部分に感動したからこそ余計にオイオイ!と思った」ところがありました。
私の著書の中で紹介したことがあるんですが、弘法大師空海が数ある仏教のお経の中でこれが超サイコー!と言ったお経に「理趣経」というのがあるんですが。
これの解釈書をライバルの最澄さんに見せるかどうかで仲が決裂したとか言うほどのお経ですが、今ならネットで検索すれば全文現代語訳がすぐ読めます。
全体的に、「善と悪とか、良い悪い、知性と愚かしさ・・・といった区別は小賢しい狭い範囲での人間の見方の問題であり、菩薩的に完全に徹底した境地から見れば全てが”よい”もので、それが全体として相互作用していく総体の中に我々は希望を見出すべきだ」みたいなメッセージだと思います。
狭い範囲で無理やり押し込めようとするから善と悪や知性と愚かしさに見えてしまうので、むしろ「それを丸呑み」にしていった先に「善用」しきってしまうという「大欲」を持って望むなら、それが本来の機能を発揮して人間社会は希望を見いだせるはずだ・・・という観点でしょうか。
というか、現代語訳を読むと、大昔の人が書いたのにこんなに「フワッとした”寓話”でなく”理屈的言明”として通用する明晰さ」があるお経ってスゴイな・・・と素直に感服してしまいます。
これはある意味で「神の見えざる手」の東洋バージョンと言えると思いますが、その寄って立つ土台が一神教でなく仏教なので、より「欧米社会では外側にはじき出されてしまうようなタイプの”悪”や”愚かしさ”にまで包含しようとする意志」がある・・・と言えるかもしれません。
過去に欧米系の現代人と何回か議論した経験で言うと、私の話が「こういう領域」に入ると、なんか大げさに言うと結構「メチャクチャ無責任な化け物が出てきた」のような不気味さを感じさせてしまうことがあったりするようです。「不気味」でなければ「不快」に思われたり単に呆れられたり色々するけど、あまり肯定的な反応が帰ってきたことはない。というか語学的問題もありつつ「ちゃんと理解された」感じになったことすらあまりありません。大陸欧州人に比べて英米人には理解者がたまにいる感じもしますが、それは結局全然違うイメージをお互い持ちつつ勝手に理解しあってるつもりなだけかも?という予感もちょっとします。歴史的なタイミングが満ちるまではあまりうまく相互理解できないタイプの問題なのかもしれません。
こういう性質の欧米でのカウンターパートは「アナーキズム」だと思いますが、理趣経の特徴は「アナーキズム」や「反体制主義」ですらないところで・・・・例えば「アナーキズム」は「あらゆる政府的な統治の仕組みに反対する」という「特定の言明」を含むわけですが、私が考える理趣経的境地というのは、さっきちょっと書いた「大新聞を盲信してるオッサンが一定数いることにも現実生活上の価値ってあるよね」みたいなものも含むので、「アナーキズム」ですら全然ないわけです。
同様の構図によってこれは「ネオリベ」とか「リバタリアン」とも違います。いろんな意味で積極的に個人に対する「”制約”を取り払うべき」と思ってるわけではなく(望ましいとは思っているが)て、「制約を取り払うべきという意見に対する社会的反発がある範囲を超えて逆転してきた現状があるならそれにも意味があるだろうから善用するべき」ぐらいの立場なわけですからね。
しかし、こういうのは欧米人的知性から言うと「何も考えてない愚かしさと単なる無批判的な現実的追認」に見えちゃう部分があるし自分でもそこは常に自省しながら進まなくちゃいけないよなと思うんですが。
ただ、例えばある種の「良くない右翼性(人種差別主義とか排外主義とかその他なんでも)」を発揮する存在がいたとする(あなたの立場によっては安倍政権や靖国神社やトランプ政権や・・・も含まれるかもしれない)。
で、そういう存在が「弱き者」をガシガシ抑圧している現状があったとしたなら、それに対して「ちゃんと批判していく必要がある」というのは一面非常に正しいようで(もちろんそういう批判をちゃんと真剣にやってくれる人もいてくれないと困るし、”抑圧されている側”にいる人はあらゆる手段によって”自衛”する権利があると思いますが、それと同時に)、その「ムチャクチャ言う存在」は、「現状の世界のシステムの歪みによって噴出しているだけのエネルギー」だというふうに捉えると、単に彼らを批判していくだけでは、10の力で批判すれば10の力で押し返され、100の力で批判すれば100の力で押し返される・・・というような問題じゃないかという一種の「諦念」も湧いてきます。
