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たまたま入ってきた公共ラジオに耳を傾ける。インタビューを受けているのはブリティッシュ・アクセントのすごく強い女だ。20代。新作のプロモ―ションをしているアデルだった。
女はこういう。音楽活動をするのは、自分の子供のためだと。子供に自分の姿をみせ、母親の威光を受け継いで欲しいのだ、と。
よく大物ミュージシャンなんかでも、「この曲を家族や恩人に捧げる」などというノートを書いていることがあるが、それとはまた違う。かなり違う。
1人の人間として1人の人間である息子へ送るメッセージなどではなく、母子の絆の中に世襲的に芸能を育むという王道教育、そういう態度が現れている。
周囲からはじかれた不良の反抗音楽もずいぶん変わってしまったものだ。
家庭や郷里との断絶、そして「人々の暮らし」という草根深い原野の中を切り開き道なきところに個人の足跡をつなげながら模索していく人生・・・・そういったものを音楽だけに限らず表現者に求めてしまうのは古すぎるだろうか。
彼らはいづれ道に迷い、ドラッグにおぼれるのだから、まだアデルのような王道的な社会人格を持つほうがマシだろうか。
サンプルに流される新曲・・・・・申し訳ないがつまらないので窓口を閉めてしまった。
やっぱ反抗者がいいわ。ドラッグやったりしないで、道なきところに道を作っていけるホンモノの創造者。闘うアート。
そう思って真っ先に思いつくのがレイ・デイビスであるが彼は保守という鎧を身に着けて一般社会の枠組みの中で日常のスパイスとしての過激を提供するポップス職人へと活動を調節することになるので、年齢と共に挫折した反抗者だという評価を持ってしまう。
その点、フレディー・マーキュリーは生涯を通して自殺的な反抗劇をずっと繰り返して弾け散ったアーチストといえるだろうか。彼の場合は主流のシステムの中に居場所を見つけるかわりに、自分の作った道を指さして王道だ、と言ってのけるメンタリティーを持っていたので彼の戦いとはいつのまにか反抗劇から異教文化の父性として保守化を図ったといえるかもしれない。
クイーンといえば即ボヘミアン・ラプソディーというのがアメリカの商業音楽史における一つの常識である。ビートルズといえばイエスタデイという人ばかりではないだろうが、クイーンの場合はこの曲が名を表す。しかしイギリス・日本を活動の中心としていた時代の人間からすると同曲は一つの終焉である。芸術性をつきつめたイギリスのグループから、アメリカのグローバリストにより世界市場にのっけられた商業アイコンに変容する分水嶺にあたるのがガリレオフィガロ―♪にあたるからである。
あの曲をレコーディングしてしまう力量は軽音楽の商業バンドとしては別格かもしれない。歌詞はバカバカしいに尽きるが、曲の構成、ギターアレンジ、オーケストレーションと、40年の月日を経ても全く色あせない珠玉の大作だ。しかし、レコーディング・プロジェクトとして成功をおさめたボヘミアン・ラプソディーは、果たして音楽的にクイーンの最高傑作だっただろうか。私には、それをさかのぼること一年半、セカンドLPに収録された【黒女王の行進】からするとかなりの内容の劣化、後退だという印象を受けてしまう。それくらいブラック・クイーンは名作中の名作であり、続編といってもいいボヘミアン・ラプソディーはさらにスケールアップしたようで、実は大衆化したスカなのだ。具体的な比較評論は割愛。
ボヘミアン・ラプソディーによりアメリカ進出を果たしたクイーンは、それから売れ線の中堅→大御所として商業音楽の覇権を手にする。沢田研二の昭和50年代ではないが、出す曲出す曲が問題作であり過激さが否定派・認知派に分かれるカルチャー議論を巻き起こした。常に話題の中心にいるためには、あきさせないようスキャンダル度を保つ必要があり、フレディーはゲイ文化の象徴として悪乗りに近い非常識を全開にしたヒット曲を生み出し続けた。
Good Old Fashioned Lover Boy ありゃりゃ、これはモロ・・・・凄いな。
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Bicycle Race ちょっとやりすぎかも。そろそろいいかな。
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Body Language おなか一杯。もういいよ。
彼一人のせいではないものの、同性愛者というものは四六時中セックスをしている偏執狂のようなイメージを持たれているのは、その隠されたタブーの発露の仕方がアメリカ商業音楽の資本主義暴力によって「地獄への道連れ」とばかりに拡大されてしまったからだろうか。本当はフレディーは繊細でさりげない人だったのに。
Queen - Mad The Swine
大阪の女流作家、佐藤愛子さんの娘は女子バンドで活動するティーン時代に母親のコネでクイーン来日のレセプション会場で挨拶の文面を読み上げたのだという。佐藤愛子は「イギリスのゲイ」とフレディーのことを書いているから、「アフリカ生まれ、インド育ちの中東人バイセクシュアル」ということまではブームの真っただ中にあった日本でも知られていなかったのではないだろうか。
ゲイとバイは似て非なるものであり、クイーンがあれだけ全世界的な成功をおさめたのは全人種の両性へ訴えるものがあったからである。マイケル・ジャクソンにもそれはいえる。
- ピーマンはダメです チベットよわー 2015/11/28 18:24:45
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