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ロシアのプーチン大統領(クレムリン、21日) Photo: Zuma Press
By DAVID SATTER
英国に亡命したロシア治安機関の元職員が2006年に放射性物質のポロニウムで殺害された事件を調べてきた英調査機関は21日、プーチン大統領が関与した疑いがあるとする報告書をまとめた。この発表は殺害された元職員のアレクサンドル・リトビネンコ氏だけでなく、これまでにロシアの国家的テロ行為の犠牲になったすべての人に対する正義へ向けた第一歩だ。
リトビネンコ氏がロシア政権によって殺害されたことを示す証拠は当初から歴然としていた。だが、プーチン大統領が「おそらく」殺害を事前に承認していたとする調査機関の結論は、ロシアの反政権派の殺害とプーチン大統領を個人的に結びつけた正式な見解としては最初のものだ。それが可能だったのは、犯罪がロシアでなく英国で発生したことと、調査を行ったのがロシア当局ではなく英国当局であったためだ。
リトビネンコ氏の殺害をめぐる調査が、ロシアの政治テロに関して事実に基づく客観的な国際的調査の前例を作ったことは、欧米諸国だけでなくロシアの将来にとっても非常に重要だ。これまでの政治テロには、大勢の犠牲者を出した2002年のドブロフカ劇場占拠事件、04年に起きたベスランの学校占拠事件、ジャーナリストや野党指導者らの暗殺、そして何よりも1999年のアパート連続爆破事件が含まれる。このアパート連続爆破テロは当時首相だったプーチン氏を大統領の座に押し上げる役割を果たした。
英調査機関はリトビネンコ氏のケースについて、お茶の中に放射性物質のポロニウム210を混入させたとして、アンドレイ・ルゴボイ容疑者とドミトリ・コフトゥン容疑者の2人に暗殺の容疑をかけている。ポロニウムの痕跡はリトビネンコ氏が滞在したホテルの部屋や、同氏が容疑者2人と食事をとった寿司店、モスクワからロンドンまで同氏が利用した英ブリティッシュ・エアウェイズ機の座席など、いたるところに残されていた。
英調査機関は殺人事件が発生した後、容疑者2人の訴追を目指したが、ロシア政府の妨害で実現できなかった。英当局が旧ソ連国家保安委員会(KGB)のボディガードだったルゴボイ容疑者と、旧ソ連陸軍の将校だったコフトゥン容疑者の事情聴取をロシア側に求めたが、ロシア政府は独自に捜査を行っているとして、それに応じなかった。リトビネンコ氏の殺害から半年後、英国の検察当局はルゴボイ容疑者の身柄引き渡しを要求した。プーチン大統領は2001年に欧州の犯罪人引き渡し条約に署名していたにもかかわらず、引き渡しを拒否した。07年12月にルゴボイ容疑者は国家院(下院に相当)の議員に選出され、刑事免責の特権を手にすることになった。
リトビネンコ氏の殺害はロシア政権によるドラマのような犯行の一例であるが、異例なわけではない。挑発行為と政敵の暗殺はソ連崩壊後のロシアの常套手段であり、プーチン氏の独裁体制に導いた手法でもある。
調査が行われていない最初の事件は1993年にエリツィン大統領(当時)が対立していた議会を強制的に解散する法令に署名した後に起こったオスタンキノ・テレビ塔での大量殺人だ。テレビ塔付近に丸腰で集結していた議会派の数千人が自動小銃による攻撃を受け、46人が死亡、124人が負傷した。エリツィン大統領は軍隊に議会の建物への攻撃を命じ、軍が勝利すると、自分がほぼ独裁に近い権力を握る「超大統領制」を導入した。
その結果、大統領権限へのチェック機能が失われ、エリツィン大統領は1994年に最初のチェチェン戦争に突入。蔓延していた汚職はロシアを貧困と苦境に陥れることになった。
調査が行われていない2番目の事件は1999年にロシアの3都市で起きたアパート連続爆破事件だ。この事件では300人を超える犠牲者が出た。当時首相だったプーチン氏はチェチェン独立派武装勢力の仕業だと断じ、爆破事件を第2次チェチェン戦争の正当化に利用した。2000年には対チェチェン強硬姿勢が国民の支持を集め、大統領に就任した。大統領となったプーチン氏が最初に行った仕事はエリツィン氏が在任中に手を染めたあらゆる犯罪を許すことだった。事件が起きたリャザンのアパートの地下から不発の爆弾が発見され、関与したのはチェチェンのテロリストではなく、KGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の工作員だったことが判明した。
アパート爆破事件を調査していた4人のロシア市民が殺害された。国家院のセルゲイ・ユシェンコフ議員とユーリ・シェコチーヒン議員、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏、そして放射性物質で殺害されたリトビネンコ氏だ。
