9. 2015年7月11日 18:27:51
: h2i1HhxzVc
光強ければ影も濃い〜歴史の多面性を伝える世界遺産に 江川紹子 | ジャーナリストまたもや、「歴史認識」を巡る対立である。日本が、ユネスコの世界遺産登録をめざす「明治日本の産業革命遺産」(福岡、長崎など8県の23施設)について、中国と韓国が戦時中の強制連行・強制労働を理由に”待った”をかけようとしている。 〈中韓は強制労働を理由に反対、日本は「時期が違う」と…〉 ユネスコの諮問機関ICOMOSが世界遺産登録を勧告すると、韓国は猛反発。「このうち7施設では、日本が植民地支配していた時代に朝鮮人5万7900人が強制徴用された。強制労働の事実から目をそらし、単なる産業革命の施設として美化することは歴史をゆがめる」として、強い口調で反対意見を表明した。朴槿恵大統領も訪韓したユネスコの事務局長に、反対の意思を伝えた。中国もこれに同調。これらの施設で戦時中に強制連行された中国人らが苛酷な労働を強いられたことについて、日本が責任ある対応をしていないとして、反対を表明した。 これに対し日本側は、「非西洋国家に初めて産業化の波及が成功したことを示すもの」と文化的価値を強調し、遺産の対象時期は1850年代から1910年にかけてであり、戦時中の強制労働問題とは時期が違う、と主張。先月22日に行われた日韓の事務レベルでの協議も平行線に終わった。実際に遺産登録されるかどうかは、7月初めにユネスコ世界遺産委員会の審査で決まる。 この日韓協議が行われた直後、私は、韓国や中国が問題にしている「遺産」の一つ、三井三池炭鉱の遺構を訪ねてみた。戦時中の労働力不足を補うため、日本は国策として朝鮮人や中国人を強制的に動員し働かせた。この炭鉱では朝鮮人2376人が働かされ、そのうち15人が死亡。中国人労働者は2481人で、635人が亡くなった、という。中国人は4人に1人が死亡したことになる。このすさまじい死亡率の高さからも、彼らが消耗品として扱われていたことがうかがわれる。 〈三池炭鉱の遺構を訪ねてみた〉 福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にかけて、5つの施設が世界遺産登録対象になっている。宮原坑と万田坑では、往事の設備がよく保存されていて、今にも働く人たちが現れてきそうな雰囲気だ。どちらも、ボランティアのガイドが、施設の詳細を解説しようと、観光客を待ち構えていた。ただ、その話には戦時中の強制労働のことは出てこない。施設内に掲げてある案内板にも、強制労働に関する説明を見いだすことはできなかった。万田坑では、私の方からガイドの男性に「ここでは戦時中に中国人や朝鮮人の強制労働があったそうですね」と水を向けてみた。ガイドは「そういう時期もあったようですね」と否定はしなかったものの、すぐに「(巨人軍の)原監督のお父さんが監督をやって、甲子園に優勝した時のパレードはですね…」と、50年前に地元の三池工業高校が夏の高校野球大会で初優勝した時のことに、話題を移されてしまった。
政府も地元も、日本側は戦時中の負の歴史にはできるだけ触れず、日本の近代化を牽引した、輝かしい歴史のみを伝えていきたいようである。そんな中でも、現地では、負の歴史を語り継ぐ努力も、細々とではあるが、なされている。 〈中国人・朝鮮人犠牲者の供養を続ける赤星住職に聞く〉 その一つに、熊本県荒尾市の正法寺で、日本で労働を強いられ亡くなった中国人と朝鮮人のために続けられている法要がある。赤星善弘住職が3年余りを要し、熊本県内をくまなく托鉢して回って集めた浄財で「中国人殉難者供養塔」を建立したのが、1972年4月。