中国文明はコーカソイドによって築かれた https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702 ↓以下の通り。
「中国といえば黄色人種の代名詞的存在です。しかし、漢字を発明した古代漢族と現在の漢族は、遺伝的なつながりがほとんどないとみられています。漢王朝が崩壊後、北方の異民族が流入して人口は3分の1〜6分の1に減少したと推定されています。しかも、流入した北方民族を含めて人口が3分の1〜6分の1に減少したのですから、古代漢民族の減少はそれ以上だった推定されます。その後、鮮卑族と呼ばれる北方民族が統一王朝を建設し、隋、唐と長い間支配が続きます。現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。現在の中国では、古代漢語といえば清王朝時代の満州人の影響下にあった漢語を指すようです。
古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。
一方、3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつあるようです。新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは、白人のミイラとして知られています。中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっています。北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっています。このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられます。
漢文は異民族との情報交換のために発達した文章といわれています。つまり、漢文は文章のためのものであり、当時、話された言葉をアルファベットや万葉仮名のように示したものではありません。つまり、当時話されていた言葉を記録した資料が極端に少なく、検討する余地はかなりあるようです。ひょっとすると、漢文は当時のシナ系言語と全く異なる白人の言語をつなげる架け橋だったのかもしれません。
これらの白人はコーカソイドと呼ばれる人達で、いわゆるトルコ系民族と言われる人たちです。トルコ系民族は、少なくとも5世紀ごろにはシベリア地域にも移住していたとみられています。そう考えてみると、中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もありません。東京大学の植田教授らは山東半島周辺に白人の居住地があったことを指摘しています。現時点では、白人が中国のどの程度の位置を占めていたのか不明ですが、今後DNAの研究が進むにつれ、これまでの歴史の常識が大きく覆されるかもしれません。漢字は白人が発明したもので、山東半島出身の孔子は白人だった可能性が高いです。
テュルク(トルコ系民族とその分布)
http://ja.wikipedia.org/wiki/トルコ系」 「東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。
調査の対象となったのは、
1、約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨 3 現代の臨シ住民 です。
これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。
どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。
約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。
つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。
言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。
そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。
たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。
しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。
さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。 文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。 たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。
上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。 また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。
フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。
支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。 中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。
三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。
炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。
要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。 三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。
結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。
そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。
時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。
遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。
関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイド
の遺伝的特徴そのものである そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。
さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。 遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。
しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。
つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。」 つまり、モンゴロイドが「独自の文明」と自惚れている「中華文明」とはコーカソイドと云う人種によって築かれたのだ。 https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702
▲△▽▼ 2008年10月16日 ミトコンドリアDNAでは母方の祖先が分かるが、Y染色体のDNAからは父方の祖先が分かる。 「常に男女が同程度の人数で移動した」とは限らないので、Y染色体のDNAも調べる必要がある。 南米大陸全体での先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは82.8%だったのに対し、Y染色体ではわずか8.6%だった。
Y染色体で先住民族のDNAを持たない人の父方の祖先は、大航海時代以降南米に入ったヨーロッパ系(侵略者)又はアフリカ系(奴隷)の人々である。 比較的「南米以外」からの影響が少ないと見られていたペルーの山岳部の住民でも、同様の傾向があった。 先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは94.2%だが、Y染色体では46.0%しか居なかった。 http://d.hatena.ne.jp/psw_yokohama/20081016/p1 93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:19:37 ID:9w/WmKTM ところが中南米人の遺伝子調べると 母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる ハーレム状態 94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:36:51 ID:GKFrYljf >>93 人種構成は、
ペルーが、インディオ47%、混血40%、欧州系12%、東洋系等1% ボリビアが、インディオ55%、混血32%、欧州系13% メキシコが、インディオ30%、混血55%、欧州系(スペイン人)15% 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 12:35:59 ID:OriNBOP5 >>94 それは人種構成だから遺伝子の数値とズレがあるよね
例えばアルゼンチンは白人国家とされてるけど ブエノス・アイレスの隣のラ・プラタ市の遺伝子調査だと mtdna(母系)は45%が先住民、Y染色体(父系)の90%がヨーロッパ系 インディオが少ないとされるブラジルでも調査すると mtdna(母系)の32%が先住民、28%が西アフリカ人となる Y染色体(父系)の方はこれまた90%以上ヨーロッパ系になる つまり人種的に黒人、インディオに分類されても 男系にかぎっては過去に白人の祖先をもつやつがとても多い
それに人種的にブラジルは白人、ムラート、黒人に分類されるが 実際は先住民ともかなり混血してることがわかる あとアメリカ黒人男性の20%は白人を祖先に持つ 逆にアメリカ白人への黒人の遺伝子的影響はわずか0.7% アメリカ白人への先住民の遺伝子的影響は3.4% これらの数値はつい先日英語サイトから拾ってきたもの ブラジルの数値はちゃんとした論文で具体的な方法まで書いてあったから かなり信用できると思う http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1094725063/l50 「 見た目はモンゴロイドだが、Y遺伝子はコーカソイド 」 はありうるか? 性染色体と常染色体の動きの違いから解明
(315336)から、O系統の言語の語順は初めからSVOであったわけではなさそうだと展開しました。しかし、O系統(中国人、東南アジア人)が、C系統やD系統(モンゴロイド)より、R系統(印欧語族)に近いという問題はいまだ残っています。 O系統は、インドから東南アジア、さらにニュ−ギニア方面へ展開したK系統が、(火山の噴火などが原因か?)大陸側、中国南部方面へ戻った時に生まれた系統か?(他のストーリーも考えられると思う) その時何が起こったかですが、命からがら逃げてきたK系統の男がモンゴロイドの女と交わって作った集団ということと思われる。(必ずしも強姦ということではなく、モンゴロイド側が受けいれたか?) その場合、K→O系統の遺伝子が半分残るはずだが、Y遺伝子(性染色体)と違って、常染色体(性染色体以外の一般の染色体)はオスとメスの間を行ったり来たりしながら伝えられていくので、必ず後世に伝えられるというわけではない。(Y遺伝子は、他の部族の男が入らないなら、O系統のY遺伝子が必ず後世に伝わっていく。) その環境で生きていくのに不適切な遺伝子なら、世代を重ねるごとにどんどん淘汰されていき、Y遺伝子以外は、つまり「常染色体」に乗っていたK系統→O系統(コーカソイド系統)の持ち込んだ遺伝子はほどんど消えてしまうということも十分ありうる。 モンゴロイドの男は集団に入ってくることなく、モンゴロイドの女を集団に組み込んでいけば4世代もすればコーカソイドの血は10分1のにうす まってしまう。Y遺伝子だけはそのままコーカソイドのものが残る。 今のところ、中国人や東南アジア人は、このように成立した、「Y染色体はコーカソイド、常染色体はほとんどモンゴロイド」の種族と考えます。これが、正しいなら、オスが移動してY遺伝をどれだけ撒き散らしても土地(環境)に根付いたメスが伝える常染色体の形質が、いくらでも巻き返してくるということかと思われます。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315337 ▲△▽▼
日本人のガラパゴス的民族性の起源 黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。 同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。 アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。
明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。 http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm ▲△▽▼ 失われた文明 メソポタミア エデンの回帰 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tI-s-9k02dk ▲△▽▼
新シルクロード 01 「楼蘭 四千年の眠り」(2005年1月2日) - YouTube https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%96%B0%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89+++%E6%A5%BC%E8%98%AD+%E5%9B%9B%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A 2014年12月18日 砂漠に消えたロプノール湖畔に3800年前に住んでいたヨーロッパ系住民 http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html 新疆ウイグル住民の遺伝子は、今でも、60%がヨーロッパ系です。
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/2-thumbnail2.png.html ニューヨークタイムズの記事(英語)
A Host of Mummies, a Forest of Secrets ミイラが眠る、柱群の秘密 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/1-thumbnail2.png.html Liu Yu Sheng
SYMBOLISM Archaeologists believe the hundreds of 13-foot poles at the Small River Cemetery in a desert in Xinjiang Province, China, were mostly phallic symbols. 象徴主義(シンボリズム)− 考古学者は、中国、新疆ウイグル自治区の小河墓遺跡に立つ、長さ4mの柱群は、男根の象徴と考えます。 By NICHOLAS WADE Published: March 15, 2010 ニコラス・ウェイド 出稿:2010年3月15日 http://www.nytimes.com/2010/03/16/science/16archeo.html?pagewanted=all&_r=1& In the middle of a terrifying desert north of Tibet, Chinese archaeologists have excavated an extraordinary cemetery. チベットの北にある不毛の砂漠の真ん中で、中国の考古学者らが、驚くべき墓を発掘しました。 Its inhabitants died almost 4,000 years ago, yet their bodies have been well preserved by the dry air. 約四千年前に埋葬された遺体が、乾燥のため、非常に良い状態で保存されていました。 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/8-thumbnail2.png.html http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/4-thumbnail2.png.html A 3,800-year-old mummy, the Beauty of Xiaohe, found at the Small River Cemetery. 小河墓で発見された3800年前のミイラ「小河の美女」 The cemetery lies in what is now China’s northwest autonomous region of Xinjiang, yet the people have European features, with brown hair and long noses. 墓場は、新疆ウイグル自治区にあり、中国領ですが、住民はヨーロッパ人に似ていて、茶色の髪と高い鼻です。 Their remains, though lying in one of the world’s largest deserts, are buried in upside-down boats. 遺体は、世界最大級の砂漠に葬られているのに、ひっくり返した舟が、被せられています。 And where tombstones might stand, declaring pious hope for some god’s mercy in the afterlife, their cemetery sports instead a vigorous forest of phallic symbols, signaling an intense interest in the pleasures or utility of procreation. 死後の神の慈悲を願って、墓石の代わりに、この墓に立てられた柱群は、男根の象徴で、快楽と子孫繁栄への強い関心の表れと考えられます。 The long-vanished people have no name, because their origin and identity are still unknown. 大昔に消えた名も無い人々が、どんな民族で、どこから来たかは不明です。 But many clues are now emerging about their ancestry, their way of life and even the language they spoke. でも、彼らの血統や生活様式や言語についての証拠が、発見されて来ています。 Their graveyard, known as Small River Cemetery No. 5, lies near a dried-up riverbed in the Tarim Basin, a region encircled by forbidding mountain ranges. その第五小河墓は、踏破困難な山脈で囲まれたタリム盆地の、干上がった河床近くにあります。 Most of the basin is occupied by the Taklimakan Desert, a wilderness so inhospitable that later travelers along the Silk Road would edge along its northern or southern borders. 盆地の大部分を占めるタクラマカン砂漠は、人を寄せ付けぬ不毛の土地で、後のシルクロードの旅人らも、南か北のルートを取りました。 In modern times the region has been occupied by Turkish-speaking Uighurs, joined in the last 50 years by Han settlers from China. 現在、この地域は、トルコ系の言葉を話すウイグル族が住み、50年前からは、漢族の入植者も加わりました。 Ethnic tensions have recently arisen between the two groups, with riots in Urumqi, the capital of Xinjiang. 新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでは、最近、民族感情の対立が激化しています。 A large number of ancient mummies, really desiccated corpses, have emerged from the sands, only to become pawns between the Uighurs and the Han. 砂の中から大量に見つかった古代のミイラは、正に乾燥した遺体ですが、ウイグル族と漢族の対立で、火に油を注ぎました。 The 200 or so mummies have a distinctively Western appearance, およそ二百体のミイラは、はっきりと西洋人の特徴を持っています。 WELL PRESERVED The mummy of an infant was one of about 200 corpses with European features that were excavated from the cemetery. 良い保存状態の嬰児のミイラ。 この墓場から発掘されたヨーロッパ人の風貌を持つ約200の遺体の一つ。
and the Uighurs, even though they did not arrive in the region until the 10th century, have cited them to claim that the autonomous region was always theirs. そのため、歴史的には十世紀よりも後に、この地に住み着いたウイグル族は、ここが、古来より自分たちの土地だったと主張します。 Some of the mummies, including a well-preserved woman known as the Beauty of Loulan, were analyzed by Li Jin, a well-known geneticist at Fudan University, who said in 2007 that their DNA contained markers indicating an East Asian and even South Asian origin. 保存状態の良い楼蘭の美女を含む、複数のミイラのDNAを分析した、復旦大学の遺伝学者金力(上海、ふくたんだいがく、ジン・リ副学長)は、2007年に、東アジアと南アジアの人種であろうと発表しました。 The mummies in the Small River Cemetery are, so far, the oldest discovered in the Tarim Basin. 小河墓のミイラは、今の所、タリム盆地で見つかった最古です。 Carbon tests done at Beijing University show that the oldest part dates to 3,980 years ago. 北京大学の放射性炭素年代測定によると、一番古い所は、3980年前と分かりました。 A team of Chinese geneticists has analyzed the mummies’ DNA. 中国の遺伝学研究チームが、ミイラのDNAを分析しました。 Despite the political tensions over the mummies’ origin, the Chinese said in a report published last month in the journal BMC Biology that the people were of mixed ancestry, having both European and some Siberian genetic markers, and probably came from outside China. ミイラの人種について政治的緊張があるにもかかわらず、中国の研究者らは、先月、BMCバイオロジー誌(訳注:BioMed Central, UK 生物医学センター、イギリス)に、論文を発表しました。ヨーロッパとシベリアの遺伝子を持つ、中国以外から来た人々だと。 Evidence that a West-East admixed population lived in the Tarim Basin as early as the early Bronze Age http://www.biomedcentral.com/1741-7007/8/15 The team was led by Hui Zhou of Jilin University in Changchun, with Dr. Jin as a co-author. 研究チームは、吉林大学(きつりんだいがく)の周慧がリーダーで、金力博士と共著です。 周慧(Hui Zhou)吉林大学(Jilin University)教授 http://life.jlu.edu.cn/?mod=teacher&act=view&id=12 All the men who were analyzed had a Y chromosome that is now mostly found in Eastern Europe, Central Asia and Siberia, but rarely in China. 分析を行った男性のミイラのY染色体は、現在の東ヨーロッパ、中央アジア、シベリアに分布するタイプで、中国のタイプは、ほとんどありませんでした。 The mitochondrial DNA, which passes down the female line, consisted of a lineage from Siberia and two that are common in Europe. 女系に伝わるミトコンドリアDNAは、主にシベリアのタイプで、二例がヨーロッパのタイプでした。 Since both the Y chromosome and the mitochondrial DNA lineages are ancient, Y染色体とミトコンドリアDNAが、両方、古いタイプなので、 Dr. Zhou and his team conclude the European and Siberian populations probably intermarried before entering the Tarim Basin some 4,000 years ago. 周博士(周慧)の研究チームは、およそ4000年前にタリム盆地に侵入する前に、ヨーロッパ人とシベリア人が、混血していたと結論しました。 (訳注:”Dr. Zhou and his team”「周博士と彼のチーム」とありますが、周博士は女性なので、”his team” 「彼のチーム」ではなく、”her team” 「彼女のチーム」とすべき。周博士の写真は男性のように見えますが、女です!)