第2次チェチェン戦争に対する国民の支持は2つのテロ行為によって一段と強まった。モスクワのドブロフカ劇場とベスランの学校で起きたチェチェンのテロリストによる占拠事件だ。いずれのケースでも千人を超える人が人質となったが、プーチン氏はテロリストとの交渉を拒否し、容疑者らを殺害した。数百人に及ぶ人質も巻き添えで犠牲となった。テロ攻撃の首謀者らは最近、ロシアの刑務所から出所したが、当局はテロ攻撃の差し迫った脅威があるとの信頼できる警告を無視した。
人質のうち子供186人を含む318人が死亡した学校占拠事件の後、プーチン氏は各州知事の直接選挙を廃止すると発表した。これはロシア憲法に違反している。
プーチン氏が独裁的な権力を固めるのに伴い、弱いながらも影響力のある反プーチン政権派の勢力に直面するようになった。反政権派を率いていたのは野党指導者でエリツィン政権時代に第一副首相を務めていたボリス・ネムツォフ氏だった。同氏は2015年2月27日、クレムリン(大統領府)近くのモスクバレツキー橋の上で凶弾に倒れた。そこはプーチン大統領の個人的な警備員が昼夜を問わず監視している場所だ。発砲した実行犯は逮捕されたものの、殺害を計画した犯人は捕まっていない。国家院は捜査の実施を拒否している。
リトビネンコ氏殺害に関する調査結果が重要な意味を持つ理由はここにある。ロシアの最近の歴史に関する真実を知ることは可能だ。だが、ロシア政府の管理された機関を通してではない。したがって、エリツィン氏とプーチン氏が在任中に関与した多くの犯罪を調査することは国際社会の責任だ。こうした努力は情報が足りないロシアのやり方を欧米社会に知らせることになるかもしれない。だが、本当の価値はロシア国民にこれを役立ててもらえることにある。ロシア国民は自分たち自身をウソの皮から解き放つことなしに、より良い未来を築くことはできないのだから。
(寄稿者のデービッド・サター氏はエール大学出版部から5月に刊行される「The Less You Know, the Better You Sleep: Russia’s Road to Terror and Dictatorship Under Yeltsin and Putin」の著者)
http://jp.wsj.com/articles/SB11810945248234553346004581493634226973972
プーチン統治下、暴力の犠牲者たち
By Greg White
2015 年 3 月 2 日 10:25 JST
ロシアのプーチン大統領とその政権を批判する著名な人たちの何人かは、プーチン氏が最初に権力の座に就いた1999年以来暴力で殺されている。以下は最も知られたケースで、その一部はまだ解決されていない。
03年4月17日―リベラル派のロシアの政治家セルゲイ・ユシェンコフ氏は、03年の議会選挙への自党の参加登録を済ませた直後に自宅で死亡しているのが発見された。この死をめぐり4人が有罪判決を受け、現在服役中。この中には同氏が組織した政党の共同議長もいる。
04年7月9日―ロシア系米国人調査ジャーナリスト、ポール・クレブニコフ氏は米誌フォーブスのロシア語版編集長だった。同氏はモスクワのオフィスを出たところを撃たれた。2人の容疑者は裁判で無罪となった。
06年10月7日―人権活動家でチェチェンでの不正を暴露したジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏は、モスクワのアパートで射殺された。何回かの審理のあと、14年6月、5人が殺人罪で有罪となったが、検察は殺害を命じた人間は特定できなかったとしている。
06年11月23日―元ロシア連邦保安局(FSS)の職員でプーチン氏を批判していたアレクサンドル・リトビネンコ氏はロンドンで放射性ポロニウムで毒殺された。英国の捜査は今も続いており、当局者はモスクワが関与している証拠があるとしている。クレムリンはこれを否定した。
09年7月15日―チェチェンの不正を暴いた率直な物言いをする著名な人権活動家ナタリア・エスティミロバ氏はチェチェンで拉致され、のちに射殺された姿で発見された。容疑者は捕まっていない。
15年2月27日―有力な野党指導者でプーチン批判を展開していたボリス・ネムツォフ氏は赤の広場近くの橋の上で射殺された。容疑者は捕まっていない(記事掲載当時)。
http://jp.wsj.com/articles/SB11785226218567734557404580492743038517492
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