同年10月には、朝鮮人殉難者のために「不二之塔」を作った。毎年4月12日に合同慰霊祭を開く。今年も、44回目の慰霊祭を行った。 赤星住職が名誉住職を務める金剛寺(荒尾市)にて、話を聞いた。住職は、開口一番こう言った。 「私はね、真実を語り伝えてこそ歴史だと思うんですよ。日本が侵略を行ったのは事実ですから、それは素直に認め、詫びるべきは詫びて、許しを請うという姿勢が大事だと思うんです。仏教の思想からすれば、まず懺悔をすること。そしてお許しをえて、初めて湯真の友好親善が生まれる。懺悔の気持ちを形にするために、供養塔を建てようと思ったのです」 飢える中国人労働者 原点は、子どもの頃にあった。三池炭鉱で中国人労働者たちらの管理を担当している人の中に、父親の友人で、宇都宮さんという男性がいた。彼が、仕事が休みの時に、配下の中国人労働者らを浜辺に連れてきて、貝掘りをさせていた、という。ろくな食事も与えられず、やせ細った彼らは、懸命に浜辺をあさって貝を採った。 「採った貝は、五右衛門風呂の釜で海の水を沸かして炊くんですよ。ろくに洗ってもいないし、砂をだいぶ含んでおったでしょう。それでも、煮たって貝が開くやいなや、中国人たちが手を出してむさぼり食う様子を見ていて、子ども心に、かわいそうだな、と。のどが渇くもんだから、うちのお袋が井戸水で冷やしておいたハブ茶を飲ませたら、それは喜んでね。 宇都宮さんは、うちの親父と将棋を指して待っていました。でも、一人の脱走者もいなかった。人間っていうのは、相互信頼がいかに大切か、ということですよね。こういう配慮をしていたので、宇都宮班では一人の餓死者も出なかった。でも、他の班では、餓死者がずいぶん出ています。たとえば四山坑では492名の中国人が亡くなっているんですが、その大半は餓死者です」 日本人も食糧難の時代だが、労働を強いられた中国人や朝鮮人、戦争捕虜たちの食生活はさらに苛酷だったらしい。赤星住職の妻、英子さんは、大牟田市の出身。宮浦坑の社宅の一角に、中国人労働者らが寝泊まりする、華工寮と言われる施設があった。逃走防止だろう、高い塀の上に、鉄条網が張ってあった。英子さんが塀の隙間から覗くと、中の地面には草一本生えていなかった。飢えた彼らが食べ尽くしてしまったからだった。 英子さんは、冬の寒い時期に、ナッパ服一枚で連行される彼らの姿が忘れられない。少しでも寒さをしのごうと、手を反対側の袖の中に入れて、震えていた。 戦後は、立場が逆転。解放された中国人らが、近所の農家の家畜を勝手にさばいて、肉を食べるようなこともあった、という。彼らや捕虜のために、米軍機が食料などの物資を落として行った。赤星住職の家には、中国人らがそうした食料を届けてくれた。 「言葉は通じなくても、情はちゃんと通じるんだな、と子どもながらに感じたものでした」 嫌がらせも… 供養を思い立ったのは、1968年頃。熊本出身の僧、月輪大師(がちりんだいし)俊●(しゅんじょう、●は「花」の「ヒ」が「乃」)が鎌倉時代に建て、すでに消失していた正法寺の復興を考えて、準備をしている時期だった。月輪大師は、宋時代の中国で学んだ後、京都に皇室の菩提寺となる泉涌寺を開山したことで知られる。 「お大師様、つまり空海も月輪大師も、いずれも中国に留学し、中国で学んで日本の仏教を発展させました。お大師様や月輪大師が現世の方でありせば、当然、そういった(日本で労働を強いられて亡くなった)人達の供養をされるだろう、と気づいて、これは私に課せられた一つの使命だな、と」 供養塔の建立費用は、托鉢で集めることにした。ただ、寄せられるのは、5円玉、10円玉などの小銭が多い。見かねて、「三井に揺さぶりをかけて、金を出させれば…」と言う人もいたが、赤星住職はきっぱり断った。人々の供養の気持ちを集めることが大切だと考えたからだ。