The Small River Cemetery was rediscovered in 1934 by the Swedish archaeologist Folke Bergman and then forgotten for 66 years until relocated through GPS navigation by a Chinese expedition. 小河墓は、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベリイマンが、1934年に再発見しましたが、忘れられていました。中国の探検隊は、GPSで、その66年後に、位置を突き止めました。 Archaeologists began excavating it from 2003 to 2005. 考古学者らは、2003年から2005年に発掘を行いました。 Their reports have been translated and summarized by Victor H. Mair, a professor of Chinese at the University of Pennsylvania and an expert in the prehistory of the Tarim Basin. 発掘の記録を翻訳・要約したのは、ペンシルベニア大学の中国語教授ヴィクター・H・メーアで、タリム盆地の先史時代の専門家です。 As the Chinese archaeologists dug through the five layers of burials, Dr. Mair recounted, they came across almost 200 poles, each 13 feet tall. 中国の考古学者らが掘り下げた所、墓場は、五層あり、メーア博士が数えた所、高さ13フィート(4メートル)の柱が、約200本のありました。 Many had flat blades, painted black and red, like the oars from some great galley that had foundered beneath the waves of sand. 柱の多くは、平たく加工されていて、黒と赤に塗られ、砂の大海の下に埋れた巨大なガリー船から突き出た櫂(オール)のようです。 At the foot of each pole there were indeed boats, laid upside down and covered with cowhide. 各柱の下には、本当にボートが埋められていて、ひっくり返った状態で、牛革が被せてあります。 The bodies inside the boats were still wearing the clothes they had been buried in. ボートの中の遺体は、埋葬された時の衣服が、そのまま残っています。 They had felt caps with feathers tucked in the brim, uncannily resembling Tyrolean mountain hats. 被っているフェルト製の帽子は、つばに鳥の羽が縫い付けられていて、不思議なほどチロリアンハットに似ています。 They wore large woolen capes with tassels and leather boots. 飾り房付きの、ゆったりとした毛織物のケープを纏い、革のブーツを履いています。 A Bronze Age salesclerk from Victoria’s Secret seems to have supplied the clothes beneath — barely adequate woolen loin cloths for the men, and skirts made of string strands for the women. 下着は、まるで、青銅器時代のビクトリアズ・シークレット社(訳注:アメリカの下着メーカー)の販売員から調達したようです。ぎりぎりの大きさの男性用ふんどしや、女性用のビーズのスカートです。 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/5-thumbnail2.png.html Many of the women buried there wore string undergarments like the one in this drawing. 多くの埋葬された女性は、この絵のような、紐の下着をはいていました。
Within each boat coffin were grave goods, including beautifully woven grass baskets, skillfully carved masks and bundles of ephedra, an herb that may have been used in rituals or as a medicine. 舟型の棺には、副葬品があり、草できれいに編んだ籠や、精巧に彫られたお面、麻黄(マオウ)の束などです。麻黄は、儀式や医療で用いられたのでしょう。 In the women’s coffins, the Chinese archaeologists encountered one or more life-size wooden phalluses laid on the body or by its side. 中国の考古学者は、女性の棺に、木製の実物サイズの男根が、一つ以上、体の上か脇に置かれているのを見つけました。 Looking again at the shaping of the 13-foot poles that rise from the prow of each woman’s boat, the archaeologists concluded that the poles were in fact gigantic phallic symbols. 女性の棺の舳先から聳え立つ13フィート(4メートル)の柱の形から、考古学者は、巨大な男根の象徴と考えます。 The men’s boats, on the other hand, all lay beneath the poles with bladelike tops. 一方、男性の棺の上の柱は、先が櫂のように平たくなっています。 These were not the oars they had seemed at first sight, the Chinese archaeologists concluded, but rather symbolic vulvas that matched the opposite sex symbols above the women’s boats. 始め、櫂のように見えた柱は、女性の棺と反対の性、女性器の象徴と、考古学者は結論しました。 “The whole of the cemetery was blanketed with blatant sexual symbolism,” Dr. Mair wrote. In his view, the “obsession with procreation” reflected the importance the community attached to fertility. 「墓全体が露骨な性的象徴である。」と、メーア博士は書いています。子孫繁栄への執着は、集団にとっての生殖重要性を反映していると言えるでしょう。 Arthur Wolf, an anthropologist at Stanford University and an expert on fertility in East Asia, said that the poles perhaps mark social status, a common theme of tombs and grave goods. スタンフォード大学の人類学者で東アジアの生殖能力専門家のアーサー・ウルフは、柱が、社会的地位を示すと言います。墓や副葬品が示すのと同じです。 “It seems that what most people want to take with them is their status, if it is anything to brag about,” he said. 「たぶん、死後の世界に、社会的地位を持って行ったのです。」 Dr. Mair said the Chinese archaeologists’ interpretation of the poles as phallic symbols was “a believable analysis.” メーア博士は、中国の考古学者が、柱群を男根の象徴と考えるのは、妥当な分析だと言います。 The buried people’s evident veneration of procreation could mean they were interested in both the pleasure of sex and its utility, given that it is difficult to separate the two. 埋葬された人々の、生殖へのはっきりした崇拝は、性の快楽と有用性を重視していたからでしょう。二つを切り離す事はできません。 But they seem to have had particular respect for fertility, Dr. Mair said, because several women were buried in double-layered coffins with special grave goods. 彼らは、生殖に大きな敬意を払っていたようです。何人かの女性は、二重の棺に特別な副葬品と一緒に、葬られていました。と、メーア博士は言います。 Living in harsh surroundings, “infant mortality must have been high, so the need for procreation, particularly in light of their isolated situation, would have been great,” Dr. Mair said. 厳しい自然環境では、乳幼児死亡率が高かったはずで、生殖が重要だったでしょう。特に、孤立した状態では。 Another possible risk to fertility could have arisen if the population had become in-bred. “Those women who were able to produce and rear children to adulthood would have been particularly revered,” Dr. Mair said. 別の問題の可能性もあります。近親交配では、出生率が下がります。子供を産んで、成年まで育てられる女性は、特に、尊敬を集めたでしょう。 Several items in the Small River Cemetery burials resemble artifacts or customs familiar in Europe, Dr. Mair noted. 小河墓の葬制と埋葬品は、ヨーロッパに似ていると、メーア博士は言います。 Boat burials were common among the Vikings. String skirts and phallic symbols have been found in Bronze Age burials of Northern Europe. バイキングも舟を一緒に埋めました。北ヨーロッパの青銅器時代の墓からも、紐スカートや男根が見つかっています。 There are no known settlements near the cemetery, so the people probably lived elsewhere and reached the cemetery by boat. 墓の近くからは、住居跡が見つかっていません。人々は、どこかに住んでいて、墓場に舟で来たのでしょう。 No woodworking tools have been found at the site, supporting the idea that the poles were carved off site. 木材加工の道具は、その場所では見つかっていないので、柱は、別の場所で加工された可能性があります。 The Tarim Basin was already quite dry when the Small River people entered it 4,000 years ago. 小河墓地方に人々が入植した4千年前には、タリム盆地は、すでに、かなり乾燥していました。 They probably lived at the edge of survival until the lakes and rivers on which they depended finally dried up around A.D. 400. 彼らは、紀元後400年に、生活の糧だった湖と河が完全に干上がるまで、そこで、ぎりぎりの生活をしていたのでしょう。 Burials with felt hats and woven baskets were common in the region until some 2,000 years ago. フェルトの帽子と編んだ籠の副葬は、この地域で、約2000年前まで見られました。 The language spoken by the people of the Small River Cemetery is unknown, but Dr. Mair believes it could have been Tokharian, an ancient member of the Indo-European family of languages. 小河墓の人々の言語は分かりませんが、メーア博士は、古いインド・ヨーロッパ語派のトカラ語の可能性があると考えます。 Manuscripts written in Tokharian have been discovered in the Tarim Basin, where the language was spoken from about A.D. 500 to 900. タリム盆地では、トカラ語の文書が見つかっています。紀元後500年から900年に、当地で、話されていました。 Despite its presence in the east, Tokharian seems more closely related to the “centum” languages of Europe than to the “satem” languages of India and Iran. トカラ語は、東方に分布していましたが、インド・イラン系の「サテム語」ではなく、ヨーロッパの「セントゥム語」に近いです。 The division is based on the words for hundred in Latin (centum) and in Sanskrit (satam). この分類は、単語の「百」が、ラテン語で「セントゥム」、サンスクリット語で「サタム」と成る事から来ています。 The Small River Cemetery people lived more than 2,000 years before the earliest evidence for Tokharian, but there is “a clear continuity of culture,” Dr. Mair said, in the form of people being buried with felt hats, a tradition that continued until the first few centuries A.D. 小河墓の人々は、トカラ人の2千年以上も前に住んでいましたが、メーア博士は、文化の明確な継続性があると言います。フェルト帽子を副葬する習慣は、紀元後数世紀まで続きました。 http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html 2016年02月21日 小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元 中国新疆 http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html
小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元(英語) Buried in Sands: Environmental Analysis at the Archaeological Site of Xiaohe Cemetery, Xinjiang, China
