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2015年3月24日
人に感動を与える生き方というものがある。
人間は社会的な生き物である。
社会のなかで生きることを強制される。
その社会が、責任あるものかといえば、そうではない。
多くの人が、社会の目を背に受けて生きてゆく。
社会に認められたい。
社会で名を挙げたい。
多くの人が、社会の目を基軸に生きようとする。
しかし、その結果として、いつの間にか、自分が不在になる。
自分が何をしたいのかではなく、自分が社会にどのような姿を見せたいのかが主軸になってしまう。
しかし、社会とは本当にそれほどの価値があるものなのか。
社会的地位を獲得することが人間の価値を決めることなのか。
社会が決める価値とは別に、本当の価値というものがあるのではないか。
しかし、人は弱い存在であるから、「社会」という得体の知れないものにすべてを委ねてしまう。
そして、その「社会」の目にすべてを奪われてしまうのである。
そのような「社会の目」、「世間の目」から超越して、自分を見つめ、自分の心に忠実に生きる人々がいる。b
「社会」から注目されることも、「世間」から注目されることもない。
しかし、そのような「些事」には囚われない。
自分の心に忠実に、自分の価値判断に忠実に、生き抜く人々がいる。
ノーベル賞にしても、勲章にしても、賞をもらったから偉いのか。
同じ人間が、賞をもらったら偉くなり、賞を取れなかったら偉くないのか。
そんな「賞」にしても、しょせんは、同じ人間が選んでいるものに過ぎない。
「勲章」にしても同じ。
同じ人間が選んでいる。
「勲章」が欲しいがために行動する人が後を絶たない。
その「勲章」をもらったとしても、自分が変わるわけではない。
「社会の目」、「世間の目」を意識しているだけのことである。
昨日の中日新聞(東京新聞)『こちら特報部』が京大原子炉実験所を定年退職する小出裕章氏を特集した。
2011年3月11日の東電福島第一原発の放射能事故が起きたために小出氏が脚光を浴びることになったが、小出氏は、そのようなことにまったく関知しない。
自分の信念に沿った生きざまを描き、事故が起きたあとも、その生きざまをただひたすらに貫いている。
原子力の平和利用の言葉に夢を見て原子力研究の道を選んだ。
しかし、大学3年のときに、「原子力の平和利用」が誤りであることに気付いた。
爾来、原子力の利用を断念させるために力を注ぎ続けた。
福島の事故が起きて脚光を浴びるが、そんなことにはまったく無関係に生きる。
自分の内面の声にだけ忠実に生きているのである。
小出氏が原子力の平和利用を欺瞞だと断じるのは、原子力利用の構造が、本質的に差別構造を内包するからである。
大都市の人口密集地に原発を立地しない。
過疎地に立地するのは、原発が潜在的に危険極まりない存在であるからだ。
原発事故が起こる前も、起きたあとも、原発の間近で、危険を背負いながら働くのは、底辺の労働者だけなのである。
原発を推進する政治家は、原発のなかで働こうとしない。
戦争の構図とまったく同じである。
戦争を推進する人々は自分の身を必ず安全な場に置く。
戦場に送られるのは末端の名もなき兵士であり、戦争で犠牲になるのは罪のない市民なのである。
ものごとを評価する尺度を変えるべきである。
今だけ、金だけ、自分だけ
の価値観と、社会的評価、経済的利得だけを追求する生きざまは、重なる部分が大きい。
本当の価値はそこにはない。
本当の価値とは、社会的栄達、経済的利得とは離れたところにある。
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