嫌がらせもされた。 「当時、大牟田や荒尾は、三井鉱山の城下町と言われていました。町工場に至るまで、三井鉱山とは何らかの関わりがあって、『三井さんににらまれたら、おまんまが食えない』なんて言われていましたから。托鉢をしている時に、石を投げられて、頭にかぶった笠に穴を空けられたこともありました」 当時、日本は中華人民共和国との国交はなかった。その中国の人たちの供養塔が気に入らないらしく、右翼からの攻撃もあった。「貴様は共産党か」「三井鉱山の古傷を暴くようなことをするな」などの街宣活動をされた。 それでも、3年余りかかって、35万円が集まった。中国人殉難者供養塔の除幕は、1972年4月12日。碑の前で、中華人民共和国の国旗「五星紅旗」が翻った。当時は、市販されておらず、わざわざ染物屋に注文して作ったものだった。 それから5ヶ月余、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明を発して国交を正常化させた。上野動物園にパンダが贈られるなど、日本でにわかに中国ブームが起きる。 「そうなると、手のひらを返したようにね、それまでぼろくそに言いよった連中が、『赤星さんは、先見の明があった』と言ってくるわけですよ。そんな気持ちで、(供養塔を)作ったわけじゃないんですけどね(笑)」 南北対立の影響を受ける 本当は、二つの供養塔を同時に除幕するつもりだったが、朝鮮人犠牲者の供養塔が遅れたのは、碑名を巡って、話がなかなかまとまらなかったからだ。 「南北朝鮮人殉難の碑としようとしたら、朝鮮総連と民団の両方からクレームがついたんです。総連からは『朝鮮人殉難の碑』としてくれ、と要望があり、民団は『韓国人殉難の碑』として建てて欲しいと言う。しかも、同席して話し合うことをしないので、私はそれぞれの事務所を訪ねては話をする。これを、それぞれ15回やりました。それでも平行線。どちらも妥協しようとしないんです。当時は、私も30代でしたから、『もういいです』と開き直ったんですね(笑)。 総連と民団が言うことは、それぞれ違うんですが、やがては統一されるべき民族だ、という点だけは、同じだったんです。仏教では、『不二』という言葉がある。『本来は一つ。二つにあらず』という意味で、『不二之塔』と決めて、双方に納得してもらったんです」 その年の10月29日に不二之塔を除幕。除幕式には、総連、民団双方が参加した。ところが翌年からの慰霊祭には、韓国側が北朝鮮と一緒では同席しない、と言う。赤星住職は、中国と北朝鮮の人ための慰霊祭と、韓国人のための慰霊祭の毎年2回の慰霊祭を行った。
(1989年に)ベルリンの壁が崩壊した後、総連と民団双方の事務所に通い、「東西ドイツも統一するじゃないか。あなた方も、一緒に供養してあげたらどうか」と声をかけた。供養塔ができて20周年になる時に、「供養塔も成人式をしてもいいんじゃないか。強制連行をされた時には、二つの国ではなかったでしょう?」と説得。双方が応じて、やっと、中国、南北朝鮮の合同慰霊祭が行えるようになった。以後、それは続いている。 年一回の慰霊祭のほか、赤星住職は毎月8日、月輪大師の命日に、中国人・朝鮮人犠牲者のための法要を行っている。その回数は、優に500回を超えている。 真実を伝えてこそ 「私は、過去の過ちは認めるべきだと思うんですよ。懺悔に始まり、誓願に至る。このようなことは、二度とすまいと約束する、誓うわけです。そのために、供養は大事だと思うんです。その都度、強制連行で日本に連れてこられた人が、どういう思いで亡くなっていったのかを考えますから」 しかし、日本では、「いつまで過去のことを謝れと言うんだ」「すでに解決済みの話」と不満を持つ人たちもいる。 