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE6A798E5AD90-thumbnail2.jpg.html Jin-Feng Li, Idelisi Abuduresule, Francis M. Hueber, Wen-Ying Li, Xin-Jun Hu, Yue-Zhuo Li, Cheng-Sen Li mail http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0068957 小河の王女 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E381AEE78E8BE5A5B3-thumbnail2.jpg.html Abstract 要約
Palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains preserved at the archaeological site of Xiaohe Cemetery (Cal. 3980 to 3540 years BP) in Lop Nur Desert of Xinjiang, China were investigated for the reconstruction of the ancient environments at the site. 中国、新疆のロプノール砂漠にある小河墓遺跡(3980年〜3540年前)の植物化石と泥の棺に含まれていた花粉化石を研究し、付近の古環境を再現しました。 The results demonstrate that the Xiaohe People lived at a well-developed oasis, which was surrounded by extensive desert. 研究の結果、小河人は、広大な砂漠の中の良く発達したオアシスに住んでいました。 The vegetation in the oasis consisted of Populus, Phragmites, Typha and probably of Gramineae, オアシスの植生は、ポプラ属(Populus)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科植物(Gramineae)で コトカケヤナギ.jpg ヨシ属.jpg ガマ属.jpg while the desert surrounding the oasis had some common drought-resistant plants dominated by Ephedra, Tamarix, Artemisia and Chenopodiaceae. オアシス周辺の砂漠には、マオウ属 (Ephedra)、 ギョリュウ属(Tamarix / 御柳)、 ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)などの耐乾燥植物が主でした。 マオウ(Ephedra).jpg 御柳.jpg ヨモギ属(Artemisia).jpg 梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg This present work provides the first data of the environmental background at this site for further archaeological investigation. 今後の考古学研究で参考にすべき、遺跡周辺の最初の生態学的データを提供します。 Introduction 序説
In the past Xinjiang formed an important bridge connecting the Eastern and Western races of Eurasian continents かつて、新疆は、東洋人と西洋人を繋ぐ、重要な架け橋でした。 and became famous for the ancient Silk Road going to Central Asia and Eastern Europe from China. ここは、中国から中央アジア、東ヨーロッパに至る古代のシルクロードで、有名です。 Consequently, the archaeological discoveries in this area are always of great interest (e.g. Loulan City). 従って、この地域での考古学的発見は、常に大きな興味を惹きます。(楼蘭など) Signs of human activities can be traced in Xinjiang for 10,000 years [1]. 新疆では、人類活動の痕跡は、一万年前からあります。 Stone tools discovered at the site of Astana are nearly 5000 years old [2]. アスタナ遺跡では、発見された石器の年代は、およそ五千年前です。 Many cemeteries were discovered since the 1970s, such as the Gumugou Cemetery (around 3800 B.P.) [3], Wufu Cemetery in the Hami District with an age of nearly 3300-3000 years old [4]. 1970年代以来、多くの墓場が発見されました。グムゴウ墓場(約3800年前)や、ハミ(哈密)地区にある、およそ3300年から3000年前のウフ墓場です。 During the period from 3000 to 2000 B.P., a group of people lived in the Turpan Basin and adjacent area, 3000年から2000年前には、トルファン盆地や周辺に、人々が住み着いていました。 and their different cemeteries, such as the Yanghai Tombs (ca. 2800 B.P.) [5], Yuergou Site (2400-2300 B.P.) [1], as well as many much younger sites, 彼らの墓地は、他にも、ヤンガイ墓地(2800年前)、ユエルゴウ遺跡(2300〜2400年前)があり、さらに、もっと後の時代の墓地も多数あります。 reveal much about the lives and beliefs of these peoples. それらは、彼らの生活や宗教について、多くの事を教えてくれます。 Many mummies were found well-preserved in this area, owing to the dryness of the desert and the desiccation of the corpses [6]. 乾燥した砂漠の気候が、遺体を干からびさせたため、多数の保存状態の良いミイラが発見されています。 The fantastic mummies and the delicate relics from the archaeological sites in Xinjiang, including the artifacts and crops, 新疆の考古学的遺跡の素晴らしいミイラや、工芸品や穀物を含む繊細な遺物は、 can tell us amazing stories: what the world looked like at any given point in time and space [7]. 時空を越えた過去の世界の様子を、的確に語りかけてくれます。 The plant remains found at these sites provided an opportunity to study the ancient plants and their utilization by local people, as well as their bearing on environmental changes in the past. これらの遺跡で見つかる植物の遺物は、古代の植物について、住民がその植物をどのように利用したか、過去にどのような環境変化があったかの研究を可能にします。 Some archaeobotanical researches have been done in Xinjiang in the past few years, mainly focusing on the relationship between plants and people [5,8–10] and also on the environmental data extracted from artifacts [11,12]. 過去数年間に新疆で、いくつか考古学的研究がなされましたが、研究の焦点は、植物と人間の関係や、さらに、工芸品から得られた環境に関するデータです。 In the present contribution, the palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains found at Xiaohe Cemetery are investigated comprehensively for the reconstruction of the historical environments in Xiaohe. 本研究では、小河墓の古代の環境を再現するために、泥の棺に含まれる花粉と小河墓の植物遺骸を研究しました。 Site description 遺跡についての説明 The Xiaohe (“Small River”) Cemetery was first discovered in 1911 by an aboriginal hunter named Ördek who played a part in Dr. Sven Hedin’s discovery of the Loulan ruins around 1910-1911 [13]. 小河墓の発見者は、オルデクと言う名の現地の猟師で、彼は、1910年から1911年頃のスヴェン・ヘディン博士による楼蘭遺跡の発見にも貢献しました。 Two decades later, a Swedish archaeologist Folke Bergman, coined the name for this graveyard, and excavated 12 burials guided by Ördek in 1934 [13]. 約二十年後、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベルグマンは、この墓所を命名し、オルデクの案内で1934年に12体の被埋葬者を発掘しました。 After that, the cemetery was forgotten for more than sixty years until the Relics and Archaeology Institute of Xinjiang Uygur Autonomous Region excavated this graveyard in detail in 2002 [14]. その後、この墓地の存在は、2002年にレリクスと新疆ウイグル自治区考古学研究所が詳しく発掘調査するまで、六十年間以上忘れられていました。 The rediscovery of Xiaohe Cemetery was considered to be one of the top ten archaeological discoveries in 2004 in China. 小河墓の再発見は、2004年の中国の考古学的発見のトップテンの一つでした。 About 170 tombs have been excavated since then, but unfortunately many of them were destroyed by treasure hunters. その後、約170個の墓が発掘されましたが、残念なことに、その多くは墓泥棒に壊されていました。 The Xiaohe Cemetery, with an area of about 2500 m2, is some 4 km away from the Small River (Xiaohe, in Chinese), a downstream branch of Kongque River in Lop Desert (Figure 1) [15], and also about 175 km east of the Loulan ancient city in Xinjiang [14]. 小河墓の面積は約2500pで、位置は、ロプ砂漠を流れるコング川の下流部の支流からおよそ4kmであり、新疆の古代都市楼蘭の約175km東です。 With its hillock shape the Xiaohe Cemetery forms a well-defined landmark on the flat desert. 小河墓は丘なので、起伏のない平らな砂漠では目立ちます。 The top of the cemetery possesses many upright wild poplar poles and more fallen ones [13] (Figure 2). 墓地の頂上には、ポプラの木の柱が林立していますが、それ以上の数の倒れた柱もあります。 These poles were thought to be the remains of a house which had lost its roof a long time ago [13]. これらの柱は、ずっと昔に屋根が無くなってしまった建物の名残りと考えられます。 Two main kinds of trunks stood in the cemetery, i.e. the multi-prismatic shaped poles (= pole monuments in Bergman, 1939 [13]) are all placed in front of females’ tombs and the oar-shaped ones (= oar-like monuments in Bergman, 1939 [13]) in front of those of males. 墓地に立てられている柱には、二種類あります。多角形の柱は、全てが女性の墓の前に立てられています。そして、オールの形の柱は、全てが男性の墓の前にあります。 Some archaeologists inferred that these poles were the symbols of fertility worship of Xiaohe People [13]. これらの柱を、小河墓に住んでいた人々の多産信仰の象徴と考える考古学者もいます。 The multi-prismatic shaped poles represent the phallus and the oar-shaped ones represent a vulva. 多角形の柱が、ペニスを表し、オール型の柱が、外陰部を表すと考えるのです。 小河墓の地図 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE59CB0E59BB3-thumbnail2.jpg.html
