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NHKスペシャル 総理秘書官が見た 沖縄返還 〜発掘資料が語る内幕〜
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0509/
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初回放送
2015年5月9日(土)
午後9時00分〜9時50分
1972年、アメリカからの沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作 元総理。この歴史的交渉を間近で見た秘書官が残した資料が見つかった。沖縄返還を巡っては、これまで民間人の密使である若泉敬の手記は明らかになっていたが、官邸中枢の記録が大量に見つかったのは、初めてのことだ。
佐藤政権は、沖縄返還をどのようにして成し遂げたのか。そして、アメリカ政府との間で、どのような駆け引きがあったのか。資料をもとに、現在の基地問題や日米関係へとつながる、戦後日本の転換点・沖縄返還における政権中枢の決定とその過程に迫る。
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「NHKスペシャル」 - 総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜
http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20150510/1431202276
2015-05-10 shuueiのメモ
「NHKスペシャル」 - 総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜 -
放送日 2015年5月9日(土) 21:00〜21:50
1972年、アメリカからの沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作首相。この歴史的交渉を間近で見た楠田實秘書官が残した資料が見つかった。今夜は発見された資料をもとに、現在の基地問題や日米関係へとつながる戦後日本の転換点・沖縄返還における政権中枢の決定とその過程に迫る。
佐藤首相の就任直後、楠田は沖縄返還を大きな政治課題にすべきだと進言していた。進言の通り、佐藤首相は沖縄を訪問、楠田が用意した原稿で演説した。市民は日本復帰で基地が本土並みに縮小されると期待し、佐藤首相は沖縄返還が政治課題であると印象づけたが、この演説で楠田が作った原稿には、アメリカの要請で、軍事戦略上の沖縄の役割を重視する記述が加えられていた。
楠田實の資料は神田外語大学の研究室に非公開のまま保管されている。楠田は晩年、長年の付き合いだった和田純教授に資料のことを少しずつ明かし、沖縄返還の歴史を書きたいので手伝ってほしいと伝えていたという。沖縄返還には、1965年の佐藤栄作首相沖縄訪問、1967年の日米首脳会談、1969年の返還合意、1972年の返還実現の4つの節目があった。
1967年、佐藤は日米首脳会談で、沖縄のアメリカ軍基地が極東で重要な役割を果たしていると認め、返還の時期は2〜3年のうちに合意することが決まったが、当時配備されていた核兵器については積み残された。日本は唯一の被爆国として反核の感情が根強く、「非核三原則」からも核を残したままの返還は認められる状況ではなかった。
日米間で核をめぐる交渉が始まったが、今後の交渉の難しさを予感させる出来事が、1986年の小笠原諸島の返還交渉だった。ジョンソン駐日大使と三木外相との交渉では、アメリカ側が「緊急時には今後も父島に核兵器を持ち込める」という条件を出し、三木外相が非核三原則で抵抗したという。
結局再持ち込みの議論が棚上げにされたまま小笠原諸島は返還され、沖縄の核について不透明な事態となった。佐藤首相は“核抜き”返還について野党から追求を受けたが、「まだ決まっていない」という答弁を繰り返した。楠田實は後年「“核抜き”返還を口にすること自体は政権にとって賭け」などと振り返っている。