そこである種「欧米的には諦めるけど東洋的には諦めない」というか、むしろ自分もその「愚かしさの内側に入っちゃう」立場からすると、「そりゃまああんな言い方されたら怒りたくもなるよなぁ(ぼけ〜)」ぐらいのところを共有してしまうところまで行くことになる。
で、そのうえで、「この人達がそんなこと言う気持ちにすらならない」ような全体的な構造ってどういうものだろうか???ということを問い直してみることが、21世紀のどうしようもない二項対立的断絶を超える一つの力になるだろうと私は思っているわけです。
それが「理趣経的希望」なんですよね。
・
とはいえ、私は父方も母方も数代遡ると高野山近辺の山村から出ていて、「血」に引っ張られて無駄にロマンを感じているけれども、普通に生きてる現代人にとってこういう「理趣経的境地」とか言うのを目指すのはどこにも全然折り目がつかないグダグダの無責任さのように見えても仕方がないし、実際には「いやほんと困ったもんですよねえ」という感じになる要素だということは自覚してるんですよ。
実際、空海よりも随分後の時代、京都を中心とした平安時代がどこまでもグダグダになって崩壊した後の鎌倉時代において、日蓮さんは「真言亡国」と言って、真言(空海の宗派ね)みたいな宗旨でずっとやってると「男子がちゃんと育たないので亡国となる」と批判してます。
これについても、「いやほんまその通りやで!日蓮さんええこと言うわ。さすが東国(現代の千葉県あたり出身)の男はハッキリしててカッコええな!!」と正直私は同意します。
だから今回の京大に関する表のブログで書いたように、「この立場が正しい立場」だと言ってるわけじゃなくて、「いろんなキャラクターの人間たちが生きているこのシャバにおける多様性の中のバランス」を取りながら、「自分が受け継いだ血」に全体の中の歯車的な「噛み合った価値」が与えられるように、この10年色々と頑張って来てるんですよ・・・って話なんですよね。
そしてそういうレベルの話で言えば、個人レベルで「その価値」を全的にコミットして生きていく人間が現代世界にいることの価値は必ずあるだろうと思っています。
この文章にネットで出会って長々とここまでちゃんと読んだあなたも、おそらくこの「理趣経的志向性」を消せずに、だからこそ「現代社会の中での位置取り」に悩んでいるという人だと思います。そうですよね?
まあ、あんまり簡単にうまくハマれないのが我々の性質ですけど、腐らずに、自分たちが持っている「血」の性質が持つ今後の「世界史的意義」をマクロに見て信じながら、一歩ずつ積み上げていきたいですよね。ご一緒に、諦めず、何かがキライだからといって『アンチ●●』になることがその解決であるというような短絡主義だけは意識して避けることが「東洋的知恵」なんだぜぇとかカッコつけたりしながら行きましょう。
ここまで長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。自分の「血」を諦めずに最後まで生きて生きましょうね!
・
さて、ここからはいつも通りの有料部分にしたいと思います。さらにちょっと読みようによっては揚げ足取られて批判されるようなことも書くので。
以下は300円払ってもいいぞという方だけが読んでください。ここまでで書いたような「理趣経的」ポジションは欧米文化の中に居場所を見つけづらいの基本だが、しかし「ある文脈」をちゃんと捉えられれば、欧米的システムの内側においても「なるほどこういうものね」と理解してもらえ、日本社会の中でも自然な居場所がある・・・ような方向性があるはずだという話になります。つまり「理趣経的視野」を「欧米的システム」に入れ込むための、個人の人生における「長期的戦略」について・・・というテーマですね。ヒントは「オバマ大統領」かもしれません。
(ここ以降さらに一万字弱続きます)
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