Figure 1. Map showing the Lop Region and the location of Xiaohe Cemetery (modified from [13]). 図1.ロプ地区と小河墓の位置 小河墓の見取り図 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE8A68BE58F96E3828AE59BB3-thumbnail2.jpg.html Figure 2. Plan diagram of the Xiaohe Cemetery. 図2.小河墓の見取り図 (a) mud coffin BM28; (b) mud coffin BM 1; (c) mud coffin M100; (d) mud coffin M75 (a)泥棺BM28 (b)泥棺BM1 (c)泥棺BM100 (d)泥棺BM75 (plan in top left corner revised from [14]). Most of the coffins, which are made from the wood of Populus euphratica Oliv., have an elliptical shape. コトカケヤナギ(Populus euphratica)の材木で作られた棺の多くは、楕円形です。 コトカケヤナギ.jpg However, some coffins are rectangular in shape and covered by a layer of mud. しかし、長方形で表面を泥で固めた棺もあります。 These are called “mud coffins” (Figure 3a). これらを「泥棺」と言います。 The result of 14C dating revealed that the age of the lowest layer of Xiaohe Cemetery is 3980 ± 40 yr BP [16], which is the oldest archaeological dating record in Xinjiang. 炭素14年代測定で、小河墓の最下層は、3980年前(±40年)と分かりました。これは、新疆の考古学的年代測定の最古のケースです。 Desiccated wheat grains from the cemetery were dated to approximately 3760–3540 yr BP [17]. 墓地で見つかった乾燥した小麦の種子の年代は、およそ3760年から3540年前です。 パンコムギ(Triticum aestivum).jpg Hence, the currently known age of Xiaohe Cemetery is about 3980 to 3540 yr BP, which was between early Xia (2070–1600 BC) to early Shang Dynasty (1600–1046 BC) in China, i.e. early Bronze Age. 現在分かっている小河墓の年代は、およそ3980年から3540年前で、中国史では、夏王朝(紀元前2070年から紀元前1600年)の初期から、殷商時代(紀元前1600年から紀元前1046年)の初期に当たります。これは、青銅器時代の初めです。 Many well-preserved mummies were found in this cemetery. Bergman described a lady with very strong European characters (e.g. brown hair, fine aquiline nose). 墓地では、多くの保存状態の良いミイラが見つかりました。ベルグマンは、はっきりしたヨーロッパ人の特徴を持つ女性のミイラについて記述しています。(茶髪、はっきりした鷲鼻) 小河の王女 http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E381AEE78E8BE5A5B3-thumbnail2.jpg.html DNA analysis from 30 mummies found here also demonstrated that the Xiaohe People were a West-East admixed population, which constitutes the earliest genetic evidence for an admixed population settled in the Tarim Basin [16]. ミイラ30体のDNAを分析した所、小河墓の人々は、東西の混血集団と分かりました。タリム盆地に居住した混血集団の最古の遺伝子的証拠です。 図3泥棺と柳の葉.jpg Figure 3. The mud coffin M75 (a); sample collected from the coffin (b); and the leaves of Populus euphratica found in the grave (c to f). 図3. (a) 泥棺M75 (b) 泥棺から採取したサンプル (c ~ f) 墓の中にあったコトカケヤナギの葉 Materials and Methods 材料と方法
In 2003, we completed our archaeological research at the site of the Xiaohe Cemetery and collected four mud samples from each of the mud coffins (BM-1, BM-28, BM-75 and M-100) (Figure 2, 3 b) for laboratory study. 2003年に小河墓での現地調査を終了し、研究室で分析するために四つの泥棺(BM-1、BM-28、BM-75、M-100 )から各一つずつ泥のサンプルを採取しました。 Meanwhile, we also collected many leaves of P. euphratica in one of the tombs with poplar remains (Figure 3 c–f). さらに、墓の一つからコトカケヤナギの葉を多数採取しました。 In the laboratory, we first weighed 30 grams of each sample and put them into beakers with distilled water containing 1 milliliter of a suspension of Lycopodium spores (ca. 83,500 grains per milliliter). 研究室で、各サンプルから30gを測り取り、1㎖のヒカゲノカズラ胞子(1㎖に83,500粒)を加えた蒸留水に入れてミキサーにかけました。 After immersion for 48 hours, the samples were sieved using a mesh with the pore size of 1 mm2. 48時間水に浸した後、穴のサイズが1㎟のメッシュで、漉しとりました。 The residue was mainly composed of macrobotanical remains and livestock hairs (Figure 4 c). メッシュに引っかかったのは、主に大きな植物破片と家畜の体毛です。 The screenings were prepared for a palynological study using the heavy liquid method [18]. 分析用の花粉を取り出すために、重液法を用いました。 We counted the contents of three slides from each specimen to obtain a representative sample of the palynomorphs (Table 1). 各サンプルから三枚のスライドの花粉化石をカウントしました。 図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛.jpg Figure 4. Other materials found from the samples. (a) straws; (b) piece of sheep manure; (c) livestock hairs. 図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛 花粉計数.jpg Table 1. Pollen counting data of the samples. 表1. 各サンプルの花粉を計数 Results and Discussion 結果と検討
Palynological analysis 花粉分析 Totally, 96 pollen grains, belonging to nine types of palynomorphs, were found in the four palynological samples (Table 1) and all taxa were identified applying single-grain technique [19] (Figure 5, Figure 6; the only pollen grain of Alnus was lost during the preparation for the scanning electronic microscope). 4つのサンプルから、9種類の花粉化石が96粒得られました。そして、単粒法を用いて、すべての分類群を同定しました。一粒だけ見つかったハンノキ属の花粉化石は、走査電子顕微鏡のプレパラート作成時に紛失しました。 Most of the taxa are common in arid areas (e.g. Chenopodiaceae, Artemisia, Ephedra, Tamarix and Gramineae). 分類群のほとんどは、乾燥地帯に見られる植物です。 (アカザ科、ヨモギ属、マオウ属、ギョリュウ属、イネ科) Chenopodiaceae is well-adapted to dry and saline environments. アカザ科は、乾燥した塩分の多い環境に良く適応しています。 Artemisia normally grows in arid or semi-arid habitats. ヨモギ属は、通常、乾燥地帯や半乾燥地帯に生育します。 Ephedra is a common shrub of dry, open sites and is predominantly a warm desert-steppe plant restricted to both meteorologically and physiologically dry areas [20]. マオウ属は、乾燥した開けた土地の低木で、主に、気象的・物理的に乾燥した温暖なステップ砂漠に見られます。 Tamarix is one of the most common woody plants in Xinjiang [21]. ギョリュウは、新疆で最も普遍的な樹木の一つです。 Gramineae pollen grains are often used as an indicator of openness. イネ科の花粉は、しばしば、土地が開けている度合いの尺度に用いられます。 However, these grass pollen are one of the most ubiquitous and readily recognized pollen types found in terrestrial sediments. もっとも、イネ科草本の花粉は、陸上の土壌には、どこでも普遍的に含まれています。 Although these monoporate grains differ in size, surface texture and annular width, these features do not permit reliable recognition at the subfamily level [22]. これらの単孔粒は、大きさ、表面の形状、ランド幅が異なっていても、これらの特徴で、亜科まで分類する事はできません。 Moreover, the pollen wall of Gramineae is thin, and is low in sporopollenin, hence has a poor preservational potential [23]. さらに、イネ科の花粉壁は薄く、スポロポレニンも少ないので、保存されにくいです。 These factors suggest that the pollen cannot be transported far and are easily damaged when buried in soil. これらの要因から、花粉は遠くから持ち込まれたものではなく、また、土中で壊れやすい事が分かります。 However, based on the number of reeds (Phragmites sp.) found in the graves, it seems reasonable to believe that most of the Gramineae pollen in our samples belong to Phragmites. ところで、墓地内で多くの葦(ヨシ属)が見つかった事から、イネ科の花粉の多くが、ヨシ属だと推定できます。 Corylus and Alnus, as wind-pollinated taxa very readily overproduce airborne pollen grains, and are the normal elements found in lake sediments and soil. ハシバミ属とハンノキ属は、大量に花粉をまき散らす風媒花植物であり、それらの花粉は、湖沼土壌や堆積物中に普通に含まれます。 ハシバミ.jpg Alnus ハンノキ属.jpg The grains of these two taxa may come from the forests on the mountains surrounding the study areas. これらの二つの分類群の花粉は、研究対象地の周辺の山地林から飛来した可能性があります。 図5 花粉写真1.jpg Figure 5. Palynomorphs found from the samples collected from the mud coffin. 図5.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石 The first column shows pollen grains under light microscope; 左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒 the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope; 真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope. 右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状 (a) Ephedra; (b) Typha; (c) Artemisia; (d) Chenopodiaceae. (a) マオウ属 (b) ガマ属 (c) ヨモギ属 (d) アカザ科 図6 花粉2.jpg Figure 6. Palynomorphs found in the samples collected from the mud coffin. 図6.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石 The first column shows pollen grains under light microscope; 左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒 the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope; 真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope. 右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状 (a) Gramineae; (b) Corylus; (c) Tamarix. (a) イネ科 (b) ハシバミ属 (c) ギョリュウ属 Compared with the taxa mentioned above, the presence of Typha pollen in the assemblage is more interesting. 以上の分類群に加えて見つかったガマ属の花粉は、非常に興味深いです。 As an aquatic, Typha can normally live in a variety of wetland habitats, and their pollen grains can be frequently found in peat and lignite beds [24]. 水生植物であるガマ属は、通常、様々な湿地に生育し、その花粉粒は、泥炭や亜炭の湖沼底土壌中で普通に見られます。 Hence the occurrence of Typha pollen illustrates that there was surface water close to the Xiaohe People’s residence. つまり、ガマ属の花粉の存在は、小河墓の人々の住居のそばに湖沼があった事を示します。 The mud which covered the coffins may have been obtained from the habitat of the Typha. 棺を覆う泥は、ガマが生育する場所で得られた可能性があります。 Plant remains 植物の遺骸 At a traditional funeral in China, people always put something precious into the coffin and/or grave, in the hope that the dead person can live better with these objects in another world. 中国の伝統的な埋葬では、常に棺の中や墓穴の中に、貴重品が副葬されました。死者が、あの世で、これらの品物を使って生活できる様にです。 Those relics found in tombs provide us with an opportunity to learn about the culture of the ancient people and the environment in which they lived. 