「そういう論調の人もあるやもしれません。しかし、我々は加害者の側で、加害者が忘れてはならないのは、懺悔の心ですよ。そして、被害者の方には、許してやるという寛大さが必要でしょう。そこで初めて真の友好親善が生まれる。これが平和の原則じゃないでしょうか」 赤星住職は、強制労働の中国人・朝鮮人を供養するだけでなく、毎年10月に、韓国・ソウルを訪れ、日本統治時代に政治犯が収容され、拷問や処刑で多くの死者を出した西大門刑務所跡で法要を行う。南京や西安など中国各地、ミャンマーなどアジア各地の戦跡での法要も重ねてきた。フィリピン・マババカットで、かつて特攻隊の一番機が飛び立った未明の時間帯に法要を行った時には、地元の警察が君が代を演奏してくれた、という。ポーランドのアウシュビッツやイスラエルの嘆きの壁なども訪問し、宗教や国籍の違いを超えて、戦争犠牲者を弔ってきた。 長く、戦争の犠牲者の供養を続け、とりわけ強制連行の犠牲者と向き合ってきた赤星住職にとって、世界遺産登録を巡る対立は、どう見えるのだろうか。 まずは、登録に反対する韓国や中国に対して。 「反対するより、世界遺産にして、自分たちの先輩が強制連行され、ここで労働を強いられたということを付け加えさせるように、とした方がいいような気がする。それによって、強制連行を語り継ぐ方が大切ではないか。歴史とは、真実を語り伝えることですから」 そして、今回の登録は明治時代の近代化に関してであって、時期が異なる強制連行の問題は関係ない、という日本の主張に対しては――。 「関係はありますよ。明治から、いきなり平成になったわけじゃないんですから。(一時代だけを切り取れるものではなく)明治、大正、昭和、平成と時代はつながっている。そこであった真実を伝えるからこそ、歴史の遺産ではありませんか」 歴史には、光の部分もあれば、影の部分もある。日本側は光の部分だけを残そうとし、韓国や中国は影の部分ばかりをクローズアップする。そうではなく、光も影も、事実をどちらも伝えてこそ、歴史を伝えることになる、と赤星住職は力説する。 「(光が強く)明るい所ほど、影も濃ゆいんですよ」 〈他にも様々な碑が…〉 正法寺の他にも、三池炭鉱の周辺には、中国人や朝鮮人犠牲者のための慰霊碑がいくつかある。新しいものでは、2013年、大牟田市の宮浦坑跡に、同坑で亡くなった中国人の慰霊碑が建てられた。日中友好協会大牟田支部などが建てたもので、中国から運んだ白と黒の御影石が使われた。碑には、宮浦坑で亡くなった44人の中国人のうち、詳細が分かった41人の氏名、出身地、死亡日、年齢が刻まれている。最年少が20歳、最年長が50歳。全員が河北省の出身だ。碑文には日本語と中国語で、殉難者に対する「心からの謝罪」と「永久不戦、恒久平和の誓いと日本と中国の友好を進めること」などが記されている。
また、大牟田市北部の甘木公園内には、民団が建立した「徴用犠牲者慰霊碑」があり、毎年慰霊祭が行われている。今年は4月5日に行われたことを示す表示が添えられていた。 三池炭鉱を巡る、負の歴史は、戦時中の強制連行だけではない。世界遺産の対象にもなっている宮原坑は、囚人労働で支えられていた。西日本の囚人たちが三池集治監(現在の刑務所)に集められ、苛酷な採炭作業に従事した。その劣悪な環境から、「修羅坑」とも呼ばれた。三池集治監の医師が、「獄舎・食物・作業条件などが過酷にすぎ、死者・疾病が余りにも多く、人道上許せないので、直ちに囚徒の採炭使役を中止せよ」との意見書まで出したが、無視された。死者のために明治時代に建立された「解脱塔」のほか、1996年に集治監墓地跡地の公園造成工事中に、積み重ねられた70数人の遺骨が発見され、新たに「合葬之碑」が建てられた。 解脱塔(奥)は明治の建立。新しい合葬之碑には「歴史に目を閉ざす者は未来を失う」と 解脱塔(奥)は明治の建立。新しい合葬之碑には「歴史に目を閉ざす者は未来を失う」と