核をめぐる攻防の落とし所はどこか、この時佐藤がアメリカの真意を探ろうとしていたことが資料から初めて明らかになった。佐藤はハリー・カーンと会談を重ねていた。沖縄の祖国復帰を日本の安全を弱めずに実現する方法はなにかと迷っている心の中をハリー・カーンに話した。カーンは日米の政界に太いパイプを持ち日米の政治家をつなぐ活動をしていた。カーンは佐藤に緊張状態が続く朝鮮半島を睨んで核のある沖縄の重要性を説いた。
カーンは沖縄の基地の目的を朝鮮半島の有事のためと明白に語った。しかしそのために沖縄の核を維持することは佐藤には受け入れがたかった。佐藤はカーンに当時大統領選挙に勝利したばかりのニクソンにコンタクトが取れないか切り出し、兄である岸信介元総理をニクソンの元へ派遣し、核抜き返還の可能性を探れないか打診した。
1969年、首脳会談を控えた山場の年を迎えた。楠田も佐藤も核についてのアメリカの真意を早く知ることを迫られた。1月ニクソンからの新書が佐藤に届いていた。「就任式が終わったらすぐにあなたの兄(岸)と話すことを楽しみにしています」と岸元総理との会談を確約する内容だった。2月、カーンが再び佐藤の元へ訪ねていた。2回めとなるカーンとの会談は沖縄の核と基地について突っ込んだ話となった。話は朝鮮半島の有事の問題に及んだ。佐藤はカーンに重大な提案をしていた。
佐藤は沖縄の核の撤去を求める代わりに、朝鮮半島の有事では本土の基地も含めて活用できると提案。日米安保条約があるために日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかという野党からの追求に対し、当時佐藤は「そういう経験はございません。また今後もさような発展は実はない」と答えていた。これまでの国会答弁よりも踏み込んだ提案をし沖縄返還を実現しようとした佐藤。楠田はこの時のことを「これではっきりした」と日記に書いていた。その10日後佐藤はアメリカに沖縄の核抜き返還を求めると発言。
その後外務省がアメリカ側と激しい交渉を繰り返していた。当時アメリカはベトナム戦争の只中にあり爆撃機の発進地として沖縄の重要性が高まっていた。沖縄基地は朝鮮半島などを睨むだけでなくベトナムにも展開する重要な役割を担いつつあった。この頃外務省内部文書には自由出撃を求めるアメリカへの警戒感が綴られていた。
こうした報告を楠田たちに上げていたのは外務省・千葉一夫課長。千葉課長がアメリカの思惑に警鐘を鳴らしていた。長男の明さんは生前の父から「艦砲射撃の無線がスクランブルもかけずに、つまり日本軍はもう何もできまいという前提で砲弾を打ち込んでくるのを聞きながら無力感を感じていた」と聞いていたという。当時千葉課長は20回近く沖縄に行き住民から基地縮小を求める声を聞いていたといい、自らの戦争体験と沖縄の声が原動力となっていた。楠田のもとに届けられていた千葉課長の報告書、同じ戦争体験に根ざした危機感が官邸と外務省の間で共有されていた。
1971年、熾烈な外交交渉を経て、沖縄返還協定調印が行われた。式典の会場には楠田實と千葉一夫の姿もあった。戦争で失った領土を交渉で取り戻した戦後最大の外交的成果。一方で、安全保障のあり方については様々なことが確認され、沖縄の基地のあり方はこの時決まったのだ。返還の当日、沖縄88か所の基地のほとんどが返還前と同様、期限を定めず使えるという取り決めが日米両政府で交わされた。楠田の残した資料は沖縄返還の光と影を浮かび上がらせている。
楠田は当時、「日本人は昨日のことは考えない。今日と明日のことしか考えない民族だとよく言われるが、考えてみよう」と手記に残している。さらに、沖縄の歴史を振り返りながら、「沖縄県民に対する感謝の気持ちというものが、国民感情の中にどの程度、存在するのか定かではない」と問いかけている。2003年、楠田實は亡くなった。沖縄返還の歴史を書くことなく膨大な資料だけが残された。それをもとに楠田は何を伝えようとしていたのか。
その後も政界とのパイプを持ち続けた楠田。資料に再び沖縄が現れるのは返還から20年後、特に1995年から日記に記述が増えていた。この年、沖縄米兵少女暴行事件が発生。この事件をきっかけに当時の橋本内閣とアメリカとの間で普天間基地の返還が合意された。楠田は佐藤政権以来となる活動を始め、橋本内閣のブレーンだった有識者を集めて意見を聞いた。しかし、有識者から出たのは「本土から見た沖縄」。楠田がこれらの意見をもとに政府に提言したという記録は残されていない。楠田はこの時、なにを考えていたのか。
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