墓地で見られるこれらの慣習は、古代人がどのような環境や文化の中で生活していたかを教えてくれます。 Several kinds of plant remains were found during the first excavation of the cemetery by Bergman, ベルグマンによる墓地の最初の発掘で、数種類の植物遺骸が見つかりました。 i.e. the poles made of Populus euphratica, Ephedra twigs, Tamarix twigs, grains of bread wheat (Triticum aestivum) [17], Jiji grass (Achnatherum splendens), reed (Phragmites sp.) and grains of broomcorn millet (Panicum miliaceum) [13,14,17]. コトカケヤナギ(Populus euphratica )で作られた柱、マオウ(Ephedra)の枝、ギョリュウ(Tamarix)の枝、パンコムギ(Triticum aestivum)の種子、芨芨草 (ジジソウ:Achnatherum splendens)、ヨシ属(Phragmites sp.)、キビ(Panicum miliaceum)の種子です。 ジジソウ.jpg キビ(Panicum miliaceum).jpg パンコムギ(Triticum aestivum).jpg DNA analysis of the wheat grains confirms that the grains found here are similar to hexaploid bread wheat [17]. 小麦の種子のDNA分析で、それが、六倍体のパンコムギに近い事が分かりました。 (訳注:二倍体のタルホコムギと四倍体のデュラムコムギを交配して栽培種の六倍体パンコムギができたと考えられます。) As broomcorn millet grains always show up together with wheat grains in the graves [14,17], we can presume that broomcorn millet was also cultivated by then. キビの種子とコムギの種子が両方ある事から、当時、コムギとキビが栽培されていたと推測できます。 Populus euphratica is the characteristic element of the common desert riparian forest in Northwest China [25]. コトカケヤナギは、中国北西部の河畔林に特徴的で普遍的に見られる樹木です。 As a common shrub with medicinal function, Ephedra was considered as a magic plant by the Lop people. 普通に見られる薬効のある低木であるマオウを、ロプ住民は、魔法の植物と考えました。 Also, it is very common to find Ephedra branches in most of the graves of the ancient Lop people in the Lop Nur area, such as LF, LS and LD graveyards [26], Cemetery 36 [26], Gumugou cemetery [27] and graveyards around Loulan ancient city [28]. マオウの枝は、ロプヌール地区の古代ロプ住民の墓所内で、しばしば見つかります。LF墓所、LS墓所、LD墓所、第36共同墓地、グムゴウ共同墓地、楼蘭古代都市周辺の墓場などです。 Some Chinese archaeologists suggest that this phenomenon is a kind of plant worship and call it ephedra worship [27,28]. これを、信仰の一つと考えて、マオウ信仰と名付ける中国の考古学者もいます。 マオウ(Ephedra).jpg The medical use of Ephedra has been known for several thousand years in China. 中国では、数千年来、マオウの薬効が知られていました。 As a central nervous excitant, ephedra was also used in ceremonies to produce feelings of exhilaration by various religious groups including Hindus [29]. 中枢神経刺激性のマオウは、高揚感を喚起する目的で、ヒンドゥー教を含む、様々な宗教の儀式で用いられました。 As an ingredient of Haoma or Soma, ephedra has been used for millennia in both Iran and India [30] as a beverage to achieve longevity and immortality [31]. マオウは、ハオマやソーマの成分の一つであり、イランとインドで数千年間、長寿や不死の飲み物として用いられました。 (訳注:ソーマは、ヴェーダの祭祀で用いられる一種の興奮飲料で、 ハオマは、ゾロアスター教において重視される神酒) The intention of putting tamarisk twigs in the burials has never been studied yet. ギョリュウの枝を副葬する目的については、未研究です。 御柳.jpg The grains of wheat (Triticum aestivum) were normally found together with the ephedra twigs (or fragments) in graves [28]. パンコムギ(Triticum aestivum)の種子は、通常、マオウの枝(または破片)と一緒に、墓の中で見つかります。 Moreover, some dried porridge of millet was also preserved in some graves [13]. さらに、干からびたキビのお粥が、いくつかの墓で見つかりました。 These plant remains indicate that wheat and millet were also very precious for the ancient people. これらの植物遺骸は、ここの古代人にとって、小麦とキビが大変な貴重品だった事を示唆します。 Other plant and animal matter 他の植物と動物由来の物 The straws (Figure 4 a) found in the mud samples were used to reinforce the mud for construction purposes. 泥のサンプル中で見つかった藁は、泥の構造物を強化するために使われました。 This technique is still widely used in the countryside of China. この工法は、現在でも中国の田舎で、広く使われています。 These straws may have originated from wheat and/or millet. これらの藁は、小麦やキビの茎だと思われます。 The appearance of the livestock hairs (Figure 4 b) and the sheep manure (Figure 4 c) in the samples illustrates that the earth used to make the covering layer of the coffins must have been obtained from a place frequented by the animals. サンプル泥中への家畜の毛や羊の糞の混入は、棺を覆う泥が、動物が頻繁に通る場所から採取された事を示します。 The occurrence of many/numerous bones and furs in the Xiaohe Cemetery [13,14], suggests that some of the Xiaohe People were living as herdsmen. 小河墓にある大量の骨や動物の毛は、小河墓の人々が牧畜を営んでいた事を示唆します。 Environmental analysis 環境分析 Based on the plant analyses presented above, the presence of both xerophytic and hydrophytic plants (e.g. Typha) demonstrate that there was enough water in the Small River at that time though it lies in the expansive Lop Desert. 上記の植物分析で、乾生植物と水生植物(ガマ属:Typha )の両方が見られる事から、当時は、広大なロプ砂漠を流れていた小河(Small River)に十分な水量があった事が分かります。 ガマ属.jpg In the surrounding desert, there were many Ephedra, Tamarix, Artemisia and some members of the Chenopodiaceae plants. 周辺の砂漠には、多くのマオウ属(Ephedra )、ギョリュウ属(Tamarix )、ヨモギ属(Artemisia )と、いくらかのアカザ科(Chenopodiaceae )植物がありました。 マオウ(Ephedra).jpg 御柳.jpg 梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg ヨモギ属(Artemisia).jpg The people apparently collected the ephedra and Tamarix for medicinal or religious use from the neighboring arid terrains. 明らかに人々は、医学的、または、宗教的目的で、マオウとギョリュウを、周辺の乾燥地帯から採取しました。 However when the people lived there the site was a well-watered wetland along the Small River. しかしながら、この人々が住んでいた頃は、この場所が、小河(Small River)沿いの水量豊富な湿原でした。 There the rich alluvial soils of the flooded areas served to support the growth of their crops, and provide areas where livestock could be sustained/raised. その氾濫原の肥沃な沖積土壌が、穀物の栽培と家畜の飼育を可能にしていました。 Moreover, this location was the habitat of the common Populus euphratica which served in the construction of their houses and coffins. さらに、この場所には、コトカケヤナギ(Populus euphratica)が普遍的に生育していて、家屋や棺の材料になりました。 コトカケヤナギ.jpg So although the regional natural environment was very dry, the hydrological living conditions were good enough along the small river for the Xiaohe People to survive. 地域の自然環境はとても乾燥していましたが、小河(Small River)沿いの水利的生活環境は、小河墓人にとって良好でした。 Conclusions 結論 Much research has shown that the climate in the Lop Nur region has been very dry since the Early Holocene [32–34]. 多くの研究者が、ロプヌール地域の気候が、完新世の初期以降、とても乾燥している事を示しました。 (訳注:完新世は、約1万年前から現在まで) However, the so-called dry climate is actually a kind of meteorological myth. しかし、その乾燥気候は、実際には、気象学的神話に過ぎません。 Fed by melt-water from the Tianshan Mountain, the runoffs of the rivers into the Tarim Basin are actually quite considerable, especially in summer time. 天山山脈の雪解け水が流れ込む川は、タリム盆地に、特に夏季に、かなりの水量を注ぎ込みます。 Many oases depend on such seasonal rivers. 多くのオアシスは、この様な季節的河川に依存しています。 During 3600-3000 a BP, the lake of Lop Nur was very large and there were many deltas around it. 3600年から3000年前までは、ロプヌール湖はとても大きく、周辺には、多くの三角州がありました。 Fishing and hunting were very common at that time [35]. 当時は、漁労と狩猟が、活発に行われていました。 According to historical documents, the water area of Lop Nur was still very large during the Jin Dynasty (AD 226-420) [36]. 歴史的文書によると、ロプヌール地方の水量は、晋時代(紀元226年から420年)には、まだ豊富でした。 Based on this work, the living environment of the Xiaohe People was a very well developed oasis of deltas, which was surrounded by extensive desert. 本研究で、小河墓人の生活環境は、広大な砂漠で囲まれた、よく発達したオアシスと三角州だったと分かりました。 The main taxa of the vegetation in the oasis were Populus euphratica, Phragmites, Typha and maybe other weedy Gramineae. オアシスの植物の主な分類群は、コトカケヤナギ(Populus euphratica)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科(Gramineae)の草本でした。 However, outside the oasis, drought-resistant taxa dominated the vegetation, e.g. Ephedra, Tamarix, Artemisia and members of the Chenopodiaceae. ところで、オアシスの外には、耐乾燥性の植物分類群が主流でした。マオウ属(Ephedra)、ギョリュウ属(Tamarix)、ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)です。 The Xiaohe People mainly lived on animal husbandry. 小河墓人は、主に、牧畜で生計を立てていました。 However, they also attempted to cultivate cereals such as bread wheat and broomcorn millet. しかし、パンコムギやキビなどの穀物の栽培も試みていました。 キビ(Panicum miliaceum).jpg パンコムギ(Triticum aestivum).jpg Most of the coffins in the cemetery are canoe-shaped, which may suggest that the Xiaohe People spent some of their lives on water. 墓地の棺の多くは、舟形です。これは、小河墓人が水上生活もしていた事を示唆します。 Bergman [13] inferred that because there are no known settlements near the cemetery, the people probably lived somewhere else along the river and reached the cemetery by boats. ベルグマンは、墓地の近くには住居跡が見つかっていないので、人々が川沿いの別の場所で暮らし、舟で墓地を訪れたと考えました。 http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html タクラマカン砂漠から大量に出土中国最古のミイラ群 横堀克己=文 新疆文物考古研究所=写真提供 http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm
木棺の中から姿を現した女性ミイラ【M11】
中国の西部、新疆ウイグル自治区の中央部に、中国最大の砂漠、タクラマカン砂漠が広がっている。ここは太古からシルクロードが走り、東西の文化が出会ってきた舞台である。 有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。 今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。 さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。 この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた。 詳しい学術的報告は近く発表されるが、本誌は新疆文物考古研究所の全面的協力を得て、小河墓地の発掘調査の全容を紹介する。 mirra1 半世紀後に甦った墓地 【砂漠に消えた遺跡】
小河墓地の全景 1934年、中国政府から調査の依頼を受けたスウェーデンの考古学者、ベルグマン博士は、地元の猟師オルドックの案内で、タクラマカン砂漠の中を流れる孔雀河から南に分かれた支流の小河をさかのぼっていた。そして小河から4キロ入った砂漠の砂丘の上に、高い枯れた木の柱が無数に立っているのを発見した。 近寄って見ると、枯れた木は死んだ樹木ではなく、人工的に立てられ、長く強風に晒されて白くなり、亀裂が入っていることが分かった。足元には人骨や毛織物の破片が落ちており、黒い長髪の残るミイラの顔面も見つかった。 この場所は、地元では「有上千口棺材(千を超す棺がある)」と伝承されている墓地だった。ベルグマンはここを「小河5号墓地」と命名し、12基の墓を発掘し、ミイラや木屍(遺体の一部または全部を木でつくったもの)を持ち帰った。 そして1939年、ベルグマンは『新疆考古研究』を発表した。この中でベルグマンは小河墓地の規模の大きさや特異な墓葬形式を紹介し、ロプノール早期の文明ではないかとして世界の考古学界で大きな反響を呼んだ。 ところが長い戦乱や混乱の中で、小河墓地の存在はいつしか忘れ去られ、その場所さえ分からなくなってしまった。 小河墓地が砂漠の中で再び発見されたのは、半世紀以上経った2000年12月11日である。新疆文物考古研究所の王炳華研究員(現在、中国人民大学国学院の特別招聘教授)が深圳のテレビ映画撮影クルーに同行し、GPSなどを用いてついに小河墓地を探し当てたのだった。 【砂丘を越えて発掘現場へ】 砂漠の中を行くには、専用の車両を使わなければならない 2002年12月、国家文物局の許可を得て新疆文物考古研究所は小河墓地考古隊を編成し、1カ月間の小規模な試掘を行うことになった。
タクラマカン砂漠は新疆ウイグル自治区南部にある中国最大の砂漠。北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれたタリム盆地の中央部にある。東西約千キロ、南北約400キロ、面積33万7600平方キロ。流動砂丘が85%を占め、砂丘の高さは普通80〜150メートル、中には200〜300メートルに達するものもある。 小河墓地は、そのタクラマカン砂漠の東部、有名な楼蘭古城遺跡から175キロ西にあり、もっとも近い集落であるアラカン鎮からも36キロ離れた砂漠のど真ん中に位置している。 12月26日、考古隊は二両の砂漠用トラックに発掘機材や物資を満載し、ロプノールの西側の農墾兵団34団のティエカンリク鎮を出発し、水のないタリム河を越え、小河墓地に向かった。まる二日走っても、直線距離で十数キロしか走れず、27日夜、トラックはとうとう砂に車輪を取られ、動けなくなった。 GPSで観測した結果、小河墓地までまだ15キロ余りあった。考古隊はここで三つの班に分かれ、一班はそこに荷物とともにとどまって野営し、イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長ら5人の班は1人30キロの荷物を背負って小河墓地に向かい、もう一班は来た道を戻って住民からラクダを借りに行った。イディリス所長らは十数時間後、小河墓地に到着、その他の班はラクダで荷物を運び、2003年1月3日までに発掘現場に勢ぞろいした。 【林立する木は生殖崇拝】 発掘作業に従事する考古研究者たち
小河墓地は高さ約7メートルの砂丘の上にあり、長さ74メートル、幅35メートル、約2500平方メートルの範囲に、周囲を木製の杭で作られた木柵に囲まれていた。そして砂丘の表面には、さまざまな形をした太い胡楊木(ポプラの一種)の立木が全部で140本立てられていた。 胡楊木の立木は、ベルグマン博士が小河古墓を発見したときのまま、数千年の強風と烈日に晒されて立っていた。調査の結果、立木はその下に埋められた棺の前方に立てられており、男性の棺の前に立てられた立木は舟の櫂の形をしている。女性の棺の前に立てられた立木は柱状であった。 櫂は、大きなものは高さが約2メートル、幅約70センチもあり、小さなものは高さ1メートル30センチ、幅10センチほどであった。櫂の表面は黒い塗料が塗られ、櫂の柄は赤く塗られていて、柄の底は七重の旋回文様が彫りこまれているものが多い。 女性の棺の前に立てられた柱状の立木は、高さが1メートル50センチから1メートル80センチで、形状はさまざまである。先端はどれも赤く塗られ、毛糸がぐるぐると巻きつけられている。この櫂状と柱状の立木はいったい何を意味しているのか。学者たちは櫂状の立木は女性性器を、柱状の立木は男性性器をそれぞれ象徴していると考えている。小河墓地がつくられた時代、人々は生殖崇拝の観念を持ち、多産を願っていた、と考えられる。 また一部の立木の先端に小さな銅片がはめ込まれているものも発見された。楼蘭の遺跡からすでに青銅器が見つかっており、この時代すでに、シルクロードを通じて青銅器の交易が行われていたことを示している。 考古隊は砂丘の下にテントを張り、小河墓地の実測調査や表面に露出している棺やミイラの整理、収集を行った。砂丘の上には棺材やミイラの残骸、毛織物などが散乱しており、自然破壊だけでなく人による盗掘も行われ、140基以上の墓葬がすでに破壊されたと推定された。 また考古隊は、砂丘の東の平坦な場所で3メートル近い八角形の木柱を発見、その付近から厚い木板や横梁、白い粘土などを見つけた。これはベルグマンが小河墓地を発見した当時、あったという「立木」と「木造の小屋」の跡ではないかと推定されたが、中にあったという「木棺」と「女性のミイラ」は跡形もなく消えていた。 考古隊は3週間をかけた試掘調査で、地表に露出した四基の木棺を発掘・整理したが、その棺の一つを開けて見ると、驚いたことに中からミイラではなく、木でつくられた135センチの「木屍」が出てきた。「木屍」は木で顔や四肢がつくられていた。 http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm mirra2 ミイラはこうして発掘された http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm 【砂嵐で中断された発掘】
南区のもっとも下の第5層と一部の第4層がついに姿を現した 試掘調査の結果を踏まえて2003年10月からは、イディリス新疆文物考古研究所長を隊長に、全面発掘が行われることになった。10月は砂漠の気候が比較的安定し、条件が良い。数十トンの発掘機材や生活物資を小河墓地の下まで運びこまなければならない。そのルート探しのため、イディリス隊長ら二人が道路のあるアラカンから徒歩で砂漠を進み、発掘現場までの200キロ以上を往復した。 ルート探しに時間がかかり、12月末になってタリム河が結氷したので考古隊は3日をかけて砂漠を越え、2003年の元日に現場に到達した。そこにテント村をつくって、農民工を雇って本格的な発掘調査が始まった。 12月の砂漠は零下34度にまで冷え込む。日中、太陽が出れば暑くなり、昼夜の温度の差が激しい。砂嵐もたびたび襲ってくる。しかし、水は貴重品なので、頭を洗うのはもったいない。そこで男性の隊員たちは髪の毛をきれいに剃ってしまった。 しかし発掘は3カ月でいったん中止された。春から夏にかけて猛烈な砂嵐に襲われたからである。考古隊は、発掘現場に看守のガードマンを残して引き揚げた。後にガードマンはあまりの孤独に、精神に異常をきたしたという。2004年9月から、今度は新疆文物考古研究所と吉林大学辺疆考古研究センターが合同で発掘が再開され、2005年3月に発掘は終了した。 その発掘の『簡報』は2007年10期の雑誌『文物』に掲載されたが、それは、発掘調査の一部であり、全面的な報告書の作成は現在も進められている。発掘の全容を知るために、5月、新疆ウイグル自治区のウルムチに飛び、新疆文物考古研究所でイディリス所長を訪ねた。また、小河墓地発掘の全過程に参加した李文瑛・同研究所副研究員から詳しく話を聞いた。 【中国最古のミイラと判明】 発掘現場近くに建てられたテント村 発掘調査の結果、小河墓地は南区と北区に分かれており、北区からは28基の墓葬が、南区からは139基の墓葬がそれぞれ発掘された。これに、すでに破壊された190基を加えると357基の墓葬があったことになる。 出土したミイラは、全部で145体。いずれも「干屍」であり、エジプトのミイラのように、人為的処理をくわえてつくられたものではなく、自然に乾燥したものである。内訳は男性54体、女性79体、性別不明12体。その中に子どものミイラは19体あった。 このほかに「木屍」が10体(男性8体、女性2体)、体の一部が「木屍」で一部がミイラのもの二体(いずれも男性)が発掘された。「木屍」が何の目的で埋葬されたのかははっきりしない。研究者たちは、行方不明になり、遺体のない人の代わりに埋葬された、あるいは遺体の一部がなんらかの理由で損壊され、その部分を木で補った、または他の墓地から改葬された、などの仮説を立てている。 いずれにせよ、145体の「干屍」と10体の「木屍」が一カ所の墓地から一度に出土したことは、世界的に例がない。 南区の墓葬は、時代順に5層に分かれていることが判明した。一番表層の第1層からは13基、その下の第2層から27基、第3層から23基が発見された。炭素14の崩壊による年代測定の結果、1〜3層の絶対年代は紀元前1450〜1700年と分かった。 第3層の下は約1メートルの砂が堆積し、その下に第4層があり、38基の墓葬が発見された。さらにその下には最下層の第5層があり、やはり38基の墓葬が確認された。これを炭素14により年代測定すると、紀元前1700年から2000年であることが判明した。 これまで中国で発見された最古のミイラとされる有名なミイラ「ローランの美女」は紀元前1800年といわれるので、小河墓地の最下層から出土したミイラは中国最古のミイラと言える。 【続々発掘されたミイラ】
マントを取り除いた女性ミイラ【M11】
第1層、第2層から発掘されたミイラは、一般に頭を東、あるいは東北に向け、まっすぐ体を伸ばして上向きに寝ている。一部の死者の顔には、赤い線条が描かれ、体全体に乳白色の糊状の物質が塗られている。 死者は頭にフェルトの帽子を戴き、足には革靴を履き、腰に腰当を着け、身に毛織物のマントを巻きつけている。副葬品は、身につけた衣服や首飾り、腕輪のほか、どの墓にも必ず、マントの外の右側に、草で編んだカゴが置かれている。死者の体の上には、大量のマオウ(麻黄)の小枝や動物の耳、動物の筋をよって作られた短い縄が置かれている場合が多く、体の下には小麦やトウモロコシの粒がばらばらに置かれている。そのほか、細長いタマリスク(紅柳)の棒や鳥の羽でつくられた羽飾りなどがよく見られる。 墓の主人の性別の違いによって、着ている服装や副葬品は明らかな違いがある。例えば、男性のマントの穂(垂れ下がり)はスカートにあることが多く、女性のマントの穂は首から肩に多い。男性の腰当は帯のようで、女性のは短いスカートのようだ。男性の棺の前にある櫂の立木の両側には、死者が使う弓と木製の矢が別々に立てられ、体の上には羽のついた矢が置かれている。女性は、体の上に「木祖(木制の男根)」や革袋、木の櫛が置かれている。さらに特別な一部の副葬品、例えば牛の頭、人面をはめ込んだ木製の杖などは、墓主の身分と関係があるかもしれない。 出土した多くのミイラの中で、保存が比較的良く、小河古墓の典型的なミイラを紹介しよう。 【M11】 第1層、南区の東端の中央部にあり、墓地の砂丘の頂部から発掘された。ミイラは、保存がよく、美しい顔立ちが印象的である。 発掘された女性ミイラ【M11】
木製の棺は長さ2.2メートル。棺の上は3枚の牛の皮で覆われ、棺頭は黄色、棺尾は白、中央部は斑の牛皮。その上に白いマント、マントの上に12本のタマリスクの枝が置かれていた。 墓の主は成年女性で、頭を東に向け、仰向きに手足をまっすぐ伸ばし、頭と脛と足先以外は全身を大きな白い毛織のマントで包まれている。 女屍の身長は152センチ、全身に乳白色の糊状のものが塗られている。体はやや豊満で、胸部、腹部が著しく肥満している。眼窩は深く落ち窪み、亜麻色の長い睫毛、高くまっすぐな鼻、少し開けた口、薄い唇。髪は亜麻色で多く、自然に頭の真ん中でわかれて胸にまで達する。 棺内には白色の羊のフェルトでつくられた円い帽子、白色の羊毛で編まれた毛織のマント、短いスカート式の腰当、革靴、首飾り(玉珠、白色石珠、黒色石珠を連ねたもの)、ブレスレット(淡青色の蛇紋石玉を連ねたもの)、木製の留め針(マントをとめる)、櫛、草で編んだカゴ、小動物の皮でつくった皮袋、羽飾り、木祖などがあった。 【M13】 南区の北側の砂丘の第一層から出土したミイラも保存状態がよい。蓋の板は11枚で、板の上に黒色の直線が描かれている。棺の上は3枚の牛皮で覆われている。 墓主は成年の女性。頭を東に向けている。頭と足、脛のほかはすっぽりと白地に大きな赤い縦じま文様の毛織のマントで包まれている。 マントの外の腹部の上方には、大きな牛の角が置かれていた。屍体の右腰骨に立てかけるように、フェルトで蓋をした草篭が置かれていた。 そのほか、円形の銅片7枚がついた毛織物の腰当、乳白色の糊状の物質が塗られた革靴、珠を連ねた首飾り、腕飾りを持っていた。左乳房には木彫の人面像が置かれ、右腹部には大きな皮袋と3本の羽飾りがあった。左腕の外側には木祖が一つ、右手の下に二個の小さな石があった。また、タマリスクの枝、木製の櫛、黍の粒、麻黄の小枝、動物の耳などが出土した。 女屍の身長は150センチ。死者の顔とマントから出ている大腿部は乳白色の糊状の物質が塗られていた。顔はやや痩せ、両方の頬の下は深く落ち込み、頬骨は高く、眼窩は深く落ち窪んでいる。口をしっかりと閉ざし、明らかに扁平で長い。亜麻色の頭の髪は短く、顎よりも長くない。髪の毛にも糊状の物質が塗られていた。顔面部の糊状物質をとり除くと、額から鼻にかけて赤い横線が描かれていることが分かった。 木彫人面像は、長さ9.1センチ、幅6.7センチ、鼻の高さ2センチ。平面は楕円形で、正面は誇張された目、耳、鼻、口、眉が浮き彫りにされ、背面は内側に凹型になっている。人面の表面にはきわめて薄い皮状の物質が糊付けされており、その上に赤い色が塗られている。人面は眉が発達し、眼窩は落ち窪み、二つの小さな珠をはめ込んで眼球とし、鼻は高くそびえ、鼻梁は7本の細い紐が横に載せられている。口の形は長方形で、白い羽の管を切断してつくった八個の「歯」がはめ込まれている。額の頂上部に小さな孔があり、おそらく紐を通したものであろう。 【M24】 矢や棒を持った男性のミイラ【M24】 南区の中部の地表から1.7メートル下の第2層から発掘された。第1層の3つの墓と第2層の2つの墓の下にあった。棺は4枚の牛皮で覆われ、墓主は成人の男性で、身長164センチ。毛織物のマントで体をすっぽりと覆われ、腹部の上には赤や黒に塗られた大きな牛の頭が置かれていた。体の右側には、矢や先の尖った棒などが多数置かれていた。 棺内から発見された人面像を象嵌した木仗は長さ66セン。これは墓主の身分を象徴していると思われる。 【M100】 南区の第4層と第5層と北区からは、特徴のある棺が発見された。それは棺の蓋の上が泥で固められている「泥棺」である。南区の第4層の【M75】、第5層の【M100】、北区の【BM1】【BM2】は「泥棺」であった。 【M100】の蓋を開けると、中から長さ134センチ、幅40センチの12枚の板からつくられた木製の板室があり、その中から墓主である成人女性とともに、木製の人形や木罐などの副葬品が出ていた。【BM1】【BM2】も墓主は女性で、木製の人形が出土した。 李文瑛・副研究員は、この「泥棺」を女性の占い師(巫女)の墓ではないかと見ている。これがもっとも深い層から出てきたことや、上層部からは出土しないことなどから見て、巫女を中心とする社会から男性の族長を中心とする社会に移行していったのではないか、と言っている。 【M19】 第2層からは嬰児のミイラが発掘された。毛織物に包まれていて目鼻立ちがはっきりしている。子どものミイラには嬰児も幼児もあったが、全体的にみて子どもの死亡率がとくに高いということはなかった。 ミイラとともに動物の耳や小麦などが出土した。発掘当初は男の子か女の子か分からなかったが、棺の近くに櫂が立てられていたことから、男の子と推定された。 http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm mirra3 4000年前に存在した社会は http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長