集治監があった場所は、県立三池工業高校となっているが、その外壁として、集治監の壁が遺されている。 さらに、明治時代に台風被害と飢饉の被害を受けた与論島の人々が、大牟田に移住し、炭鉱や港湾での労働に従事した。言葉や生活習慣の違いから、与論の人々は差別を受け、賃金も地元労働者の7割に抑えられるなど、労働条件も居住環境も劣悪な状況に置かれた。この与論の人たちの「三池移住記念碑」や墓所である「與洲奥都城(おくつき)」が、大牟田市の延命公園のそばに建てられている。 与論出身者が昭和36年に建てた「三池移住祈念碑」。同じ敷地に墓所も建てられた 与論出身者が昭和36年に建てた「三池移住祈念碑」。同じ敷地に墓所も建てられた 戦時中に徴用された朝鮮人たちは、与論出身者やその二世の下の存在として扱われていた、という。死亡率の違いを見れば、当時は「日本人」であった朝鮮人と中国人では、どちらの命が粗末にされていたのかも想像できる。三池炭鉱を舞台に、差別の重層構造が存在していたのだろう。 そして、戦後も大きな事故があり、たくさんの人々が亡くなり、後遺症に苦しむ人もいる。大がかりな労働争議があり、それまで一緒に働いてきた労働者と労働者が対立する構図も作られた。 戦後の問題も含め、炭鉱を支えてきた人々の犠牲については、石炭科学産業館の「こえの博物館」事業として、熊谷博子監督のドキュメンタリー作品が、毎日4,5回、館内で上映されている。 〈歴史の光と影を伝える文化遺産に〉 三池炭鉱は、日本の近代化をエネルギーの面で支え、産業化を牽引した。採炭だけでなく、関連工業の工場が次々に作られ、日本最初のコンビナートが形成された。そうした光輝く歴史には、多くの犠牲や差別などの影の部分があった。その両面を伝えてこそ、歴史を後世に語り継ぐことになるのではないか。
世界遺産の登録は、文化遺産や自然遺産を「人類全体のための世界の遺産」(世界遺産保護条約より)として保護し、後世に伝えていくためことを目的としている。 「日本のため」ではなく、「人類全体」の財産とするからには、なおさら歴史の多面性を伝える工夫が必要だろう。 ところが、集治監関連を除くと、こうした影の歴史を示す史跡や碑の多くは、場所が非常に分かりにくい。当局や関連団体が作るパンフレットやネットのサイトでは、そもそもそうした碑の存在すら書かれていない。遺構のある案内板は日本語英語のほか、中国語やハングルの説明もあるのに、中国人や朝鮮人の受難には触れられていない。 こうした点を改め、パンフレットには様々な碑の場所を分かりやすく記載して紹介し、遺産に登録された遺構では朝鮮人・中国人・捕虜らの強制労働の事実も含めて、その施設の今に至る歴史的経緯を説明するなど、歴史の光と影を総合的かつ立体的に伝える場としての世界文化遺産にしたら、どうか。それは、韓国や中国の理解を得るためというより、日本の人々に歴史の多面性を伝えるとともに、歴史に誠実な日本の姿勢を世界に示すためには、ぜひ必要なことのように思う。
旅からの帰路、そんなことを考えながら、もう一度、赤星住職の言葉をかみしめた。 「歴史とは真実を語り継ぐこと」 「明るい所ほど、影も濃ゆいんですよ」 江川紹子 ジャーナリスト 神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150601-00046208/
|