小河墓地の発掘によって、いまから4000年前に、タクラマカン砂漠には、かなり文明の発達した社会が存在していたことが明らかとなった。そのころ中国では、最古の王朝である夏王朝が起こり、エジプトでは古王朝が終わり、12王朝が始まったころである。東西の文明を結ぶシルクロード上にあったと思われる小河古墓を築いたのは、どんな人たちであったのか、どんな社会を形成していたのか。発掘の総責任者であるイディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長に話を聞いた。 ――小河墓地の最下層から出土したミイラの人種は? ■イディリス所長 これまで楼蘭など新疆ウイグル自治区の遺跡から出土した非常に古いミイラは、コーカソイド(白人)と考えられてきました。小河墓地の遺跡から発掘されたミイラも、外見的には眼窩が落ち窪み、鼻は高く、コーカソイドのようでした。しかし、最下層のミイラの一部を北京大学加速器実験室で鑑定してもらったところ、この5月、驚くべき報告を受けました。それはDNA鑑定の結果、モンゴロイド(東洋系)のDNAも発見されたというのです。つまり彼らはコーカソイドとモンゴロイドの混血の可能性が出てきたのです。 これは、4000年前かそれ以前に、シルクロードで、西から来たコーカソイドと東から来たモンゴロイドがタクラマカン砂漠で初めて出会い、混血したことを想像させます。壮大な人種の移動と融合が考えられるのです。 ――彼らの「村」の規模はどのくらいでしょうか。 ■イディリス所長 500年から600年の間に約350基の墓をつくったのですから、「村」の規模はそれほど大きなものではなかったでしょう。墓地と集落とはそう遠くは離れていないと思われますが、墓地を中心に10キロ四方からはいまのところ住居址は見つかっていません。 ――彼らはどんな社会をつくっていたのでしょうか。 ■イディリス所長 男女の性器を象徴する木柱や木櫂が大量に出土したことや、女性ミイラが男根を象徴する「木祖」を持っていたことなどから考えて、彼らは、生殖崇拝の信仰を持っていたと考えられます。これは「万物の豊産」の願いを反映しています。死後に顔面を白く塗ったり、赤い線を描いたり、人面像や木製人形を副葬したりしていることから見て、この時代にすでに宗教が存在していたことは明らかです。 ――どのようなものを生産し、どのように暮らしていたのでしょうか。 ■イディリス所長 棺の中から大量の小麦やトウモロコシが出てきました。小麦は鑑定の結果、人為的に改良された種類であることが分かりました。この小麦には大量の水が必要であり、当時は灌漑が行われ、小麦の畑が一面に広がっていたと思われます。 また、棺は3枚の牛皮で覆われているのが普通で、棺の中や木柱に大きな牛の頭蓋骨がいっしょに葬られていることから考えると、牧畜が盛んに行われていたと思われます。一つの棺を作成するのに、少なくとも3本の胡楊木が伐られたので、当時は胡楊木がかなり生い茂っていたと考えられます。 しかしこの一帯の自然は脆弱で、いったん破壊されると回復することができないため、ついに砂漠化してしまったと推定されます。 ――外部の他の部族との戦争や争いがあったのでしょうか。 ■イディリス所長 男性の棺から矢が見つかっているうえ、鳥や小動物の羽や毛皮が見つかっているので、狩猟が行われていたことは確かです。武士のようなミイラも発見されていますが、ただ、多くのミイラの中で刀傷のあるのは一体だけで、矢傷など大規模な戦争を示す証拠はありません。おそらく平和な生活だったのでしょう。 人民中国インターネット版 2009年2月5日 http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm ▲△▽▼
2014年9月 8日 遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(1) このページの地図を参照しながら読んでください。 http://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml ミトコンドリア遺伝子やY染色体を使って、民族移動の歴史をたどることができるという話は聞いたことがあると思います。遺伝子の痕跡が「人間」の移動を説明していることは間違いありません。しかし、ある集団の中で遺伝子に変異が生じた時期とその集団が新しい文化を獲得した時期は必ずしも一致しません。
その一例をY染色体のRハブロタイプの分布に見つけました。R1bとR1aというハプロタイプは中央アジア・欧州・イラン・インドに広く分布し、印欧語族の分布範囲とも重なるため、印欧語族の遺伝子ではないかとも言われています。
R1bは1万年くらい前にカフカス山脈付近で原形が生まれ、6千年前にバルカン半島に進入し、3千年前にはアイルランドやイベリア半島西端にまで到達したと考えられています。 現在R1bが人口の50%を超えているのはアイルランド、英国、フランス、スペインでこれはローマ帝国とゲルマン人の侵入以前にケルト人の文明が広がっていた地域です。できたばかりのころのローマ共和国はケルト人に圧迫されていました。ローマ人の方が臣従していたという説もあります。ケルト人は牧畜と簡単な農耕をし、馬車を持っていました。 しかし面白いことにR1bが一番多く住むのはスペインのバスク地方で、バスク人の母語はバスク語なのです。バスク語は系統不明の言語で、印欧語とは全然関係がありません。 同じくR1bの比率が高いのはアイルランドとスコットランドとフランスのブルターニュ半島です。そこにはブリトン人やピクト人などが住んでいたといわれています。彼等が話す言語は非常に原始的なケルト語、もしくは系統不明の言語だったとも推測されています。ローマがこれらの地域に進入してきた際、彼等は車輪を持たず、牧畜もしていませんでした。 つまりケルト人は生粋の印欧語族なのですが、R1bが非常に多い地域の人たちは必ずしも印欧語族ではないのです。そして移動を始めた頃のR1bは車輪を持たず、農耕も知らない狩猟採集民でした。かといって彼等が野蛮だったかというとそうではなく、ミトコンドリア遺伝子から、彼等はアルプスで見つかったミイラのアイスマンと同系統と推測できるのですが、アイスマンは高純度の銅器を持ち、縫合された衣類を着て、医療を受けた形跡もあり、成熟した狩猟採集民でした。 R1bは東にも進んでいて、、3〜4千年前のタクラマカン砂漠(中国西部)の遺跡で金髪でコーカソイドの特徴を持った骨のミイラが発見されています。オアシス都市に残る文書から、彼等がケルト語に近い言語を使っていたことがわかっています。 現在でも中国の羌族、チベット族、満州族の一部にR1bを持つ人がいます。古代中国で羌、西戎、玁狁、狐とされた遊牧民はR1bを持つ人々であった可能性があります。 タクラマカン砂漠にオアシス都市を作った人たちは、農耕をし、都市をつくり、ケルト語に近い言語を話す人たちでした。そこよりもさらに東に進んだ羌、西戎、玁狁、狐はバスク人、ブリトン人、ピクト人に近かった可能性があり、必ずしも農耕はせず、印欧語も話していなかったかもしれません。 口語としての漢語は文法が英語と異常に似ています。英語というのはラテン語やゲルマン語と比較して語順に混乱があり、副詞と前置詞を多用する特徴があります。この英語の副詞と前置詞は、古代には動詞だった可能性があるのですが、英語と漢語は中央アジアを出発したばかりのR1bが使っていた言語ではないかと私は推測しています。 まあ、さすがに英語と漢語を同一系統と結びつけるのは話が飛躍しすぎかもしれませんが、R1bと印欧語と農耕は必ずしも一致しないのです。 http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html 遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(2) 欧州西端と中国北部まで到達したR1aを仮にR1a第1陣、英仏西中心部とタクラマカンで繁栄したR1aを仮にR1a第2陣とします。彼等が持っていた技術を並べると次のようになります。
R1b第1陣・・・遊牧、原始的な印欧語、銅の精練、鍼灸? R1b第2陣・・・遊牧、畑作、印欧語(ケントゥム派)、乗馬、車輪 民族が次のようになります。 R1b第1陣・・・バスク人、ピクト人、ブリトン人、羌、玁狁、狐 R1b第2陣・・・ケルト人、トカラ人、月氏 ケントゥム派は印欧語の分類です。印欧語は印欧祖語におけるkをkで発音するかs(ts)で発音するかによってケントゥム派とサテム派に分類できます。
サテム派印欧語を使うのははスラブ人とイラン人とインド人(ヒンドゥー語)です。東側のイラン人とインド人は自らをアーリア人と自称しました。19世紀と20世紀前半のドイツの国粋主義者は自らをアーリア人と規定しました。これはインドを圧倒的な武力で制圧した(と当時は信じられていた)アーリア人とゲルマン人を同一視したいという願望から生まれた説ですが、言語と遺伝子からは、イランとインドのアーリア人に最も近いのはゲルマン人ではなくてスラブ人です。 このサテム派印欧語族の分布とよく一致するY染色体がR1aです。R1aはポーランド、ベラルーシ、ロシア、イランに多く分布し、インドではバラモン階級に多く出現します。カスピ海を中心としてC字を倒したように分布しているので、元々カスピ海を中心とした地域に居住していて、何らかの理由で東西に広がっていって、故地からは出て行ったことが容易に推測できます。 アーリア人とスラブ人がインドと欧州に現れた時期は遅いため、歴史の記録に残っています。アーリア人がインド西北部に現れたのは3,500年前です。アーリア人と推測されるメディア人とペルシャ人がバビロニアに現れたのは3,000年前です。 しかしです。私たちはここで再び印欧語族とハブロタイプRを結びつける説の反証を見つけます。現在カスピ海周辺に多く分布するハブロタイプはJ2です。J2は現在のアルメニア、アナトリア半島(トルコ)、ギリシャ、南イタリアに多く分布します。 これらに地域に住む人たちが使う言語はアナトリア半島以外は印欧語です。アナトリア半島に住む人がトルコ語を話すのは、千年前に中央アジアからトルコ人が侵入してきて、トルコ語を強制したからです。それまではアナトリア半島に住む人たちはギリシャ語を話していました。
J2系はバビロニア文明を作った人達ということになっています。そしてJ2aはR1aの故地であるカスピ海沿岸を占領しています。だとするとおかしなことになります。東側(カスピ海周辺)と西側(バルカン半島)で辻褄が合わないのです。 東側のシナリオはこうなります。5千年前にはカスピ海周辺にアーリア人 (R1a)が住んでいました、そこに南からバビロニア人(J2)がやってきて、アーリア人を追い出しました。アーリア人は2千年かけて時計回りにカスピ海を一周して、3千年前にイラン側からバビロニアに侵入しました。 西側のシナリオはこうなります。まずバルカン半島に東側からバビロニア人と同じ遺伝子をもつJ系が侵入。次に南側から古代エジプト人と同じ遺伝子をもつと推定されるE系が侵入。R1bはギリシャには入って来れなかったと推測されています。最後に1,500年前になってスラブ人(R1a)がギリシャ車に侵入しました。 ギリシャ語はケントゥム派印欧語族なのに、だれがバルカン半島にギリシャ語を持ち込んだのか不明なのです。 この矛盾はハブロタイプRとインド・ヨーロッパ語の発明者を同一視することによって生じています。最初に言ったように遺伝子の発生と文化の発生は必ずしも一致しないのです。 http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html 遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(3) 欧州の学者はR系はインド・ヨーロッパ語を生み出した人達と考えています。けれども、ギリシャ・アナトリア半島にはR系の侵入を受けなかったのにインド・ヨーロッパ語を話すギリシャ人がいます。
この矛盾を解く鍵はヒッタイト人にあります。ヒッタイトは3,000年ほど前にアナトリア半島に現れた遊牧民で、強力な戦車軍団をもち、世界で初めて製鉄に成功した人達です。ヒッタイト語はケントゥム系印欧語族ではないかとされています。 現在J2が30%以上分布するのは、東からアルメニア・トルコの首都アンカラ周辺・シリア沿海部・アナトリア半島西部・ボスポラス海峡・中央イタリア・カラブリア・シチリア東部です。
アンカラ周辺はかつてヒッタイトの首都ハットシャがあった地域です。ボスポラス海峡とアナトリア半島西部にはギリシャと似た文明を持つ都市群がありました。有名なトロアはその代表的な都市です。中央イタリアはローマに先行する文明であるエトルリア文明があった地域で、カラブリアとシチリア東部は古くからギリシャの植民地がありました。 エトルリア人と古代ローマ人は自分たちはアナトリア半島西部にかつてあった都市トロイの末裔であるという始祖伝説をもっていました。古代ローマ人がJ系であるとこの始祖伝説には信憑性があることになります。 アナトリアより西に分布するJ系はインド・ヨーロッパ語を話す人達であり、さらにJ系ではないかと推測されるヒッタイト人が使ったというヒッタイト語はかなり古くにラテン語やギリシャ語から分離したと推測されています。 そしてJ2系はフランス、スペイン、英国南部に10〜20%分布しています。これはケルト人の地域です。 整理してみましょう。 1.R1b第1陣が話していた言葉は非常に原始的なインド・ヨーロッパ語、あるいはインド・ヨーロッパ語を話していなかった可能性がある 2.南回りで広まったインドヨーロッパ語(ヒッタイト語・ラテン語・ギリシャ語)を伝えたのはR系ではなくJ2系の可能性が高い 3.R1a(アーリア人・スラブ人)の故地であるカスピ海沿岸にはJ2系が住んでいる これらの事実から導きだされるのは、インド・ヨーロッパ語を生み出したのはR系ではなくJ2系であるということです。J2系はメソポタミア文明の中心になった人達です。メソポタミア文明を担った人達の言語はインド・ヨーロッパ語ではありません。
しかし、遺伝的には近くても全く違う言語を話すことはそうおかしなことではありません。 •約1万年前にJ2系がカフカス山脈付近でインド・ヨーロッパ語を発明。 •そのとき既にR1bは西と東に広がりつつあった。最初に出発したR1b系はインド・ヨーロッパ語を知らなかった。 •J2とRは8千年くらい前にカフカス山脈で合体。この合体部族は遊牧・簡単な畑作・都市が融合した文明を作る。彼等は畑作と都市をメソポタミアから学んだのかもしれないし、あるいは独自に編み出したのかもしれない。 •J2+Rが南回りに進んだのがヒッタイト人・エリトリア人・ローマ人 •J2+Rにエジプトからの入植者(E系)が合体してできたのがギリシャ人。 •J2+Rが北回りに進んだのがケルト人とトカラ人。 •やがて6千年くらい前にJ2+Rの集団の中からR1a遺伝子が登場これがスラブ人とインド・イラン・アーリア人の祖先となる。彼等の間でサテム派の発音が流行して、サテム派のインド・ヨーロッパ語が生まれる。 というように整理できるのではないでしょうか。 http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html
遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(4) R1b+J2が出発した後にもカスピ海周辺にはR+J2が住んでいたと考えられますが、5千年前に彼等は故地を出て行き東と西に拡散します。西に進んだのがスラブ人で、カスピ海を時計回りに進んだのがインド・イラン・アーリア人です。両者はR1aの遺伝子をもっていました。
しかし「アーリア人」とR1aを同一視するのは早計で、高度な乗馬技術を持つアーリア人は3千年前から1,500年前にかけて、中央アジアから何度もメソポタミア・イラン高原・タクラマカン砂漠に侵入するのですが、遺伝子の分布からはアーリア人とされた人達には様々な組み合わせがありそうなのです。
1.スラブ人・・・R1a 2.インド・アーリア人・・・R1a+R2+J2 3.パクトリア人・スラブ人・スキタイ人・・・R1a+J2 4.ソグド人・ホラズム人・・・R1a+J+Q 5.月氏人・トカラ人・・・R2b+J このことから、サテム派インド・ヨーロッパ語を発明したR1a+J2が中央アジアに住む様々な民族と融合したのがアーリア人るといえます。
スキタイ人・月氏人・トカラ人は研究者によってアーリア人に含めたり含めなかったりします。スキタイ人が話していた言語は不明です。月氏人とトカラ人が話していたのはケントゥム派インド・ヨーロッパ語です。アーリア人の要素をサテム派インド・ヨーロッパ語であるとすると、彼等はアーリア人には含まれなくなります。 また、ホラズム地方やドナウ川下流域や黒海北岸では4〜5千年前の都市と農耕の痕跡が見つかっています。今ではインドと東アジアでメソポタミアの影響を受けずに独自に農耕が始まったことはほぼ確実ですが、これらの地域でも、独自に農耕が始まっていた可能性があります。 ホラズム地方に多いのはR1aとQの合体部族で、Qはシベリアの狩猟採集民とネイティブアメリカンに多いハプロタイプです。ホラズム人は定住性が高かったと言われています。また、彼等はインダス文明に鉱物を供給していた人達かも知れません。 ドナウ川下流域や黒海北岸に多いのはI2aで、この遺伝子は1〜2万年前にヨーロッパで独自に発生したと言われています。欧州の学者は聖書の影響が強すぎるのか、欧州の農耕は全て中東起源と考えるのが主流らしいですが、I2aによる欧州独自の農耕都市文明を想定しても良いのかもしれません。
I2aは欧州全域に広がっているので、氷河期が終わった後に最初に欧州全域に広がったのは彼等で、独自の言語を使用していた可能性があります。R1b はI2aの中心部(ドナウ川流域)を避けるように分布し、しかし融合もしています。 I2aとR1bの関係は日本の縄文系と弥生系の関係に近いのかもしれません。 1.1〜2万年前・・・I2aは成熟した狩猟採集民で、ドナウ川流域から黒い森にかけての森林地帯で狩猟採集生活をしていました。一部は簡単な畑作をしていました。
2.8千年前・・・そこにまず狩猟採集民のR1b第一陣がやってきた。彼等は寒冷でやや暮らしにくく、I2aがあまり分布していなかったアルプス・バスク・ブルターニュ半島・アイルランド・ブリテン島に住むようになった 3.6〜8千年前・・・次に牧畜と灌漑農業の技術を持つR1b(ケルト人)がやってきた。彼等は狩猟採集には適していない草原や低地を開拓して住んだ 4.黒海沿岸からカスピ海にかけてスラブ人(R1a)が分布 5.I2a,R1b,R1aがヨーロッパ全体で混血し合う 6.3〜4千年前・・・騎馬技術を持つJ2+R1bが黒海沿岸に侵入、スキタイ人(I2a+J2+R1b)が生まれる 7.3,500年前・・・スキタイ人がカスピ海沿岸からスラブ人を追い払う 8.スキタイ人から逃れたスラブ人に押されて、インド・イラン・アーリア人が南下 R系ハプロタイプの分布とインド・ヨーロッパ語族の分布の間の矛盾から、私なりに西洋の民族移動を推測してみました。ヨーロッパの縄文人とも言えるI2aがどのような文明を持っていたのか。5千年前には中央アジアで高度な都市文明を作っていたと考えられるQ系とネイティブアメリカンとの関係など西洋の古代も未解明で興味深い話題がたくさんあります。 http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html
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ドキュメンタリー 文明の道「第05集 シルクロードの謎 隊商の民ソグド」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=FdBYI5F36To&index=24&list=PL68Eg7O2Flae_s6n1BfiPUGgs6t80-qrA ソグド人は、色黒の肌、深目、高鼻、多鬚などのコーカソイドとしての身体的特徴が挙げられる。 ソグド人の言語はソグド語である。ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、同じ仲間としてはホラズム語、バクトリア語、コータン語がある。
紀元前6世紀にソグディアナがアケメネス朝の支配下に入ると、アケメネス朝からアラム文字が流入し、初めはアラム文字でアラム語を記していたが、次第にアラム文字でソグド語を記すようになり、最終的にアラム文字を草書化してソグド文字を開発し、ソグド文字でソグド語を記すようになった。やがてソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E4%BA%BA ▲△▽▼ シルクロード 謎の民/タクラマカン砂漠/楼蘭の 末裔? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vJy4Mx7QKKk&index=17&list=PL68Eg7O2Flae_s6n1BfiPUGgs6t80-qrA 2016年05月21日 日中共同制作番組 「シルクロード謎の民 〜タクラマカン砂漠 楼蘭の末えい?〜」顛末(てんまつ)記 BY 池上達則 https://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/245289.html 番組の舞台は世界で2番目に大きな、中国タクラマカン砂漠。 「死亡之海(死の海)」と呼ばれる世界でも有数の乾燥地帯。しかしこの砂漠の奥深くに、周囲から孤絶した“謎の民”がいる!? 古代シルクロードの文化を守りながら生きる人々の暮らしを描き、その歴史ミステリーを紐解いて行くドキュメタリー番組。旅人は俳優の満島真之介さんです。 “かなりあやしいな…”
番組のきっかけは2015年春、中国・北京テレビからの連絡でした。タクラマカン砂漠のど真ん中に、謎の民がいると言うのです。北京テレビとNHKエンタープライズは番組制作の提携を進めており、中国のレアな情報が舞い込んできます。しかしこの知らせには、正直半信半疑でした。 でも調べていくうち、色々分かって来ました。 ● 砂漠の奥深くにオアシスがあり1500人が暮らしている(よし!) ● 他の新疆ウイグル自治区で無くなった古代の風習が残っている(よし!) ● 近くの町から240キロ。砂漠に道は無く陸の孤島である(よし!) ● 既に携帯電話が通じ太陽光発電の設備も入りつつある(あれ!?) ● 住民は砂漠をバイクに乗って移動する(あれ!?) ● 緑の瞳をした美しい女性たちが暮らしている(よし!) まもなく砂漠に舗装道路が作られ、オアシスの伝統的な暮らしもあと数年で消えてしまう。変わりつつある状況を含め番組にしようと、紆余曲折を経ながら、国際共同制作のプロジェクトが立ち上がることになりました。
オアシスの暮らしを3つの家族を通じて描きました。詳しくは是非番組をご覧頂ければと思うのですが、私が一番魅了されたのは、視力を失いながらも子どもを育てるヤコプ父さん。オアシスの主な生業である羊の牧畜が出来ないので、漢方薬掘りなど日雇い作業で収入を得ています。子どもが村を出て町の小学校で寄宿生活をしており(村の学校は小学3年までしか通えない…)仕送りが必要なのです。 実は私も2人子どもがいて保育園に通わせています。もちろんヤコプ父さんほど生活は大変でなく、パパとして頑張ってもいないのですが、彼を見て話しを伺っているうちに、肩の力が抜けて行きました。初めは“謎の民”の神秘的な生活を描かなくてはと緊張していたのですが、次第にどこの世界でも同じである、家族やふるさとを思う気持ちを、同じ目線で描けばいいのだと教えてもらったような気がしたのです。
最後の取材が終わり、オアシスを離れるときに、私はロケの間はいていた綿入れのズボンをヤコプ父さんにお渡ししました。ヤコプ父さんは茹でたての羊の肉を私たちにくれました。大変貴重なごちそうを、私の中古ズボンと引き換えに頂き、大変申し訳ない気持ちでした。
ただもし今年の冬にヤコプ父さんが綿入れのズボンをはき、少しでも暖かく過ごしてくれたら…そう想像するだけで私の心も温かくなるのです。 https://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/245289.html ケリヤ(克里雅)人:楼蘭王国の末裔か? http://www.geocities.jp/kjbmh507/minzoku/eikou/matuei.pdf ケリヤ人発見の経緯 スヴェン・ヘディンは1896年1月コータンから北へタクラマカン砂漠に入り、古代都市 の廃墟を発見する。その後、タクラマカン砂漠を横断して、シャヤルを目指して、ケリヤ 河沿いに北へ移動する。このときガイドから、聞く。
「町の下手のケリヤ・ダリヤの森のなかには、およそ150人の人たちが住んでおり、 他の人間とは行き来せず、あらゆる街道から遠く離れて、それ自体一つの世界を構成して おり、いかなる政府当局の手もここまでは及ばない、死のように静かな砂漠の海に囲まれ たところである。 ・・・・・・ ここには羊飼いの家族が二組住んでいたが、彼らは露天で焚き火を囲んでいた。まるで 野蛮人のようだった。彼らは小さな子供に取り囲まれていたが、子供たちが着ている物と いえば、一枚の毛皮だけだった。この泊まり場のそばで、彼らは300頭の羊を放牧して いた。男たちの幾人かは、われわれがはじめて見るようなとても風変わりな靴をはいてい た。靴といっても、それは野生のらくだの足を足だこや蹄のついたままをはいていたので ある。この野蛮人のような家族もすぐに打ちとけて、みな写生させてもらうことができた ほどである。・・・・・」 出典:『スウェン・ヘディン探検記 (全9巻)』 深田久弥ほか監修 白水社 第2巻 アジアの砂漠を越えて(下) こうして、ケリヤ人は西欧に紹介され一大反響を得るのだが、当のケリヤ人は相変わら ず静寂な砂漠の中でのんびりと暮らしていた。 20世紀の50年代末、中国政府の役人がこの地に派遣され、达里雅布依郷を設立し、 郷の役所を開いた。しかしながら文革中であったので、ケリヤ(克里雅)人はまたもや人々 から忘れ去られた。 20世紀の80年代のある日、石油探査に携わっていた技術者が目の前の不思議な光景に 唖然と立ちすくんでしまった。 その後、多くの報道機関が入り、「タクラマカン砂漠の中央に原始部落を発見す・・」 と、大報道を開始したのである。 1989 年,新疆ウイグル自治区の役人が視察に入った。そして、学校、病院を建て、電 気、水道を引き、郵便局や電話局を設けた。ケリヤ人は桃源郷の生活から一気に現代文明 の中に引き込まれたのである。 ケリヤ人が暮らすダリヤブイ(达里雅布依)郷の达里雅(ダリヤ)はウイグル語で河の 意味、布依(ブイ)は岸辺の意味、郷は中国の行政区分で村にあたる。达里雅布依郷は「河 の岸辺村」となる。総人家305戸、総人口1321人の村である。 ケリヤ人はケリヤ(克里雅)河の中下流域の両岸に住んでいる。ホータンの東・于田か らケリヤ(克里雅)河に沿ってタクラマカン砂漠を約220km北上すれば、ケリヤ人に合う ことができる。 写真 14-1 現在のケリヤ人 現在の生活ぶり 彼らは現在に至るまで古濮な民族文化と原始的な生活を保ってきた。彼らは幾世代もの 家族が同じ屋根の下で寝起きした。老人を敬い、外部の者と婚姻する者は少なく、砂漠の 原始部落と呼ばれてきた。ケリヤ人は遊牧を主としてきたが、現在では農耕を営み始めた。 ダリヤブイ(达里雅布依)郷には数十戸の人家が集中している。郷政府の管轄する範囲 は南北 500 キロ近くに及ぶ。南に住む者が北に住む者の婚礼に参加するには二週間近く掛 かる。郷政府の者がケリヤ村を巡回するにはラクダか馬に荷物を積み、8日を掛けるとい う。 郷にはイスラム風の建物が一軒ある。大きな建物で周囲の建物と比較できないくらい 美しい建物である。この家の主人は郷の長であり、大変見識の広い人であるという。 ケリヤ人が一番困っていたのは水である。郷政府が井戸を掘るまでは大変な苦労があっ たと言う。 ケリヤ人はダリヤブイ(达里雅布依)郷を引き払い条件の良い土地に引っ越すことを嫌 っている。牧畜している山羊はこの地方の草花を食料としており、他の雑草は食べないの で引っ越せないという。 そして郷政府は彼らにダカ(大卡)車(大八車に似ている)を給付した。彼らはダカ 車で柴木や羊皮を于田県まで運び、貴重な塩や茶と交換している。 写真14-2 ケリヤ人の村落
ケリヤ人のルーツ 多くの説が流れており、いまだ検討中のようであるが、その代表的な三つの説を紹介し よう。 1 タクラマカン砂漠の土着民族であろうとする説である。・・が、これでは周囲が納得しない。 2 南に約 900 キロ下るとチベットの阿里地区にいたる。ここはかつてグゲ王朝があった所である。ラダック王朝に滅ぼされ(1630 年)、タクラマカン砂漠に逃げ込んだグゲ王朝の末裔である、とする説が有力である。 3 ところがこの説にも満足しない人々がいる。この「河の岸辺村」から東に約 450 キロの位置に、かつて楼蘭王国が栄えた。しかし、2000 年前、謎のまま忽然と消えてしまった。 その楼蘭王国の末裔が住み着いた、とする説である。
ま、どの説に満足するかは読者次第です。また別の新説を出すのも一興かと思います。
現在ケリヤ人は行政上ウイグル族に組み入れられているが、生活習慣の多くの面でウイ グル族と異なっている、とされている http://www.geocities.jp/kjbmh507/minzoku/eikou/matuei.pdf
▲△▽▼ 中国・トルファン2012・・・(10)ウルムチ 旅の終わりに“楼蘭の美女”と会う http://4travel.jp/travelogue/10668846
旅行時期 2012/04/14 - 2012/04/22 (2012/05/10投稿) トルファンからウルムチ経由で上海へ。 途中、ウルムチの博物館で、約3,800年前に埋葬されたと言われている“楼蘭の美女”に対面します。
http://4travel.jp/travelogue/10668846 表紙写真は、その“楼蘭の美女”を復元したものです。 お昼頃ウルムチのバスセンターに到着。なんとかタクシーをゲットして博物館へ向かいます。
1階には、新疆に暮らす12民族の衣装・装身具・住居などが展示されています。
先ずはウイグル族の男女が迎えてくれます。 2000年調査で、新疆ウイグル自治区人口の45%がウイグル族、40%が漢族です。 http://4travel.jp/travelogue/10668846
こちらはタジク族ではないでしょうか。
なお、展示文物については、「地下博物館」アスターナ古墳出土品が中心になりますが、主だったものはEの「アスターナ古墳」編で紹介しましたので、こちらでは省略します。 http://4travel.jp/travelogue/10668846 各民族の風俗、出土文物の展示と並んで、ウルムチ博物館で充実しているのが、ミイラなどのタクラマカン砂漠に埋もれていた古墳に関する展示・紹介です。
先ずは「小河墓」(しょうがぼ)遺跡 “有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。 しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。 今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。 さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。 この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた”【人民中国】 http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/25/32/40/src_25324026.jpg?1336633079 「小河墓」(しょうがぼ)遺跡の模型ですが、男根を象徴する先端の尖った墓標の下には女性の棺が、軍配のような女性性器を象徴する墓標の下には男性の棺が埋まっているそうです。
船のようなものは舟形棺です。「小河墓」の名が示すように、かつてはこの地には河が流れていました。船は冥界へ旅立つ死者の乗物ということでしょう。 この遺跡からは、約4000年前の小麦も発券されており、小麦、ひいては文明の伝播を考えるうえで重要視されています。 http://4travel.jp/travelogue/10668846
「小河墓」遺跡には数百体のミイラが埋葬されているそうですが、その中でも印象的なのが「小河美女」とも呼ばれるこのミイラです。 後ほど紹介する「楼蘭の美女」よりは、はるかに“美女”の名にふさわしい美しいミイラです。
長いまつ毛まで残っており、推定年齢は20歳、身長160cm。コーカソイド(白色人種)系と見られています。フェルトの帽子には鷹の羽飾りとお洒落でもあります。 顔には白いクリーム状のものが塗られているそうですが、腐敗防止のためなのか、死化粧なのかはわかりません。 ウルムチ博物館では、この「小河美女」に関するものは目にしませんでしたので、「新シルクロードの旅(講談社)」からの転載写真です。 http://4travel.jp/travelogue/10668846
こちらは且末(しょまつ チャルチャン)遺跡に埋葬されていた女性のミイラで、約2600年前のものと推定されています。
コーカソイドとモンゴロイド両方の特徴を兼ね備えているそうです。 且末は、楼蘭から400〜500kmはなれた、タクラマカン砂漠の南縁、 かつての西域南道に位置するオアシスです。 http://4travel.jp/travelogue/10668846
こちらが、有名な「楼蘭の美女」 約3800年前に埋葬されたと推定されており、年齢は45歳、身長は152cmで、「小河美女」とほぼ同時期です。
楼蘭王国が歴史に登場するのは紀元前176年ですから、「楼蘭の美女」は楼蘭王国より千数百年古い時代のものになります。 人種的にはコーカソイド(白色人種系)です。 復元された容貌 http://4travel.jp/travelogue/10668846
在りし日の「楼蘭の美女」 http://4travel.jp/travelogue/10668846
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